第143話「問答」
「――と、長くなったけど。アデルくんから聞いた話は、ひとまずこれくらいかな」
ルシウスは深く息を吐き、木の幹に背を預けて腰を下ろした。語りの余韻がまだ辺りに残っていて、森の湿った空気と重なり、妙な静けさが広がっている。
「ふぅん……。じゃあさ、スアーガでダンボール被って移動してたのは、どうして?」
クレイラが目を細めて尋ねる。
「あ? あれは依頼だ。宿代を稼ぐ必要があってな」
さらりと答えるアデルバート。どうやら彼らが追っていた男は、その依頼の標的だったらしい。
「……ごめんなさい」
クレイラは小さく謝罪の声を漏らした。だがアデルバートは顔をしかめて首を振る。
「ふん、もう過ぎたことだ。今さら掘り返す話でもねぇ。結局お前がチワワになって倒れたとこを俺が引き渡した。それで帳尻は合ってんだ。――ほらよっ」
じゃらり、と金貨の袋が宙を舞ってクレイラの足元に落ちる。光を反射した金の輝きが、森の薄暗さに妙に映えた。
「手伝い料だ。レオンと好きなもん食え」
「……ありがとう、アデル。意外と優しいんだね」
「優しい? 馬鹿言うな。働いた分を分けるのは当たり前だろうが」
「じゃあ、そういうことにしとくよ」
「見透かしたような口を……まあいい」
ふん、と鼻を鳴らし、アデルバートは腕を組んで腰を下ろす。
そして――鋭い眼で問いを放った。
「で? 狭霧の森では何があった」
森の奥から漂う霧が、静かに揺れた。クレイラは息を詰める。
「……信じられないかもしれないけど。私たち、ハーメルンの笛吹き男に襲われたの。イングラムとソフィアは子供にされて……その時、安倍晴明に助けられたの」
「ほう。サン=ジェルマンが言っていた陰陽師が、か」
アデルバートの目が細まる。
「運が良かったな」
「うん……。あの人たちは都市伝説から現れた悪しき存在を封じるために、各地を飛び回ってるんだって。本当にすごいよ」
「……狭霧の森を抜けるところを、見たのか?」
感嘆する素振りの裏で、アデルバートは矢継ぎ早に質問を浴びせる。クレイラの脳裏には、確かに狐に跨り空を翔ける晴明の姿が蘇る。
「……見た」
「ふむ、なら――いい手がある。そいつを利用する。そうすりゃ一気にスフィリアまで移動できる」
「待って! 命の恩人を“移動手段”にするなんて、私には出来ない!」
クレイラは慌てて制止した。しかし、アデルバートは首を振り、冷たい光を宿す目で言い放つ。
「違ぇよ、クレイラ。俺たちには時間がない。ルークの居場所も掴まなきゃならねぇ。武闘会まで残りは僅かだ。……それともお前は、何も知らないままレオンの手がかりを探すつもりか?」
「……っ」
正論。だからこそ胸に刺さる。
クレイラは唇を噛みしめ、言葉を返せなかった。
「……晴明から、何か受け取ってないか?」
鋭い視線が突き刺さる。鼻の利きすぎる男だ。少なくとも、レオンの語っていた“冷徹で寡黙なだけの男”とはまるで違う。クールでありながら、今の彼からは焦燥が滲んでいた。
「……名刺なら、もらった」
「よし、それを出せ。呼べるなら今すぐ呼ぶ」
「待ってよ、アデルくん!」
緊張が膨れ上がった瞬間、ルシウスが両手を広げて間に入った。
「そんなに焦らなくてもいいじゃないか。イングラムくんとソフィアさんの様子を見てからでも遅くない」
「ダメだ。今すぐだ。あの陰陽師が遠くへ行ってしまう前に」
アデルバートは声を荒げ、クレイラに歩み寄る。土を踏む音が、無駄に速く響いた。
クレイラは後ずさる。残りの距離は、わずか数メートル。
掴み取るつもりだ――そう悟った瞬間、ルシウスが素早く割り込んだ。
「何を焦ってるんだい、アデルくん」
「どけ、ルシウス!」
アデルバートの声は低く唸る。
「今の状況の重さがわからねぇのはお前じゃねぇはずだ!」
「答えになってない。僕は“君が焦る理由”を聞いてるんだ」
「焦ってなんか……ねぇ! 俺はただ、一刻も早くあいつらを連れ戻したいだけだ!」
言い終えたその瞬間。
ルシウスの手が、アデルバートの肩をがっしり掴んだ。
「離せ」
「断る。……今の君は冷静さを欠いている。そんな状態じゃ、何をしでかすかわからない」
張り詰めた空気が、森の霧さえ濃くしていくようだった。
アデルバートは踵を返すや否や、ルシウスの胸ぐらをがしりと掴み上げた。
荒々しく布が引き絞られ、ルシウスの襟元が歪む。
「……こんなことしてる暇が惜しいって言ってんだよ!」
怒声が森に響き、木々の葉がざわめいた。
しかしルシウスは怯まず、静かに視線を合わせた。
「落ち着いて、アデルくん。ルークくんやレオンさんのことが不安なのはわかる。だけど、ここで僕たちが仲違いしてしまったら、彼らの努力を無駄にすることになる。ルークくんはなぜ殿を務めた? レオンさんはなぜ黙って去った? それを理解できない君じゃないだろ?」
その言葉は氷水のように冷たく、けれど確かにアデルバートの熱を鎮めていった。燃え盛る瞳の炎が、少しずつ収まっていくのをルシウスは見逃さなかった。
「ルークくんの生存は確認されているし、レオンさんの行方もソフィアさんが伝えてくれた。……彼らは弱くない。むしろ僕たちが思う以上に、強く生きている。だからこそ、彼らは僕たちを信じて託したんだ。ならば僕たちも信じるべきじゃないかな?」
「……ふん。わかったよ」
アデルバートは荒く吐息を漏らし、拳を解く。
「今日のところはお前に譲ってやる。ただし次は折れねぇぞ。今度は実力行使でいく」
「わかった。けど、その時は僕も手加減しないよ」
ルシウスは軽く笑ってみせた。
アデルバートは舌打ちし、木の幹に背を預けて目を閉じる。力を抜いた呼吸が眠りに落ちる合図のようだった。
クレイラは胸を撫で下ろし、安堵を吐く。
「……ありがとう、ルシウス。助かったよ」
「いえいえ。クレイラさんも疲れているでしょう? 無理をさせたくなかったんです」
彼は微笑みながら彼女の隣に腰を下ろし、茜色に染まりゆく夕空を仰いだ。
――そして、問いが落ちる。
「それで……いつ僕たちに、正体を明かしてくれるんです?」
「……っ、視たの?」
不意に張りつめる空気。クレイラの声が低く震える。
だがルシウスは、柔らかな笑みを崩さなかった。
「いいえ。ただ――話を聞く限り、イングラムくんやソフィアさんが子供に戻ったのに、あなたには変化がなかった。それは“あなたが人ではない”証明になっている。……自分で答えを出しているようなものだよ」
その観察眼に、クレイラはぞくりとした。だが、逃げ場はない。
「……まだ話せない。ルークを含めて皆の前で、改めて伝えたいんだ」
「それでいい。僕も急かすつもりはないし、これ以上覗こうとは思わない」
「君なら、こっそりやってそうだけど?」
「もしそうしていたら、僕はあの洞窟で死んでたさ。……君の感覚は鋭い。僕が秘密を覗こうとすれば、一瞬で見抜かれて命を奪われただろうからね」
彼は笑みを絶やさぬまま、冗談めかして言う。だが、その笑顔に潜む覚悟がクレイラの胸を打った。
「……私は、君たちを殺せないよ。傷つけられない」
「優しいですね。レオンさんによく似ている」
「……っ」
その名が胸を締め付ける。逢いたい――その想いが、痛みになって心を縛る。
「レオンさんも、どんな相手にも慈悲をもって接していました。襲われれば反撃はしたでしょうけど、自分から責めることはしなかった。……あなたがそうなのは、五年一緒にいたからでしょうね」
「うん。私に“個”をくれたのは、レオンだから」
「……やはり、素晴らしい人だ」
ルシウスが目を細める。
「事件が終わって、再会できたら――どうしたいですか?」
クレイラは空を仰ぐ。紫に染まりゆく天に、流星がひとつ、尾を引いて落ちていく。
「レオンと一緒に世界を回りたい。いろんな場所へ行って、たくさんの人に出会って……まだ見ぬ景色を、この目に焼きつけたい」
「いいですね。きっと叶います」
「それに……」
「……うん?」
クレイラは立ち上がり、数歩進んでから振り返った。夕焼けに染まる空を背に、頬を赤らめて笑う。
「レオンと……その、家庭を持ちたいな。なんて……」
純粋で、眩しい願い。
ルシウスは柔らかな笑みで応じる。
「素晴らしい。必ず叶いますよ。この旅が終われば」
「ふふ……そうだといいな」
紫の空に星々が灯り、夜の帳が降りてくる。
幾筋もの流星が、静かに大地を照らした。
「いつか……家族ができたらさ。みんな、見に来てくれるかな?」
「もちろんです。結婚式も、子供が生まれた時も……何度でも。必ず会いに行きます。約束します」
「うん……約束」
二人は流星群の下で誓いを交わす。
「……こんなにたくさんの流れ星、初めて見た。きっと願いは叶うね」
星明かりに照らされ、頬を染めたクレイラは、誰よりも美しく映えた。
ルシウスはそっと端末を構える。
「素敵な場面ですから、一枚……はい、チーズ」
クレイラは両手を背に組み、笑顔で照れ隠しをする。
その瞬間を切り取った写真は、一枚の絵画のように鮮烈だった。