第145話「何度目かの空の旅」
結局、レベッカは最後まで目を覚まさなかった。
セリアが診たところ「呪いにでもかかっているかのように深い眠り」で、しばらくは無理だろうと。
――だからこそ、一行は眠る仲間を抱えたまま、空へと飛び立った。
ベルフェルクお得意の護獣。
陽光を浴びて金緑に輝く羽毛を広げる、巨大なケツァルコアトルス――通称「ケツくん」。
大気を裂くような羽ばたきとともに、風が頬を鋭く打ち、胸の奥まで冷たい空気が流れ込んでくる。
地上がみるみる遠ざかり、足元には白く霞む森が広がっていた。
「え〜、皆さま! 本日はケツくんにご搭乗いただき誠にありがとございま〜すぅ!」
ベルフェルクが両手を広げて大声を張り上げる。
「目的地は灼熱の帝国スフィリア! 所要時間はおよそ一時間! ただしぃ〜……私と仲間が乗ると必ず落下するというジンクスがございましてぇ〜、あしからずぅ!」
「……自覚してたのか」
イングラムの低い突っ込みに、ベルフェルクは「いぇあ」とサムズアップ。
その軽薄さが逆に恐ろしく、胸の奥がざわめいた。
リルルを膝に抱き寄せるイングラムの手は、思わず強くなる。隣ではソフィアも唇を結び、ちらりと不安げに見上げていた。
アデルバートは迷いなくセリアの手を掴み、力強く言った。
「絶対に離すなよ」
その声音は命綱よりも確かで、セリアの胸に響く。二人は腰に縄を結び合い、まるで互いを命そのものに縛り付けるようだった。
クレイラは後方で眠るレベッカが落ちないよう、布を巻き付けて必死に固定している。
「ん〜……信頼のなさ、ありがとうございますぅ〜」
ベルフェルクが飄々と笑うが、その一言さえ神経を逆撫でする。
「落ちないようにできねぇのか?」
アデルバートの声は低く響き、胸の奥まで震える。
「そ、それは不可能でさぁ。地上から不意を突かれたら誰だって防げませんでしょ〜? ケツくんに迎撃機能なんてございませんのぉ」
「なるほどな。じゃあ迎撃できる奴がいればいいわけだ」
「ふぇ? ど、どうするおつもりで?」
アデルバートは不敵に口角を上げ、命綱を片手にふわりと身を宙へ躍らせた。
ケツくんの腹にマナの膜を張り、自身の足裏にもマナを流し込む。――粘着質のように足が吸い付いた。
逆さまにぶら下がり、腕を組んで悠然と地上を見下ろす。
「ほう……逆さの景色も悪くねぇな」
底知れぬ胆力に、背筋がひやりと冷たくなる。怖いはずなのに、どこか頼もしさすら覚えてしまう。
「ア、アデル様! 本当に大丈夫ですか!?」
「心配すんな。セリアが握ってる限り、俺は絶対に落ちねぇよ」
熱を帯びた言葉が、セリアの胸を突き抜けた。
――自分を信じてくれている。なら、私も応えたい。
「……わかりました。しっかり握っておきます!」
小さな手に込める力が強くなる。冷たい風にかじかむ指先なのに、アデルバートの体温が確かに伝わってきた。
それが勇気になった。
「ずっと握ってると疲れるだろ。クレイラと代わってもいい」
「なんで私!?」
「お前が一番暇そうだからな」
「えぇ!? 人使い荒いなぁもう!」
「クレイラ様、もしもの時は……お願いします」
セリアが振り返って告げると、クレイラは思わず目を丸くし、それからふっと笑った。
「……任せて」
朝の青空に舞う一行の心臓は、恐怖と信頼を織り交ぜながら同じ鼓動を刻んでいた。
セリアはクレイラに、謝罪とお願いの両方を込めて声をかけた。
「……まあ、ここにいるみんなを落とすつもりは毛頭ないけどね」
(最初の時は、何もしなかった気がするんだがな……)
イングラムがそう胸の内で呟いた瞬間――
「イングラムくん? 余計なこと考えてませんかぁ?」
クレイラの声音が低く沈み、胸の奥に直接響いた。ぞわりと背筋が冷える。心臓がひとつ大きく跳ね、手のひらにじっとり汗が滲む。
(……な、なんで……俺の頭の中を……?)
まるで自分の思考を盗み見られたようで、イングラムは彼女がひどく恐ろしく思えてきた。
「イングラム、大丈夫? 顔色悪いけど」
すかさず隣から声が飛ぶ。振り向けば、心配そうに覗き込むソフィアの瞳。
「……いや、平気だよ。ありがとう」
その真っ直ぐな眼差しに、不安がほんの少し溶けていく。幼馴染である彼女が近くにいるという安心感は、何よりも心強かった。自然と頬が緩み、笑みが零れる。
「ふふ、よかった。……膝が疲れたら教えてね? リルルちゃんを代わりに抱いてあげるから」
「もしもの時は頼む」
「けっこーです!!!!!」
ほんわかした空気をぶち壊すように、リルルが叫んだ。 声は子供らしく甲高いのに、その裏に滲むのは――確かに嫉妬。
(……やっぱり、そういうことか)
イングラムは苦笑を浮かべる。
「リルル、わがまま言うな。俺だって疲れる時があるんだ」
「じゃあ私が疲れないように座る! それでいいでしょ!」
達者すぎる口調に、一瞬言葉を失う。
(……俺に似たのか、それともルークに影響されたのか……。でも、この年頃の“少女らしさ”が失われていってる気がして……少し心配だ)
イングラムは溜息をつき、リルルを覗き込むようにして言った。
「よしリルル、じゃんけんだ。俺が勝ったらソフィアと交代だ」
「じゃあ私が勝ったら、今朝してくれなかった“馬の骨”の前で、ほっぺに濃厚なチューしてくれる?」
「…………」
一瞬、時が止まった。 額に冷や汗。頭の中に――天使と悪魔が現れる。
〈いいじゃないか、チューくらい減るもんじゃないし。……いや、メンタルは減るけど〉
〈惑わされるな! お前はソフィアと一度濃厚なキスをしただろ!? 覚えてない? あれはお前がもっと幼かった頃だ。ソフィアは、ちゃんと覚えていたんだぞ〉
「……お前も悪魔側かよ」
逃げられない。言い出しっぺが「やっぱなし」とは言えない。 イングラムは重苦しく首を縦に振った。
「えへへ、じゃあ指切りね!」 「えっ」 「指切りしないなら、じゃんけんしない。ずーっと騎士様のお膝の上で日向ぼっこするもん!」
自分で教えた遊びに縛られるとは……。胸中で自分に喝を入れつつ、渋々指切りをする。小さな指の温もりが妙に真剣で、イングラムの鼓動が速まった。
「じゃあ行くわよ。最初はグー――」
ソフィアが手を上げると同時に、イングラムの額から冷たい汗がつっと落ち、ケツくんの背中に染みを作った。
(ここで負けたら元騎士の名折れだ……!)
強く目を開け、リルルを見据える。覚悟を決めた、その時――
彼女の背後に、不気味な蛸のような影が揺らめいた。半透明の触手が蠢き、空気がねっとりと重くなる。
(……何だ? ハスターか? いや、クトゥルフ……?)
「はい! 勝ちー!」
リルルの勝ち声で、イングラムの心臓が落ちる。 背後の影は、落胆したように沈み、霧のように消えた。
「リルル、もう一度勝負だ!」 「二本勝負なんて、最初に言ってないよ?」
「…………」
悔しさが血潮のように全身を駆け巡る。あの影のせいだ、あれさえなければ……。
「イングラム、ずっとリルルちゃんの後ろを見てたけど……何かいたの?」
「蛸がいた」
「蛸?」
「あぁ、触手を生やした黒と緑の気色悪い奴が! あいつのせいで勝負も台無しだ!」
震える声で吐き出すイングラム。
「許さんぞ、クトゥルフ……必ず後悔させてやる」
「……クトゥルフって、なに?」
首を傾げるソフィアの瞳には、純粋な不安が宿っていた。
イングラムはきゅっと拳を握る。
「君、操られてたんだろ? ……だからてっきり」
「私を操ってたのは“人間の影”。その後ろに、変なウニョウニョしたやつはいたけど……蛸っぽいのはいなかった」
ソフィアは眉を寄せながら、記憶を辿るように言った。
「……なるほど。ということは……レオンさんは、さらにその先へ進んでいる」
「え? た、多分?」
確証はない。けれど、彼なら必ず進んでいる。イングラムはそう信じ、強く前を向いた。
――一方その頃。
「アデル〜、そろそろ交代する?」
レベッカの命綱を握りながら、クレイラが下を覗き込む。
「いや、まだいける。……意外と心地いいもんだ、逆さ風」
逆さまにぶら下がり、風を切るアデルバートは余裕の笑みを見せている。
「アデル、国境が近いよ。コールドスープ飲んだ方がいい」
「……そうだな。よしセリア、クレイラと交代だ」
「はいっ!」
素早く位置を入れ替えるセリア。交代直後、アデルが彼女の手を見て眉を寄せた。
「……赤くなってるじゃねぇか」
腰から薬を取り出し、そっと塗り広げる。冷たい感触と同時に、彼の指の温かさが染みてきて――セリアは一瞬くすぐったそうに肩を揺らし、頬を赤らめて俯いた。
「ありがとうございます、アデル様」
「おう、どういたしまして」
その横で――
「うわぁぁぁぁ目も開けらんない! 風で髪が全部持ってかれるんだけど!」
クレイラの銀髪がバッサバサに舞い、まるで銀色の貞子。
「ねぇアデル、どうしてあんたの髪は普通なの?」
「水のマナで膜を張った。ナノレベルの薄いやつで風の抵抗を減らしてる。……地上と同じ感覚だ」
「……もっと早く教えて欲しかったんだけど!」
「言わなくてもやると思ってな。それに聞かなかったお前が悪い」
「…………」
クレイラの中でふつふつと怒りが再燃する。
(レオンに会ったら真っ先にチクってやるからな、この人の名前を!)
「クレイラ様、あとで髪の毛治しを塗りますから、今だけ耐えてください」
「うん、ありがとう。セリアは優しいね」
扇風機に顔を突っ込んだみたいに風で叩かれる銀髪を抑えながら、クレイラは必死に耐え続けた。
「……レベッカさん、起きてください。そろそろ到着しますよ〜?」
ルシウスが肩を揺すっても、レベッカはぴくりとも動かない。
深いため息が吐き出される。
「……ほんと、大物だな」
そんな光景を遠くから眺め、イングラムは口元を緩めた。
「ふふ、賑やかでいいことだ」
その直後。
「ケツくんの速度ぇ〜、加速しますぅ! 皆様ご注意をばぁ!」
ベルフェルクの間延びした声と同時に、ケツくんは翼を大きく打ち振るった。
電車並みの速度が、新幹線並みに跳ね上がる。
風圧は刃となり、頬を裂くような痛みすら覚える。
息を吸うことすら困難で、目を開けていられない。
「き〜し〜さ〜ま〜っ! 濃厚であっつあっつのチューは、いつぅ〜!? 約束破るのぉ〜!?」
リルルの叫びも、風に掻き消される。
「あー? なに? 風が酷くてなぁ? 全然聞こえねぇわ!」
イングラムも必死に声を張るが、言葉は空に散った。
渦巻きに似た機能が半減し、まともに会話できるのはクレイラだけだった。
そして彼女の電子媒体が、カーナビのような機械音声を響かせる。
〈ここから先は、呂律の回らない主人ベルフェルクに代わりまして、私がご案内します。間もなく目的地周辺です。運転お疲れ様でした。……コールドスープの服用、または体温の低下を推奨します〉
「怖っ!」
全員が青ざめつつ、慌ててコールドスープを口に含む。冷たさが喉を滑り落ちるより早く、灼熱の風が体を焼き焦がしてきた。
やがて速度が落ち、視界が開ける。
眼下に広がるのは――太古に築かれたとされる、幾千ものピラミッド群。
砂漠の海に浮かぶ石の巨塔。その中央、一際巨大なピラミッドが陽光を浴びて輝いていた。
「えー、皆さまご搭乗お疲れさまでしたぁ! ここが灼熱の帝国スフィリアでございますぅ! さぁ、着陸しま――」
ベルフェルクの言葉が終わるより早く。
――閃光。
中央のピラミッド頂点が閃き、光が一直線に伸びた。
レーザーの奔流は雷鳴より速く、逃げ場はない。
「――ッ!!」
ケツくんの翼に直撃。
眩い閃光と共に、世界が白に塗り潰された。
次の瞬間――支えを失った全員の体が、宙へと放り出される。
「やっぱりこうなるんですかぁぁぁぁ!!!」
ベルフェルクの絶叫が木霊する。
地上までおよそ五百メートル。
風を裂く耳鳴り、胃が浮き上がる感覚。
叫ぶ暇さえ奪う、自由落下――。
一行は、灼熱の帝国スフィリアを目前にして、空から叩き落とされていった。