第149話「狐の面の少女」
衝動が、女の身体を稲妻の竜のように駆け抜けた。 青白い閃光が肌の下で蠢き、筋肉の一つ一つを爆ぜさせる。大気が焦げる匂いが漂い、髪が静電気で逆立つほどの殺気が廊下に渦巻いた。
跳躍。 空気を蹴り裂く風鳴り。 女は宙で身を翻し、しなやかな着地と同時に左腕を振り抜く。 その掌から迸ったのは、水のマナを極限まで圧縮した光線──もはや水ではなく、灼熱の刃に変わった奔流だった。
目を焼く白光と、皮膚を刺す湿気。空間そのものが震え、爆ぜる。
だが、イングラムは瞬時に見切る。 紫電が唸りを上げ、空気を焦がしながら彼の槍先から噴き出した。衝突する両者の魔力は耳を裂く轟音を響かせ、鉄の味を混じらせた湿気が肺を打った。
「……まだだな。本気で俺を殺す気はない……」
紫の閃光を纏わせた槍をくるりと回し、闇に潜む少女を睨み据える。 ルシウスなら千里眼で全てを見抜けただろう。だがイングラムの武器は、紫電ひとつ。 電光球を維持しつつ戦うには、互いに常人なら即座に意識を刈り取られるほどの集中力が必要だった。
「マナの精度、この時点で規格外……先生の言葉は本当だったか」
姿は見えずとも、湿度を揺らす人影が鮮烈に脳裏へ焼き付く。 女は低く腰を落とし、双剣を振り下ろした。水面を裂くような速さで、刃が音をも切り裂く。空気の壁が砕け、振動が皮膚に叩きつけられる。
イングラムは槍を構えて受け止め、刃と刃が触れた瞬間に火花と飛沫が同時に散った。
(……動きがアデルに酷似している。構え、間合い、そして双剣に注ぎ込むマナの量まで……。ただの模倣じゃない。あれは血反吐を飲むような研鑽の末に到達した“再現”だ)
「そぉ、れっ!!」
右から落ちる剣閃。 同時に左下から切り上がる刃。 完璧なタイミングと速度。 槍の柄が悲鳴を上げるほど横薙ぎに紫電を纏わせて受け流し、勢いを殺しながら、イングラムは女の鳩尾に膝を突き上げた。骨を軋ませる衝撃が、彼女の口から苦痛の声を吐かせる。
「っ……!」
だが女は怯まない。腹に手を添えると、青白い癒光がほとばしり、血の泡を抑え込むように呼吸を整える。そして再び跳躍、双剣が閃光の雨のように振り下ろされた。 イングラムは力強く押し返し、火花のように水滴を散らして弾き飛ばす。
「……ふぅ、やっぱり噂以上だね。なら、そろそろ本気を見せてあげる!」
女が後方へ跳んだ瞬間、双剣は空気に溶けるように消え去る。代わりに彼女の両手に現れたのは──
「———!」
槍。 イングラムがこれまで振るい続けた武器、その象徴と同じ槍だった。
「ふふ、……紫電!」
「なにっ!?」
女の叫びとともに、左掌から電流が放射状に迸る。紫の稲妻が奔流となり、夜気を焦がしながら襲いかかった。 避ける暇もなく、イングラムの利き腕へ直撃する。焼ける肉の臭い、全身を貫く激痛。
「っ———!」
神経が焼き切れるかのように麻痺し、筋肉が言うことをきかない。指先が硬直し、槍の感触さえ遠のいていく。
「はぁっ!」
槍を構えた女が風を裂いて突貫してくる。首を狙う鋭い穂先、流れるような動作のひとつひとつが、イングラムの記憶の奥底に眠る懐かしさを呼び起こす。
(ちっ———!)
イングラムは舌先を噛み潰し、鉄の味で意識を叩き起こす。痛みで麻痺を上書きし、無理やり身体を動かす。突き出された槍を振り上げ、紫電を纏わせて弾いた。
「わぁお……!麻痺を突破するなんて、本気で驚いた!」
「君は……一体何者だ!? なぜ水と雷のマナを同時に操れる!?」
咳き込みながら血の塊を吐き捨て、荒い呼吸の中で問いかける。 これまでマナを使えたのは、限られた仲間たちだけ──レオン、ルーク、アデルバート、ルシウス、クレイラ。 敵でさえ、家族でさえ、誰ひとりとして触れなかった領域。
その常識を打ち砕く存在が目の前にいる。
イングラムの胸を、凄まじい戦慄と昂揚が同時に突き抜けていった。
「さっきも言ったよね? 答えられないって!」
「なら──無理やり聞き出すまでだッ!」
火花が散る鍔迫り合いを、力で終わらせたのはイングラムだった。
槍を振り上げ、そのまま稲妻を纏った連続突きへと変化させる。右手の掌に流し込むマナが軋み、紫電が牙を剥いた。突き抜ける雷鳴と共に、穂先は女の喉元を穿たんと迫る。
「っ……!」
一瞬、狐の面の奥から震える吐息が漏れる。だが彼女は身を翻し、宙返りと同時に両腕を掲げた。紫と蒼の光が螺旋を描き、槍先へと吸い込まれてゆく。空気そのものが震え、肺の中に痛みを伴う圧力が走った。
「雷分槍──破水撃ッ!」
刹那。紫電が分裂し、三本の槍となって襲いかかる。
それはイングラムの連撃を正面から叩き潰し、さらに圧縮された水の奔流がレーザーとなって地を抉った。石畳が悲鳴を上げ、削られた地面から土煙と火花が同時に弾ける。
三方から迫る死の光線。
イングラムは身体を浮かせ、骨が軋むほど捻って辛うじて回避する。だが、頬を掠めた衝撃が熱を残し、鮮血が線を描いて滴った。
「……っ、これは……!」
腕で血を拭いながら、彼は足元の大地を見下ろす。削られた穴は底が見えぬほど深く、風が唸り声を上げて吹き上がっていた。
「余所見は──厳禁だよッ!」
突撃してきたのは、同じ槍を持つ少女。火花が弾け、銀糸の髪が仮面の奥で揺れる。その瞬間、イングラムの胸奥に、説明のつかぬ“懐かしさ”が走った。
「———!」
わずかな戸惑い。その隙を、少女は逃さない。
獲物を狩る獣のように、正確無比で、速すぎる突きが迫る。だがイングラムもまた雷鳴の如き速さで反応し、神がかり的な軌跡でそれを弾き返した。
「紫電纏いッ!」
刹那、イングラムの槍全体を紫の雷が覆う。閃光が網膜を焼き、耳鳴りが残響する。少女は笑うように鍔迫り合いを外し、ひと息分の距離をとった。
「面白くなってきたぁ!」
仮面の奥から洩れる声には、確かな笑みが含まれていた。血を分け合うかのように、この戦いそのものを楽しむ笑い。イングラムは困惑し、胸をざわめかせる。
「なら──私もッ!」
ザンッ。槍が大地を裂く音が夜気に響く。
右腕に紫電、左腕に深水。叩き合わせた瞬間、青と紫の奔流が彼女の全身を駆け巡り、血管を走る血液のように脈打った。
純白の衣が舞い、白い脚が閃光を反射する。
銀の髪が流れ、狐面は揺れる焔のように冷たく光を隠していた。
「はぁっ!」
「むっ……!」
青と紫の粒子が、爆ぜては消え、爆ぜては消える。そのたびに彼女の速度は跳ね上がり、槍の一撃一撃が重みを増す。イングラムの腕に伝わる衝撃は、次第に骨を砕かんばかりの鈍重さへと変貌していった。
「……くっ、拉致があかん!」
イングラムは後退しながら全てを受け流し、槍を持ち替えてマナを注ぎ込む。雷が奔り、胸骨を震わせる衝撃が走った。
「来るか……!」
少女が攻撃を止めた。理解したのだ。今の一撃は必殺。
彼女は空へと舞い上がり、弓を引くように身を反らす。
「おおおおおおおお!!!!」
「全身全霊……見せてもらうぞ!」
イングラムの咆哮と共に、大地から雷鳴が奔る。空気が裂け、風が切れ、天地を貫く紫電が少女を撃たんと迫る。
(……凄い! これが、彼の“力”……! でも負けられない!)
少女は槍を握り締め、肺を灼くほどの息を吐いた。華奢な体躯からは想像できぬ力で槍を投げ放つ。
「はぁぁぁぁぁぁ!!!」
蒼と紫の波紋を纏った投槍が、空を裂き大地を震わせる。二つの槍は空と地の中間で激突した。
──轟音。
──閃光。
──衝撃。
雷と雷がぶつかり合い、天地を震わす爆音が耳を裂いた。鼓膜が破れんばかりの音圧が街を揺らし、二人の身体を容赦なく吹き飛ばした。
「ぐぅっ!」
「きゃあっ!」
イングラムは壁に叩きつけられ、少女も建物に激突する。粉塵が舞い、焦げた匂いが鼻腔を刺した。
「……ってて……」
よろめきながら立ち上がった少女は、服についた塵をはたき落とすと、イングラムのもとへ駆け寄った。狐面の奥から覗く瞳が、彼の顔を覗き込んでいた。
「くっ……」
「だ、大丈夫ですか!? す、すみません……つい、力が入りすぎちゃって……」
少女は慌てて謝罪の言葉を口にし、イングラムへと手を差し伸べる。震える指先からは、まだ戦いの余韻で微かに熱が伝わっていた。
「……なぜ助ける? 君にとって俺は敵ではないのか?」
イングラムの問いに、少女は狐面の奥で目を細め、必死に首を横に振った。
「まさか。イングラムさんは敵じゃないです。殺すつもりなんて、最初から……よいしょっと———うわぁ!?」
彼女が腕を引いて立たせようとした瞬間、逆に自分が尻餅をついた。布が擦れる音、地面に響く鈍い衝撃。脚が思わず大きく開いてしまったことに気づかぬまま、少女は顔を真っ赤にして「いっててぇ……」と呟いた。
「……ありがとう。それで、君の名前は?」
普通の男なら狼狽える場面だった。だがイングラムの眼差しは揺れず、頬も赤らまない。ただ真摯に問いを重ねる。
「名前、ですか? それは……言えません」
「なぜだ?」
「言えないから、です!」
頑なな声色に、彼女の奥にある影をイングラムは感じ取った。深くは追わず、話題を変える。
「君の技……アデルの直伝か? だが空から技名を叫ぶのは失点だ。敵に気づかれ、逆に不意を突かれるぞ」
「あぅ……やっぱり、ですか……。ゲームだと、みんな“討ち取ったり!”って叫んでるのに……」
(……意外と、抜けてる子だな)
アデルとの関係は否定されなかった。少女の「やっぱり」という一言が、それを裏付ける。
「そのゲームとやら、どんなものだ?」
「……無駄ですよ。聞き出そうとしても」
肩をすくめ、口元に小さな笑みを浮かべる少女。
「ちっ、そう簡単にはいかんか」
「ふふん、同じ手では通じませんよ」
イングラムの視線が狐面を捉える。彼女は先ほど「先生」と呼んだ。ならば、その顔を一度は拝まねばならない。そう思い、彼は虚を突く。
「おい、あれを見ろ。UFOだ」
「えっ、どこ!? どこどこ!!」
目を輝かせて振り返る少女。だが、すぐに嘘だと気づき、むっと仮面の下から睨み返す。その隙を突いて、イングラムの手が狐面に伸びた。
「むっ!」
ギロリと仮面の奥で光る瞳。
瞬間、彼女はイングラムの腕を掴み、身体を密着させ、体重を乗せて投げ飛ばした。
「ぐぉっ……!」
「ふふ、引っかかると思いました?」
少女は再び手を差し伸べる。イングラムはその手を取り、立ち上がった。
「今のは……CQCか」
「基本的な護身術ですよ。……さて、そろそろ時間かな」
言葉と同時に、イングラムの頬をかすめる風。ヒリつくような切れ味が皮膚を裂き、赤い筋が流れた。
「この気配……! 知り合いか……?」
風の吹いた方向に視線を移す。何もなかったはずの場所に、人の気配が濃密に立ち上る。白い狐の面、黒い外套。
「———刃風」
冷ややかで凛とした声が響き、腰元の鞘から剣が抜かれる。次の瞬間、緑の三日月の刃が唸りを上げ、二人の間を割いた。
(今の女……風のマナを!)
イングラムが着地した時には、すでに少女の隣にもう一人の狐面の女が立っていた。
「大丈夫?」
氷のように透き通った声。少女は小さく頷いた。
「うん、ありがとう。そっちは?」
「もちろん。片付けたわ。……でも、遊んでいたのね?」
「まぁね。知りたかったから……彼の実力を」
「次は気をつけて。……さあ、行くわよ」
「そうはさせん!」
イングラムが槍を構え、踏み込んだその瞬間。
———轟、と大地が燃えた。
視界を塞ぐほどの炎の壁が立ち上がり、焼け焦げる臭いが鼻を突く。
「———なにっ!?」
「イングラムさん。少しでも会話ができて、よかったです。……さようなら」
炎越しに響いたのは、先ほどの少女の穏やかな声。イングラムが壁を飛び越えた時には、もう二人の姿は消えていた。
「彼女たちは、一体———」
残るのは焦げた匂いと、風に舞う灰だけだった。