第141話「九つの首持つ龍」
アデルバート・マクレインは、矢が着弾する直前に――己の死を悟った。
光の奔流は太陽そのもののごとく膨張し、視界を焼き尽くす。
肌は灼熱に焦がされ、鼓膜は破裂しそうな轟音に満たされる。
喉の奥が乾き、心臓は暴れ狂いながら「終わり」を告げていた。
どれほど策を巡らせても、もはや間に合わない。
古代の王の威光の前に、彼はただ立ち尽くし――無力なまま睨み返すしかできなかった。
だが、その刹那。
恐怖よりも強く、胸の奥にひとつの想いが芽吹いた。
――「レオンを、必ず助け出す」
遠く、世界のどこかで孤独に戦い続ける友の姿が脳裏に浮かぶ。
レオンはいつだって言っていた。
生きていれば、また会える。
戦うのは死ぬためじゃない。平和のためだけでもない。
――ただ「生きて」、再び仲間に会うために。
彼の声が、耳元で囁く。
「ここで諦めてどうする?」
まるで、死の淵に立つ自分を叱咤するかのように。
「……なんだ? 向こうの世界へ案内してくれるのか」
瞼を閉じると、暗黒の虚空に一条の光が差した。
そこに、レオンが立っていた。
穏やかな笑みを浮かべ、手を差し伸べて。
「いや……お前も、俺も、まだ死ぬには早い」
その声は深い水底のように静かで、それでいて雷鳴のように力強かった。
「ルシウスにも渡したが……今度はお前にも俺の力をやる。クフ王に、お前の実力を見せてやれ、アデル!」
「……はっ、上等だ!」
二人の拳がぶつかり合った瞬間――世界が震えた。
雷鳴のような衝撃と共に、レオンの身体が純白の光に包まれる。
その光は拳を伝ってアデルバートの全身を駆け巡り、古いマナを押し流し、新たな力へと塗り替えていく。
「これは……!」
熱く、重く、眩しいまでの生命の奔流。
骨の髄まで新しいマナが満ち、全身の細胞が歓喜に震えていた。
かつて感じたことのない力が、彼を突き上げる。
「おいっ、待てよ!」
遠ざかるレオンの背に呼びかける。
だが彼は振り返らず、拳を高く突き上げた。
「大丈夫だ。お前なら使いこなせるはずだ」
その声が天に轟くと同時に、光は奔流となってアデルバートを包み込む。
世界そのものが白に塗りつぶされ――轟音と共に、運命が書き換えられていくのを彼は確かに感じた。
迫りくる太陽の矢を――蒼白に輝く閃光が遮った。
矢が放つ灼熱の奔流は、水の奔流に呑まれ、強引にマナへと変換されていく。
空気は焼け爛れ、地を割る熱が風となって吹き荒れる。
「イングラムの見様見真似だ!」
アデルバートの叫びと共に、体の内側から青と白が混ざり合う奔流が噴き出した。
爪先から、頭頂から、尾骨から――全身を駆け巡るそれは、肉体を捨て去り、新たな形を構築する。
尾骶骨から伸びたのは、深海の水で圧縮された八つの竜首。
両手にはあらゆるものを断ち切る刃のごとき爪。
両足は一歩ごとに大地へ深い亀裂を刻み。
頭部には、古の書に記された神話の龍の貌が浮かび上がる。
やがて――九つの首を持つ巨龍が誕生した。
その影が大地を覆い、陽をも隠す。
蒼き龍は天を震わせる咆哮を上げ、溢れる水蒸気を取り込んで三日月状の蒼刃を吐き出した。
刃は閃光のように走り、クフ王の頬を掠める。
「よそ見すんなよ、クフ王」
吐息のごとく放たれた小さな水玉さえ、音速を超えて反対側の頬を斬り裂いた。
「……ほう」
クフ王は腕を組み、振り返る。
その瞳に映ったのは――海の守護神にふさわしい巨龍の姿だった。
八つの首と一つの頭が一斉に咆哮する。
すると、大地の裂け目から奔流が湧き出し、傷ついた地を癒していった。
焼け焦げた稲穂はみるみる再生し、亀裂を清らかな水が埋め、芽吹いた緑が黄金の穂を揺らす。
まるで時間そのものが逆行するかのように――世界は瞬時に甦った。
「奇跡……か。干からびた大地が、痩せこけた植物が……概念を越えて蘇るとは」
クフ王の低い声に、畏怖と興奮が入り混じる。
「この大地に命を繋いでもらったんだ。てめぇがぶっ壊した分、元に戻すのにちょっと手間取ったがな!」
龍の声が響き渡る。
「闇雲に田畑を荒らすんじゃねぇ、このツタン野郎!」
「ふむ……未だ口答えするか!」
クフ王は高らかに笑う。
「だがその力、その貌――神に比肩する。ならば余の太陽の力に、どれほど抗えるか見せてもらおう!」
天空に戦車が顕現する。
クフ王は白馬の戦車に飛び乗り、赤銅の弓を掲げた。
陽光を浴びたそれは次々と装甲を脱ぎ、白銀の輝きを纏う。
「巨体は機動を殺す! 蒼き龍よ、貴様の敗北だ!」
弦を引き絞る。
白銀の光を纏った矢が音速を超え、龍の額を貫いた。
衝撃が走り、九首のうち中央の頭が崩れ落ちる。
巨体が揺れ、轟音と共に大地に倒れ伏した。
「ふ……やはり大きさは過ちであったな」
勝ち誇る声が空に響く。
「さあ、謝罪の言を聞かせよ」
だが――龍の頭部は爆ぜ飛んだ。
残る八つの首が一斉に咆哮し、水圧の光線を吐き散らす。
閃光が大地を切り裂き、稲穂を薙ぎ、戦車の馬の首を一頭切断した。
「ほう……まだ抵抗するか!」
クフ王は手綱を切り、残る馬で強引に戦車を操る。
「ならば八つ、完膚なきまでに討ち滅ぼしてくれよう!」
白銀の弓が灼熱を帯び、ついに真なる姿を現す。
手にする王でさえ、腕を灼かれかねぬほどの熱。
その威力は――天地を焼き尽くす。
「死をもって余への無礼を贖え! 潔く散れ!」
弓が放たれんとした、その時。
空が――海に覆われた。
太陽を遮るほどの水の壁、世界を呑み込む津波が空全体を覆い尽くしたのだ。
光が奪われ、弓の力は弱まり、クフ王は驚愕に息を呑む。
そして――水が裂け、そこから現れたのは。
矢に貫かれ倒れたはずの中央の首。
「な、なぜだ……!? なぜ生きている……!」
地上からは残る首たちが一斉にマナを放ち、戦車を撃ち落とさんと狙いを定める。
避け続ける王の視線が、再び蒼き龍の巨大な首を捉えた。
雲を割り、天地を覆うほどの巨影。
その瞳に宿るのは、人のものではない。
――神に匹敵する、蒼き龍の眼差し。
「もし……この存在が人の世に現れていたなら……」
クフ王の胸に戦慄が走る。
「後世のファラオも、先代の栄光も……すべて海の藻屑と化していたであろう」
クフ王は――あり得ない未来を鮮明に思い描いてしまった。
蒼き龍が人の世に現れたなら、文明も王朝も、砂上の楼閣のごとく海の藻屑と消え去る。
「……ぬぅっ!」
その幻を振り払うように首を振り、大剣を抜き放つ。
戦車から飛び降り、巨龍へ斬りかかった――瞬間。
「ぐっ……!」
八つの首が無音のまま迫り、蛇のごとく巻きついた。
全身を締め上げる圧力に、肺が悲鳴を上げる。骨が軋み、呼吸すら奪われていく。
「いつのまに……!」
もがきながら太陽神の力を解き放とうとする。だが空は未だ分厚い水の膜に覆われ、光は奪われたまま。
発揮できる力は本来の十分の一にも満たない。
(……解けぬ! これはもはや“自然そのもの”か!)
呻く王の目の前で、龍は突如として液状化し、拘束を解いた。
思わぬ解放に一瞬、思考が空白になる。
――その刹那、中央の首が咆哮した。
蒼き波動が目に見えるほどの奔流となり、弾丸のように王の全身を貫く。
「ぐぉぉぉぉぉっ!!」
轟音と共に王は大地へ叩き落とされ、砂塵が天へ舞った。
必死に身を起こそうとするが、全身を杭で打ち込まれたように動けない。
砂塵が晴れた時――見えた。
八つの首が水を槍に変えて放ち、王の四肢を大地に縫い止めていたのだ。
そして中央の首が破裂し、その内部から蒼い光を纏ったアデルバートが姿を現す。
手には蒼光の剣。
ゆっくりと降り立ち、クフ王の喉元へと刃先を突きつけた。
「……てめぇの負けだ、ファラオ」
息を荒げながらも、眼差しは鋭い。
「加減したのが命取りだったな。これが戦場なら……お前は死んでたぜ」
「……っ!」
「だが――俺はお前を狙う暗殺者じゃねぇ。命までは取らん。……いい暇つぶしになったぜ。ありがとよ」
アデルバートはそう言って笑い、指を鳴らした。
空を覆っていた水の津波が音もなく消え、再び陽光が世界に降り注ぐ。
干からびていた大地に光が戻り、ファラオの身体にも力が蘇る。
「……なぜだ。余に背を向ければ、その首を取れるのに」
クフ王の問いに、アデルバートは肩をすくめて笑う。
「あんたはそんなことしねぇさ。敵には容赦しねぇが、もう俺たちは時代を越えて拳を交えた仲だろ」
「……ふ、ふはははっ!」
クフ王の口端が歪み、豪快な笑い声が響いた。
「確かに……そうだな! 余はお前を臣下に欲しいくらいだ!」
「やめとけ。考え方が違いすぎる」
力尽きたアデルバートは、その場に仰向けに倒れ込む。
荒い息の合間に、乾いた笑みを零した。
「……理解できるだけの気力も、もう残ってねぇしな」
「ははは! しかし――良き戦いであったぞ、友よ!」
「友ねぇ……はっ、まあこれだけ派手にやり合や、そう思うのも無理はねぇな」
二人は並んで寝転がり、拳を突き合わせる。
その拳には、血と水と汗が滴り落ち、太陽の光が反射して輝いていた。
「……また交えるか?」
「馬鹿言え。手の内知られちまったら、今度こそ俺が死ぬだろうが」
「ふはは、それもそうだ!」
二人の笑い声が大地に響く。
――時代を越えて生まれた友情。
戦いが生み出す絆は、神話の昔も今も、変わることなく続いていくのだった。