第32話「夕陽に染まる王国」
先の小さな衝撃から約半日の夕方。
アデルバートはイングラムを引き連れて
城の見張り台へと案内した。
「よう、綺麗だろ?ここの景色は」
少しだけ身を乗り出してイングラムはその景色を眺める。紅に燃える夕陽が、鏡のように美しい大地に反射されて、淡く光を放っている。そして、イングラムやアデルバートと同じように、この時刻になると、住民達は家から姿を現して地面と空に浮かぶ二つの夕陽を眺めるのだ。
「この景色を見るのに、何年もかかった。
これが見れなくなるってのは、この国の奴らにはきっと耐えられねえことだろうよ」
「そうだな……」
アデルバートがいつからここに居座っているのかはわからないが、少なくとも彼が来た頃は、こんな景色ではなかったのだろうと想像はできる。
「だからな、イングラム。俺はお前たちの力とその名声を借りたい」
「好きなだけ使ってくれて構わん。が、俺の名声は既に過去のものになっている。役に立つかはわからんぞ?」
「ふっ、国が滅んだなんてあの王が国民全員に伝えていると思うか?」
それは絶対に、確実に言っていないという確信がある。全部部下に任せていそうな感じだったし
「あいつは良くも悪くも抜けてるからそこが逆にいい方向に働くんじゃねえかと踏んでる。どうだ、今だけもう一度インペリアルガードの名称を使ってみるっていうのは」
ソルヴィアという国は滅んでしまったが
イングラムがそれまでに積んできた戦績が
無くなったわけではない。その実力も当時よりも大きく成長している。
それに————
(今は、リルルを守ってやりたい。もうあんな悲しい表情をしてほしくないからな)
リルルの顔が浮かび、その家族の顔が浮かびそして、あの仮面の魔術師の憎たらしい
顔が浮かぶ。気がつくと自然と拳に力が入っていた。敵討ち、というわけではないが
一泡吹かせてやらなければ気が済まない。
「そうだな、この時だけはもう一度だけ名乗ってもいいのかもしれない」
「よし、ならさっさとルークを治しに行くぞ」
「……リハビリが必要なんじゃなかったか?」
踵を返すアデルバートにイングラムが不思議げに問う。
「お前、まだストロングベリー持ってるか?」
「収納ホルダーにいくつかあるが……」
その言葉を聞いたアデルバートがニヤリと笑ったように見えた。
「よし、それを一つ寄越せ。ルークの筋力増強に使用する。敵は待ってくれねえからな」
「なるほど、しかしいいのか?あれは副作用があると聞いたし、ルークは二度目の服用だ、身体に異常が起こらないとも限らんだろう?」
「おいおい、余計な心配だぜそれは。セリアがいるだろう、あいつはこの国でトップクラスの医師だぜ?それに————」
アデルバートは懐から何かの錠剤が入ったケースを取り出して、空中に投げて掴み取った。
「研究機関のメンバーがストロングベリーの副作用を緩和する薬を開発した。まだ試作型だが、効果はあるらしい。
ドッコラチンパンジーでは成功した。」
「おい待てドッコラチンパンジーってなんだ?」
「あ?ドッコラチンパンジーはドッコラチンパンジーだろ」
「?????」
念のために補足しておくと、ドッコラチンパンジーはコンラに生息する日本猿に近しい生態を持つ雪のような体毛と真っ赤な顔が特徴。
遺伝子配列が人間と非常に近しくまた猿科動物としては珍しく卵を大量に生む。そのおかげで、このサルのクローンを複製し、薬の効果を大幅に向上させているのだとか。
「まあ、いいか」
「ドッコラチンパンジーが気になるなら図書館へ行け。コンラ動物図鑑に載ってるから」
「あ、うん」
イングラムは興味が湧いたので、後で見に行く気満々のようだ。
「けどその前にルークにストロングベリーを打ち込む。そして薬も打ち込む。そして歩かせて演説だ。いいな?」
「俺は構わんが、ルークが承諾するかどうか」
「ふん、話せばわかるだろう。あいつも、戦いが始まるって感じ取ってるだろうしな」
よし、とアデルバートは呟いて見張り台の柵を飛び降りる。3メートル近くあるが
彼は上手く着地して、未だイングラムのいる方向へ顔を向け、来いよと仕草を見せる。
それに応えるように、イングラムも
飛び降りて、アデルバートの隣に並ぶ。
「行くぞ」
イングラムはその言葉に頷き
足並みを揃えてルークのいる病院へ向かった。
「こうして、赤鬼は人間達と仲良くなりました。めでたしめでたし……」
セリアは自室で、リルルを膝の上に乗せて
電子書籍の絵本を読み聞かせていた。
それでも、彼女が特に珍しい反応をすることはなかった。
「悲しいお話だね。セリアお姉ちゃんはこういうお話をいっぱい知ってるの?」
無感情に、そんなことを聞いてくる。
それでもセリアは、いつもの優しげな表情で答えてみせる。
「いいえ、私が知っているお話は僅かしかありません。これは、いわば与えられた物なのです。アデル様から」
「ふぅん……ねぇ、これは“西暦のお話”なんでしょ?どうして今は西暦じゃないの?」
6歳にしては、随分と難しい質問をしてくる。やはり何か違和感を感じているセリアだが、彼女はいつもの姿勢を崩さずに答えた。
「……それは、元号が変わったからですよ。昔も今も、ずぅっと変わってきたんです。だから、今があります」
頭を撫でながら、そんな話をしてみる。しかし、リルルセリアのは思いもよらない単語を口にした。
「私ね、知ってるよ。大厄災ってその西暦時代に起こったんだよね」
「————!」
この言葉には彼女も撫でる手が止まった。
どうしたの?という風にセリアの顔を見上げるリルルの微笑みは、どこか歪だった。
「なぜ、あなたがその言葉を————」
「地球人類が犯してきた罪──
他の生物にはない、“対話能力”そして“知恵”アダムとイブが、原初の人が犯したものは今なお脈々とその遺伝子に刻まれている。人類は身勝手だ、地球を我もののようにして平気で大地を削り、海を濁し、山を砕き、生き物を己と娯楽の為に殺した。
それが何千年も続けられた。この星は限界だったのだ————」
「リ……リルル様?」
翡翠色の綺麗な瞳を持つリルルの今の目は
赤紫色に染まりリルルではない何かがリルルの身体を借りて喋っているかのような、不思議な感覚に襲われた。
思わずリルルをカーペットの上に下ろして
屈みながら声を荒げた。
「しっかりなさってください!リルル様!」
リルルの意識を戻そうと試みる。今までに感じたことのない恐怖のせいで、肩を掴む両手が力んでしまっている。
「……?お姉ちゃん、なにするの?
頭がクラクラするよぉ……」
心臓の音が、耳の中で何度も何度も脈を打つ。まるで警鐘のように、危険だとでもいうように、セリアに伝えているかのようだった。自然と彼女の額からは、吹き出るような汗が頬を伝っていた。
(………アデル様に、お伝えしなければ)
事前に録画しておいた今の映像を電子媒体に送信する。しかし、これで安心できるとは限らない。またいつ、今のようになるか
セリアは一種の恐怖の感情をリルルに抱いてしまった。
(私は、どうすれば……)
「セリアお姉ちゃん、他にお話しはなあい?」
美しくも小さな双眸を輝かせて微笑み
リルルはそんな問いを投げたのだった。
「ほっ!はっ!どっこい!しょう!いっちぃ!!!!!」
ルークは病院のベッドの上で腕立て伏せを5000回近く行っていた。汗を垂らし、それを腕で拭いながら息を荒らして上下に運動している。
「はあっ!はぁっ!運動!いいっ!素晴らしいっ!ですっ!ぞっ!」
カーペットやシーツはもはや数回取り替えたくらいでは済まない。看護師は諦めて、食事をおいたらすぐに退散する、という患者にあるまじき対応を行っていた。
「なんだかっ、看護師さんたちの目がっ!
怖いっ!なぜっ!」
そんな独り言を大声で呟きながら今度は仰向けになり腹筋を鍛え始めた。
「5000回!行きますぞー!」
ふんっ!ふんっ!と声を荒げて第二の運動へ突入したルークの前に扉をトントンと叩くノック音が聞こえた。
「どちら様ですか!?今忙しいっ!むんっ!ですぞっ!」
「おい、何やってんだよ」
「ほわぁっ!?」
忙しいと答えたはずなのに扉を豪快に蹴り上げるアデルバートに、思わず仰天する剣士。
「うわ臭え、汗臭えぞお前。シャワー浴びて来いや、くっせえ」
皮膚臭と汗疹が入り混じったような吐き気を催すほどの臭気に、思わず鼻をつまむ。
「うおっ、これは確かにキツイ。食事を済ませていなくてよかった」
と、鼻を摘みながらイングラムは呟いた。
「え?そんなに臭いかい?俺わかんないなあ」
「臭いの持ち主にゃわかんねえんだわ。
看護師達がトイレに駆け込んでる理由が
わかったぜ」
口調が戻ったルークに、アデルバートは
容赦ない辛辣さをぶつける。
「おらぁ!自分で立て!シャワー室!隣!さっさと!あび…ぐえっ」
鼻を摘んでいたのも束の間、鼻の穴の僅かな隙間に、その強烈な臭気が鼻全体に進撃してくる。見えない脅威に、鼻はタジタジだ。対抗のしようがない。だってここまで臭いとは思わないのだから
真っ青な顔で嗚咽を漏らし始めたアデルバートはそそくさと部屋を退散。イングラムは紫電を鼻に詰めて、ルークの病室の窓を解放した。可視化できない濁った空気が外へ逃げていくのが感覚で分かった。
「そんなに嫌そうな顔しなくていいのに
イングラムくん、手伝ってよ」
「え、嫌だ」
「えーっ!?」
鎧に染み付く匂いはそう簡単に取れるものではない。皮膚臭とかもってのほかだ。
「いや、今はマジで無理。頑張って」
サムズアップをして、退散するイングラム
どうやら彼も匂いにやられ始めたようだ。
アデルバートよりは酷くないかもしれないが。
「わかったよ、酷いなあふたりとも……
俺そんなに臭うかなぁ」
すんすんと腕を嗅ぐ。自身の体臭を自覚できないほど長い間トレーニングを続けてきたのだろう。なぜそうなったのかは、当の本人ですらわからない。多分