海辺の町と元盗賊
私は海が好きだ。
地平線の向こうまで続く青を眺めていると、悩みや焦りといったものが、どれも自分とは無関係の小さな泡みたいに思えてくる。
潮風は心地よく、陽射しは背中をじんわりと温めてくれた。
「ずっとこのままでいいな……」
思わず、独り言が口から漏れる。
ここはシーフの町。海辺に広がる港町だ。
私は今、海岸沿いに伸びた石造りの防波堤の上で、足をぶらりと下げ、寄せては返す波を眺めている。
新鮮な魚介が食べたい。
そう思って海を目指した。
内陸では、魚といえば干物が当たり前だ。ならば、海の町で食べるしかない。
ついでに休暇も兼ねて、しばらく滞在することにした。
いや、正確に言うと、仕事と休暇の中間だ。
「ムチーノさん、ここにいたんですね」
背後から若い男の声がかかった。
振り返ると、眼鏡をかけた細身の青年が立っていた。
「出港か?」
私が聞くと、青年は安堵したように頷く。
「出港は明日に決まりました。でも本当に助かりました。船泊まりになる依頼なんて、誰も受けてくれなくて……」
「気にするな。”えび”のためだ」
私の今回の仕事――狩猟士としての任務は、危険区域での漁に同行すること。
今まさに漁の解禁時期らしく、急ぎの依頼がキケ管の掲示板に張り出されていたのだ。
「本日はゆっくり休んでください。この町は小さいですけど、美味しい食べ物がたくさんありますよ」
青年は丁寧に頭を下げると、そのまま港の方へ戻っていった。
立派な態度だ。
まだ若いというのに、この町の長を務めているだけのことはある。
私はその背を見送りながら、ぐっと伸びをする。
背骨が気持ちよく鳴った。
両手を腰に当て、深く呼吸を吸い込む。
潮の匂いが肺いっぱいに広がる。
海辺特有の少し湿った磯の香りは、期待として胸を膨らませる。
「海の幸、楽しませてもらおう」
そう呟いた瞬間、胃が小さく鳴った。
私は宿への道すがら、ひとつの小さな店に足を止めた。
木札には丁寧な文字で、こう書かれている。
『海鮮丼』
……ちょうどいい。
私は店内へ入り、席に座ると注文を済ませた。
しばらくして目の前に置かれた丼を見て、ほんの少し息を飲む。
切り身が艶やかだ。
海の上でまだ跳ねていたかのような瑞々しさ。
ライスの湯気と混ざり合って、ふわりと香る潮の甘さ。
私は日々、食を学んでいる。
ライスの上に具材を乗せる、この”丼もの”という料理は、どうやら種類も形も無数にあるらしい。
知識は増えていくが、驚きや感動は薄れない。
むしろ深まるほど、心は静かに満たされていく。
それにしても、生の海鮮を食べるのは初めてだ。
周りを見て真似しながら、卓上に置かれていた黒い液体の調味料を、控えめにひと回しかける。
そして、一口。
柔らかく、しかし確かな弾力がある。
噛むほどに、潮風のように静かで清らかな旨味が広がっていく。
「……うまいな」
思わず声が漏れた。
それは衝撃というより、胸の奥からじんわり灯る温かさに近い。
派手さはない。
誇張もない。
ただ素材が持つ自然の甘みだけが、柔らかい余韻となり舌に残った。
私は黙って箸を動かし続けた。
気づけば、器の底がしっかり見えている。
「もう一杯、頼む」
気づけば口が勝手に言っていた。
思考よりも欲求のほうが速かった。
器の底との挨拶を繰り返す。
結局、何杯食べただろう。
腹は満ちているはずなのに、苦しさは一切ない。
これが新鮮な海でしか味わえない料理というやつか。
満足感を抱えたまま席を立ち、外の空気を吸う。
海風は少し冷たくなっていた。
「……寝よう」
宿に戻り、この幸せを持続させよう。
目を覚ますと、窓の外はもう暗い。
町は静かに落ち着き、海の匂いだけが夜を支配している。
今日を無駄にしたとは思わない。
それでも、身体の奥で、まだ何かが足りないと告げていた。
「ふむ……夜の散歩も悪くない」
潮風は昼より冷たく、波音はやけに近く聞こえる。
石畳を歩きながら、灯った酒場の明かりや少し遠くの港で打たれる鐘を横目に進む。
そして——
「……おい、兄弟。魚代はあるのか?」
「ない! 欲しいものは奪うのみ!」
路地裏から妙な声が響いた。
覗くと、黒いフードをかぶった男が、漁師の籠に入った魚と向かい合っている。
宝石の奪い合い……の雰囲気だけはある。
だが対象が魚なせいで、迫力はまったくない。
「……何をしている」
声をかけると、男は振り返り、勢いよく指を突きつけた。
「見たな!? 俺の盗みを!」
「声が大きい。盗むなら隠れてやれば良いだろう」
「いや、昔はそうだった! だが今は違う! この町は義賊精神! 魚は平等! 交渉制!」
「交渉していないだろう?」
「……今からする予定だった」
それを盗みと言えるのだろうか……
私が呆れていると、漁師が頭を掻きながら話し始めた。
「こいつ、昔盗賊でよ。今は盗むクセが抜けねぇのに、本気で悪いことはしねぇんだ。放っとけ」
「放っていいのか?」
「ああ。発作みたいなもんだ」
妙に清々しく返され、私は納得してしまった。
フードの男は謎の満足気な顔で叫ぶ。
「今日は引く! だが覚えてろよ!!」
走り去っていく。
……なんなんだ。
呆れていると、聞き覚えのある声が近づいた。
「ムチーノさん! 夜は変な人多いので危ないですよ!」
町長の青年が息を切らしながら駆け寄ってくる。
「大丈夫だ。たぶん平和だ」
「はぁ……すみません。この町、昔は盗賊たちが作った町でして……今でも足洗った者を受け入れてるんです」
漁師が腕を組んで補足する。
「だが安心しな。町長は魚と人間を見る目がいい。それに、漁師はつえーんだぜ」
盛られた肩の筋肉は、確かに説得力があった。
「そうか。良い町だな」
自然と笑みがこぼれる。
私は海沿いに出た。
波が一定のリズムで岸を叩き、月明かりが海面にやさしく揺れている。
「……面白い町だ」
静かで、どこか懐かしくて、そして少し可笑しい。
ここでは夜すら、退屈という言葉を知らないらしい。
月を見上げる。
「あの形……えびに似てるな」
三日月は、どうしてもあのぷりぷりの曲線に見えてしまう。
なんてくだらない。
だが、そんな他愛もない思考すら心地よく感じる。
私はそっと笑った。




