第72話「言葉にし難きモノ」
体長5メートルほどの大型キメラ生物は
咆哮をあげて涎を撒き散らし、その屈強なる肉体を用いて進撃してくる。
「————!」
刹那に感じられる一撃はルシウスではなく
彼の立っていた地面を抉った。
生命の危機に瀕している怪物は驚異的な五感を用いてルシウスの位置を把握する。
「……報告にあった怪物で間違い無いな。
なら、自然に還すが道理か」
怪物の腕は大木の如く膨張し、息をする間もなく迫ってくるが、ルシウスは紙一重で躱し続けて、細剣で目を貫いてやる。
しかし、刺されたところで怪物は目を押さえたりはしない。血涙が垂れ流しになったままでも、戦意が削がれた訳では無い。むしろ逆だ、激昂させてしまったのだ。
「———!」
吠え狂う怪物は、出鱈目な力を放出しながらルシウスを残りの感覚で追い詰めていく。両腕は大地を抉り、両脚は獲物を逃さない。
「流石に早いな」
顔色一つ変えぬまま、ルシウスはそう呟いて
後方にいるリルルに目を配る。
彼女は怯えてもいなければ、ルシウスに声援を送ることもなかった。
無表情にも思えた彼女からは、不気味なほどに存在感を感じなかった。
(やはり————)
観察している戦士に苛立っているのか
腕を連続して叩きつけて足場を無くしていく。が、彼は怪物をいなし続けて身体を逸らしながら空中を美しく舞い、怪物の頭部を握りしめて炎を顕現させた。
業火が熊の形だった頭を高温で燃やし始める。
「火葬も済ませてあげよう」
微笑みながら、ルシウスは自身の体重と重力を利用し怪物をクレーター状の地面に叩きつけた。炎を纏わせたままの腕を決して離すことはせずに、怪物の身体を観察するために眼の力を解放した。
触れている怪物の脳波を読み取ると
まだ復活したばかりのこの怪物と、槍を持つ騎士と剣を持つ剣士が戦っている最中に
ニ人の危機を謎の影が救った。
「……なるほど、ゴリラックマと言うのか
君は」
同期を苦戦させた怪物の名を口にした途端に、ゴリラックマは目を見開きながら
ルシウスの肩を掴み取った。
それに焦ることなく、騎士は細剣を用いて
5本の指を切断してその場を離脱した。
まるで衣服に付いたゴミを払うように
指を取り外して地面に捨てる。
「人間に対して怒り、憎悪する……
君の、いや、君たちの境遇ならばそうなってしまうのも仕方がない。
でも、自然や動物を愛する人がいるということも忘れないで欲しいんだ」
ゴリラックマは咆哮する。
ルシウスの言葉を否定するかのように
執念と憎悪を撒き散らしながら、荒れ狂うように向かってくる。
「……ごめんね、僕たちが早く気づけてさえいれば、君の家族や友を守ることが出来たのかもしれないのに」
細剣に炎を纏わせ鎖のように伸ばして
ゴリラックマを熱で拘束する。
「せめて苦しまないように僕が君を終わらせてあげよう」
ゴリラックマは炎の鎖を解こうとするものの力を入れれば入れるほど、体毛の僅かな穴に熱気が取り込まれて、体温が否応なしに上昇していく。
ルシウスは瞬きの間に炎を鋭利な槍の先端ように形作り、それをゴリラックマの心臓部に突きつけた。怪物は抵抗することが叶わず
全身を焦すほどの炎を浴びたまま大地に膝をついた。
「さようなら、ゴリラックマ。
どうか君達の魂だけでも、かつての同族たちの元へ行けるよう祈っている」
細剣を鞘に仕舞い込むと、ゴリラックマは地に伏して絶命した。
ルシウスは物悲しげな表情でゴリラックマを
燃やし、火葬する。
轟轟と音を立ててその巨体を焼き尽くす炎は
黒煙をあげて空へと昇っていく。
「ふぅ———」
ルシウスは乱れる呼吸を深呼吸して整えて
ただただ燃え盛る炎を見つめている。
しかし、それは瞬きの内に掻き消えてしまった。
「——————!」
そして、後ろから不気味な不協和音を奏でて迫りくる一本の黒緑色の何かを感じ取って、ルシウスは身体を屈めて避けたはずだったが、それはまるでコンピュータの様に彼の行動を正確に予測してルシウスの頬を掠めた。
(くっ————!)
彼は側転しつつ、左手を宙に浮かせて矢を顕現させ、右手で矢を装填してそれを補足した。騎士の目が捉えた攻撃の正体は
瞳を虚にさせながらも吐き気を感じさせるほどの凄まじい殺気を放っているリルルだった。
「リルル、やはり君は————!」
名を呼んでも、少女は返答しない。
放たれている圧倒的なプレッシャーは
ルシウスを捉え、重圧感を与えていた。
「——————」
あと一手、装填した矢を離せばいいだけなのに、まるで時が止まってしまったかのように動かない。脳が指令を送っているというのに
ピクリともしないのだ。
(くっ———)
リルルの形をした何かは、ゆっくりと左手をあげると、彼女の背後から深淵の如く暗黒の穴が無数に現れ、そこから何本もの黒い触手が謎の黒い液体を全体に纏わせ、まるでタコの様にうねりながら出現した。
その液体が先端から滴り落ちて雑草生い茂る地面に付着すると、一瞬の内に腐り果てて
それが細菌のように蔓延し、リルルの周囲
一帯が腐敗したようになってしまった。たった一滴の液体だけで、これほどまでに影響を与えるものは、神以外に存在しない。
(いつ人格を乗っ取った……?
少なくとも今朝はそんな兆候なんて———)
思考を巡らせていると、触手は音速を越えてその暴威を振るってきた。
振われた一撃から吹き荒れる黒い風が
ルシウスを襲う。
全身の穴という穴から吹き出す悪寒の汗は
一瞬のうちに体温を低下させていく。
彼は自身の右手に炎を宿すが、半分以上のマナを注いで炎を練り上げたというのに
それはほんの小さな灯火にしかならない僅かな出力のものだった。
(思った以上に凄まじいな……!
マナの効力を半減するだけじゃない、僕の中の負の面を剥き出しにさせようとしている)
思わず奥歯を噛みしめて、精一杯の力で圧倒されまいと反抗する。
リルルの後ろに浮かぶ半透明の謎の存在は
少女を介して人間の遺伝子レベルに刻まれた嫌悪感を小出しにしていく。
(……身体中を小さな何かに這われるようなこの感覚、これもこいつの仕業か……!)
聴覚には不協和音が入り込んで正常な音情報を遮断し、視覚には謎の存在とリルル以外にも人でありながら人でない、黒い人間のような存在が幾つも居て、剣や銃を持って
ルシウスを斬りつけ、撃ち抜いてくる。
「ぐぅっ……がぁっ!」
邪悪な存在の支配下に置かれてしまったルシウスは、幻覚による幻聴、幻肢痛などによる
精神的苦痛を味わっていた。
その怒涛の攻めに、思わず膝をついてしまう。そして彼は自身の身体に違和感を
感じて思わず眼元に触れる。
赤い筋が彼の黒くて美しい瞳から流れていた。千里眼は一度も使っていない。
しかし、目の奥から湧き上がる凄まじい激痛が、酷使しすぎていると警告しているのだ。
目からは赤い筋が止まることなく流れて地面に滴り落ちていく。
「馬鹿な……!」
幻覚だと理解しているルシウス。
しかし、本能では現実なのではないかという
謎の焦りが彼の身体に緊張として走っていく。
(まずい……このままでは
僕が僕では無くなってしまう!
だがリルルをこのままにしておくわけにはいかない!イングラムくんの元へ届けなくては————!)
強き意思の元、剣を支えにして立ち上がる。
揺らぐ視界の中で、黒き人間は彼を取り囲んで剣を向け、銃口を向けた。
「これは現実じゃない。
この痛みも、この恐怖も全て偽りだ!
お前が作り上げただけのものだ!」
マナを全開にしたとて、おそらく効力を半減以下にされてしまうだろう。しかし今は
それ以外に手は無い。全身の力を集中させて左手に炎を集約させた。
「僕自身無事では済まないだろうが、痛みには慣れている」
特攻覚悟の勢いで、ルシウスは幻覚である
黒い人たちの猛攻を受けつつ前進する。
この腕でリルルを掴み、その背後にいる何かを引き剥がす。
これが効くかどうかはわからないが
何もしないで倒れるよりはマシだ。
「おおぉぉぉぉ!!!!!」
全ての幻覚はリルルに近づけば近くほど
その効力を増していく、そして、手に宿しているマナも徐々に風前の灯火のように
効力が低下していく。
(諦めるか……!
こんなに小さな子を器にするお前を、僕は許さない————!)
ーそうだ、よく言ったルシウスー
どこからか、聞き覚えのある声が頭の中で
響いた。長い間聞くことのなかった、友の探していた人物の声だった。
それは力強くて、騎士に勇気を与えてくれた。
「レオンさん————!」
その名を呟いた瞬間、リルルは、いや
リルルに憑いていた何かは苦しげに頭を両手で抑え、膝を折り、おどろおどろしい雄叫びをあげて苦しみ出した。
彼女の背後に出現していた黒い穴も、触手も
どれもこれもが歪みだして、苦しむように
うねっていた。
そのおかげでルシウスを襲っていた数々の現象は掻き消えていった。
身体には傷痕や銃痕もなく、また千里眼の後遺症による血涙もない。
彼の精神も正常な値に回復したのだ。
ーあいつが怯んでる隙にデカイの一発
叩き込んでやれ!ー
「しかし、僕のマナで効くかどうか————!」
そんな不安をレオンの声がかき消してくれた。そして、気がつくとルシウスの肩には、レオンの手が置かれていた。
「俺の力を貸す。
それでアイツを一時的にではあるがあの子から救い出せるはずだ。
やれるだろう?」
レオンの強い意志の篭った瞳を見て
ルシウスは自然と首を縦に振っていた。
「よし、それでこそルシウスくんだ!
さぁ、あの子は君が助けてやるんだ!
行け!」
肩の部分に陽の光のような暖かい何かが
流れ込んで来るのを感じる。
全身の緊張が解けて、無意識身体がリラックスし始める。
「これは———」
レオンは何も答えぬまま、リルルを睥睨していた。ルシウスも彼に続きリルルを見つめる。
「僕とレオンさんの力なら、やれる!」
弓が顕現した。
眩しい陽の光のようなものが弓全体を包んでいた。そして、それを手にしたルシウスも
また輝き始めたのだ。
トン、と肩を叩かれた。
騎士は無意識に理解する。
「救ってこい」
頭の中でレオンの声がそう言った。
ルシウスは無意識に弓に手をかけ光の矢を
弦にかけた。
「我が友、我が先達から借りし聖なる力よ!
今眼前に捉うるは悪しき邪悪!
恐れ慄け————」
光の矢を引く、全身から溢れ出る炎のマナが
矢を包み込み強大化した。
そして、ルシウスは千里眼を発動して吠えた。
「炎火聖撃!破ぁっ!」
放たれた矢は音速を越えて、邪悪に向かい
真っ直ぐに飛んでいく。
その突如、大地が震え、リルルが悶えだした。
「うぅ……!」
リルル本来の声が溢れた。
異形を聖なる炎が浄化していく。
先程まで圧倒的な力を振るっていたそれは
徐々に縮小していき、リルルの内側へと
吸い込まれるようにして消えていった。
「リルルちゃん!」
ルシウスは千里眼を解いて、倒れ込むリルルを寸前のところで抱き止めた。
額に滲み出た汗を拭って息を吐く。
「レオンさん、ありがとうございま———」
振り返ると、そこにレオンの姿はなかった。
あれも幻だったのだろうか。
風景は元の穏やかなものへと戻り
草木も元の姿へと戻った。
空からは優しい陽の光が、ルシウスとリルルを優しく照らしていたのだった。