第115話 クレイラ絶体絶命
「ふぅん……?“裏切り者”ねぇ?」
クレイラの表情は、呆けているように見え、それでいて、イングラムを威圧するようにも見えた。声色も普段よりも一段階低い様に聞こえる。
「イングラムは、私がみんなの敵だと思うんだね?」
「そうじゃない、確かめたいだけだ。
ナイアーラトテップは言った。
仲間の中に裏切り者がいると」
「確かに私は出自を明かしてないし、
レオンとどういう関係なのかもまだ詳しく話していない。だから疑いの目が向けられるのは当然だよね」
「———」
イングラムの心の中で突如として複雑な感情が螺旋を描いて全身を駆け巡った。
しかし、突如として彼の首筋に何かが刺さり、激毒のような何かが血液と共に体内を循環し始めていく。
嫌悪感にも近しいそれは、幻覚となって作用し、イングラムの視覚に映る全てが、人ならざる存在へと変貌してしまった。
頭の中で、聞いたことのない子供達の声が木霊する。揺れる全身を抑える様に、自分の頭を掴む。
「な、こ、コレ……ハ!?」
イングラムの身体から、ありえない程の莫大なエネルギーが放出される。
それは漆黒、闇にも近しい配色のオーラ。
大地を汚し、空を覆う暗雲。
「イングラム!?どうしたの!?」
「クレイ……ラ……!?
近寄ルナ!」
駆け寄って来たクレイラを払い除け
まるで天敵にでも出会ったかのように、そして獣のように跳躍して後退した。
クレイラは嫌な予感を感じ取り浮遊術を使い、ソフィアを安全な場所へと運んだ。
「ウゥッ、オレヲ、トメロ、クレイラ!
トメテ———」
「わかってる。だからまずは打って来て。
国の外はそれどころじゃないけど、私は君を助ける事を最優先する。レオンだったら、絶対にそうするから」
「ガァァァァァァ!!!!!」
イングラムの理性は、邪悪な咆哮と共に完全に闇の渦へと呑み込まれ、掻き消えて行った。残っているのは、純粋な殺意と戦意のみ。そして、それを祝福するかのように黒い暗雲が空を覆い、黒い雨を滝のように放出していく。
「まだ1%の力も放出していない。それなのに、この天候をも操るこの状況……あまりよろしくないね」
イングラムの身体はオーラで膨張、形成されるように覆われていく。両手両足は怪物じみた赤黒く染まった大きな爪。
全身から生える針の様な鋭い皮膚のじみた物。人ならざる貌、唸り声。
もはや、イングラムの面影は僅かにしか残っていない。
クレイラが目を細め、観察しているその瞬間一瞬でイングラムはクレイラと距離を縮めて、腕を鞭の様に振るった。
クレイラは身体を反らしてどうにかかわす。
彼女の頬は、鋭い刃物で切れた様に小さな切り傷が出来て、そこから僅かに出血する。
「人を疑ったことで、無意識に封印していた力が内側から溢れ出したか、リルルちゃんに感化されたか、でも、どちらでもない気がする。何か別の物で無理矢理顕現させられたように見えた———」
「■■■■■ーーーーー!!!!!」
顕現する漆黒の槍、身の丈以上の大きさと質量を、以前と同じ様に軽々と振るい、突いて、薙ぎ払ってくる。
クレイラは、どれも紙一重でかわして
鳩尾に蹴りを見舞っていく。
「——————!」
「レオンの友達を傷つけたくはないけど、今の君を放っておいたらこの国の被害が大きくなる。
だから、元に戻してあげる。
痛いのは少しだけ我慢して」
尻尾をしならせて触手のように飛ばしてくる。クレイラはそれを素手で掴み取る。
瞬間、彼女の頭の中で見たこともない光景が一面にフラッシュバックする。
経験したはずもない、感じたはずのない何かが、クレイラにとってよろしくない影響を与えたらしい。
「くっ、こ、これは……!人の執念!?」
骸骨にも思える歪な怪物が、クレイラを求めて手を伸ばし、歩き、走り、這って向かってくる。
現実には存在しないはずのものがあたかもその場に在るかのように迫ってくる。イングラムを覆っているそれは徐々に風船のように膨れ上がっていく。
「徐々に力を放出し始めている。
このままじゃ元に戻れなくなる!」
再度迫る赤黒い靭尾をクレイラは氷の鎖でその進行を止める。しかし、その黒い靄のようなものは、その鎖を伝ってクレイラにじわじわと迫ってくる。
直感ですぐそれを理解したクレイラは
鎖を瓦解させて距離を取る。
(下手に触れれば他人のトラウマが
頭の中に無理やり入ってくる。
こんなの、普通耐えられない)
焦燥感と恐怖が、クレイラの額から
汗を流していく。
どんな環境でもへばることのなかった彼女が初めて、万が一を脳裏によぎらせた。
「でも、やるしかないよね、レオン!」
「——————!」
レオンという言葉に、友は止まった。
「止まった!今だ!」
クレイラはそれを逃さない。
距離を詰めつつ、最高の一撃で
イングラムを覆い尽くしたなにかを討つ。
が———
とてつもない力が、クレイラの一撃を寸前のところで無理やり制止させた。
重圧感が、全身を覆い尽くしていく。
「こ、これは———!?」
「ほっほっほっほ」
「ククククク———愚かだな小娘」
クレイラはイングラムの上空を見上げた。
三國の仙人于吉、そしてソルヴィアを滅ぼす一因を作り出した、仮面の魔術師がそこにはいた。
「ほほほ!先程の借りがまさかすぐに返せることになろうとはのぅ?」
「ククク、貴様の正体、見極めさせてもらおうか」
「くそっ、こんな、時に———!!」
精神を侵食され始めているクレイラ
そして、その攻撃を阻止している巨悪が二つ。目の前には、邪神に覆われたイングラム。
打てる術は、いまの彼女にはない。
于吉と仮面の魔術師は合同で特製の鎖を生成しクレイラの両手を縛り上げ、イングラムから遠ざけた。
「ふむ、あの柱なぞ、まるで十字架のようで良いな」
「ふ、悪趣味な」
高速を超えて叩きつけられる衝撃。
地面に吐血するクレイラ、しかし、両手は縛り上げられて自由に動くことはできなかった。
二人は歪んだ笑みを浮かべながら
ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
そして———
「ふん!」
「がっ!!」
于吉の正拳突きが、クレイラの心臓部に炸裂した。込み上げてくる鉄の味を、彼女は再び地面に吐きだした。
「あ、あんたたち……!
これを、どかして!
イングラムを、助け———」
魔術師の膝蹴りが、出かけていた言葉を無理やり呑み込ませる。
嗚咽感がクレイラに走った。
「グ……ァ」
「イングラムを助けるか。
人間“らしい“感性の持ち主では在るな」
画面の奥でほくそ笑み、クレイラの顎を右手で持ち上げ顔を近づける。
「その顔も、声も、あの男好みか?
本当のお前はどんな姿だ?」
クレイラは顔を伏せる。答えるつもりはないようだ。
「ほっほっほ、ならば自白剤とやらを使わせてもらうかの」
本体を曝け出した于吉は怪しげな薬を持ち入り出した。小さな小瓶に、マグマのように沸騰している赤い液体。これが、この男の自白剤らしい。
「これは、体内に取り込まれれば即座に効能を発揮する優れものじゃ、まあ、作っておいたんじゃがのぉ、お前さんの全てを知りたいがためにな」
「はは、私にそんなのが効くとでも?
それに、あなたたちの背後をイングラムが狙うことを忘れてない?」
瞳に宿る反抗心、そして荒れた口調であっても、クレイラは諦めていなかった。
二人の奥に唸りながら立ちすくむ仲間を見る。
「イングラム、君の目的は何……?
人を疑うことじゃないでしょ?
今は、その隙をつけ込まれているかもしれないけど、君は、そんなに弱い人間だったの?」
「——————」
「私の———私達の信じたイングラム・ハーウェイはもっと強い戦士だよ、目を覚まして!」
「……ふん、自ら口を開くとは、愚かな」
閉じさせはすまい、魔術師は口を閉じさせないように手を用いて開いたままにし于吉は不敵に笑いながら小瓶の蓋を取るとその液体をクレイラに注ごうとしたその時———
辺り一面が水浸しになったその場所に、
一つの足音が声と共に現れた。
「そこまでだ———」
巨悪に恐怖が走る。手に持つ小瓶がひとりでに揺れて、粉々に割れ、地面に血のように拡散した。
「な、に……!?」
二人は思わず振り返る。
クレイラですら苦戦した状態のイングラムを後退させるほどの威圧感と重圧感を生身の人間が出している。
これほどのプレッシャーを出せるのは、あの男を差し置いて他にはいない、はずだった。
そして、ありえないことに、雨が男を避けていた。まるで、円形状のバリアでも貼られているかのように、雨の方から避けているのである。
「馬鹿な!今のイングラムは邪神の力を少なからず放出している状態だ!人間が見れば狂変し、変死するのが決まりなのはずだ!」
「やれ仙人、やれ魔術師。ようやく見つけたぞ。“中枢”から全てのデータを曝け出すのには、思いのほか手間取ったが」
男は問いには答えず、やれやれと呆れたように言葉を溢していく。
その鋭い眼光に、二人は思わず身震いする。
「貴様、レオン!?
馬鹿な!ガタノソアと共に石化し、生死の境を彷徨っているはずじゃ!」
「干吉、どういうことだ、なぜ奴が———」
二人の慌てふためく様子を見て、鼻を鳴らす。
「ふむ、やっぱり似ているか?
それはそうだ、奴と俺は血の繋がった兄弟なんだからな」
「なんだと!?ハイウインド一族は双子のみと、そう記述されていたはずだ!」
于吉が唸る。魔術師が眉を細める。
何が、どうなっている。
こんなことは計算にはない。
アクシデントの中のアクシデントだ。
「そりゃあそうだろ。親父とお袋が命をかけて、俺の存在を公にせず、これまでずっと秘匿状態にしてたんだからな」
「もしや、隠し子が!?」
やれやれ、とハルバード家の男は
ため息混じりに言葉を重ねる。
「いいや、俺はれっきとした神殺しの長子。今は父に代わりその家督を継ぐ者」
「貴様ぁ、名を名乗れ!」
クレイラの双眸は、確かにその男を捉えた。艶のかかった黒髪、炎のように赤い双眸、美しい白い肌。レオンの容姿とは、だいぶ違う、同じなのは背丈だけだ。
「じゃあ名乗らせてもらおう。
俺はレイ・ハイウインド。
次男ライルと三男のレオンを双子に持つ一族秘匿の子、らしいぜ?」
彼ははにやりと、自分を指で指し示した。
「さて、と、お前たちの悪行はルキウスから聞いてるんでね。
とりあえずぶちのめさせてもらおうか」
そう呟いた刹那、戦士の両拳が
二つの巨悪に直撃するのだった。