第139話「意志を継ぐ者」
アデルバートが目を開けた瞬間、 まず飛び込んできたのは薄暗い天井だった。
煤けた布の影が揺れ、鼻腔には湿った草の匂いと、かすかに薬草を煎じたような苦い香りが漂っている。
肌に触れるのは粗くも柔らかな布――どうやらベッドの上に横たわっているらしい。 だが、その安堵はすぐに打ち砕かれる。
「……う、ん?」
かすかな声を漏らし、重たいまぶたを押し上げながら身を起こそうとした
その瞬間。
胸の中央を、毒針でも突き立てられたかのような鋭い痛みが貫いた。
「———っ!!」
息が喉に詰まり、背筋を氷柱でなぞられたような悪寒が走る。 痛みは脈を打つたびに広がり、全身から汗が滲み出て、背中に張り付いた衣が冷たく感じられる。
耐えきれず、アデルバートは震える腕で身体を再び布団へと沈めた。 荒く乱れた呼吸が耳の奥で反響し、胸の奥に鈍い響きを残す。
「はぁ……はぁ……くそ……」
額から流れ落ちる汗を、鉛のように重い腕で拭う。 そのときになって、ようやく自分の身体が幾重もの布に覆われていることに気づいた。
腹部に視線を落とせば、包帯が幾重にも食い込み、傷口の痛みを無理やり封じ込めているのがわかる。
――自分はどれほどの傷を負ったのか。 胸の奥に、不安と恐怖がずしりと積もる。
「おや、目覚めましたか。アデルバート様」
テントの入り口が揺れ、薬草の匂いと共に落ち着いた声が届いた。 姿を現したのは、白髪を揺らす老人――三国時代に名を馳せた名医、華佗。
その眼差しは深い川のように穏やかで、荒れ狂う痛みと不安を鎮めるかのように、優しい声がアデルバートの心に染み込んでいった。
「……華佗の爺さん……」
安堵と困惑が入り混じった吐息が、微かに震えながら漏れた。
「セリア様なら、別室でお休みになられていますよ」
華佗の低く落ち着いた声が、焚き火のぱちぱちと爆ぜる音に重なる。
「流石に同じ一室にすることは出来ませんでしたが……ご安心ください。治療は終わっております」
その言葉に、アデルバートの胸に張りついていた不安が少しだけ緩んだ。
「……そうか。ありがとう」
「礼など無用ですよ」
皺の刻まれた老人の眼差しは真っ直ぐで、言葉には揺るぎがなかった。
「私は医者として当たり前のことをやったまで。助けられる命を救うこと、それが我らの使命ですから」
――医者は、時代も国も超えて、患者を治すことを疑わない。
彼のことはまだ掴めないが、少なくとも悪人ではない。アデルバートはそう確信した。
「……爺さん、俺たちはいつ動ける?」
「最低でも、一週間はここにいてもらいます」
「一週間だと!?」
怒声とともに胸が焼けるように疼き、鋭い痛みに顔が歪む。
「そ、それじゃあ……時間がかかりすぎる! どうにかならねえのか!?」
激情に任せた声が荒れ、次の瞬間、胸の奥で刺し傷がじわりと開くような痛みが走った。
「……っぐ……!」
「丸一日眠っていても、それだけ痛みが残っているのです」
華佗は静かに言い切る。
「妥当な治療期間だと思いますが」
「ちっ……」
苛立ちを舌打ちに込め、アデルバートは重苦しい手で胸をさすった。鈍痛は消えないが、何もしないよりはまだ紛れる。
「一週間かけても、なお痛みが残る可能性はあります。無理をすれば傷は再び開き、治療の意味がなくなるでしょう」
「……そうだな。大人しくしておく」
悔しげに吐き捨てながらも、声は次第に落ち着きを取り戻していた。
「……あんたに任せきりになるのは気に食わんが」
身体を横にし、華佗へと視線を向ける。
――そこで気づいた。
先ほどまで穏やかだったその顔に、かすかな影が差していることに。
「……どうした?」
不意に胸がざわつく。自分の言葉が地雷を踏んだのか――そんな不安を抱えながら問いを投げる。
「いえ、あなたの気持ちも理解できます。早く仲間を助けたい、立派な心です」
華佗の声は優しい。だが、その奥に沈んだ記憶が滲んでいる。
「ですが、無理は禁物。気は病からとも言います。焦っては助けられる命も助けられません。かつての曹操殿のように」
「……史書で少し読んだことがある。あんた、確か……あいつの頭を切ろうとして捕らえられ、拷問を受けたんだったか」
「ええ。そして死ぬ直前に、サン=ジェルマン様に命を救われました」
華佗の声が揺らめき、テントの中の灯りが影を濃くする。
「彼が錬金術で偽りの分身を作り、私をこの世界へ逃がしてくださったのです。史書に記された“私の死”は、あの複製――クローンなのです」
「……フランス人に、そんな真似ができる奴がいたとはな」
アデルバートはふっと鼻で笑った。だが、その胸の奥には確かな興味が芽生えていた。
錬金術、時を超える術、瞬間移動――ただの人間にしては余りに多くの力を持ちすぎている。
「私も最初は耳を疑いましたよ。千年後には技術がここまで発展するのかと」
華佗は遠い目をし、淡く微笑む。
「ですが彼は現にその力で私を救った。そして私は、この医術で――彼が救った命を、今度は私が守り続けているのです」
「俺たち二人も……その中のひとり、ってわけか」
アデルバートが吐き出すように言うと、華佗は頷き、深い皺の奥に温かみを宿した。
「ええ。どの方も重傷でしたが、必ず快復させました。今も現世で生き、歩んでいるはずです」
その答えに、アデルバートの強張った胸がふっと緩む。
「そうか……元の世界に戻れるんだな。それを聞いて安心した。なら、療養に専念させてもらう」
華佗は一歩近づき、ベッド脇に立つと、静かに柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、それが一番。そうしていただけると、医者としても嬉しい限りです。食事は後ほど持って参りますので、しばしお待ちを」
「……ああ、わかった。少し眠らせてもらう。飯が出来たら起こしてくれ」
「承知しました」
華佗は背を向け、確かな足取りでテントを後にした。
残されたアデルバートは仰向けになり、じっと天井を見つめる。
頭の奥を占めたのは――仲間ではなく、セリアのことだった。
(……セリアについて、俺は何も知らねぇ。出身も、家族も、俺と出会う前のことも……何ひとつ)
脳裏に彼女の笑顔が蘇る。
「アデル様」と呼びかける声。
振り返るその姿は光を纏い、星のように周囲を照らしていた。
胸の鼓動が早まる。喉が渇き、指先が震える。
「くそっ……俺は何を考えてるんだ!馬鹿か、馬鹿だろう!」
苛立ちに任せて拳で自らを殴る――運悪く治療箇所を直撃し、腹を抱え込み悶絶した。
「……がああっ!!」
痛みに耐えるため、枕を噛み、荒い息を繰り返す。頬が赤く熱を帯び、羞恥と痛みに胸を焼かれながら、アデルバートは心に誓った。
――治ったら改めて自分を殴り直してやる、と。
◇◇◇
「……う、あれ……ここは……」
セリアの意識が揺り戻る。
浅い呼吸とともに、腹部に穴を空けられたような鋭い痛みが走り、脳天まで突き抜けた。
重傷を負った経験などない彼女は、どう耐えるべきか分からず、必死に答えを探した末に、ベッド脇のカーテンを掴み、力任せに引っ張って痛みを紛らわせた。
「……はぁ……はぁ……痛い……ですね……」
小さく吐き出す声。肩から胸元まで幾重にも巻かれた包帯に、ようやく気づく。
痛みが、それほど深かったのだ。
「セリア様。おはようございます。食事をお持ちしました」
「……華佗様……おはようございます」
「無理に声を出さなくてもよろしい。貴女はアデル様よりも深い傷を三つも負っている。呼吸ひとつで痛みが走るでしょう。麻酔を増やさねば……」
木製の棚に器を置くと、華佗は注射器を手に取った。
細い針が肌に触れる瞬間、セリアはわずかに身を固くしたが、次の痛みの方がはるかに鋭かった。
「……っ!」
刺されるたびに腹部から稲妻のような痛みが迸り、彼女は再びカーテンを握り締める。
「麻酔が効くまで十ほど数えてください。辛抱の時です、セリア様」
華佗はその手に、自らの皺だらけの手をそっと重ねた。
セリアは言葉を発せず、代わりに微笑みで応え、軽く首を垂れた。
(……なんと優しい方だろう。老いた私にさえ、こんな笑顔を向けてくださるとは)
一瞬、胸の奥で若かりし頃の熱が蘇る。
だが華佗は小さく首を振り、その想いを押し殺した。
「セリア様。アデル様は既に目を覚まされ、今は別室で療養されています。ご安心を」
「そう……ですか……。ありがとうございます……安心しました……」
麻酔が効き始め、力いっぱい握っていたカーテンを離す。
華佗は気づかれぬように注射針を抜き、優しく腹部を撫でて落ち着かせた。
「はぁ……はぁ……あの……華佗様……」
「はい。なんでしょう」
「もしよろしければ……私に、医療技術を教えてはいただけませんか?」
華佗は言葉を失った。
――なぜ、この少女が自分に弟子入りを願うのか。
時代遅れの医術しか知らぬ老人に、何を学ぼうというのか。
「セリア様、私はもう古い時代の人間です。貴女は既に立派な医師でしょう。私など、何の役に立ちましょう」
「いいえ」
セリアの瞳は揺るがなかった。
「私はまだ未熟です。人を治し、癒すには、経験も知識も足りません。どうか、あなたの目で見て、耳で聞いて、体験したすべてを……私に教えてください」
芯の籠った強い眼差しに、華佗の胸が突き動かされた。
――曹操のもとで、己が命を賭して願いを叫んだあの時の熱情。
「私は……多くの人を救おうとした。だが、その願いは理解されず、命を落とした」
遠い過去を振り返り、華佗は小さく吐息を洩らす。
「だが、貴女の中に……私が捨ててしまったはずの情熱を見た。これほどの喜びはありません」
セリアの手を取り、穏やかに頷いた。
「分かりました。貴女に私の全てを授けましょう。医療の術、人に寄り添う術――余すことなく」
「……ありがとうございます、華佗様!」
昂ぶった声に、再び痛みが走る。
「っ……!」
「気持ちは理解します。ですが今は療養を。お二人が快復された時、改めてお伝えしましょう。お約束します」
華佗は若き弟子を制しながら微笑んだ。
――情熱を絶やしてはならない。
長き時を経て、ようやく自分の意志を継ぐ者に出会ったのだ。
その瞬間、名医・華佗は初めて弟子を持つ決意を固めた。