すれ違う匂い(香り)
初めての投稿です。
職場の空気感や、すれ違う人の香りにふと心が動く瞬間を描いてみました。
香りが記憶や感情に触れる――そんな物語の始まりです。
地方都市の外れにある、自動車部品工場。
初夏の昼下がり、湿り気を帯びた空気に、遠くで蝉が鳴きはじめていた。
経営企画部の平川アイナ(24歳)は、机の端に積まれた回覧物を手に取る。
工程表の更新、部品仕様の変更通知、そして社内報。
それらを部署ごとに束ね、経路順にクリップで止めるのが彼女の小さなこだわりだ。
「さて……回覧行ってきます!」
立ち上がり、回覧物を抱え安全靴に履き替える。帽子も被りチラッと窓に映る自分をチェック。
「…ヨシッ!」
ココロの中で呼称をして現場棟へ向かう。
鉄製の重い扉を開けた瞬間、空気が変わる。
油と金属が混ざった匂い。
父親が機械工だった影響で、幼い頃から油や金属の慣れ親しんでいた落ち着く匂い
昼休み明けの作業場には機械音が響き、作業員の体温と汗がほんのり漂っていた。
ーーこの瞬間が好き
工具を片付けながら笑い合う人、図面を覗き込む人、黙々と部品を組み立てる人――
その一人ひとりの顔と名前を、彼女は自然に覚えている。
若干油が滲んだ通路を歩きながらすれ違う作業者に挨拶をしていく。時折年配のパート従業員には話しかけられる事もあるが、それもまた楽しい時間だ。
そんな中、補充用ポリタンクで作動油を補充している若い男性が目に入った。
指定油の容量が少なくなっており、代わりに同じ色の油が入ったポリタンクからジョッキに注いで手にしている。
「……炭岡さん それ、ちょっと待ってください」
アイナは近づき、落ち着いた声で言った。
「粘度の違う油を混合して補充するのはオススメしません。VG32とVG68では性能低下を招く恐れがあります。少量ならすぐ問題は出ませんが、ポンプの劣化を早めますから」
驚いたように顔を上げる男性。
炭岡コウイチ(20歳)は、心臓が跳ねた。
平川さん⁈――なぜ、自分の名前を知っている?
今まで話したこともないし、紹介された記憶もない。
「……あ、これは.....はい。わかりました」
言葉が少し遅れたのは、注意されたからじゃなく、その疑問のせいだった。
眼鏡の奥の瞳はまっすぐで、説明は簡潔だった。
いつものポリタンクが少ないから混ぜていた――その小さな“手抜き”を見抜かれ、恥ずかしさがこみ上げる。
アイナは軽く会釈し、再び回覧物を胸に抱えて通路を歩く。
すれ違いざま、ふわりと髪が揺れ、甘い香りが油の匂いに溶けた。
コウイチはただ立ち尽くし、彼はしばらく手を止めたままその後ろ姿を見送った。
注意された内容よりも、「自分の名前を知っていた」という事実と髪の香り強く心に残っていた。
アイナは次の部署に着くと、回覧物を机の上に置き、
小さく息を吸った。
――この仕事の、この瞬間だけは、誰にも譲りたくない。
読んでくださってありがとうございます。
現場の匂い、空気、そして人との距離感。
この作品では、五感を通じて人間関係を描いていきたいと思っています。