ドカ食いの街と新米美食家
我思う、ゆえに食う。食えば眠い。それが世界の真理。
──ドカグーイ・デ・キーゼ
これは、かの有名な美食家が残した言葉である。
幸せそうに気絶し、そのまま帰らぬ人となった──そんな彼の逸話はあまりにも有名で、今日では彼の名を冠した活動が世界中で行われているほどだ。
「ドカグーイ卿……あなたは幸せでしたか」
私、ムチ使いのムチーノは、美食の街“カーボ”の中心で、目の前の銅像にそっと声をかけた。
腹を丸出しにしたまま、仰向けにぱたりと倒れ込んでいるその姿……なのに、なぜか神々しい。直立不動の勇者像にだって負けていない堂々たる美しさがそこにはあった。
周囲からの視線は、まあ、いつものことだ。今さら気にしていられない。
私は軽くお辞儀すると、銅像の腹部に手を伸ばして撫でた。
そこだけ妙にツヤツヤと輝いている。
きっと皆、ドカグーイ卿の加護を求めて触っていくのだろう。もちろん、そこに映る長い白髪の女──私も、その“願いをこめる一人”に含まれている。
「美味しい食べ物に出会わせてください」
願いはそれだけ。他には何も望まない。
それが、夢破れた私が今この街を生きている理由だから。
「では、新参者ながら卿の街、楽しませていただきます」
もう一度お辞儀して、私は目的地へと歩き出す。
……服が張りつめている。まだ見ぬ食べ物たちへの期待で胸が高鳴っているのか、胸元あたりがやけに苦しい。
いや、物理的な意味で。
パツパツの服を見下ろして、思わず自嘲ぎみに笑った。
武芸者時代に使っていたこの服は、擦れ防止のため体のラインに合わせて作られた、特殊素材の特注品。本来なら体型の変化にもしっかり対応してくれる……はずだった。
だが今は限界を迎え、悲鳴を上げている。
また少し、太ったらしい。
「……明日からダイエットだな」
今日は予定がある。うん、今日は無理。
明日から本気を出すとしよう。
ドカグーイ卿の銅像が建つ街の中心広場は、早朝だというのにやけに騒がしかった。
石畳の上では、野菜を山積みにした屋台の主人が『野菜を食べよう!』と満面の笑みで客引きをしている……のだが、面白いことに通りすぎる人々は、彼を見ないようにして足早に避けていく。
中には引きつった笑顔のまま野菜を買っていく勇者もいたけれど、この光景こそが“カーボの街らしさ”を象徴しているのだと思う。
もっとも、私もその屋台は素通りする。
当たり前だ。野菜なんて、武芸者時代に嫌というほど食べた。
私はムチ使い改め、新米美食家のムチーノ。ドカグーイ卿の加護を得て、胸を張って広場を進んでいく。
……胸を張っているというより、服が限界を迎えて勝手に張り出しているだけなのだが。
「……やっぱり、苦しいな」
胸元をつまんで軽く引っ張ってみるが、伸びるどころかミシッと嫌な音が返ってきた。
武芸者時代に特注した“体型変化にも対応する”はずの服は、もはや『助けてくれ』と悲鳴を上げている。
「明日からダイエットだな……いや、ほんとに」
そんな決意を口にしてはみるものの、足取りは軽い。
だって今日は、この街で一番人気のバーガー店に向かっているのだ。
ここバーグ地方の名物、パンに肉を挟んだ料理”バーガー”。
ドカグーイ卿がこよなく愛した料理としても有名で、名前だけは新参者の私でも知っているほどだ。
その味をまだ確かめていないのに、ダイエットなんて始められるわけがない。
広場を出て通りを抜けると、香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐった。
揚げ油のぱちぱちという音、焼き立てパンの甘い香り、店員の威勢のいい声……どれも私の胃袋を刺激してくる。
朝から回転している店が多いということは、この街では朝食からガッツリ食べるのが普通のようだ。
「ふふ、いい匂い。さすが“美食の街カーボ”……!」
鼻歌まじりに大通りを歩き、角を曲がる。
そして、目的の店の看板が視界に飛び込んできた。
ついに、たどり着いた。
初めて入る店というのは、どうしてこうも緊張するのだろう。
店の扉に手を伸ばした私は、そのわずかな震えを誤魔化すように深呼吸した。
意を決して扉を開けると、中にいたのは店主が一人だけ。
腹はぽこっと出ているが、腕は大木のように太く、手には大きな肉切り包丁。
見ただけで分かる。絶対にうまい料理を作るタイプだ。
「すまねぇな。今は仕込み中だ」
店主は振り向きもせず、手際よく厨房で作業を続けながら言った。
確かに、人気店なのに客が一人もいなかった時点で察すべきだった。
「すまない。早とちりしてしまったようだ」
私は素直に頭を下げる。そこでようやく、店主がこちらに顔を向けた。
「おっと、見ない顔だな」
「今日からしばらくこの街に滞在する者だ。この店の獅子肉バーガーを食べに来た」
「ああ……悪いけど、それは無理なんだ」
店主の声は重かった。
「……どういうことだ?」
胸の奥がきゅっと縮む。
「最近、獅子肉が入ってこなくてな。森で獅子王が暴れてるらしい。危険で狩りに行けねぇんだとよ」
「暴れているなら……なおさらでは?」
私は眉を寄せた。理由がある。
“獅子”と呼ばれる獣は危険区域の生息種で、通常は乱獲が禁じられている。人里に被害を出す可能性がある個体だけが、特例として狩猟対象になるのだ。
カーボの街は近くに森があり、危険種が迷い込む。そのおかげで貴重な獣肉が流通している……はずだった。
「いや、今回のは別格でね。甲種の連中でも手こずってるんだとよ」
「……それなら仕方ない」
肩がすとんと落ちた。
甲種が無理なら、本当に仕方がない。
危険区域特例狩猟士には、甲種・乙種の二つの資格がある。どちらも危険区域へ入り、素材や肉を持ち帰るプロだ。
簡単に言えば──
甲種:『まあお前なら死なないだろう』と国が認めた人材
乙種:『死んでも責任は取らんぞ』と国が判断した人材
違いはあるが、どちらも命懸けの仕事であることに変わりはない。
そして私は、彼らにはぜひ頑張ってもらいたい。私の胃袋のためにも。
「また、食べにくるよ」
弱々しい声を振り絞りながら、私は店を後にしようとした。
帰りに揚げパンでもかじって気を紛らわせるか。
別の食べ物のことを考えるが、心の半分はまだバーガーに未練たらたらだった。
「待て。その腰のムチ、珍しいな」
店主がこちらを見ると、手近な紙にさらさらと文字を書き込み始めた。
そして、書き終わると勢いよくそれを私へ放り投げてくる。
「これは?」
受け取って内容を読むと、思わず首を傾げた。
「推薦状だ。そろそろ街の私兵が、狩猟士と一緒に森へ入る。今から西門に行けば合流できるはずだ。頼んだぞ」
店主はどこか誇らしげに、そして期待を込めて私を見ていた。
初対面の私にここまでしてくれるとは、本当にありがたい人だ。
「任せてくれ」
私は勢いよく胸を張る。
「目に毒……いや、福だぜ、ほんとに」
店主がぽつりと何か言ったが、気にしていられない。
私は獅子を狩りに行く。
──すでに口の中では、あのバーガーの味が広がっていた。




