第161話 「勝者への報酬」
王の間へと続く重い扉を押し開けた瞬間、四人の肌を這うような冷気が襲った。そこに佇んでいたのは、まるで闇そのものが凝縮したような、禍々しい黒い影だった。空気が澱み、腐敗した果実のような甘い悪臭が鼻腔を突く。
「貴様はっ!」
ルシウスの叫びが石壁に反響する。影はゆらりと身をもたげ、上半身をくねらせながら振り返った。その動きは、まるで水中を漂う海月のように不自然で、見る者の平衡感覚を狂わせる。
影が向けた視線——いや、顔があるはずの場所から放たれる圧力に、ルシウスの瞳孔が激しく収縮した。
「———!!!」
胃の奥から込み上げる激しい嘔吐感。ルシウスは膝を突き、床石に胃の中身をぶちまけた。酸っぱい胃液の臭いが立ち込める。続いてアデルバートも胸を押さえ、苦しげに嘔吐する。二人の荒い呼吸音だけが、静寂な王の間に響いていた。
「……俺達は大丈夫みたいだね」
ルークが小さくつぶやく。
「あぁ、どうやらな」
イングラムが応じた。彼らの目の前に立つ黒い人影——それは顔を持たなかった。人間の輪郭だけが、煙のように、靄のように、そこに浮かんでいるだけだった。まるで光を吸い込む穴のような、存在そのものが違和感の塊。
イングラムは槍を構え、その切っ先を影に向けた。
「貴様、ペーネウス王はどこだ。アデルとルシウスに何をした!?」
静寂。影は微動だにしない。
「答える気はないか。ならば——穿つ!」
腰を深く落とし、イングラムの左手に青白い槍が顕現する。握り締めた柄から伝わる冷たい感触。地を蹴り、一気に間合いを詰める。槍の穂先が空気を切り裂く音——
「……!?」
手応えがない。確かに影の胴体を貫いているはずなのに、まるで水を突いているような、いや、それよりももっと希薄な感覚。槍は影の身体を貫通しているが、その部分がゴムのように伸びているだけだった。
"オマエ、マダ、目覚メテナイ……カカカ"
錆びた鉄を擦り合わせるような、不快な金切り声が響く。男とも女ともつかない、人ならざる者の声。
「何を言っている!」
"オマエ、素質、アル。イツカ、迎エニ行ク。器トシテナ……!"
「紫電っ!!」
槍を貫いたまま、イングラムは体内のマナを解放した。紫の稲妻が槍を伝い、影の全身を焼き尽くす——はずだった。
「カカカ……カカカ!!!!!」
嘲笑だけを残し、影は煙のように掻き消えた。イングラムの腹の底に、ざわざわとした不快感が残る。槍についた黒い靄のような何かを、彼は無言で拭い取った。
「はぁ、はぁ……!もう大丈夫?」
ルークが二人の背中をさする。
「くそ……薄気味悪いぜ。なんなんだあの影は、俺達の戦意すら根こそぎ奪いやがって……!」
アデルバートが電子媒体から水を取り出し、口をゆすぐ。ルシウスも同じようにして、口の中の不快な味を洗い流した。
「そうだ、ペーネウス王!」
ルシウスが玉座に駆け寄る。そこには——
胸を貫かれたペーネウス王が、玉座にもたれかかっていた。顔には幾筋もの血が流れ、呼吸は糸のように細い。鉄錆の匂いが鼻を突く。
「ペーネウス王!何があったのですか!?これはいったい……!?」
震える声でルシウスが問いかける。
「…………ルシウス、やられた。余の作った結界を掻い潜る者がいたのだ」
王の瞳には、もう光が宿っていなかった。ガラス玉のように濁り始めている。
「ここを突破できるほどの……!?いったい何者なのです!?」
「……今の影だ。あれは間違いない、邪神だ」
イングラムの表情が険しくなる。あの影に槍が触れた瞬間、既視感のような、懐かしいような、そんな感覚が脳裏をよぎっていた。
「ナイアーラトテップ。無数にある貌の、一つだと断言します」
「……イングラム、貴様———!」
ペーネウス王の虚ろな瞳に、かすかな怒りの炎が宿る。
「私はスアーガにて、ナイアーラトテップと邂逅しています。先の影と俺が出会った存在は同じものだと確信できます」
イングラムは王の怒りを真正面から受け止めながら、揺るぎない眼差しで見つめ返した。それは自分が邪神の側ではないという、無言の証明だった。
「よかろう、貴様の言を信じよう」
荒い呼吸を整えながら、ペーネウス王が言葉を紡ぐ。
「王よ、治療を……!」
ルシウスが差し伸べた手を、ペーネウスが力なく払いのけた。
「良い、余はもう助からぬ。邪神の力を甘く見た不甲斐なさゆえの敗北だ」
奥歯を噛み締め、懐から古びた羊皮紙の地図を取り出す。震える手でルシウスに差し出した。
「お前達のそのマナの力、それは本来の力ではない。『概念』に逢うのだ!」
「が、概念……!?」
「急げよ、邪神は既に復活の兆しを見せている。あの神殺しの一時的な封印も、いずれは解かれるっ!」
ペーネウスは残った力を振り絞って身体を起こし、ルシウスの手を強く握った。その手は氷のように冷たい。
「ルシウス・オリヴェイラ……!そしてその仲間達よ、大義であった!お前達のおかげで、我が国の民達の多くが救われた。礼を言う。受け取るがいい……勝者への報酬『ニトクリスの鏡』だ」
力なき笑みを浮かべ、空中に銀色の古い手鏡を出現させる。震える手でそれを掴み、ルシウスへと差し出す——
その瞬間、ペーネウスは渾身の力でルシウスを突き飛ばした。
細い光の筋がルシウスの頬をかすめ、焼けるような痛みが走る。そして——ペーネウスの心臓を貫いた。
「ご……ふっ」
王の顔から一気に血の気が失せる。『ニトクリスの鏡』が手から滑り落ちる——それを、新たな影がさらった。
今度の影からは、先ほどのような禍々しさは感じられない。だが、イングラムの背筋に嫌な予感が走る。彼は反射的に突進し、影の肩を掴んで振り向かせた。
「イングラム……!よう、久しぶりだな!」
悪戯を見つかった子供のような表情から、にやりと笑みに変わる。フィレンツェ・シーガルだった。彼の手には、ペーネウスが渡そうとしていた鏡が握られている。
フィレンツェはイングラムを片手で突き飛ばし、左腕を高く掲げた。
「みんな久しぶりだなぁ〜!でもこれは、俺のものだ!彼女が欲しいんでね!」
「フィレンツェくん!君がペーネウス王を殺したのか!?」
ルークの声が震えている。
「あ?まあなぁ……くふふ、王を殺しただなんて聞けば、みんな喜ぶなぁ」
「馬鹿なっ!!この方は善政を敷き、多くの人々に食と住処を与えた方なんだぞ!それをっ———!」
フィレンツェは大げさにため息をつき、広間の中央に立つ。
「あはは〜、古いんだよなぁその思考。この星は地球人類が支配すべき場所なの。亜人とか動物とか昆虫とかクソ惨めで邪魔でしかないわけ。わかる?」
「おい、さっきから黙って聞いてりゃ好き放題ほざきやがって。てめえの脳みそは五年前から進化してねえらしいな」
アデルバートの怒気が空気を震わせる。床が水面のように波打ち、次の瞬間——巨大な水の牢獄がフィレンツェを包み込んだ。
「ぁがぁ!?」
水中でもがくフィレンツェ。泡が口から漏れ、苦悶の表情が歪む。
「イングラム、取り返せ!」
イングラムは躊躇なく水牢に腕を突っ込む。冷たい水の感触、そして鏡を掴み取った。
「これはルークとアデルが受け取るべきものだ、お前が手にしていいものではない」
水の中でフィレンツェが必死に手を伸ばすが、自由に動けない。顔が青ざめていく。
「ルシウス、引くぞ!あんなバカを相手にしている時間が無駄だ!」
「……あぁ!」
ルシウスは奥歯を噛み締め、ペーネウスの亡骸に深く一礼すると、仲間たちと共に玉座の間を後にした。
「ぁ……ぐぁ……!」
残されたフィレンツェの意識が、水の中で薄れていく——
「誰がペーネウスを殺せと言った。フィレンツェ!」
静寂な玉座から、地を這うような重低音が響いた。瞬きの間に、光の刃が水牢を両断する。
「げほっ、げほげぼっ……!」
床に倒れ込み、激しく咳き込むフィレンツェ。水と共に吐き出される胃液の酸っぱい臭い。そんな彼を、巨大な影が覆った。
「お、親父……!!」
「貴様、ペーネウスを殺すに飽き足らず、ニトクリスの鏡をも奪われるとは!とんだ恥晒しだな!」
黒いローブを纏った父——アガレスの蹴りが、フィレンツェの横腹に突き刺さる。鈍い音と共に、彼の体が床を転がった。
「あれがなくば、邪神復活の最終段階へ移行することができん。ペーネウスはルシウスの脅しに使うと伝えておいたはずだぞ」
「ま、誠に申し訳ありません!つ、次こそはイングラム達から鏡を!」
「愚か者が!あれは一度効能を発揮すれば10000年の時を経ねば再び使うことはできん!次からでは遅いのだ!」
アガレスの怒気が空気を震わせる。マントを翻し、ペーネウス王の亡骸の前に立つ。
「この感覚、ナイアーラットもか!?おのれ、好き勝手に動きおって……!どいつもこいつも!」
凄まじい殺気を孕んだ視線がフィレンツェを射抜く。
「フィレンツェ、貴様はしばらく仮面の魔術師に鍛えてもらえ!その体たらくでは友に勝つことすら出来んぞ!!」
「は、ははっ!次こそはお役に立って見せます!」
額が床につくほど深く頭を下げた時、どこからか不気味な笑い声が響いた。男とも女ともつかない、耳障りな音。
「ふ、相変わらず間抜けを晒しているようだな。フィレンツェ・シーガル」
「てめえ、魔術師!」
「仮面の魔術師、お前にコイツの師範代を担当してもらう。レオンの首を獲るにはこいつの協力も必要なのでな」
「わかった、そういう話であれば聞こう。それで、アガレス、お前はどうするのだ?あのままイングラム達を退かせる気はないのだろう?」
「あぁ、その事だが———」
アガレスは四人が去った方向を見据えながら、冷たく言葉を紡ぐ。
「"あの男"が片付ける。在校時代のレオンが四人相手に勝てたのだ、ならば、おそらくは同等であろう奴が負ける理由にはならんだろう」
「ふっ、急所を突かれればそれまでだぞ、油断するな」
「……お前達はペーネウスとその王妃の遺体を回収しておけ。ではな———」
アガレスは魔術師の忠告を聞き流しながら、眩い光と共に玉座から姿を消した。残された空間に、血の匂いだけが重く漂っていた。