第82話「大厄災の惨劇」
「日本、インド、ギリシャと同盟を組んだ
主神オーディン様は、他の神々と共に
ルルイエに乗り込んでいったわ。
地上の信仰心を可能な限りに吸収して、
クトゥルフに対して有効打を与え続け、後一歩のところまで追い詰めていったの、でも———」
スクルドの表情は徐々に曇っていき、
彼女は顔を伏せた。その雰囲気は今までの彼女とは一線を脱していた。
「私は、私は、オーディン様を、姉さん達を救えなかった————!」
ギリギリと奥歯を噛み締める音が聞こえた。イングラムはその音を聞いて一種の不安を覚え、スクルドに近づこうと一歩踏み出す。
「オーディン様たちは最後の最後で気まぐれを起こしたヨグ・ソトースの奇襲で大打撃を受けたの。誰も、防ぐ事はできなかった」
「ヨグ・ソトース!?やつは人間界に干渉しないのではなかったのですか!?」
「ルルイエではその限りではないのよ。
あれは旧支配者の領域、地球とは隔離されているとも言えるわ」
スクルドは顔を伏せたまま周辺を静かに歩き出して、イングラムの目の前に立った。
「クトゥルフを撤退まで追い詰め、ルルイエは再び深海へと沈んでいった。だけど、その最中、ヨグソトースの一撃によって私たち神々は心臓の代わりとも呼べる神核に亀裂を入れられてしまった。そして、動けなくなったその隙を突いて当時あった旧大陸は全てアザ・トースによる一撃で海に沈められてしまったの。その後ソラリスへと緊急帰還させられ治療を施されたけれど、今も回復の目処は立ってないわ。その時の人も生き物も九割が海の底に沈み、その亡骸は今も回収されていないの」
「ということは、まだオーディン様たちは……」
「ええ、ご存命よ。もう戦える状態ではないけれど……」
スクルドは悲しげな表情でそう溢した。
思わずイングラムは、踏み込みしかけた足を止めた。
「スクルド様、姉上ニ人はどうしてあのような姿に?あれもヨグ・ソトースの影響なのですか?」
ルシウスは腕を組みつつ、スクルドの様子を伺いながら、確信を突く質問を投げた。
スクルドは睨みつけるような表情を浮かべたが、表情をすぐに変えると淡々と口を開いた。
「そうよ、姉達は私を庇ってヨグ・ソトースの余波を受けてしまった。他の神々も同様にね、私だけ受けた余波が小さかったから良かったけれど……ヴェルザンディ姉さんは小さな女の子みたいになったし、ウルズ姉さんは赤ん坊になってしまったし……私も僅かとはいえ、女子高生みたいになってしまったわ」
「じょし、こうせい……??」
ルシウスは頭の上に無数の疑問符を浮かべた。スクルドは首を横に振ってどうしたの?と問いかけた。
「いえ、女子高生って何かな、と」
「簡単に言えば10代後半から学校へ通う女の子のことを指すのよ。日本は特に制服の多様性や種類の豊富さからか姉さん達もよく着ていたわね。着たいの?」
「い、いえ、そういう趣味はないです。
水を指してすいませんでした」
「構わないわ、みんなが理解してくれたなら私はそれでいいの」
「地球の神と邪神が衝突し合う際に生まれた余波だけで、国が沈んでしまうとは、よほどの衝撃だったのでしょうね」
スクルドはこくりと首を縦に振った。
「ええ、その威力は恐竜を絶滅に追いやった隕石の何倍にも勝っていたのよ。ソラリスもその影響を受けたけれど地上ほどの災害に遭う事はなかったわ。でも、世界の最期を見た人物達は皆口を揃えてこう呟いたわ
【大厄災】とね。
私達は、世界を守るため戦った。
けれどそれは、地上にとっては災いだったのかもしれないわね……」
「——————」
哀しげな表情で溢すその言葉に誰しもが言葉を失った。かけるべき言葉が出てこなかった。話を聞いていた全員がただその場に
立ちすくむしかなかったのである。
「でも、最近はクトゥルフ復活を目論む邪教を信仰する人達が増えてきているようなの。先も説明したけど、邪神は信仰心と生物の負の感情が餌になる。それを許せば、やつは私達以上に回復が早くなってしまうわ。そうすれば遅かれ早かれ復活してしまうでしょう。だから、クトゥルフ復活を阻止するにためにはまず彼らをどうにかしないといけないの」
スクルドの眼差しは真剣だった。
同じ悲劇をニ度と繰り返さないように
下界を案じている。彼女の身に半分人の血が流れているからなのか、それとも神々を救えなかった責任からなのか、それは彼女しか知らない。
「父が率いる騎士警察でも捜索の方は進めていますが、今のところ有用な手がかりはありません。地道に国と国とを渡って捜査していくしかないですね」
ルシウスがそう呟くと、スクルドは首を縦に振った。
「そうね、まずは国同士の連携を強めて
へぶっ———!?」
その刹那、スクルドの表情が歪んで前のめりになって押し出されたように倒れ込んできた。驚愕するイングラムの上に覆い被さり煙が立ち込めるほど地面にのめり込んでしまったのだ。そして————
イングラムとスクルドの時が静止したかのように固まっていた。
目と目は瞬きすると重なり合ってしまうほどに近いし、あと数ミリ近ければ唇と唇が重なり合ってしまうのではないかと思うくらいだった。だがそれは、辛うじて防がれた。ヴェルザンディが身体をむくりと起こし始めたおかげで、背中を押されることがなくなり事なきを得たのだ。
「あ……、ご、ごめんなさい。イングラム。私———」
こんな経験をしたことがないのだろう。
スクルドは頬を赤らめて頭を下げる。
そんな状況でも、イングラムは冷静だった。
「大丈夫ですよ」
いつもと変わらない表情、しかし落ち着かせるような声色は、スクルドの心を安心させた。そんな彼女の顔には、笑顔があった。
同じ頃。ルシウスたちが上空を見上げると
手を叩いてほこりを払っているウルズの
姿があった。
どこを見てもヴェルザンディの姿が見当たらないので、恐らくはスクルドにぶつかってしまったのだろう。
長女は勝ち誇った表情でゆっくりと降りて
クレイラの胸元へ飛び込んだ。
「あはは、結構強いのね。ウルズって」
クレイラは戸惑った笑顔を浮かべながら
ウルズの頭を優しく撫でてやった。
「ぐ、ぬぬぬ……長女、やるじゃない。
相変わらずデタラメなのね。
そんなだから彼氏が出来ないのよ!」
「ダァッ!」
その一言を聞いたウルズは首を回転させて振り返りクレイラの両腕からするりと抜け出して跳躍し、身体を回転させて足先に高熱を帯びた蹴り技を上空から急降下しながらかましてくる。
「どっかで見たことある技ね!!」
ヴェルザンディは紫色の魔法陣を展開してそこからエネルギー波を照射する。
威力は五分五分ではあるが、ややウルズが押しているだろう。実力面では彼女が上らしい。
「ダァァァッッッ!!!」
「ぐぬぬぬ!!!!」
このまま空中四散待ったなしかと思ったが
それは杞憂で終わった。
見かねたルシウスとクレイラがそれぞれの背後に立って衝撃が爆発するのを阻止したのである。
「離しなさいよ!愚民!赤の他人が首突っ込まないで!」
「いやぁ、しかし爆破されても困りますし。神性が勿体無いでしょ?」
ルシウスはヴェルザンディの襟部分を
つかんで優しく説教する。
両腕や両足を必死にばたつかせて降りようとするヴェルザンディは、どこか微笑ましいものがあった。
「ダァ!ダァッ!」
「お姉さんなんですからもう少し心を広く持って……」
猛烈な平手打ちを受けるクレイラ。
しかし彼女は困惑している中でもあはは、と笑顔を浮かべていた。そして、ノルンの姉妹は突如として引き上げられるような感覚を味わった。それはヴェルザンディも同じくだったらしい。2人は思わず仰天し、その掴んだ正体を見た。末っ子のスクルドだった。
「なーにしてるの!全くもう!」
まるでお母さんのような表情で、はぁ、と
ため息を吐いたスクルドは、起き上がるイングラムの方へと体を向かせて目配せした。
「さあ、ウルズ姉さん、ヴェルザンディ姉さん。イングラムに謝って?」
「む、なんで愚民なんかに……」
ヴェルザンディは腕を組み、ぷいっと
顔を背ける。反対にウルズは目をうるうるさせながら頭を下げた。素直さではウルズが上手らしい。彼女からは心底申し訳ないという気持ちが伝わってきた。
「さあ、姉さん?」
「むぅ……」
ヴェルザンディは深くため息をついて
イングラムを見据えた。
そしえ———
「ご……ごめんなさい……愚民」
なぜか頬を赤らめて、そう言ってきた。
別に恥ずかしいことではないのに
どうして赤くなるのだろうか。
言い慣れていないからなのかもしれないと
イングラムは勝手に解釈したのだった。
「いいですよ、別に。こんなのは日常茶飯事ですから」
「優しいのね、イングラム」
スクルドはにこりと微笑むとニ人をつまみ上げて交互に顔を見やって、言った。
「もう、これに懲りたら喧嘩なんてしないでよ?私に迷惑をかけるならまだいいけど、イングラムたちに迷惑はかけないで
お願いだから」
「ダゥ……」
「はぁい……」
二人は覇気のない返事をした。
だが、まだメンチをパチパチしている。
スクルドは再び、はぁとため息を吐いたのだった。
「性格の後退も、邪神の余波のせいですかね……」
「ええ、まあね。ぐずらないだけまだいいんだけど……ん?」
スクルドは突如空を見上げた。
どうやら何かを感じ取ったらしい。
「イングラム、それにみんな。
色々とありがとう。そして、迷惑をかけてしまってごめんなさい。この恩は必ず返すと約束するわ。それじゃあ、またね」
「ダゥ!ダダゥ!!」
ウルズは駄々をこねている様に見えた。
彼女はクレイラを真っ直ぐに指差すと
スクルドを見上げた。
「こら、指をささないの!わかったわよ、話は後で聞くから。さあ、帰るわよ」
スクルドの立っている場所にゆっくりと
円形状の光が降りてくる。
ソラリスへ帰るための帰還手段なのだろう。スクルドは二人を抱えているため手を触れない代わりに、笑顔を向けて昇っていった。
クレイラたちも笑顔で手を振り返し
見えなくなると、彼女はぽつりと言葉を溢した。
「お母さんて思われてるのかなぁ?
赤ちゃん、やっぱり可愛いなあ」
「それはないと思うぞ」
イングラムの何気ない一言に、少し悲しい気持ちになったクレイラだった。