対立そして終焉
その頃、古木敬一郎は、南青山にある「ライオンズカフェ」というメキメキ兎角を現してきたコーヒーショップチェーン本社にて、経営者・塩崎賢太郎と面談していた。塩崎は小さな喫茶店から身を起こし、僅か十年で、ライオンズカフェのチェーン化に成功し、今では全国に百二十店舗を構えるまでに成長した業界の風雲児であった。超多忙を極める塩崎だったが、古木の粘り強い交渉により、やっとアポイントメントを取ることに成功した。社長室のソファーに座り、憎々しげな表情で語り出した。
「しかし君も粘りと言うか、しつこいというか、恥知らずと言うか、今更私に何の話があるっていうんだ。」
古木はこんな挑発にも全く動ぜず、
「憧れの塩崎社長とこうやってお話できることは誠に持って光栄でございます。」
「ふん、そんなこと露ほども思ってないと顔に書いてるよ。君の会社と私は、今や怨敵だということを忘れてる訳じゃないだろうね。」
ラインズカフェを運営しているのは、株式会社ビッグプロジェクトであって、このビッグプロジェクトとエースデベロッパーズが、白金台の土地を巡って熾烈な争奪戦を演じ、最終的にエースデベロッパーズに軍配が上がった。塩崎としたら、コーヒーチョップが安定してきたので、次の事業として、「地中海CLUB」というベーカリーレストランを予定しており、その記念すべきスタートを白金台で売り出された土地で行う予定でいた。そこに横槍を入れてきたのがエースデベロッパーズだった。
「我が社と塩崎社長の関係は存じ上げております。だからこそ・・」
塩崎は、この一言で本気で怒り心頭になり、まくし立てるように怒りを露にした。
「おい、何が存じ上げておりますだ。この若造が。会社から土地のぶん取り合戦に負けた俺をからかってこいとでも言われてきたのか。どうなんだ!」
相手の怒りを冷静に見ていた古木は、この塩崎という経営者と、上塚が酷似していることに気づいていた。負けず嫌いで、執念深い。事が上手く運ばないと、恫喝して相手を畏怖させる。こんな相手に同じように感情的になったら絶対に負ける。相手が一番苦手な人間とはどんなタイプか?瞬間的にそれを判断していた。
「うちの上塚に頭を下げさせませんか。」
古木としたら、結論を先に言ってからプロセスに入るつもりだったが、塩崎は、その過程を聞こうとせず、いきり立った。
「なんだとー。おい若造、お前いったい何様だ。正月早々やってきたかと思うと、訳の分からないことばかり抜かしやがって。上塚に頭を下げさすだと・・・ペーペーの平社員が・・・小説の読み過ぎなんじゃないのか。早く帰れ。お前のような世間知らずと話している時間はないんだ。」
塩崎が席を立とうとした瞬間だった。古木は慇懃な姿勢から態度を大きく変えて、踏ん反り返った体勢で、
「だったら、外資系の「ワシントンベーカーズ」に白金台の店舗の話を持っていきます。ワシントンは貴方の白金台への出店を一番気にしており、用地取得に失敗した貴方に変わって、いの一番に一階店舗の購入を打診してきました。しかし、私は塩崎さん、貴方の無念を慮ってこの話を持ってきたんです。でも、それは間違っておりました。貴方は、人の話を聞かない単なる傲慢で短絡的な経営者だと、今はっきり認識しました。もうお会いすることはないでしょう。失礼しました。」
まるで立場が逆転したかのように、古木は塩崎を一瞥し、社長室から退席した。
青山と樋口は、社長の上塚を前に、緊張の色を隠せないでいた。二人とも三十代後半とは思えないほど、老けてみえるのは、彼等が如何に厳しい環境下に置かれて仕事をしていたのか表れだった。
上塚はこの二人には全幅の信頼を寄せていた。この二人の存在なくして、全国展開は果たせなかっただけでなく、その性格をこよなく愛してもいた。上塚は、普段とは全く違う優しい笑顔で語りかけた。
「この十年、君たち二人には本当に苦労をかけた。正直言って、ここまでやってくれるとは思ってはいなかったんだ。先ほど、この北野君と、経営者の目線と同じ社員を、多く育てていくことが必要だと話していたんだが、まさに君たち二人こそ、私と同じ目線で仕事をしてくれた管理職だと思っている。二人には、本社に帰ってきて貰い、私の側近として役員になって貰う予定だ。」
二人は、厳しい上塚のことだから、また、耳を塞ぎたくなるような、途方もない要求をされるのではないかと、萎縮していたが、思いがけない労いと、役員就任という言葉に逆に戸惑いさえ隠せないでいた。
先に口を開いたのは青山だった。
「社長から、直々にそのようなお言葉を頂けるとは、この十年の苦労が報われます。」
「君たち二人が丹精込めて築き上げた支店は、今や全支店黒字決算を続けている。それは君たちのイズムが全ての支店で働く社員達に浸透している証拠だよ。今後は本社で、君たちにしか出来ないポストを準備しているんだ。」
上塚の言葉を噛み締めていた樋口が、恐る恐る問い質した。
「具体的に、どのようなポストなんでしょうか。」
「先ず、樋口君、君には取締役統括本部長として、営業全般の責任者になってもらう。これは本支店全てにおいてだ。今以上にハードな仕事になるけど、しっかり頑張ってくれ。それから青山君、君には取締役経営企画室室長として、企業としての方針及び計画を企画立案する重要なポストを準備している。勿論、二人には日当たりの良い個室を準備してるし、秘書も二人つけているから、今まで以上に、頑張ってくれたまえ。」
それから先は、北野が二人に対して、具体的な仕事内容をことこまかく説明した。結論から言えば、営業に関する責任者を樋口が、経営方針や事業に関する責任者に青山が就任するということだった。二人とも、十年前に役員会で、支店長を任命された時のことを思い出していた。あの時は晴天の霹靂だったが、今の二人は、数々の修羅場を経験している関係で、冷静に上塚の人事を受け止めることが出来ていた。北野の説明が終わりかけた時、専務の松木が、追随するように口を開いた。
「両君ともおめでとう。ふたりにとっては初めてのポジションなので、慣れるまで大変だとは思うが、精一杯頑張って下さい。」
と、心にもない激励をした。北野は二人と、あまり面識がなかったが、彼なりの励ましの言葉で締めくくった。
「お二人共、短いお付き合いでしたが、後二週間で、私の役目も終わります。上場後はある意味、今より大変な日々が待っていると思いますが、頑張って下さい。」
二人は北野にも軽く頭を下げ、この会談は終わるのかと思っていたら、その後も上塚が色々と二人に話しかけ、長い時間を費やす羽目になった。その光景を見ていた松木は、強いジェラシーを感じており、表情とは裏腹に、内心この二人に近い将来、抜き去られるのではないかという恐怖に震えていた。
青山と樋口の会談は予定よりかなりオーバーしてしまい、いよいよ最後の本社営業本部を代表して、石原と上塚の会談が始まった。そして、この会談を一番心配していたのは北野だった。石原が上塚の前に着座した瞬間、上塚が冷たい表情に変化したことが見て取れた。明らかに先ほどの二人とは違う空気に陥っていた。そして感情のない事務的な表情で石原に問いかけた。
「いよいよ二週間後に株式上場だけど、本社営業本部第一営業部長の君としては、今後の対策を何か考えているかね。」
石原は至って冷静な表情で、上塚に語りかけた。
「上場後は、株主の期待に応えなければならない故、どうしても売り上げや利益といった数字のみに振り回される恐れがありますので、今以上にしっかりと企業理念を社員に徹底させることが必要かと思います。また役員サイドとしたら、上場することによって、莫大な資金調達が可能になりますが、だからこそ明確な中期経営計画を作成し、いたずらに拡大路線に走ることを避けた方が良いのではないでしょうか。」
「それは今のやり方が間違っているという君なりの警告なのか?」
早くも牽制気味の言葉を投げかけた上塚に向かって
「警告などと滅相もありません。社長の理念や情熱があったからこそ、エースはここまで大きく成長した訳ですから。ただ、これからは、置かれた状況や、取り巻く環境も変わってきますので、環境に適応できる企業体質にすべきだとお伝えしかたっただけです。」
すぐさま松木から横槍が入った。
「まるで経営者のような発言じゃないか。君の言葉を聞いていると、我々経営陣は環境に適応できない無能集団のように感じてしまうが。」
こうなることはある程度覚悟していた石原だったが、あからさまに喧嘩を仕掛けてくる首脳陣に遣り切れない気持ちを感じつつも、なんとか修復しようと、懇切丁寧に二人に話しかけた。
「社長にも専務にも私の軽率な発言で、大きな誤解を生じてしまっていることに私自身、猛省しております。しかし、私はエースが好きですし、出入り業者だった若い私をエースに引き取って貰い、ここまで育てて頂いた社長には今でも深く感謝しております。この気持ちは今も何一つ変わっておりません。もし、私の考え方で、気に入らない点があれば正直に仰って頂けないでしょうか。このままでは、更に大きな誤解が生じることに繋がり兼ねます。」
上塚は、この石原の問いかけには応えず、踵を返すと、秘書にコーヒーを注文した。そして、無表情のまま、石原の心の叫びを無視するかのように、冷たい言葉を発した。
「仮にだ。私が君の要求を無視した場合、君はどうするつもりだ。」
「社長は、ご理解頂けると確信しております。」
「理解だと!それは俺の台詞じゃないのか。何故君は私を理解してくれないんだ。君は自分の考えを正当化ばかりしているが、私のやり方には、いつも反対ばかりしているじゃないか。」
「社長の理念に共鳴したからこそ、前職を投げ出して、人生を賭けてエースに身を捧げる覚悟で入社したんです。繰り返しますが私の師は上塚社長しかいないと心底思っております。」
「では訊くが、ここ一~二年、銀座や白金台等、私が決済した物件に君がああまで反対するのは、一体全体何故なんだ。」
石原は、やっぱりその事かと思いながら、今はっきりさせておかないと、後々拗れてしまうことを察知し、正直に申し立てた。
「結果としては、大きな利益に繋がりはしましたが、あまりにも事を性急に運びすぎるきらいがあったからです。あれだけ大きなプロジェクトですので、やる以上、もう少しマーケティングに関する時間が欲しかったんです。ある程度戦略に費やす時間がないと、営業力だけでは対処しきれない場合も出てきます。」
現場を預かる身としては、至極当然の発言故、横で聞いていた北野が大きく頷いた。だが、この北野の納得した態度が逆に上塚には癪に触ったらしく、北野を睨みつけたかと思うと、
「それは営業本部を預かる君の逃げ道のように、私には聞こえるが・・・。準備万端を整えた上でないと動けない。時間的余裕をくれないとできない。リスキーなことはしたくないという、あまりに身勝手な解釈じゃないのか。営業の仕事なんてのは、本来如何に果敢にリスクに挑戦するかで結果が如実に表れるものじゃないのか。」
「勿論仰る通りです。社長の教えを守りながら我々は結果を残してきました。しかし、限られた時間と、限られた人材で最大限の結果を出すことにも、限界があるのではないでしょうか。」
「私は限界を超える要求をしたなどと微塵も思っていない。勝手に君がそう判断してるだけじゃないか。北野君から銀座の件を聞いたけど、それだって私から言わせれば、営業として当たり前のことであって、それを恩着せがましい態度で、自分が動かなかったら失敗していた等と吹聴する君の管理職としての姿勢に幻滅しているんだ。」
石原は、上塚の経営者としての懐の狭量さに愕然としながらも、それでも僅かながら上塚の人間性に賭けていた。
「私の配慮不足を痛感しておる次第です・・・。しかし今後は、株式も上場することですので、このような機会を今以上に設けて頂ければ、誤解を生じることなく、方針・計画を遂行できるのではないでしょうか。」
疑心暗鬼となっていた上塚はすぐさま、
「君は本当に我が社の今後を考えているのか?」
「口幅ったく感じるかも知れませんが、私はエースデベロッパーズという会社を、社長・専務と同様に愛してもいますし、なによりこの仕事が好きなんです。」
「私には、とてもそうは思えないがな。君は君で次の人生を画策しているんじゃないのか?」
石原は上塚の言葉の奥底が理解し兼ねていた。
「仰ってる意味が分かりかねますが・・・」
専務の松木がここぞとばかりに切り込んできた。
「それは君自身が腹の中で考えていることじゃないのか。それとも我々の目が節穴だとでも思っているのか?」
「専務、小出しにしないではっきり仰って頂けないでしょうか。私にはお二人の言ってることが全く持って分かりかねます・・・。」
「ふん、君の役者魂には頭が下がるよ。では、はっきり聞けば、はっきり答えるというのか?しかし、社長も私も君の答弁など全く信じていないんだ。辞めるんであれば、それはそれで結構だ。だが、後ろ足で砂をかけるようなやり方は絶対に許さないからな。」
この時、初めて石原は二人の心の中が読み取れた。同時に激しい怒りが込み上げ、興奮気味に声高に叫んだ。
「お二人は私が、エースデベロッパーズを裏切って情報を他社に売るとでも言うんですか。見損なわないで下さい。」
感情を抑えきれない状態になった石原に向かって、上塚が冷酷な表情で、蔑むように挑発した。
「何をそんなに興奮してるんだね。君は最近、興国建設と頻繁に会ってるそうじゃないか。スポンサーにでもなって貰うのか?それとも袖の下を貰っているのか?どっちにしろ、情報管理は年末年始で徹底したから、君が独立しようが、他社に転職しようが、我が社の情報を盗み出すことなんか不可能なんだ。」
石原は誤解されたまま引き下がる気は毛頭なかったが、あまりに唐突な状況に言葉を失っていた。長年上塚に仕えて来た結果がこの有様かと思うと、情けない気持ちにもなったし、管理職としての誇りを踏み躙られた気持ちになっていたが、なんとかこの誤解を解かなくてはならないと、頭の中で懸命に言葉を捜しながら語りだした。
「社長、私はエースを辞める気持ちなど微塵もございません。また、会社を裏切ったことなど一度たりともありません。興国建設とは白金台の物件の件で、何度かお会いしましたが、あくまで営業部長としての立場で、色々と意見を申し上げただけであって、スポンサーだの賄賂だの全く身に覚えのないことです。もし、ご不安なら徹底的に調べて頂ければ分かることです。」
この状況を固唾を呑んで見守っていた北野健吾が、助け舟を出してきた。
「社長、石原さんもこうやって頭を下げている訳ですし、今の言葉に嘘偽りはありませんよ。これからが一番大切な時期に入る訳なんですから、もうこの辺でノーサイドということでよろしいんじゃないでしょうか。」
上塚は、北野の言葉を遮るように、
「北野君、君は少し黙っててくれないか。スパイ行為ということに関しては、百歩譲って、誤解だということで終わらせてやっても構わないが、それ以上に腹立たしいのは、私の目の届かないところで経営者批判をやってるってことだ。」
石原なりに、それこそ酷い誤解だと声を大にして言いたかったが、この状況で逆らえば元の木阿弥だと感じ、グッと我慢して聞いていた。
「経営者批判は最も重罪だということを君に心胆より理解して貰う為に、ペナルティーとして、週明けからエース管理への出向を申し付ける。無期限の出向だから、半年で復帰できることもあれば、定年まで本社勤務は叶わないこともあり得る。要は君次第だ。何か言いたいことはあるかね。」
言いたいことは山ほどあったが、天皇と言われた上塚が、自身が下した決定を、おいそれと覆す筈がないことは、歴史が彼に教えていた。
「誤解を招く軽率な言動で不愉快な思いをさせてしまったことに忸怩たる思いです。しかし、私にも本社営業部長として、後任への引継ぎ等もありますし、何より株式上場を控えておりますので、できれば、三月末まで営業本部に席を置かせて頂けませんでしょうか。」
この最後の懇願に対しても、上塚は顔色ひとつ変えず、残酷な言葉を吐いた。
「その心配には及ばんよ。後任に『君の色』を引き継がせない為にもね。」
「・・・」
石原は指が折れるほど、拳を強く握り締め、この悪夢のような状況に耐えていた。
「それじゃ、早々に荷物をまとめて、エース管理へ出向したまえ。以上だ。」
この時、石原の心の奥底には、許しがたい感情が湧き出していた。全てを犠牲にして、会社発展に尽くしてきたし、根底では上塚と深い絆で結ばれていると信じていただけに、その寂寥感たるや想像を絶するものだった。
搾り出すように「・・・承知しました。」という言葉を残し退室した。プリンスと言われていたその背中には、普段の颯爽さは微塵もなく、レールから強引に外された、中年男の悲哀が漂う後姿だった。
石原と上塚の会談が始まった頃、営業本部に一本の電話が入ってきた。事務の女性から回された電話の主は、株式会社ビッグプロジェクトの塩崎だった。古木敬一郎は満を持してこの電話を待っていた。
「お電話代わりました。営業二課の古木でございます。」
「ビッグプロジェクトの塩崎です。先ほどは不遜な態度を取ってしまい失礼しました。大変言い難いことなんだが・・・」
古木は塩崎の立場を慮ってか、すぐさま言葉を繋いだ。
「塩崎社長、このお電話をお待ち申しておりました。社長なら、落ち着いたら必ずお電話があると確信しておりました。」
塩崎は幾分救われたような声で、
「そう言って貰うと気も楽になるよ・・・私なりにあれから冷静に判断して・・・」
塩崎が言い難そうにしていると、間髪居れずに、
「社長、今からお伺いします。具体的なことは、到着してからじっくり腹を割って話そうじゃありませんか。」
「いいのかい。君の会社は今日が仕事始めと聞いてるけど・・」
「私は営業マンですよ。お客様の都合に合わせるのは、営業として常識じゃないですか。ましてや塩崎社長は、私の恋人のような存在の方ですからね。」
古木は完全に自分のペースに巻き込んでいた。
到着したのは夕方四時を少し回った頃だった。玄関前では秘書が待機してくれており、塩崎の古木への思い遣りが感じられた。そして、社長室では塩崎が柔和な笑顔で迎え入れた。
「先ほどはつい感情的になって本当に申し訳なかった。君の誠意を踏み躙るようなまねをしてしまって・・・」
相手がその気になっていることもあって、古木には謝罪や、へったくれ等どうでも良かった。
「時間もないので始めましょう。私なりにマーケティングをして参りました。半径一キロ以内の飲食店と、半径五百メートル以内のベーカリーショップの一覧です。」
そういって資料を塩崎に手渡した。
「白金という東京でも有数の住宅地ですので、平均してシックで瀟洒な佇まいの店が多いですね。外資系のチェーン店も多いのですが、その殆どがコーヒーショップや、ファーストフードの店なんです。ここにライオンズカフェを出すのなら少し考えてしまいますが、本格的なベーカリーレストランなら半径五百メートル以内に一店舗もないんです。塩崎社長が、どのようなお店を考えているのかは分かりませんが、開放的な感じの、例えば『都会の中のリゾートレストラン』なんかであれば、必ずヒットするのではないでしょうか。」
塩崎は古木の説明を聞きながら、
「いや、まさにそういった店を考えているだ。店名も地中海CLUB白金店にする予定だ。しかし、この物件には若干の問題点があるんだ。君の言ってた開放的な店にするには、占有面積が私が予定していたよりも少し狭いってことだ。」
「理想は何平米欲しい訳ですか。」
「二百平米あれば文句はないんだけど。それはこの近辺では無理ってもんだ。」
「そしたら二百六十平米にしましょう。」
「しましょうって君、どうやって確保するんだ。」
「簡単です。メゾネットにしたら一発で解消できます。そして、一階と二階をあらゆる意味で差別化するんです。例えば二階は喫煙ルームにしたり、団体客を受け入れたり。或いは一階を大衆的にし、二階を高級志向にして価格に差をつけたりなんかどうでしょう。また、ご近所はセレブばかりなので、会員制にして、毎朝焼き立てのパンを宅配したりしたら喜ばれます。それに・・・」
「ちょっと待ってくれ。話が一人歩きしてるようだが、メゾネットにした場合、価格が折り合わないかも知れないじゃないか。」
塩崎は当然の反論をしたが、古木は鋭い目付きで、塩崎が想像もしないようなことを真顔で喋りだした。
「その通りです。そこで塩崎社長に相談なんですが、このマンション一棟丸ごと十四億円で購入して頂けないでしょうか。」
吃驚した塩崎が、かなり狼狽した口調で反論した。
「丸ごとだって!いきなりそんなこと言われても出来るわけないじゃないか。」
「そうでしょうか?この場所は駅からも近いし、周囲は超高級住宅や億ションばかりで、とても希少価値が高い土地です。仮にメゾネットにした場合でも、三階から上の住居部分からの家賃収入は年間六千万~六千五百万円にもなります。会社として購入しても結構ですし、塩崎社長本人名義にしたとしても大変な資産価値となります。急なことで、戸惑いもあるとは思いますが、本気で検討してもらえないでしょうか。」
「しかし君、もう直ぐ売り出しなんだから、設計も終わっているのではないのか。」
「このマンションは投資用物件なので、設計変更は簡単にできます。それに、この話を持っていけるのは東京広しと言えども、塩崎社長を含め、そんなに大勢いる訳ではございません。なんとかこの方針で考えてみて頂けないでしょうか。」
腕組みをした塩崎は、何か考える素振りをしながら、時折古木の顔を上目づかいにチラチラっと見つめていた。
「私がノーと言えば、同じ条件で、ワシントンベーカーズにこの話を持って行くつもりなのかい?」
ライバル店の動向を気にしていたことが分かった古木は、とても二十三歳とは思えないような返答をした。
「残念ながら、ワシントンベーカーズへは持っていけません。何故なら、塩崎社長は必ずイエスと応えてくれるからです。」
この返答に、塩崎は古木をまじまじと見詰めながら、
「見た感じ、若く見えるが、君は何歳なんだね。」
「今年、新卒で入社した二十三歳です。」
若いとは思っていたが、まさか新卒者だとは思ってもいなかった。
「二十三歳だって!」
「私の年が何か?」
「いや、うちにはいないタイプだと思ってね。サラリーマンにしておくのは勿体無い人材だな。」
「あっ、あと数年で独立を考えてますので、もしよろしかったら、その際はスポンサーになって頂けますでしょうか(笑)。」
冗談半分、本気半分で言った言葉だったが、塩崎は大真面目な顔で、
「君が独立するのなら、喜んで株主にならせて貰いますよ。」
古木はその言葉に笑顔で応えていた。
「この場で結論を出さなければならないのかい?」
「できればそうして頂きたいのですが・・・。」
「少し時間をくれないか。」
「はい、では一時間ほどお待ち致します。」
「一時間しかくれないのか。十四億円の買い物なんだよ。」
「一時間で結論がでないものは、十日かけても同じですよ。」
塩崎はニヤリと笑いながら、
「たいしたタマだ。では一時間だけ時間を頂こう。」
「承知しました。」
古木は時計に目をやり、確認するように言った。
「それでは現在十八時五十分ですので、十九時五十分までお待ち致します。」
塩崎は内心、俺より役者が一枚上手だと、含み笑いを浮かべながらデスクへと移動した。
石原が、机の中とサイドボードを片付けていると、北野健吾が営業部に入ってきた。仕事始めなので、社員は全員帰宅しており、広い営業部のスペースで、電気は第一営業部のみ点火していた。北野は、遣り切れない顔つきで石原に語りかけた。
「まだいらっしゃったんですね。」
「急なことだったからね、溜まりに溜まった資料なんかもあるので、今夜は帰れないかも知れません(苦笑)。それに、今契約交渉している部下がいますので、私が帰る訳にはいきませんから。」
「仕事始めの日に、契約交渉している社員がいるんですか?凄いな・・・。多分、その凄さがエースをここまで成長させたんでしょうね。」
「いやいや、エースはもっともっと大きくなりますよ。」
「それはあなたがいたらの話ですよ。」
「北野さん・・・」
「辞めるんでしょ。分かりますよ・・・。私も長くサラリーマン生活をしていたんだから。」
「・・・」
「でも、今後どうするおつもりなんですか。」
「全く白紙です。先ず、女房に説明しなけりゃならないのが少しばかり億劫ですがね(苦笑)。」
「あなたほどの人材だ。再就職には事欠かないとは思いますが・・・差し出がましいようですが、私の知人の会社をご紹介できますが・・・。」
「有難うございます。でもそこまで甘えることはできません。お気持ちだけ頂戴しておきます。それより、上場の準備は万全ですか?」
「それはもう。」
「そうですか。エースは有能な社員が育ってきてますからね。近い将来、大都を抜いて業界ナンバーワンになる日も近いですよ。」
「あなたが社長ならそうかも知れませんが、あの社長ならダメです。」
「そんなこと言わないで下さい。先ほども言ったように、社長は今でも私の師匠なんですから。」
「石原さん、これほどの功績があり、潔白なあなたが、辞めなければならない企業に、明日はあると思いますか?」
北野の的を突いた厳しい指摘に、一瞬険しい顔になったが、すぐさま、いつものように正義感溢れる態度で応えた。
「・・・あると思います。何故なら、先ほども言ったように、若い芽がグングン育ってきているからです。」
「その若い芽を摘んでしまう経営者がいてもですか。」
「・・・」
「これだけ残酷な仕打ちをされたあなたに、酷な要求かも知れませんが、可能であればエース管理に出向して貰えませんか。近い将来、必ずあなたの力が必要になります。今、エースを牽引している主要な人材は、全てあなたが育てたあなたの部下達ばかりじゃありませんか。その部下を見捨てて、辞めてしまったら彼等を路頭に迷わせることになりませんか。」
「見捨てるだなんて・・・私の部下は、もう一人前に育ってます。今後は彼等が、後に続く若い人材を育てる番ですよ。」
「株式を上場するんですよ。今の彼等ではまだ未熟です。今こそあなたの力が必要なんです。それはあなた自身が一番分かってることじゃないですか。」
「しかし、その一番大切なときに、営業本部に席がないんであれば、いないも同じことじゃないですか。」
「だから言ってるんです。あの経営陣ですよ。上場後は、戦略に失敗する可能性は極めて高いとみています。」
「おいおい、冷静に言うなよ。それを是正するのが、今の君の役目じゃないのか?」
「勿論、私の考えは社長に伝えてはきました。私は上塚さんを無能だなんて思っておりません。いや、稀に見る逸材、稀代の経営者だとさえ、感じてるんです。ただ、上場後は彼のような考えでは危険なんです。今と同じやり方で、規模のみを大きくしようとしても駄目なんです。ましてや、独裁経営なんて論外です。
あなたのように上塚さんにモノを言える人間が側近にいなければ絶対に安定した高い株価を維持できません。今日、青山さんと樋口さんとで、方針について話し合いましたが、彼等は上塚さんに恐れを抱いてます。あなたは未だ知らないと思いますが、あの二人は四月から役員になります。青山さんが戦略分野担当で、樋口さんが営業全般を担当します。お二人ともあなたの部下でしたよね。彼等を知り尽くしているあなたなら分かるでしょう。今の彼等が上塚さんが出した間違った方針に異を唱えることができると思いますか?絶対に無理ですよ。あなたなんですよ、今、この会社に絶対不可欠な人材は。」
北野のポジションは、エースデベロッパーズを株式上場させることであり、その後の経営方針まで責任はなかったが、彼としても、自分が携わった企業が上場後、経営者の判断ミスで、斜陽化していくのを見過ごすことはできなかった。
「北野さん、今の話を聞きながら、ふっと、社長と初めて会ったときのことを思い出しました。私は元々、風呂や洗面台を扱う内装業者として、産声を上げたばかりのエースに出入りしていました。
エースが青物横丁に自社物件を初めて出した時のことなんですが、そのマンションはお世辞でも優良物件とはいえなかった代物だっただけど、社長は、毎日使う風呂や洗面台は、いいものをお客様に提供したいんだといい、グレードの高い商品を備え付けたんです。当然、コストがかかりますから、値は張りますが、敢えて低価格で売り出したんです。そして僅か一ヶ月で完売しました。当時は資金繰りで四苦八苦していたので、創業を共にした社員たちは喜びましたよ。これで一息つけると。でも低価格で売り出したから、利益が殆どなかったんです。プロジェクトにかかった借入金を銀行に返したら、純利益なんかスズメの涙程度だったんです。社員たちはがっかりしてたのに、社長は物凄く喜んでました。違うんですよ、見る視点が。社員と違って、目先の利益じゃなく、社長はもっと遠くを見ていたんです。
その後、第二、第三と新しい自社物件を出しましたが、結果は全て同じでした。完売したのに利益がなくて、いつも銀行に頭を下げてばかりいました。しかし、それを繰り返していたら、いつの間にかエースのマンションはブランドになっていました。あの時、強引に利益を追求してたら、今のエースは存在しなかったでしょうね。この意味分かりますか?あなたが思っている以上に社長は戦略家なんですよ。
あの頃のエースは今のような大企業ではなくて、一家という言葉が似合う大家族でした。親分がいて、若頭がいて、若い衆がいる。ヤクザ組織にも似た、その大家族が、私には眩しく見えました。
創業時の社員は、皆が正直でしたよ。契約交渉が難航していた営業マンが、空手形で帰ってきた時なんか、社長をはじめ、社員全員で『ああしたらどうだ、こうしたらどうだ』って朝方まで語り合ったりしたもんです。そして、近くの食堂で、社員全員が、朝から丼メシを食べながら、またお客さんのところに出かけて行く・・・。今じゃ考えられないでしょ(笑)。
その後、入社されてくれと頼んだら、社長は驚いてましたが、『よし、一緒に会社を大きくしよう!』と、握手で迎えてくれました。その時の、社長の目は、最高に輝いていました。私は、この男を日本一の親分にしてやろう。そして俺は日本一の子分になろうと心に誓いました。北野さんのようなエリートが、こんな話を聞いたら、バカじゃないかと思うかも知れませんがね(苦笑)。」
北野は首を振りながら小さく「いえ!」と反応した。
初めて聞く話だったが、石原が上塚を思う気持ちが痛いほど分かった。こんな歴史がありながら何故、上塚は石原を罷免するのか、遣る瀬無い気持ちで呟いた。
「結局、人間は変容するってことなんでしょうか・・・。」
石原は、この北野の独り言のような言葉には応じなかった。
「もう十時過ぎましたね。とんだお邪魔をしてしまいました(苦笑)。ところで、契約交渉している社員の帰りが遅いですね。」
「古木っていう、才能の塊のような男なんです。私の若い頃なんか、彼の足元にも及びません。大袈裟じゃなく、十年に一人の逸材ですよ。」
「古木君っていうと、以前社内報に出ていた、新入社員でナンバーワンになった彼のことですか?」
「そうです。いつ寝てるのか分からないような奴なんです(笑)。」
「石原さんが言うんだから、筋金入りの社員なんでしょうね。」
「凄い男ですよ。でも、凄いが故に、課長としっくりいってないのが心配といえば心配なんです。でもね、その古木にも社内で友人ができたみたいなんです。この友人ってのが、同期入社なんだけど、頼りない奴でね(笑)。頼りないんだけど、いい奴なんですよ。」
「多分、『頼りない』っていう自分にないものを持ってるからじゃないですか(笑)。」
「あー、そうかも知れませんね。」
その時だった。古木敬一郎が客先から帰ってきた。
「おー、お疲れさん。仕事始めなんだから、そんなに頑張らなくてもいいんだぞ。ちょっと社長と話してたから、行き先聞いてなかったけど、どうだった。」
「契約成立です。但し、条件付なんです。この条件を会社が呑んでくれるかどうか、少し心配なんですが・・・。」
「その条件とやらを訊こうじゃないか。それより食事まだなんだろ?近所で、遅くまで宅配やってる店があるから、頼んでやるよ。何がいい?」
「じゃ、カツ丼お願いします。」
「カツ丼か!俺もそうしよう。北野さんも一緒に食べませんか。」
営業に関わること故、流石に北野は遠慮しようとしたが、古木が「北野さんも一緒に食べましょうよ。」と促した。このまま、石原と別れることに多少の抵抗もあり、「じゃ、ご一緒しましょうか。私もカツ丼で結構です。」といい、男三人が、カツ丼を注文した。
早速、本題に入っていった。
「どの物件なんだ?」
「実は白金台なんです。」
「白金の売り出しは来週からだが、予約ってことでいいのか?」
「いえ、正式契約です。」
「条件って値引きか?」
「いえ、設計変更なんです。一階の店舗だけじゃなく、二階部分をメゾネットにして、店舗として使いたいとのことなんです。可能でしょうか?」
「難しい要求だな。もう設計は完成してるし、ゼネコンとも話はついてるからな・・・。」
「なんとかなりませんか。」
「うーん・・・一応事業部とも相談してみないことにはな。それに最終的には役員の決済が必要だからな。」
「そうですね・・・。」
あまり感情を表に出さない古木の顔に、多少なりとも不安が過ぎっていた。石原としても、なんとかしてやりたい思いが強かったので、敢えて話題を変えた。
「しかし、二つも購入するとなると、三億円以上の金額になるけど、大丈夫なのか。」
「実は部長、一棟丸ごと購入予定なんです。」
この台詞に、横で聞いていた北野が仰天していた。しかし、石原は、この男なら有り得ると思い、冷静な表情で古木に問い質した。
「相手は誰なんだ。」
「ライオンズカフェのオーナーの塩崎社長です。」
冷静に聞いていた石原も、この名前には驚きを隠せなかった。
「なんだってー。お前、あの会社と、うちの関係を知ってるのか?」
「勿論、存じております。だからこそ塩崎社長の所に行ったんです。塩崎社長だって、負けっぱなしで終わるのは癪だと思いますから、相手のプライドに賭けてみました。」
「どうやって、塩崎さんに切り込んだんだ。」
「非常に言い難いことですが、うちの上塚に頭を下げさせませんかと言って、入って行きました。」
「で、塩崎さんの反応はどうだったんだ。」
「最初はボロクソに扱き下ろされました。」
「そりゃ当然だ。で、その後は?」
「私の顧客リストの中に、ワシントンベーカーズがありましたので、ワシントンを餌に交渉しましたところ、先方のお気持ちが変わってきました。」
「しかし、あの辺りはカフェが密集してるんじゃないのか?ライオンズカフェだってあの物件から差ほど遠くない所にもあると記憶してるけど・・・。」
「いえ、カフェじゃなくて新規事業のベーカリーレストランなんです。それも開放的な店にしたいからある程度の占有面積が必要なんで、メゾネットを提案したんです。」
「一棟売却は先方からなのか?」
「いえ、私から提案しました。」
「先方さん、驚いてたろ(笑)。」
「そうですね(笑)。でも、立地や環境は最高だし、家賃収入も桁違いに入ってくるし、社員寮にする方法もございますので。」
「しかし、よく丸ごと購入する気になったな。ワシントンをちらつかせたのか?」
「そういったアンフェアなやり方はしませんでしたが、先方は、多分にそう誤解してたかもしれません。」
「メゾネットに出来ないんであれば全て白紙撤回になるのか?」
「そうとは限りませんが、メゾネットに出来ますと啖呵を切って帰って来ました手前、なんとかこの条件で進めて頂けないでしょうか・・・。」
「先方には、返事をいつまでにするって言ってきたんだ?」
「ゼネコンや設計士との相談もあるから、あと一週間待って欲しいと言ってきました。」
「一週間か・・・。よし、なんとかしてやるから、安心して待ってろ。」
古木は、安堵した笑顔で、
「よろしくお願いします。」
と頭を下げた。丁度その頃、注文したカツ丼が届いた。男三人で頬張ったカツ丼は、懐かしい味がした。
翌朝、早速石原が動き出した。事業部の部長を呼び出し、事情を説明し、ゼネコン(興国建設)に、この要求を承諾させるよう指示した。しかし、事業部長からの要請に対し、興国建設は、当然のように渋っていた。もし、変更するのであれば、追加請求をするという姿勢を、頑なに崩さず、弱り果てた事業部長から上塚に泣きが入った。
その頃上塚は、古木と設計士を同行し、ビッグプロジェクトの塩崎を訪れていた。石原は、挨拶もそこそこに、鬼気迫るような集中力で、店のコンセプトや、アウトライン等を次々と決めていった。その余りの凄まじさに、社長の塩崎が、根を上げるほどだった。大筋の合意さえ取りつければ、後は何とでもなる。とにかく時間との戦いなので、各方面に早急な対策を要請した。最大の難関である興国建設には、直接石原が担当者と面談した。興国建設としても、石原にはあらゆる局面で世話になっている関係で、強くいえないところもあり、最終的には若干の利益を上乗せすることで合意に至った。
石原の八面六臂の活躍に、古木敬一郎は心底敬服していたが、古木は、これが石原の最後の仕事になるとは、知る由もなかった。そして、全ての関係機関に了承を取り付けたのは週末の深夜二時を回っていた。
ひとりになった石原は、辞表を懐から出し、長い時間それを眺めていた。入社した時感じた、あの高揚感を今でもよく覚えており、まさかこんなかたちで退社しようとは想像だにしていなかっただけに、悔いは当然残っていた。会社に残ろうと思えば残れたのかも知れないが、上塚との最低限の信頼関係がなくなった今、会社に残ることは自分自身への裏切りになるし、それ以上に、上塚に対する憤りが、徐々にではあるが、復讐心として芽生え始めていた。上塚に復習するとはどういうことか?それは彼の考えが間違っていることを証明することに繋がる。その証明をするには、石原自身が起業するしかなかった。
翌日、営業一部の朝礼で、石原自信の口から課員全員に、退職する旨の説明がされた。あまりに突然のことに課員全員が凍り付き、言葉を失っていた。後任には木之元薫が選ばれ、木之元の席には係長の赤嶺が座ることになった。考えた末の人事ではなく、ところてん式の極めていい加減で、場当たり的人事だっただけに、当人達が一番困惑していた。
最もショックを受けたのは、週末まで一緒に仕事をしていた古木敬一郎だった。悪い夢でも見てるかの如く立ちすくんでいた古木に、挨拶を終えた石原が駆け寄り、小声で、「今後のことは心配しなくていいからな。」と、肩を叩きながら伝えた。自らの進退を省みず、部下である自分の仕事に真正面から取り組んでくれた石原の姿勢に、古木は今にも泣きそうな顔で立ち尽くしていた。
パシフィックタワーを出た石原に、背後から大きな叫び声を出しながら追いかけてきたのは、立川だった。立川は周囲に大勢の人がいるにも関わらず、息を切らせながら、
「何故ですかー!」
と腰を屈んで叫んでいた。
石原にとって、最後の弟子ともいえるのが、立川と古木だっただけに、彼等二人がことのほか可愛いかった。性格も能力も全く違う二人だったが、彼等を見ていると、若い頃の自分を見るようで、その存在が眩しくもあった。
「途中で投げ出すようなことになって、すまなかったなー。」
「どうしてですか・・・」
「理由は聞かないでくれ。お前も俺の歳になったら分かってくれると思うから。」
「新人のベスト5に入ったら、また銀座へ連れていてくれると云ったじゃないですか。」
「悪かったな。約束を守れずに・・・。」
「・・・」
「だが、お前はこの会社で頑張れよ。株式も上場し、名実共に一流企業になるんだから。」
「本当に、もう帰ってこられないんですか?」
「そうだ、今日でお別れだ。会者定離は無情の理というように、出会いがある分だけ別れもある。元気でな立川。」
唇を噛み締め、石原の背中を眺めていたら、止め処もなく涙が流れていた。社会人としては短い経験しかない立川だったが、本能的に、もうこんな上司と巡り合うことはないだろうと痛感していた。
辛い思いをしていたのは立川だけではなかった。IPO企画室室長の北野健吾も、上塚との会談以降も、なんとか思いなおして貰おうと、上塚に働きかけたが、返事は決まって「辞めていく人間を引き止めるつもりは一切ない。」の一点張りだった。
そして迎えた一月十八日、エースデベロッパーズは念願の株式上場を果たした。公募価格二千五百円に対して、初値が七千二百円という三倍近い値をつけ、その後も連日のストップ高を続け、一週間後には一万円の大台を突破した。
欣喜する上塚を尻目に、北野は複雑な表情を隠しきれなかった。巨額の資金調達ができるようになったが、これがこの会社をブラックホールに追い込む結果になるような気がしてならなかった。そして、この会社を支えてきたもう一人の雄である、石原健三が、この場にいないことが、あまりにも悲しかった。
最大株主である経営者の上塚は、含みとはいえ、桁外れの創業者利益が転がり込んできた。十八年前、何も武器を持たず、徒手空拳でジャングルを切り開いて来た上塚にとって、やっと眼前に広がった草原は、目を細めたくなるほど余りにも眩しい輝きを放っていた。
株式上場から二週間、ようやく社内が落ち着きを取り戻したのは、二月初旬の東京が一年で最も寒い季節に入る頃だった。丁度その頃、メインバンクの共栄銀行が主要取引先を招いての懇親会を都内のホテルで開催した。毎年大寒の時期に開催されるこのパーティーは、その気候とは裏腹に熱気に満ち溢れていた。
モノ作り大国ニッポンを側面から支えてきた銀行だったが、経済の主役の座は、その中心的存在だった重厚長大から軽薄短小に移り変わろうとしていた。中でも第三次産業の躍進は凄まじく、改めて時の流れを痛感させられるものだった。
そんな中、共栄銀行頭取の小山内誠が丁寧に一社一社の経営者と、少し遅い年始の挨拶を交わしていた。この日、小山内が最も会いたかったのが、エースデベロッパーズの上塚弘明だったが、広い会場に五百人以上がいる関係で、頭取として招待客に簡単な挨拶をするだけでも大変な時間を要していた。上塚は、馴染みの経営者や、共栄銀行幹部との他愛もない挨拶をしていたところ、人を掻き分けるように、株式会社ビッグプロジェクトの塩崎賢太郎が上塚に近づいてきた。塩崎はなにやら口元に意味深な笑みを浮かべながら話しかけた。
「ご無沙汰しております、上塚社長。」
上塚は昨年、塩崎との間で白金台の土地買収でひと悶着あった相手だったことさえ忘れており、極めて自然体で塩崎に挨拶した。
「これはこれは塩崎社長じゃありませんか。遅ればせながら新年、明けましておめでとうございます。」
「おめでとうございます。昨年は御社とも色々ありましたが、今、こうやって挨拶ができるのも、お宅の優秀な社員のお陰ですねー。あのような社員がいる上塚社長が正直羨ましく思いますよ。」
上塚は塩崎の言葉の意味が理解しかねており、不安そうな顔で、少し首を横に傾けながら、「うちの社員がなにか・・・」と、問い質した。塩崎は、言葉が通じないことが逆に不思議だったようで、「古木敬一郎君のことですよ」と、今度は固有名詞を出して伝えた。
ヨーロピアンレジデンス・白金グランドパレスを一棟売却した相手が、塩崎賢太郎だとは、上塚は知らなかった。いや、時期が上場直前だっただけに、忘れていた。それを察した専務の松木が、耳元で小さく、白金台の物件を一棟購入したのが塩崎だとささやいた。流石に驚いた上塚が、塩崎の顔をまじまじと見つめて、一呼吸置くと腰を折り、感謝の言葉を口に出した。
「これは、なんとお礼を申し上げたらよいのか・・・ましてや、一棟購入だとは・・・いや、本当に有難うございました。年明けは上場の準備で忙殺されておりました関係で、何も知らずに申し訳ありませんでした。それにしても塩崎社長がお客様だったとは驚きました。」
古木敬一郎の予言通り、上塚は塩崎に対して、深々と頭を下げていた。企業規模も実年齢も経営者としての歴史も上の上塚が、こうも深々と頭を下げることに、塩崎の自尊心とプライドは多少なりとも満たされ、些か勝ち誇ったような気持ちになっていた。
「上塚さん、今でこそ言えるのですが、当初はあなたを恨んでいたんですよ。その白金台の土地は隠密に購入する予定だったのに、どこから情報を仕入れたか知れませんが、契約寸前で、御社が横槍を入れてきて掻っ攫ってしまった・・・。悔しくて堪らなかった時に、古木君が私に面会を求めてきたから驚きましたよ。」
未だ、話の道筋がおぼろげな上塚は、確かめるように小声で塩崎に語りかけた。
「うちの古木が一体なんと言って塩崎社長に・・・。」
「開口一番、『うちの上塚に頭を下げさせませんか!』でしたからね(笑)。最初はナメてるのかと、ついカーッとなりまして、暴言を吐いたりなんかしましたが、いやはや彼の方が上手でした(苦笑)。気がついた時は、まんまと古木君の術中にはまってました(笑)。」
上塚はようやく状況を飲み込んだらしく、再度深々と塩崎に謝礼を述べた。
「しかし上塚さん、いったいどういう教育をしたらあのような社員が育つんですか?私は正直そっちの方が興味があります。うちの社員に爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいです。」
上塚は塩崎が嫌味で云ってるのではないとわかってはいたが、照れ笑いするしかなかった。
「まあ、古木のような社員は、長年大勢の社員を見てきた私にとっても初めてなんです。当社も彼のような社員ばかりなら先行きも明るいんですが・・・そうもいかないのが、経営者として辛いところですね。」
「全くです。それと、これは私からのお願いなんですが、紆余曲折ありましたが、エースさんとうちの関係もこれでより一層深まったことですし、これを契機に、もし可能であれば、今後の物件で、立地が我が社のビジネスと絡み合うようでしたら、一階部分を店舗として設計して頂き、その情報を優先的に回しては頂けないでしょうか。互いに利害が一致したら前向きに購入を検討しますので。」
上塚は、この言葉が塩崎の本音か否かが分からなかったので、とりあえず、彼の言葉に同調する素振りで返事をした。
「それはもう我々の台詞です。雨降って、地固まるとも云いますし。これを機会に塩崎社長と、より一層の関係を築き上げて行きたいですので、何卒よろしくお願い致します。」
塩崎とのやり取りが終わって直ぐ後に、共栄銀行頭取の小山内誠が、やっと探し当てたように満面の笑みで上塚に握手を求めてきた。上塚にとって小山内は最も信用のおける銀行員であり、身の丈よりも大きな事業を計画した時、いつも小山内が矢面に立って、融資をまとめてくれただけに、上塚にとっては誰よりも大切な人物だった。
「上塚社長、株式上場おめでとうございます。遂にやり遂げましたねー。」
あまり人間を信用しない上塚だったが、小山内だけは別格だった。小山内なくしては、上場どころか会社を維持することすら不可能だったからだ。上塚は、小山内に対して、経営者と頭取という関係以上のものを強く感じており、文字通り全幅の信頼を置いていた。
「ご無沙汰しております頭取。お陰さまでやっと念願が叶いました。それもこれも小山内頭取あったらばこそです。」
「そんな大袈裟な(笑)。ひとえに上塚社長の情熱と努力の賜物ですよ。しかし、こうやって二人で話していると、起業された時のことを思わずにはいられませんね。」
「仰るとおりです。もう一度、あの経験をしろといったらちょっと考えてしまいます(苦笑)。それだけあの頃は若かったんでしょうね。」
「でも今や、押しも押されもしない業界第二位の上場会社の経営者となったんですから、本当に頼もしく感じますよ。」
上塚は、小山内の賛辞に柄にもなく恐縮していた。
「ところで、立川悠樹君は元気でやってますか?」
「は?立川君といいますと?」
「あっ、まだご存知じゃないんですね。いえね、私の娘と御社の社員の立川悠樹君が今、交際してますので・・・。彼とは正月に一緒に初詣に行ったんです。素直でいい青年だったから安心しました。」
上塚は心底驚いており、確認するように話しかけた。
「頭取のご令嬢と、うちの社員が交際してるんですか?」
「そうなんです。これも何かの縁かと思いまして。」
「いやそれは初耳でした。専務、君は、その立川君のこと知ってるのか?」
「立川悠樹なら、いつも古木敬一郎の陰に隠れてはいますが、二期連続してコンテストに入賞した新入社員ですよ。」
松木の言葉に、上塚のコンテストでの記憶が蘇ってきた。
「そういえば、新入社員で居たな。確か木之元君のところの彼だな。」
「そうです。第二期が九位。第三期が七位でした。」
小山内は二人の話を聞きながら、多少驚いていた。
「立川君はコンテストで入賞する程の営業マンなんですか?いや、こういう言い方は彼に失礼かも知れませんが、人柄はよくて、好青年には見えるけど、とても優しそうな性格みたいだから、営業としてはどうなのかなと、いらん心配なんかしてたんです。」
「お恥ずかしい話ですが、その立川という新入社員のことは覚えてないんです。しかしながら我が社も若い力がグングン伸びておりますので、小山内頭取に今以上のご協力をお願い致します。」
パーティーは予定通り終了した。帰りの車で、上塚は同乗する松木に向かって話しかけた。
「専務、さっきの話だけど、小山内さんのお嬢さんは、数年前にご結婚したんじゃないのか。」
「妾の子なんですよ。銀行内部ではごく一部の人しか知らないようですが、小山内さんとは、もう三十年以上も関係が続いてるそうですよ。」
松木の言葉に上塚は少なからず驚きを禁じ得なかった。
「あの石部金吉のような人に愛人がいたとは・・・。長い付き合いだが全く知らなかった。やるもんだなあの人も。」
上塚は口元を歪めながら、微かな笑いを浮かべていた。
エースデベロッパーズ営業部で、激しい罵りあいが繰り広げられたのは二月の中旬だった。声の主は古木敬一郎と、上司の倉前俊介だった。
「俺の許可なく勝手な動きをするなと言ったじゃないか。お前、上司の命令がきけないのか。」
「俺はマーケティングの一環として、塩崎さんに打診したまでです。何も課長の命令に背いた訳じゃありません。」
「あの物件には先約がいるんだ。お前の自分勝手なやり方に大勢が迷惑してるのが分からないのかー。」
「俺がいつ誰に迷惑をかけたと言うんですか。」
「おい、調子こいてんじゃねーぞ。営業成績でトップになったからといって、逆上せ上がるのもいいかげんにしろ。」
激しい口論に割って入ったのが、新任部長の木之元だった。
「おい、社内でなにやってんだ。どうしたって言うんだ。」
元来、木之元と仲の良くなかった倉前は、
「別に部長に報告する程のことじゃありませんよ。」と言いながら、デスクに戻って行った。
しかし、古木が喧嘩を売るような口調で、「部長に聞いて貰ったらどうなんですか!」と言い返したから、倉前は、デスクに座りかけた腰を再度浮かせて、「ナメとんのかーコラー!」と凄みを効かせて古木に迫ってきた。「いい加減にしろ。」と、木之元が制止したが、古木は、積年の恨みでもあるかのように大声で捲くし立てた。
「なんで俺ばっかりそんなに目の仇にするんですか。俺があなたに何をしたって言うんですか。」
「喧しい。組織はな、お前一人で成り立ってるんじゃないんだ。テメエの手柄ばっかり考えてるような野郎じゃ組織にいる資格はないんだ。協調性を保てないようなら、会社なんか辞めてしまえ。」
「傷の舐めあいをやってて業績が上がると、本気で思ってるんですか。」
管理職が、新入社員にこうまで言われるとは倉前は思ってもいなかった。そして殺気立つ古木に向かって、古木が一番気にしている言葉を口にしてしまった。
「お前のような親もいないような孤児同然の奴には何を言っても無駄だな。」
この一言に古木が完璧にぶち切れてしまった。低いがドスの効いた声で、倉前に迫った。
「おい、今の台詞を訂正しろ。親は事故で亡くなったんだ。テメエに俺の両親のことを、とやかく言われる筋合いないんだ。訂正しないと殺すぞテメエ。」
最早、上司と部下という関係などではなくなっており、一触即発の危険な空気が張り詰めていた。木之元は、その古木の尋常でない態度に明らかに戸惑っていた。しかし、倉前は木之元以上に本気で怯えていた。そして、殺気立った古木に身を挺して仲裁したのが、立川だった。
立川は、古木の脇腹にしがみつく様な姿勢で、「少しは冷静になれよ。」と怯えながらも強く抱き締めていた。しかし、おめえは引っ込んでろと言われ、すくい投げのように投げられてしまった。しかし、立ち上がるや否や、再度古木の体にしがみつき、「もうやめろよ。」と、懸命に制止した。
この立川の姿に、やっと我に帰った古木は、彼を見る周囲の人々の目に、居たたまれなくなり、部屋を飛び出して行った。立川は、倉前に「追わないんですか。あなたの部下じゃないですか。」と云ったが、倉前は、今まで味わったことのない恐怖に怯えきっており、その気力は全くなくなっていた。
立川が、日比谷公園を古木を探してうろついていたら、古木は公園脇のベンチに頭を垂れながら座っていた。立川は笑いながら話しかけた。
「いつも沈着冷静だけど、興奮したお前も結構魅力的だったよ(笑)。」
というと、古木敬一郎は寂しい笑顔で、「さっきはすまなかった。」と小声で詫びた。
「原因はなんなの?」
「いや、単なる物件の取りあいだ。課長のお客様で、新規物件に興味がある人がいたから、優先させてくれって言われてたんだけど、俺にもその物件に興味を示してくれたお客様がいたから、先約がいるけどという条件付で、それとなく打診したんだけど、それが気に入らなかったみたいなんだ。」
「そんな・・・それじゃ、自分勝手なのは倉前さんじゃないか。」
「いや、今更言っても遅いんだけど、社内でああなったことに、少し後悔してるんだ・・・。」
「部長にははっきり説明しておいた方がいいよ。」
「石原さんならともかく・・・。」
久しぶりに聞く石原の名前に、確かにそうだと相槌を打ちそうになったが、
「木之元部長は石原さんの部下だったんだから、分かってくれるよ。そうしなよ。」
と優しく語りかけた。
「お前も変わった奴だな。普通あんなところに止めにきたりしないぜ。」
立川は、ニコニコしながら、
「だって、俺たち兄弟分じゃないか。」
と笑った。
「兄弟分か・・・実はな立川、俺の親父ってのは、広島で極道やってたんだ。その世界じゃ、ちっとは知られた代貸だったんだけど、妹が、ヤクザ辞めてって泣いて頼んだこともあって、内心、引退を決めてたんだけど、引退直前に抗争していた別の組織のヒットマンに、運転中にダンプカーごと突っ込んでこられて、母親も同乗していて、二人とも即死だったんだ。」
立川は言葉を失っていた。
「俺はヤクザが嫌いで、絶対に父親のようにはなるまいと、必死で勉強したよ。でも、世の中って、親もいなくて、ましてや極道の倅なんか雇ってくれる一流企業なんてないんだ。エースのような実力主義の会社だったから入社できたんであって・・・。」
初めて見せる古木の内情だった。言葉に詰まっていると、古木敬一郎は、誰にともなく、
「やっぱり血なのかなー。あの程度のことで、あんなになるなんて・・・。」
といった。そして、「首かなー」と呟いた。
「喧嘩両成敗だ。こんなんで首になる筈ないじゃないか。それに、今辞めたらゴードン・ゲッコーになり損ねちゃうぞ(笑)。」
「そうだな。」
「そうだよ。だから、嫌かも知れないけど、倉前さんに一旦は頭下げようよ。俺も一緒に下げてやるよ。」
「いいよ。一人でできるから。それよりやっぱお前って変わってる奴だな(苦笑)。」
「なにぶん田舎モンなんでな(笑)。」
古木を励ましつつも、立川は、倉前の性格からいって、すんなり古木を許してくれるかどうか心配だった。そして、その心配は現実のものとなるのに時間は掛からなかった。
騒動は会社中に広まっており、専務の松木の耳にまで入っていた。松木と倉前は、同じ大学の先輩後輩に当たり、松木は、なにかと倉前を庇護していた。
夕刻、松木から直々に呼び出された木之元と倉前、そして当事者の古木敬一郎は、専務室で説明を求められ、古木は正直に経緯を述べた。
「古木君、うちは仮にも上場企業なんだよ。チンピラやゴロツキを採用している訳じゃないんだ。君にも言い分があるとは思うけど、社会人としてケジメをつけなけりゃならないのと違うのか。」
暗に辞職を求める松木に、古木は唇を噛んでいた。
部長の木之元は、相手が仲の悪い倉前と喧嘩した人間ということもあってか、表面的には古木を庇う素振りを見せたが、管理者責任を口にした松木に対して、勢いは急激に萎み、黙してしまった。
古木敬一郎が辞職したのは、その翌日だった。あれほど会社から期待されていたのにも関わらず、その末路はあまりにも惨めで、寂しいものだった。
古木敬一郎が辞職した夜、立川は強い酒でも飲まずには入られなかった。そして、その足は「土佐料理いごっそう」に向かっていた。心のどこかで、石原と巡り合えるのではないかと願っていたかも知れない。しかし、店には石原の姿はなく、いつも通り、孝蔵が仏頂面で、黙々と店を切り盛りしていた。遣り切れない気持ちを、土佐の地酒を呑みながら紛らしていた。何かが完全に狂っている。絶対に必要な人間ばかりが辞めさせられ、腹黒い人間ばかりが会社で偉くなっている。第二の石原、第二の古木が現れたとしても、末路は同じじゃないのか。
企業の本質とはなんなのか?経営者の役割とはなんなのか?働くという行為とはなんなのか?組織とは、金儲けとは、上司とは、部下とは・・・。怠け者だった立川は、身の回りで起こった出来事に傷を負いながらも、確かに大人になっていた。しかし、その傷を癒してくれる人間はこの世の中で一人しかいなかった。
麻美に会いたい。麻美の胸の中でゆっくり眠りたい。衝動的な思いだったが、立川は思い切ってイギリスに行く覚悟を決めていた。
あんびり~バブル《完》