第127話「ラブ・トライアングル」
リルルの心は自分の知り得ない不可思議な感情に支配されようとしていた。心の中でマグマのように沸き上がってくる。幼い故に、上手く言葉にできない糸が絡まったような感覚を、少女は吐き出しようのない嫌悪感に駆られている。
「ん〜」
言葉に出来ないから、こうやって唸るしか出来ない。人生経験たったの6年、それも、ずっと家の中で篭っていて、友達など出来るはずもなかった。母はおらず、父は仕事で遊んでもらうことも一度たりともなかった。
祖父母は身体を痛めていたから、彼女自身がお手伝いをしないといけなかった。
しかしそれでも、リルルは家族に愛情を感じていた。
だが、その家族はもういない。あの地獄のような戦火から、自分だけが騎士とその友人に助けられた。
それから、外の世界がこんなにも広いことを知ったのだ。自分だけじゃない、色んな髪色の人や、動物が存在し、生き生きとしていた。彼女は生まれて初めて世界に対して目を輝かせたのだ。
でも、それはいいことばかりではない。
よくないこと……今、目の前で起こっている。
ソフィア……そう、イングラム・ハーウェイの幼馴染だとか。私を助けたのは彼なのに。
リルルは身体を小刻みに奮わせて
イングラムと隣で歩くソフィアの背を睨んでいた。
その異変に気づいたのは、そんな張本人と手を繋いでいたクレイラだった。
彼女はリルルのそのなんとも言えない感情を手から読み取った。
視線を投げると、リルルはイングラムの隣で楽しそうに談笑しているソフィアをあまり心良くなさそうな表情で見つめている。
クレイラはもう片方の手を握っているセリアにアイコンタクトを取り、止まるように合図する。そして、クレイラは腰を下ろして、目線を合わせた。
「どうしたの?リルル」
「リルル様……?」
クレイラとセリアが意思疎通して
リルルの目線に合わせて腰を下ろす。
セリアは少々寄り添うようにして頭を撫でてやる。
「むかつく……」
「え?」
セリアがリルルから聞いたこともない単語が出てきたことに驚いて、撫でている手が止まる。
「むかつくの!」
「……むかつく……ですか?」
クレイラは立ち上がってセリアの肩をポンポンと叩くと、彼女は立ち上がってクレイラが耳打ちする。
「これはねセリア、恋だよ。恋」
「こい……ですか?」
「そうだよ、恋だよ。
ソフィアはね、多分リルルにとってのライバルなの」
「こいの、らいばる……?」
「そう、ライバル。
貴女もアデルバートが他の女に取られたら嫌でしょ?」
「とられる?????」
「…………うん?もしかしてセリア。
そういった知識を一切知らないの?」
セリアが全くそういう単語に対して
反応が薄いことに、クレイラは少々驚いた。
「あの、こいとか、あいとか、全く分からないのです。学んでこなかったもので……」
「oh———」
思わず顔に手を当てて首を横に振る。
やれやれだぜ、と。
そして、クレイラの肩を少し強めな力が掴んできた。
「なぁにアデルバート。
女子会に首突っ込まないでくれる?」
「ふん、女子会もクソもねえだろ。
何があったか説明しろ。おいリルル、具合でも悪いのか?熱があるのか?身体がだるいのか?」
クレイラの言葉を粉砕する勢いで
圧強めの言葉をかけ、リルルと目線を合わせるアデルバート。額に手を当て、熱もないことを確認すると、首を傾げた。
「いえ、アデル様。そうではありません。
クレイラ様が言うには、ソフィア様が恋のライバルだとか!」
キラキラとした目で眩しいオーラを放つセリア。新しい単語の知識を得た純粋な瞳は数多の死闘を潜り抜けてきたアデルバートには眩しすぎた。
そして、目を逸らすかのようにクレイラを睥睨する。しかし今は、リルルをどうにかしないといけない。アデルバートは思考を切り替え、リルルに目線を合わせた。
「リルル、お前はどうしたい?」
「……えっ?」
「ソフィアからイングラムをどうしたいんだ?お前の気持ちを聞かせてくれ」
リルルの肩にぽんと手を置いて俺はお前の味方だと、しっかりわかるように
頷いてやる。幼いながらも、それは理解出来たのか、リルルも強く頷いて
「取られたくない、騎士様を、どこの馬とも知れない女の人になんて渡したくないもん!」
そう叫んだ。
(どこで覚えたんだそんな言葉)
若干引き気味になりつつも、わかったと言わざるを得ないアデルバートは
談笑し続けるふたりにリルルを向けて
行ってこい、と背中を優しく押してやった。
クレイラはぽかんとし、セリアは腕を組みながらこの状況を必死に理解しようとしている。
後方にいるルシウスとレベッカは青春だねと微笑ましそうに眺めている。
彼らのその反応はまさしく蚊帳の外。
それでいて保護者の目そのものだった。
「あの!騎士様の隣の馬の人!」
「え?馬?私?」
困惑するソフィアと何がどうしてこうなったという表情のイングラム。
アデルバートは心の中で否定する。
違う、そうじゃないと。
しかし彼の意思を汲み取れるまでの年齢に達していないリルルは、そのまま続けた。
「あのね、お馬さんは騎士様と幼馴染なんだよね!」
「うん、そうだけど……
あとお馬さんじゃなくてソフィアね」
「てことは、恋人なんだよね!?」
ソフィアの名乗りを無視して、リルルはとんでもないことを口にした。
「「えっ……!?」」
リルルの思考は実に単純だった。
彼女の中の幼馴染同士というのは
まずは互いにお付き合いをして、そして手を繋ぎ、キスをして、コウノトリさんが二人の血を継いだ赤ん坊を運んでくる。そして自分達が年老いるまで一緒に過ごして添い遂げる。それがお付き合いなのだと、リルルの中の幼馴染という固定概念が露わになった。
ソフィアとイングラムは驚きながらも見つめ合って、おかしくなって笑い始めた。
「な、なんで笑うの!」
ソフィアは腰を下ろしてリルルの頭を優しく撫でると笑顔を浮かべた。
「リルルちゃん、私たちは幼馴染ではあっても恋人同士じゃないんだよ。だから、そう……あなたが考えてるようなことは起きてないから大丈夫」
ソフィアはイングラムに目配せすると
イングラムもリルルに目線を合わせて肩に手を置いた。
「そうとも、リルル。
俺とソフィアは幼馴染というだけだ。
それ以上の関係はないよ」
ソフィアの表情を見やる。
彼女は嘘を言っているようには見えない。
そして、イングラムのその一言がリルルにとって何より、不安を取り除く材料となったのだった。
「ほ……」
安堵して、胸を撫で下ろす。
そして、リルルはソフィアに笑顔を浮かべた。
「なら大丈夫!ごめんね!お馬さんの人!」
「あの、私はお馬さんの人じゃなくて
ソフィアっていう名前があるから
ソフィアって呼んでくれると嬉しいな」
馬の骨の人なんて覚え方をされたら
誰だって困惑するだろうし、いい気分にはならない。ソフィアは早いうちに誤解を解く意味も込めてそう言った。
「わかった!ソフィア!」
(よ、呼び捨て……)
やはり彼女の中でまだどこかで煮え切らない部分があるのだろう。イングラムはソフィアに仕方ないと言いながら、彼女は呼び捨てを承諾する。
「でも、少しずつでいいからさん付けして欲しいな、なんて……」
「わかった、ソフィアおばさん!」
「お、おばさ……」
ちょっとイラッときたが相手は子供、苛立った気分を内側で殺して落ち着かせ笑顔のまま表情は変えない。やはりいきなり変えるのは難しいか。ソフィアは仕方がないと思いながらリルルの頭を撫でる。
「これからよろしくね。リルルちゃん」
その笑顔に、リルルも笑顔を返す。
そして、少々は踵を返してクレイラとセリアの元へ走り去っていくのだった。
元気な子供の姿を微笑ましく思いながら、ソフィアは立ち上がって、ふぅと息を吐く。
「まあ、キスもエッチもしたんだけどね……」
リルルにもイングラムにも聞こえないように彼女はポツリと呟いた。
「蒼髪様!騎士様を略奪してきたよ!」
「おう、言い方悪いなおい」
だがその勇気と行動力はこの歳にしては賞賛するに値する。アデルバートは掌に飴を出してリルルに渡した。
「わーい!サンライトパイン味の飴ちゃんだぁ!」
「アレルギー……は無さそうだな。
よし、美味しく食べるんだぞ。
蒼髪様との約束だ」
「うん!ありがとう蒼髪様!」
桃色柄の螺旋状に包まれた包みの封を開けるとそこには黄色に煌めく果実の匂いを纏った飴が姿を見せた。リルルは大きく口を開けてその飴を放り込もうとする。と——————
何かの鳥類が疾風の如く、その飴ちゃんをリルルの手から奪い取ったのだ。
彼女が口を閉じた時、彼女の口の中で無味が広がった。少し硬直した後でリルルは鳥の飛んでいった方向へ視線を向けるとくんっ、と指を立てる。
半透明の触手らしきものが青空に浮かび上がり鳥を撃墜した。そしてそれは、こっちに堕ちてくる。鳥の首元を掴んで口元に手を 突っ込み飴を取り出すと
「もう悪さしちゃダメだよ?」
明らかに汗をかいている鳥はうんうんと頷いて飛び去っていった。
「……おい、クレイラ。
今の見えたか?」
「うん、あれは間違いなく邪神の力だったね。イングラムに報告する?」
「そうだな、宿辺りに着いたら話してもいいかもしれん。だが、今はまだ積もる話もあるだろ。しばらくはああしておいてやろうぜ」
「OK」
二人は頷き合う。
そして、リルルは鳥の唾液でベトベトになった飴ちゃんを勿体なさそうな表情を浮かべて粉々に握り潰して粉微塵にした。
「あーあ、食べたかったのになあ」
その小さなわがままは、誰の耳にも届かずに青空へと登っていったのだった。