第157話「赤鳴き子の群れ、黒い二匹の狐」
快晴だった空は、まるで誰かが布をかぶせたかのように漆黒に閉ざされた。
そこから――無数の 赤い影 が、悲鳴のような咆哮を上げながら降り注ぐ。
「きゃああああああ!!!」
「なんだあれは!?」
街中に恐怖の悲鳴がこだまする。
人々は我先にと逃げ惑い、建物に押し寄せ、病院の入口にも群衆が殺到していた。
——ドロリ。
赤い怪物が地に着く。
その身体は不気味にくねり、粘液のような赤黒い光沢をまとって蠢く。
そして、啜り泣くような 「ひゅぅぅ……ひぃぃ……」 という声を発した。
「……この声……っ!」
イングラムの眉が険しく寄る。
脳裏に焼き付く忌まわしい音色――過去、三度にわたって自分を苦しめた、能面の怪物の声だ。
だが今、降り注いでいる数は過去の比ではない。
「イングラム様……!」
セリアも両腕を抱くように身を震わせる。胸の奥底から湧き上がる嫌悪感が、言葉を失わせていた。
「ねえねえ、騎士様!なんか赤いのがいっぱい降ってきてるよ!」
リルルが涙目で裾を握る。
イングラムは二人の姿を見て、静かに息を吸った。
そして――
「セリアさん、リルル。レベッカさんを頼みます。俺は民衆の避難を!」
「……! わかりました、くれぐれもお気を付けて!」
セリアは唇を噛みしめ、それでも強い瞳で返す。
「騎士様!無茶はしないでね!」
「……あぁ」
イングラムは膝を折ってリルルと視線を合わせ、その小さな頭に手を置いた。
「リルル、セリアさんの言うことをよく聞け。怪我するんじゃないぞ」
「……うんっ!」
その小さな頷きを見届けると、イングラムはセリアに目配せを送る。
セリアもこくりと強く首を縦に振った。
——ならば、迷う必要はない。
「行ってくる!」
彼は一気に身を翻し、颯爽と病室を飛び出した。
瞬間、廊下にまで響く赤き怪物の泣き声が、まるで獲物を見つけたかのように重なり合った。
◇◇◇
「ひっ! 誰か助けてくれぇっ!!」
血の匂いが鼻を刺す。
振り返れば、赤黒い怪物が男の半身を噛み砕き、骨の砕ける音と肉を啜る湿った音が響いていた。
「やめてぇっ! 子供を返してぇぇぇ!!」
母親の絶叫。
だが、怪物は慈悲も興味もなく、赤子の小さな体をひと呑みにした。母の手には、温もりの消えた毛布だけが残る。
奴らは考えない。ただ「喰う」。
目の前にあるものを、美味いか不味いかも関係なく、腹を満たすためだけに。
「バケモノッ! パパとママを返せっ!!」
小さな少女が、涙に濡れた瞳で枝を掴み、必死に投げつけた。
その先では両親の亡骸が無惨に潰され、喰われていく。恐怖で足は震えていた。だがそれ以上に、胸を焼く怒りが少女を突き動かしていた。
「返せよっ!! 返してよぉぉ!!!」
怪物は不気味に笑った。首をぐるりと回転させ、ろくろ首のように伸ばしてくる。口はありえないほどに開き、顎が割れるような軋みを立てる。
「や……いやぁぁぁぁぁっ!!」
少女は目を閉じた。
——喰われる。
——死ぬ。
だが、それでパパとママに会えるのなら……。
その刹那。
「獄炎羅刹ッ!」
轟音。
少女の身体をドーム状の光が包んだ。噛みついた怪物は、悲鳴を上げる間もなく紅蓮の炎に焼かれ、灰と化す。
「ひっ……ぐすっ……」
「大丈夫?」
肩に触れる手は冷たく硬質。だが、その声は芯のある強さを帯びていた。
少女は安堵に押し潰され、嗚咽を漏らした。
そこに立つのは——黒い外套をまとい、頭までフードを下ろした 狐面の女。
炎に照らされた仮面の奥で、瞳が冷たく煌めいている。
「……コイツら」
女は片手を広げると、掌から無数の緑の刃——鎌鼬が放たれ、赤い怪物の首を次々と刎ね飛ばした。
「病院へ行きなさい。あそこなら、まだ安全よ」
「う、うぅ……!」
「辛いだろうけど、ここで止まれば……あなたを守った両親の命が無駄になる」
その言葉は鋭い刃だった。
少女は泣き叫びながらも、震える足を動かした。
だが、その背に迫る影。十数体の怪物が這い寄ってくる。
「ここから先には行かせない。……貴様らの墓はここよ」
女は風と炎を同時に顕現させ、怪物の頭を鷲掴みにした。
片方を高熱で溶かし、もう片方を風圧で粉砕し、そのまま残骸を群れに投げつける。
炎と風が混ざり合い、空を震わせる大爆発が起きた。
「穴ごと封じなければ、意味がない……面倒なこと」
背後から飛びかかる怪物を振り返らずに炎の剣で貫き、焼却する。
悲鳴は耳障りだ。だが表情は一切揺らがない。
「妹さえ無事なら……あとはどうでもいい」
手首を鳴らし、腰を落とす。
両手に風のマナを纏わせ、湾刀のようなファルカータを生み出した。
跳躍。
前方の怪物四体を一閃で切り裂くと、そのまま刃を投げ、炎の弓を展開。
「爆ぜろッ!」
火矢が放たれた瞬間、風の剣は水風船のように膨張し、空気中の酸素を巻き込み、群れごと大爆発を起こす。
轟音と熱風が街を揺らし、怪物たちは灰すら残さず消し飛んだ。
「……ふん。手応えがない。この程度?」
狐面の女はふわりと着地し、ゆっくりと仮面とフードを外した。
オレンジ色の炎が天へと昇る中、その表情は——退屈そうに、儚げに歪んでいた。
◇◇◇
「お婆ちゃん! 早くっ! 怪物がそこまで来てる!」
「ワシのことはいいっ……! お前だけでも逃げなさい!」
老いた声は震えていた。足はもつれ、呼吸は荒い。孫息子の焦りは募るばかり。だが次の瞬間、老人の身体は石につまずき、地面に叩きつけられた。
「くそっ……! こんなとこで死にたくねえよ!」
振り返った孫息子の瞳に、赤い群れが映る。蠢く影。跳躍。裂ける顎。
———怪物が頭上から迫っていた。
「ひっ……助けてっ!!」
鋭い牙が彼を噛み砕こうとした刹那。
「やぁっ!!」
ドンッ! 黒い影の蹴りが怪物を吹き飛ばした。
首の骨がへし折れる音が、嫌に生々しく響く。
「だ、大丈夫ですか」
声に振り向けば、そこにいたのは——狐の面をつけた少女。
黒い外套が風に揺れ、フードの下から覗く生足は、滑らかな絹のような白さで目を奪った。
「ありがとうございます……!」
祖母が頭を下げる。狐面の少女は二人の手を取り、掌から溢れる柔らかな光で二人を包み込む。温もりと同時に、膜のような安心感が広がった。
「これなら、あの化け物たちの攻撃は弾いてくれます。——さあ、早く! 病院へ!」
「はいっ……! 行こう、婆ちゃん!」
孫息子は祖母を抱き起こし、肩を貸して駆け出す。
彼女は振り返らない。ただ、その背が病院へ消えるのを確かに見届けた。
「よし、それじゃあ———」
刹那、狐面の少女は身体を翻す。
迫りくる赤い群れを見据え、右腕を横に伸ばした。空気が震え、鋭い槍が手に現れる。
彼女は慣れた仕草で槍をくるりと回し、切っ先を怪物達へ。
「ここは通さない……守るだけよ!」
声は冷ややかに。だが奥底には揺るがぬ決意があった。
周囲のマナが唸りを上げる。風と水、相反する二つの力が複雑に絡み合い、すべてが槍へと収束していく。
「——フッ!」
腰を落とし、睥睨したまま突貫。
「キィィィッ!」
振るわれた一撃。
瞬間、落雷のような轟音と熱が弾けた。
彼女の肉体から放たれる衝撃波に、怪物達は声を上げる間もなく閃光の中で蒸発する。
狐面の少女は後方へ跳躍し、左掌を突き出す。
「水牢破ッ!」
五指から放たれた細き線は音速を超え、次々と怪物を絡め取り、巨大な水の牢獄へと閉じ込めた。
アデルバートが用いた水牢の進化形。彼女独自の改良。
「塵芥になれ……!」
掲げた左手を握り潰す。
轟音。
美しい水牢は、瞬時に紅に染まった。怪物の絶叫と共に水は渦を巻き、血と肉片を呑み込みながら崩壊する。
抵抗も、逃走も許されない。まさに死の牢獄。
彼女はその顕現を未だ解かず、さらに腕を高く掲げた。
捕えた怪物ごと、黒き渦巻く空へと投げ返すために。
「———ま、この程度なら朝飯前か」
冷徹な声が、燃え盛る戦場に響いた。
「レネ!」
耳に届いた声は、血煙と怪物の咆哮の中でもはっきりと聞き取れた。
それは彼女にとって、誰よりも懐かしく、誰よりも安心できる声。
別方面で怪物の群れを食い止めていたはずの――姉の声だ。
「お姉ちゃん!」
狐面の下から輝く瞳が、わずかに潤む。
「無事だったんだね! そっちは……上手くいったんだ!」
「ええ、“塵避け”は効果的面よ。残るは、あの煩わしい“闇”だけ」
姉の落ち着いた声に、レネは安堵しつつも眉を寄せた。
「でも……残りのアイツらは? まだ殲滅しきれてないはず――」
「そこは“あの人達”に任せるわ。接触するつもりは最初からないもの。……あなたはどうかしら?」
一瞬、レネは腕を組み、答えを探すように視線を落とす。
けれど次の瞬間には、彼女らしい笑顔を見せた。
「うん! いい勝負も見れたし、充分だよ!」
「そう。じゃあ――さっさと片付けるわよ」
「オッケー!」
二人は手を取り合った。
次の瞬間、炎、水、風、雷――四つのマナが天を裂くように解放され、螺旋を描きながら闇の大穴へと収束していく。
「「閉じろ……悪しき入り口よ!!」」
叫びと同時に、光が炸裂した。
宇宙へと押し出されるように、闇は引き裂かれ、弾かれ、遠ざかっていく。
四大自然そのものが、姉妹の背を押し、緊張に強張る心を解してくれるかのようだった。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!!」
炎は邪を灼き、風は瘴気を裂き、雷は悲鳴を断ち、水は血を浄める。
二人の身体は限界を超え、マナが奔流のようにほとばしっていた。
闇は弾かれ、視界から消え去ろうとして――
「貴様らぁぁぁぁぁぁっ!!!」
空気が焼けるような怒号が、全身の毛穴を逆立てる。
降り立ったのは黒きローブを纏った魔術師。
男女の区別もつかない歪んだ声で、彼は絶叫する。
「よくも! よくも俺の降臨を妨げやがってぇぇ!!!」
「ふん、邪神の降臨? 悪いけど、興味ないわ」
姉の冷笑。
「……この人があの闇を呼んだの?」レネの声は低い。
「なら残念、私達が止めさせてもらったよ」
「ククク……」魔術師は口元を歪ませ、両腕から瘴気を迸らせた。
「殺す! お前達を犯し、喰らい、俺の糧にしてやるぅぅ!!」
邪教徒の影がぞろぞろと現れる。地面を這い、唸り声をあげ、血の匂いを振りまきながら。
「……哀れね」
姉が吐き捨てる。
「実力もないのに、他人の力を欲しがって、自分を誤魔化して……。そんな奴、一生“負け犬”のままよ」
「黙れぇぇぇっ!!」
魔術師が指を弾いた瞬間、影たちが一斉に襲いかかる――が。
ゴゴゴゴ……ッ!
轟音と共に、影は十字架状の大地に縫いつけられた。
悲鳴を上げ、もがく邪教徒たち。
「……!」
姉妹が驚きに目を見張る中、その前に巨躯が降り立った。
「ようやっと見つけたぞ、クソ魔術師……」
低い声。首をゴキリと鳴らし、片腕に土のマナを纏わせる男。
闘志は稲妻のように迸り、空気を震わせる。
「ベルフェルクぅぅぅぅぅぅ!!!」
魔術師の叫びは、恐怖と怒りに染まっていた。