第147話「灼熱帝国スフィリア」
しばらく進むと、熱気とざわめきが渦巻く市街地へ辿り着いた。
焼けた石畳から立ち昇る熱気が足元を撫で、香辛料と汗の混じった匂いが鼻を刺す。あちこちから歓声や怒号が飛び交い、武闘会を待つ人々の興奮が空気を震わせていた。
「……あれは、観戦用のコロッセウムか。なるほど、闘技場形式らしいな」
「近くにエントリー会場があるはずだ。探してみよう」
イングラムとアデルバートが目を走らせると、人波の向こうに「エントリー会場」と書かれた看板を額に貼りつけ、両腕でY字を作って突っ立つ男の姿が見えた。
「見つけた! 行こう!」
「わーい! 会場! 会場ー!」
リルルが弾むように駆け出した、その瞬間――
ドンッ!
「きゃっ!」
小さな体がぶつかり、砂煙を上げて尻もちをついた。
「リルル!」
イングラムが駆け寄り、手を取って抱き起こす。彼の視線の先には、黒い外套で全身を覆い、狐の面をつけた人物が立っていた。面越しに感情は読めない。
「すみません、お怪我はありませんか」
イングラムの声に、人物は無言で小さく頷く。
「騎士様! 私のことも心配してよぉ!」
「こら、その前に謝るんだ。ごめんなさいを」
少しむっとした顔で、リルルは唇を噛みしめ、それでも絞り出すように声を出した。
「……ごめんなさい、狐さん」
すると狐面の人物はしゃがみ込み、彼女の髪を優しく撫でた。仮面越しの視線は読み取れないのに、不思議と「気をつけるんだよ」と諭すような温もりが伝わる。胸の奥がきゅっと締め付けられるような優しさだった。
やがて人物は立ち上がり、小さく会釈すると、人混みに紛れて姿を消した。
「……ふぅ。優しい人でよかった。リルル、もう勝手に走り回らないようにな。怪我したら危ないから」
「……うん。ごめんなさい」
セリアが血相を変えて駆け寄り、リルルの体を抱くように撫で回す。
「リルル様! 本当に大丈夫ですか!?」
「うん……ありがとう、セリアお姉ちゃん」
そこへ、アデルバートが険しい表情で歩み寄った。
「まったく、知らない場所ではしゃぐからだ。他人に迷惑をかけるな」
その冷たさに、リルルの瞳が揺れ、大粒の涙がにじんだ。
「……あぅ……騎士様……心が、ぐわんぐわんする……」
「アデル! 言いすぎだ。まだ子供なんだぞ」
イングラムが低く諫める。しかしアデルバートは鋭い視線で胸ぐらを掴み上げた。
「俺たちの旅は命懸けだ! 敵の刃がいつ飛んでくるかもわからねえ状況で、甘やかしてどうする! ピクニックに来たんじゃねえんだ!」
熱と怒気が混じった息が顔にかかる。イングラムは言い返そうとしたが、胸を突かれるような言葉に喉が塞がる。
「リルルには得体の知れない何かがある。お前も感じてるはずだ。……その時、お前はリルルに槍を向けられるのか?」
イングラムの指先が震える。胸ぐらを掴む力が緩み、言葉を失う。
「できねぇなら――俺がやる」
突き放すように胸ぐらを離し、アデルバートは背を向けた。その目は鋼のように冷たく、受付会場へと歩みを進めていく。
イングラムは衣服を正し、泣きじゃくるリルルに目を落とした。
「……騎士様……蒼髪様の言ってること、きっと正しいんだと思う」
「リルル……」
「私……時々、私じゃなくなるの。知らない“なにか”が私になって……みんなを傷つける化け物になっちゃうかもしれない。その時は――」
「言うな!」
イングラムは彼女を強く抱き締めた。
「大丈夫だ。必ずどうにかする。君の中の怪物も、この世界のことも」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
リルルの小さな肩が震え、涙がイングラムの胸を濡らす。
「大丈夫だよ、リルル」
ソフィアが寄り添い、彼女の頭を撫でる。優しい指先の感触が、張り詰めていた心を少しずつ解いていく。
イングラムはソフィアの瞳をまっすぐ見つめ、力強く頷いた。そして、彼は静かに立ち上がり、前を向いた。
イングラムはレベッカを背負い直し、ソフィアと目を合わせた。
「ソフィア、俺と一緒にレベッカさんを治療できる場所までついてきてくれ。今は……アデルとこの子を近くに置くのは危険だから」
ソフィアは一瞬だけアデルバートの背を見て、静かに頷いた。
「……わかった。アデルにはセリアとクレイラ、それにベルフェルクに付いてもらおう」
イングラムはクレイラに歩み寄る。
「クレイラ、俺はソフィアとレベッカさんを運ぶ。交代してくれ」
「オッケー、任せなさい」
力強く頷いた彼女がレベッカを預け、イングラムの背がさらに重くなる。
「ベルフェルク、アデルの方は頼んだ」
「オッケー牧場ぅ〜!」
ベルフェルクはふざけた調子で手で丸を作り、そのままアデルバートの背を追って走っていった。
「アデルく〜ん待ってくだせぇぇ!」
「……はぁ、やれやれだわ」
クレイラもため息をつき、呆れながら後を追う。
取り残されたセリアは、その場に立ち尽くしていた。
「セリアさん?」
イングラムが声をかけると、彼女は静かに頷き、こちらに歩み寄ってきた。
「私は……お二人の言葉、どちらも理解できます。だから誰も責めません。今は、リルル様とレベッカ様を治療しましょう。私もご一緒します」
セリアはリルルの隣に腰を下ろし、そっと頭を撫でる。
「リルル様。アデル様は……口では厳しいことをおっしゃいますが、本心では必ず貴女を助けたいと思っているはずです」
「……ほんと?」
涙で濡れた瞳がセリアを見上げる。
「はい、本当です。ずっとそばで見てきた私が言うのですから」
柔らかく微笑むその顔は、まるで天使のようだった。
リルルはまだ意味を理解しきれなくても、「セリアは嘘をついていない」ということだけは信じられた。
「それ、ツンデレってやつでしょ?剣士様が言ってた!」
小さな胸を張って叫ぶリルル。
「つん……でれ?」
セリアは首を傾げ、不思議そうに呟く。
「……あいつ、いったい何を教えてやがるんだ……再会したら説教だな」
イングラムは小さく唸り、肩を震わせた。無意識に力が入った身体から、バチッと紫電が地面を這い走る。
「では、医務室を探しましょう。容体を確かめねばなりません」
セリアの提案に、三人は頷き合い、街の奥へと歩みを進めた。
◇◇◇
その頃、受付会場。
「……はい、こちら受付会場……」
カウンターの向こうに座る受付嬢は震えていた。彼女の目の前には、鬼のような形相で睨みつけるアデルバートの姿。
「受付に来た者だが」
低い声が響く。
「ひぃっ!?」
女は思わず尻餅をつき、奥歯をガチガチと鳴らす。
(……やっぱり言いすぎたことを後悔してる、素直じゃないなあ、アデルは)
「はいストップストップ! お姉さん、この蒼い髪のお兄さんがエントリーしたいそうで〜す。まだ間に合います?」
横からベルフェルクが割り込んで笑顔を振りまいた。だが受付嬢の震えは止まらない。
「おいっ! 大丈夫か! あんた、うちのバイトに何した!」
奥から現れたのは三メートル近い巨漢。筋骨隆々の腕を組み、睨み返してきた。
「あぁ? エントリーしたいって言っただけだ。俺は何もしてねぇ」
「……お前も俺と同じか」
「あ?」
(なるほど、顔で怖がられ慣れてるタイプね……ご愁傷様ぁ)
ベルフェルクがひそひそ呟く。
巨漢はカウンターに分厚い紙を置いた。
「ほら、エントリー用紙だ。ここに指紋印を押せ。名前はハンドルネームで構わん。個人情報は守らねぇといけねぇからな」
A4用紙が差し出され、重みのあるペンが手に渡る。
アデルバートは迷いもなく紙面に視線を落とし、ペン先を走らせた。ざらついた紙を滑るインクの音が、受付会場のざわめきの中でやけに鮮やかに響く。
名前欄に最後の一筆を置き、力強く書き上げる。
「……蒼い黒マスク、はい。エントリー完了だ」
上司の男は用紙を受け取り、確認して頷いた。
「よし、これで登録だな。ほら、開催時刻と日時が記されたパンフレットだ。電子媒体にも送っとく。失くす心配はねえ」
「……あぁ、恩にきる」
アデルバートは軽く顎を引き、振り返って怯える受付嬢に声を掛けた。
「おい、姉ちゃん」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
「ビビらせて悪かったな。……ほら、詫びだ」
ポケットから無造作にコインを取り出し、ひょいと放る。
ジャリ、と地に散らばるのではなく、まるで刃のように縦に突き刺さり、ジュッと焦げるような音を立てて石床に食い込んだ。
「ひぃっ……!あ、ありがとうございますぅ!」
青ざめながらも礼を言う受付嬢に背を向け、アデルバートは無骨に告げる。
「行くぞ。宿を探す」
その後ろ姿に声が飛ぶ。
「おい、待て。そこの嬢ちゃんとあんちゃんはどうする?」
ベルフェルクはひらひらと手を振り、能天気な笑顔を見せた。
「僕ぁ戦闘タイプじゃないんで〜観戦に回りますぅ!」
クレイラも苦笑しながら肩をすくめる。
「私も今回はいいかな。ここ最近出張りすぎたし」
ふたりはそう告げて、結局はアデルの背を追った。
「はぁ……おいバイト、立てるか?」
「ひゃい……ごめんなさい……」
「謝んなって」
上司はバイトの手を取り、埃を払ってやる。その瞬間、カウンターを指先で「コン、コン」と叩く音がした。
黒衣をまとった人物が立っていた。顔は見えず、ただ静かに頷く。
「……あんたもエントリーか?」
返答代わりに差し出された手はペンを受け取り、流れるような筆致で用紙を埋めた。驚くほど速い。
「お、おう……随分書くのが速いな。ほら、パンフレットだ」
黒衣の人物は受け取ると無言で会釈し、人混みに消えていった。
「ったく、今日は変わり者が多いな」
上司がぼやく。
と、その時。
「こんにちはぁ!」
次に現れたのは、白衣に身を包み、黒い狐の面を被った女性だった。声は震え、緊張が滲む。
「大会参加者じゃないんですけど……パンフレット、いただけますか?」
「パンフレットなら観戦チケットの特典で付いてるが……」
「あら、そうなんですか?
それは失礼しました」
踵を返そうとした彼女を上司が手で制した。
「まあ待て。……もう参加者も途切れただろうし、いいぜ。ほら」
「わぁ、ついでにお姉ちゃんの分も、お願いします!」
「……しゃーねえな。ほれ」
女性は深々と頭を下げ、軽やかな足取りで駆けていった。
「まったく……衣で身を包むのが流行ってんのか?バーゲンセールかよ」
腕を組んで天を仰いだ上司は、不意に時計を見て舌打ちした。
「ってもう昼じゃねえか!バイト、飯にすっぞ!」
「はい上司!行きましょう!」
がやがやと喧騒に戻る受付。
だがその裏で、黒衣の参加者たちが残した余韻は、不穏な影のようにじわじわと会場に漂っていた。