第164話 「レベッカを治す算段」
病院の消毒液の匂いが鼻を突く。白い壁に囲まれた集中治療室で、二日間の治療を終えたイングラム達は、ようやく面会が許可されたレベッカの元を訪れていた。窓から差し込む朝日が、ベッドに横たわる彼女の顔を照らしている。
「……レベッカ」
ルークの声は震えていた。幼馴染の呼びかけは、彼女に届いているのだろうか。規則正しい心電図の音だけが、静寂を破っている。レベッカの顔は青白く、まるで眠っているようだが、その眠りはあまりにも深い。
「クレイラお姉ちゃん、私を撫でてくれたときみたいに出来ないかなぁ?」
リルルが上目遣いでクレイラを見上げる。
クレイラは眉を顰め、深く息を吐いた。確かにリルルの時のように触れれば、ある程度の情報は得られる。しかし、レベッカに触れても、灰色の靄のような世界しか見えなかった。何度試しても結果は同じだろう。
「私はお医者さんじゃないからね。セリアも難しい顔をしていたでしょう?」
「う、うう……セリアお姉ちゃん……」
リルルの瞳が潤む。セリアは申し訳なさそうに首を横に振った。
「リルル様、残念ながら今のレベッカ様はまだ目を覚ますことはありません。ですがいずれ、何かしらの治療法が見つかると良いのですが、いかんせん先の襲撃で未だ負傷者が減らないのもまた事実、レベッカ様だけを優先するわけにはいかないのです。ご理解下さいませ」
リルルは悲しそうにイングラムの鎧の裾を引っ張る。小さな手が震えている。
「大丈夫だ、不安になるなリルル。治す方法は必ずある」
イングラムは腰を屈め、優しく少女の頭を撫でる。温かい手の感触に、リルルの表情が少し和らぐ。
「騎士様ならなんとかしてくれるよね。私、信じてるから!」
イングラムが力強く頷くと同時に、アデルバートがセリアに向き直った。
「セリア、レベッカは昏睡状態だとあの医者は診断していたな?外部刺激はどれほどのものを与えた?」
「まずは素手による接触、次に聴覚に訴えるように言葉をかけました。最後は強めの揺さぶりと電気ショックをかけましたが、いずれにしても反応が見られなかったため深昏睡と診て間違いはありません」
「そうか、セリアが現場でレベッカの様子を見ていたんだ。信に足る言だろう」
レベッカの冷たい手を握り締めていたルークが、急に顔を上げた。
「このままじゃ、身体機能が徐々に低下して筋力低下や脳に障害が発生する場合がある。スフィリアに置いておいたら、彼女は———」
「お困りのようね?」
扉が開き、ルシウスとエルフィーネが入ってきた。狐型亜人の彼女は、古びた地図をベッドサイドのデスクに広げる。羊皮紙の匂いが部屋に漂う。
「やあみんな」
クレイラが訝しげな表情でエルフィーネを見つめるが、彼女は気にも留めず、地図の中央を指差した。
「そこの彼女を治すのなら、ここへ行きなさい」
イングラム達が身を乗り出して地図を覗き込む。そこに記されていたのは——
「ソルヴィア……!?どういうことだ、ここへ何があると言うんだ」
イングラムの声に驚きが滲む。
「あら、あなたはあの王様から何も聞かされていないようね。ソルヴィアはひとつの国ではない。元は二つの国で成り立っていた大国だったのよ」
エルフィーネの説明に、イングラムは腕を組んで考え込む。
「天空皇国ソルヴィアは昔、ここスフィリアとスアーガ両国を圧倒しかねないほどの軍事国家だった。でも、地上に降りていた先代の王が武装解除し、行き場のない難民の保護を始めた。それが、天空派と地上派に分かれた原因になるとは、思わなかったけれど」
「俺を助けてくれたソルヴィア王は地上に降り立った側だったのか。エルフィーネさん、貴女がそこを推すということは、医療技術もこことは比較にならないほどに高いということですね?」
「ええ、あそこは紛争地域や両国争いに割って入るほどの戦闘国家よ。それに比較して、治療技術は地上のものとは比較にならない」
エルフィーネがにやりと笑みを浮かべ、イングラムの肩に手を置いた。その手は思いのほか温かい。
「あそこは男性の入国は禁止とされているわ。どうにかして入り込み、レベッカを治療してもらうか、それとも……勝者の証であるニトクリスの鏡を用いて別の方法を教えてもらうほかない」
「はっ、なら侵入すりゃいいだろう。俺達にはそれが出来るんだからな」
アデルバートが鼻で笑い、電子媒体を取り出す。青い光が画面から漏れ、何かのデータが転送される音が響く。
「なにを言ってるのアデルバート。今言ったばかりよね?あそこは男性の入国は禁止されているって」
「だったら"女"になりゃいいだろう。このアプリでな」
アデルバートがアプリを起動させる。眩い光が彼を包み込み——そこに現れたのは、長く艶やかな青い髪を持つ美しい女性だった。
「どう?これならその女好きでも騙せるんじゃない?」
声まで完全に女性のものに変わっている。ルーデリア・マクレインと名乗るその姿は、完璧な変装だった。
「驚いたわ、仲間の為なら手段を選ばないのね……」
エルフィーネの目にも、違和感は感じられない。体つきから匂いまで、全てが女性そのものだ。
「手段と方法さえわかればニトクリスの鏡に頼るまでもないわよ。それに、それはレオンを探す為に必要なもの、使うわけにはいかないわ」
「そうだな、俺達にはそれがあった。あとは女性らしく振る舞えれば王の目を誤魔化すことは出来るだろう」
「……ほう?」
ルークが急に立ち上がり、ルーデリアをじっと見つめる。その目には妙な輝きが宿っていた。
「なによ……」
「転換か……ふむ、俺もこれを使えば女性になれるんだね?」
「そうだけど?」
「そうか……わかった。失礼します」
ルークが一礼した後、素早くルーデリアの胸に手を伸ばす——
「おらぁっ!」
鈍い音と共に、ルークの体が宙を舞う。
「ひでぶぅっ!?」
ルーデリアの蹴りが鳩尾に炸裂し、ルークは膝を抱えて震える。
「う、ありがとうアデル。おかげで元気になったよ……!」
「てめえは見境無しなのかぁ?」
いつの間にかアデルバートの姿に戻り、呆れ返っている。
「あぁ、そういうわけじゃない。ただほら、真偽を手で確かめたくてね。さあ、次はイングラムくんとルシウスだ。見せてくれ」
「断る」
「嫌だよ」
即座に拒否される。
「くっ、レベッカが目を覚まさず不安に駆られまくっている同期に対して、少しでも不安を拭おうとは思わないのかっ!!」
涙を浮かべて訴えるが、二人は顔を背けるだけだった。
「それだけ元気なら平気でしょう?ねえセリア」
「カウンセラーとしては不安を少しでも拭うことができるのなら転換してルーク様に元気を少しでも取り戻してもらう方が良いと思います。良ければ、私にも元気をプレゼントさせて下さい」
セリアが真面目な表情でルークに近づき、優しく手を握る。
「ルーク様、何かしてほしいことはございますか?なんなりとおっしゃって下さい」
ルークの目が輝く。
「まずはハグでしょうかね。あとは背中を優しくさすってもらって"よく頑張りましたね"と言ってもらえると嬉しいで———」
瞬間、アデルバートの腕がルークの首を締め上げる。
「おごぉぉぉぉ!?」
「図に乗りすぎだなぁ?ルークくんよぉ、俺が背中さすさすしてやろうか?あぁ?」
「や、そのままじゃドン引きです。ルーデリアさんになってくださ———うぐぉぁぁぁぁ!!!!」
締め付けが強まる。クレイラが慌ててリルルの目を覆う。
「ねえねえ、なんで目隠しするのー?」
「アデルはね、ルークと久しぶりに会えたから嬉しいんだよ。あんな表現しか出来ないけど、きっと彼なりの照れ隠しなんだよ」
「おいクレイラ、お前出鱈目言ってんじゃねえぞ」
「事実でしょう?今更隠しても無駄だよ?」
「くそが……」
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!悪かったって、早く解いてぇぇぇ!!!」
ルークの顔が青ざめていく。
「おいアデル、そろそろ本当に死ぬぞ」
イングラムの制止でようやく解放されたルークは、喉を押さえながら激しく咳き込む。
「殺人未遂!首締め魔!セリアさんと手を繋いだこともないくせにぃ!」
「黙れいっ!」
再び締め上げられそうになるのを、イングラムが間に入って止める。
「まったく、久々に同期が揃ったと言うのにじゃれつくのもそこまでにしてくれ」
「「じゃれついてない!!」」
二人の叫びが病室に響く。
その騒動から少し離れた場所で、ルシウスとエルフィーネがひそひそと話していた。
「それで、兄さんの、ルキウスの行方はわかったのかい?」
「一番最近のもので、これね」
エルフィーネが写真を取り出す。そこには街を歩くルキウスの姿が写っていた。
「場所がどこかまでは特定出来なかったけど、きな臭いのは確か、もしかしたら貴方の兄さんはとんでもないことに首を突っ込んでいるかもしれないわ」
「そうか……兄さんのことだ、あの家系について重要な情報を掴んだのかもしれないな」
ルシウスは憶測だけど、と付け加える。
「俺は、これからしばらくは彼らと行動して、情報を集めるつもりだよ。君はどうするんだ?」
「ベルフェルクを追ってみる。実は、こんな写真が送られてきてね」
新たに取り出された写真を見て、ルシウスの表情が険しくなる。狐の面を被った二人と会話するベルフェルク、そして仮面の魔術師を惨殺している光景が写っていた。
「これは……あの時の光か」
「この二人があのおかしな渦を飛ばしたと見て間違いない。ベルフェルクとこの子たちは、神殺しの家系と密接に関係していると見て間違いない」
「……エルフィーネ、やはり危険だ。君も僕達と来るんだ。下手を打てば、ベルフェルクに殺される」
ルシウスの真剣な眼差しに、エルフィーネが息を呑む。
「千里眼が、そう伝えているの?」
弓兵は重く頷いた。彼の目には、大地の柱に貫かれたエルフィーネの姿が見えていた。
「それに、万が一情報が集まらなくてもニトクリスの鏡がある。彼らの目を盗み、使うことができれば兄さんの行方がわかるんだ」
「仲間を敵に回すつもり?」
エルフィーネの不安そうな表情に、ルシウスは悲しげに呟く。
「覚悟は出来ている。レオンを探している彼らには、悪いけれど」
背を向けて部屋に戻っていくルシウス。その肩には重い決意が乗っている。
「エルフィーネ、君は僕が守る。どんな状況になろうともね」
「ええ、ありがとう」
エルフィーネは彼の後ろ姿を見つめながら、ゆっくりと歩き始めた。病室の窓から差し込む光が、二人の影を長く伸ばしていく。