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日の出飛行機株式会社

作者: 山口多聞

主催者投稿作品。お題1と2の複合作品となります。楽しんでいただければ幸いです。

「あの、社長」


「何かな?技師長」


「我が社は、飛行機を作る会社ですよね?」


「まあ、最終的にそこを目指すのは間違いないね。せっかく日本人がまた飛行機を作れる時代になったんだから・・・今は流石に部品止まりだけど。しかし!今回の防衛庁からの発注は、我が社が躍進するチャンスだ!何としても納期に間に合わせ、納品するんだ!今回の製品が、我が社の未来を担っていると言っても過言ではない!」


「その心意気は御立派ですが・・・だからって、何で戦車を作るなんて話になるんですか!?」


「そこは、大人の事情て奴だよ。それにほら、発注元は航空自衛隊だし。空を飛ぶものには間違いないし」


「だからって、戦車・・・それも、空飛ぶ戦車とは」


 とある零細航空機メーカーの技師長は、防衛庁からの発注に頭を抱えた。




 ことの発端は1945年8月15日の終戦にまで遡る。大日本帝国は連合国が出したポツダム宣言を受諾し、事実上無条件降伏して敗戦した。


 このポツダム宣言に則り、それまで大日本帝国憲法に定められていた帝国陸海軍は解体され、日本が保持する軍事力が一時的に消滅した。


 とは言え、国を守る軍事力は必須と考える人間は多く、密かに新たな日本軍の再建計画がそこかしこで進められた。


 それは軍備の不保持を定めた日本国憲法が公布されても変わることはなく、そしてその機会は意外と早くやって来た。


 1948年(昭和23年)8月に旧日本領の朝鮮半島で戦争が勃発した。切欠は独立直後の朝鮮民主主義人民共和国(以後北朝鮮)が、武力での半島統一を図ったことであった。


 北朝鮮が独立直後のタイミングで戦争を仕掛けたのには、いくつか理由があったが、最大のそれはソ連側から潤沢な兵器供与を受けていたことと、旧日本陸軍や満州国軍に所属していた者や、或いは中国共産党軍に参加していた朝鮮半島出身者を自軍に組み込み、早い内に軍を編成したこと。


 対して時を同じくして独立した南側の大韓民国は、この時点で軍と呼べるものを持ち合わせていないことにあった。

 

「今なら行ける!」


 と言ったかどうかはわからないが、北朝鮮軍は一気呵成に38度線を越えて韓国へと雪崩れ込んだ。


 結果マトモな軍を持たず、また在留する米軍もその電撃戦に対応することができず、韓国はわずか5日で陥落してしまった。


 韓国政府の残党は済州島に逃れたが、半島から叩き出されたことに変わりはなかった。


 この朝鮮半島の赤化という事態に、資本主義国の盟主であるアメリカは恐れ戦いた。さらに、そのアメリカ主導で日本の占領を行っているGHQはさらに強い衝撃を受けた。


 今回の朝鮮半島の動乱に乗じて、ソ連が北海道方面へ侵攻してくる可能性が出て来たのである。


 そのため、GHQでは在日米軍により急ぎ北海道、さらには日本海側の防備を固める必要が出てきたが、陸海空全ての戦力が、そのためには不足していた。


 大戦中はその国力を活かして、チートとも言うべき軍事力を整備した米国であったが、大戦が終了すると当然ながら急速な軍縮と復員を行った。


 その結果、在日米軍の戦力も大きく落ち込んでいたのである。


 こうなると、急ぎ在日米軍を増強するしかないのであるが、朝鮮半島が陥落して戦争が短期間で終わってしまった以上、急速な軍備の増強など望める話ではなかった。


 となれば、当の日本人に軍備を持たせるしかないが、その日本から武器(軍隊)を取り上げたばかりで、さらには軍備を放棄する憲法を彼ら自身が制定していた。


 しかし背に腹は代えられない。GHQは日本政府に対して再軍備を行う様に指令を出した。


 さて、では再軍備を行うよう指令を受けた日本はと言えば、軍隊の再編を願う元軍人を含む一部の人々を除けば迷惑この上ないこと、加えて心理的に嫌悪感を覚えることであった。


 時期があまりにも悪すぎたと言える。何せ終戦から3年ほどしか経過していないこの時期、戦争の悪夢の記憶はまだまだ生々しく、復興もようやく始まったばかり。


 そんな経済的にも心理的にも余裕のない時代と来て、戦後すぐにはじまった反軍的な世論の形成も大きかった。


 戦後進駐したGHQによって、大戦中は国民に秘匿されていた軍の所業が次々と明らかにされ、さらには戦争犯罪人への処罰や、日本本土を守り切れず民間人に多大な犠牲を出したこと等、様々な要因が重なり、この時点では再軍備は心理的に受け付け難いことであった。


 とは言え、GHQが命令を出してきた以上従うしかない。日本政府は「我が国はいまだ復興途上にあり軍備再建の経済的余力無し」として、武器供与や未だ残存する旧軍兵器の返還、資金面での援助を引き換えに渋々再軍備を始めた。


 しかし、憲法の問題や国民感情の観点から、いきなり軍と名の付くものを作るわけにもいかない。そのため、当初の計画では警察力の拡大ということで陸軍にあたる警察予備隊、既に誕生していた海上保安庁の延長として海上警備隊、そして将来的な空軍の母体となる航空警備隊を創設する方向で進められた。


 ところが、ここで予想外の事態が起きた。海上警備隊と航空警備隊はともかくとして、警察予備隊の創設に凄まじいまでの反発が、特に国民の間から巻き起こったのである。


 原因の一つとして挙げられるのが、戦後GHQが行った旧軍、特に陸軍に対するネガディブキャンペーンだ。満州事変以来、陸軍は天皇の意思さえ無視して暴走し、中国、そして米国との戦争に日本と日本人を巻き込んだ。さらには、戦時中には民間人に対して粗暴な振る舞いを行い、終戦間際には宮城事件を起こして危うく終戦を御破算にするところであった。


 こうした事実を、GHQは日本国民に大々的に伝えており、陸軍のせいで自分たちは戦争に巻き込まれたという国民感情が作り上げられていた。


 加えてこれには、旧海軍軍人たちも噛んでいた。


 海軍も陸軍と共に戦争中は残虐行為に手を染めていない筈もなく、また中国大陸では重慶への爆撃などで陸軍以上に積極的に活動した部分もある。


 しかしながら、日米開戦の原因の一つでもある日独伊三国同盟に対して、戦死した山本五十六大将ら海軍軍人が猛反対していた事実もある。加えて、米英との繋がりと言う点では陸軍よりもはるかに深い。


 海軍軍人たちは終戦直後から軍備再建の研究を開始するとともに、開戦と戦時中の様々な不都合な出来事の責任を陸軍におっ被せるために動いた。


 つまりは、自分たちはあくまで巻き込まれた被害者で、開戦と敗戦の戦犯は陸軍という世論作りに腐心したのである。栄光ある日本海軍の歴史とイメージを守るために・・・


 結果からいうと、この陸軍悪玉海軍善玉論運動はものの見事に成功した。これは海軍軍人たちの運動も一つだが、それ以上に大戦末期の根こそぎ召集をはじめとして、様々な面で日本人が陸軍に接する機会の方が多かったからだ。


 こうなると、戦争初期の頃までの高潔な皇軍のイメージよりも、退廃した終戦間際のイメージが陸軍に付いて回ることになる。


 逆に海軍は沖縄戦中の第二艦隊の特攻を含めた主力艦艇のほとんどを喪ったことをもって「海軍は最後の最後、全てを喪うまで戦いました」感を演出し、善玉論と合わさって世論の同情を買うことに成功した。


 こうしたこともあって、国内では海軍の後継となる組織や、全く新しい空軍的な組織に対して、陸軍の後継となる組織の創設に凄まじいバッシングが起きてしまった。


「いや、陸軍なしでどうやって国守るの?」


 と言う当たり前の意見が出れば。


「日本島国だし、海軍と空軍だけでいいだろ」


「陸軍がなきゃ、どこかの国に攻めることもないし」


「警察を増強すれば充分」


 という異論に封殺されてしまう始末であった。


 結局、この予想外の事態に政府は・・・むしろ乗った。


「陸軍に掛ける費用を浮かせられる」


 と言う、超現実的な理由で。


 こうして、海は海上警備隊、空は航空警備隊が創設されることとなった。一方陸に関しては警察の増員と軽機関銃や軽装甲車装備の機動部隊の創設でお茶を濁すこととなった。


 時に昭和24年4月、日本の再軍備は世界の常識を疑う形でスタートした。


 そして3年後、日本が独立国として国際社会に復帰するとともに、海空両警備隊は自衛隊へと改称された。


 このタイミングで旧陸軍関係者は「陸自も!」という運動を行ったが、それは残念ながらかなわなかった。


 と言うのも、確かに陸軍にあたる組織の再建こそされなかったが、それと陸上での戦闘を主体とする組織が作られなかったのは別問題である。海空ともに陸上に基地施設がある以上、必然的に陸上戦力が必要になるからだ。

 

 結果的に海自には陸戦隊(当初は陸上隊)、空自には空挺隊(こちらも当初は基地隊)という陸上戦闘専門部隊がそれぞれ創設された。この両部隊は当初基地警備部隊と言う名目で作られたが、その後陸上戦闘専門部隊として独立したものである。


 そして双方が創設されなかった陸軍を当面代替するという意味合いから、米軍から戦車や装甲車、自走砲、対戦車バズーカなどの供与を受けていた。


 最終的に、1955年頃にはこの海自陸戦隊と空自空挺隊の総数は8万名となり、新たに陸軍にあたる組織を作る隙間などなくなってしまった。ちなみに、艦船部隊関係者と航空関係者はそれぞれ1万名であった。


 こうして、海空二軍態勢で進んでいくことになった日本の再軍備であったが、当初は旧軍兵器がほぼ処分か残存兵器も傷んでいる状況のために米軍から供与された兵器で凌ぐしかなかった。


 しかし、サンフランシスコ講和条約で国際社会に正式復帰し、世情も安定して経済も上向いて来ると、装備の国産回帰が図られるようになる。この時期には供与された米軍兵器が老朽化と陳腐化している点も大きい。


 さて、そうなると艦艇は戦前からの技術や施設もあるのでいち早く国産化が成し遂げられたが、航空機と戦車に関して、防衛庁は大きな壁にぶち当たることとなった。


 航空機に関しては、戦後3年間の航空機禁止があったことに加えて、オリジナルな機体の設計から製造は膨大な費用と時間が必要となるからだ。


 さらに戦車、これも問題であった。と言うのも、運用する海自陸戦隊と空自空挺部隊で使用する戦車の使用要求が真っ向から対立してしまったからである。


 当初両自衛隊の戦車は、錨もしくは翼マークを付けたM24軽戦車とM4中戦車であった。いずれも米国からの供与品だ。


 その代替となる国産戦車が求められたのだが、海自が要求した戦車は半数が米軍から供与された戦車揚陸艦(輸送艦)搭載可能で、敵戦車と真正面から戦える性能を有する戦車で、これは後に61式戦車として結実する。


 ところが、残る半数に関してはある程度の水上自走可能な水陸両用戦車を求めた。


 旧海軍が装備した特内火艇と同じ系統の戦車を求めたわけだ。これは上陸してきた敵軍に対して、海上からの機動戦を挑むこと、ならびに島嶼での戦闘を強く意識した結果であった。


 この水陸両用戦車は、最終的に重量の関係から砲ではなく対戦車無反動砲搭載の62式水陸両用戦車として採用された。


 一方空自所管の戦車に関しても、2種類の戦車が代替として要求された。この内1車種は将来的に採用される大型輸送機に搭載可能な戦車として要求され、最終的に90mm砲を固定搭載した63式軽戦車が採用された。


 そして、もう1車種の戦車。これが問題であった。と言うのも、この戦車に要求された性能には以下の様なものがあった。


「航空機の牽引により飛行が可能なこと」


 どうしてこんな文言が加えられたかと言うと、理由は3つある。一つは輸送機の数が航空自衛隊全体を見ても不足していたこと。二つ目は航空自衛隊空挺部隊の想定戦術が、敵来襲後の短時間の機動的な戦術集中、すなわち各地に駐屯する部隊を迅速に敵軍との戦場に送り込むことであった。


 これなら、別にパラシュート降下可能な戦車でも良いのでは?となるのであるが、一応そちらは63式軽戦車が担うこととなっていた。何より3つ目の理由が大きかった。


 それは、旧日本陸軍で特三号戦車と言う名前で研究が行われていたからである。


 海自空自ともに旧軍の軍人が多数参加していたが、陸軍にあたる組織が創設されなかったこともあいまって、陸軍関係の軍人の多く(全数ではない)が航空自衛隊にも参加していた。その中には、旧軍の戦車部隊関係者も数多くいた。


 その中に、旧軍の特三号戦車を知っている者がいたのである。


 とは言え、特三号戦車はプランだけで終わっており、実車は作られていなかった。


 そのため、航空自衛隊はその試作車の車体製作をメーカーに依頼するのだが「そんなゲテモノ兵器御免被る」という回答が相次いだ。


 そんな中で、なんと受注落札した企業があったのである。それが戦後すぐ航空解禁とともに設立された零細飛行機製作会社、日の出飛行機株式会社であった。


 戦後の日本航空工業は、3年のブランクの後復活したが、この時点では基本的な業務は在日米軍機の整備・修理や、細々と再開した民間航空路に関するものであったが、将来の軍用・民用機の生産復活を夢見て、多くの航空会社が乱立した。そしてそうした会社には、戦後翼をもがれていた航空関係の技術者が数多く参加していた。


 しかし、現実は厳しく設立後短期間で倒産、あるいは航空から離れる企業も少なくなかった。需要があまりに少ないのだからやむを得ない。


 日の出飛行機も、模型飛行機や練習用のグライダー、或いは大手の下請け受注で糊口を凌いだ。


 そして今回、日の出飛行機が終に自社開発品として受けた案件こそ、航空自衛隊の仮称空飛ぶ戦車の試作開発であった。


 しかし、案の定ノリと勢いで社長がとってきたこの案件に、設計陣は頭を抱えることになった。


「あの、我々飛行機の技術者であって、戦車の開発はしたことないんですが・・・」


「そこは、アレだよ・・・戦車を飛ばすんじゃなくて、飛行機を地上に降りたら戦車になるようにするんだよ」


「ンな、アホな」


「とにかく、まずは作る!そしてダメだった時はダメだった時だ!どうせ大手も匙を投げた案件だし、開発費用は防衛庁持ちなんだから。失敗したら、その時は貴重な経験を積んだということにしよう」


 こうして、零細飛行機会社による空飛ぶ戦車開発はスタートした。


 そしてその結果はと言えば、良く知られているとおり・・・ダメだった。


 結局のところ、戦車開発ノウハウがなく、出来上がった物体は飛行機に無理やりキャタピラと無反動砲を載せた、普通に見ても「アカン」なものにしかならず、モックアップで中止になってしまった。


 そもそもが、航空自衛隊自身がこの戦車のコンセプトが失敗であることを、製作開始後に認めてしまっていた。


「例え空を飛べても、牽引する機体が足りないよね?」


 そう、航空自衛隊には牽引に適する機体が少なすぎた、理想的なのは双発以上の輸送機であったが、戦車部隊を牽引する程の数は揃っていない。それに、輸送機で運ぶとなると結局63式軽戦車とダブる。


 こうして、空飛ぶ戦車は旧陸軍に引き続いて幻と消えた。


 そして、日の出飛行機はこの空飛ぶ戦車の開発失敗により倒産・・・は、さすがにしなかった。ちゃんと開発費用は防衛庁から出たのだから。


 むしろこの件で名前を憶えてもらえた日の出飛行機は、乱立した各メーカーが次々と淘汰される中でも生き残り、その後時代が令和になると無人機の生産・開発でトップメーカーとなるのであった。


 もちろん、社史にもそして日本の航空機開発を記すどの歴史本にも「空飛ぶ戦車を大真面目に開発しようとした企業」として、末永くその名を残すことともなった。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 私も、日本陸軍は用済みと考えていました。 「島の防衛」には、戦えない住民を指揮する近衛隊の規模で十分でしょう。そんな近衛は、必要とあらば富士山頂を飛び越え、日本海溝に潜る精鋭であるべきです…
[一言] 発注元に「戦車」というものの定義をまず確認してみるのは如何でしょうか。 もしかしたら「車輪」が付いていて敵の走行車両を破壊できる装備があれば「戦車」かもしれません。 つまり格納式の車輪を…
[良い点] 英国面な戦車と会社だなぁ。「愛すべきおバカ」という感じで好きです。
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