組織とは・・・
師走も押し迫った十二月二十六日、午前十一時。パシフィックタワー二十階にあるエースデベロッパーズ・社内IPO準備室は、室長の北野健吾を中心に、株式上場に向けて何度も確認作業を繰り返していた。
北野は当時の日本では珍しいフリーの株式上場のスペシャリストとして、上場を目指している企業から高額な報酬と一定の株券譲渡を条件に、二年から三年を目処に企業のIPOプロジェクトチームのリーダーとして迎えられていた。
北野は、大学卒業後、都市銀行に入行し、三年間法人営業を主に担当していたが、その後アメリカのコロンビア大学で、MBAを取得し、アメリカを代表するコンサルタント会社で五年間勤務した後帰国し、フリーになり、株式上場を目指す企業のプロジェクトチームリーダーとして、平均二年から三年の契約を行い、契約期間内で上場させることに主眼を置いていた。フリーになった当初は、仕事がコンスタントに回ってこず、厳しい時代もあったが、八十年代に入ってからは、そのアメリカ仕込みの斬新さと集中力が、各方面から評価されるようになり、加えて日本経済が驚異的な発展をしたことにより、株式上場を目指す中堅企業から三顧の礼で招かれるようになっていた。
様々な企業から上場仕掛け人として重宝される彼だったが、北野は仕事を依頼された際に、一定のルールを設けていた。というのも、株式上場を目指す企業といっても、その実態は千差万別。中には全く可能性もないのに、信じられない程の過大な夢を語る経営者がいたり、借金返済のためのみで上場を目論む輩がいたり、上場という言葉だけに酔いしれ、具体的なことを全くしようとしない経営者がいたりで、自分の中でルールを決めない限り、単なる時間の浪費になりかねない。そこで決めたルールが北野の中での十戒だった。
一.株式上場市場に同業者が少ない。
二.売り上げが三百億円を越えている。
三.社員の平均年齢が四十歳以下である。
四.借り入れが、売り上げの半分以下である。
五.過去三年間が増収増益である。
六.一定以上の営業力を持ち合わせている。
七.経営者が心身ともに健康で、必ず株式上場を達成するという強い意志を持っている。
八.管理職に有能な人物が存在している。
九・労働組合の力が強すぎない。
十・プロジェクトチームのメンバーを自由に入れ替える人事権を与えてくれる。
この十カ条をクリアすることが基本条件だった。上塚が三年前、共栄銀行のから北野を紹介された際、北野は、株式上場までの道のりは厳しいから途中で放り出すようでは困ると、念を押した上で、何度も話し合いを行い、最終的には年収二千万円プラス株式譲渡を条件に契約に至った。その後、本社内にプロジェクトチームが編成され、本格的に始動したが、株式上場への道のりは、第三者から見たら、うんざりするほどの長い道のりが待っていた。主な内容だけでも、手間と時間がかかるハードルばかりだ。
・社内プロジェクトチームの立ち上げ
・主幹事証券会社の指名
・監査法人を指名
・資本政策の体制確保
・安定株主対策
・予算統制の強化
・上場に向けての中期経営計画の見直し
・積み上げ予算に伴う予算編成
・月次決算の早期化
・常勤監査役の選任
・就業規則及び各種諸規定集の見直し及び整備
・役員の利益相反取引解消・兼務解消
・経理分野の業務フローの作成
・定款と登記事項の見直し
・会計基準の再確認
・各種申請書類の作成
・職務権限の運用
・内部監査及び体制の見直し
・情報管理の強化
当然これ以外でも細かい部分では乗り越えていかなければならない条件は目白押しだった。また、北野がデースデベロッパーズの依頼に踏み切ったのは最大のきっかけになったのは上塚弘明の野望(情熱)だったのかもしれない。それに、従来の不動産業者から感じる臭みというものが全くと言っていいほど感じられなかった。また、口癖のように、絶対にこの業界のオピニオンリーダーになってみせる。ということを言い続けており、それは腹の底からの言葉のように北野に響いていた。また、経営状態から判断しても、不良在庫を抱えておらず、完成在庫が限りなくゼロに近いというのも株式上場に至っては魅力的な条件だった。
エースデベロッパーズ社長室において、今年度最後の役員会を前に、四人の男達が勢揃いしていた。メンバーは代表取締役・上塚弘明、同社専務取締役・松木修、同社常務取締役・今岡治夫、そして外部から株式上場のスペシャリストとして招き入れたIPO準備室室長・北野健吾たちだった。
社長の上塚が北野室長に向かって云った。
「北野君、準備は万全なのか。遣り残したことはないのか。」
「事務的な業務は全て整いました。安定株主の確保もできましたので、後は投資家に向けて如何に魅力的な未来予想を提供するかのみです。」
「公募価格が決まったので、後は初値がどの程度まで、伸びるかだな。」
「それに関しましては、IR活動を積極的にやりましたので、最低でも五千円前後の初値が予想されます。ひょっとして・・・いえ、糠喜びになることだってあり得ますので、まあ、妥当な線として、倍はいくと思って頂いて結構です。」
「公募価格が二千五百円だったからなー。なんとか五千円は突破して欲しいものだよ。」
上塚の言葉に、北野は思わせぶりな顔つきで答えた。
「この会社の一番の強みは、来年中で、六百億円以上の入金の目処がついているってことです。現在、ご契約頂いている方々で、来年ご入居される契約完了者が約千名近くいらっしゃいます。その合計は六百二十億円という金額になります。六百億円以上の入金が確保できるということこそが一番のメリットです。勿論、銀行への返済がありますが、それでも約三割・金額にすると二百億円近い利益が約束されております。それと次年度の売り上げを加味したら、投資家にとっては涎がでるような銘柄になるんじゃないでしょうか。」
この会話に専務の松木が口を挟んだ。
「この三年間、特に前期と今期は鬼の如く営業のケツを叩きに叩きましたから。」
手柄を主張する松木に向かって上塚が尋ねた。
「専務、新しい役員人事だけど、君から見てこの男は役員にしておきたいっていう人材は育っているのか。」
松木は少し言い難そうに小声で囁くように上塚に進言した。
「管理能力、人間性、過去の実績、全て整っているのは現営業部長の石原君が適任かと思われますが・・・。」
しかし、この松木の提案に対し、途端に不快な表情になった上塚が、
「石原はダメだよ。いや、彼の実績は認めるよ。我が社の草創期から今日に至るまでよく尽くしてくれた。しかしね、最近の彼を見てると、どうも私と考えが合わないんだよ。なんというか保守的で、リスクから逃れようとしているんだ。これから株式を公開して、攻めて行こうとする我が社にとって、彼のような考え方の人間が役員になったら、我が社の将来に大きなマイナスになるんじゃないかな。そう思わないか、今岡君。」
共栄銀行出身の常務の今岡は、銀行員らしく、無表情のまま話し出した。
「経理を預かる者として意見を言わせて頂ければ、営業に石原部長のような有能な方がいらっしゃることは、とても心強いものです。しかし、取締役となりますと、企業の全体像を把握し、方針を示す能力が問われます。折角、営業としての実績を築き上げているのですから、上場後も今と同様に営業部で力を発揮して頂ければよいのではないかと・・・。」
上塚は、自分の意見に暗に肯定した今岡に対し、
「私も同感だよ。それにだ、もう上場企業の仲間入りするんだから、石原程度の実力を持った者はいつでもヘッドハントできるよ。事実、私の大都時代の部下だった者が、営業のマネジメントをさせてくれと擦り寄ってきてるんだよ。」
この空気を無視するかのように、IPO準備室長の北野が横槍を入れてきた。
「しかし社長。株式上場の際に、事業計画と同時に、上場後の新たな役員体制も考えておかなくてはなりませんが。特に営業部門は利益の源泉ですので。」
上塚は、そんなことは分かっていると言わんばかりに、
「うちの営業の管理職は石原しかいないのか?そんなことないじゃないか。私はね、この際思い切った人事を提案したいんだ。これは前々から考えていたんだが、青山と樋口を取締役にしたらどうだろうか。彼等は私の期待に十二分に応えてくれた。十年に及ぶ地方支店で本当に苦労したんだから、その感謝の気持ちを考慮して、あの二人を推薦したいんだが、どうだろうか。」
この上塚の提案に松木が諸手を上げて賛成した。
「社長、それは素晴らしい人選ですな。この話を聞けば彼等もきっと大喜びしますよ。」
しかし、北野は納得できない様子で食い下がった。
「青山、樋口の両支店長を取締役にすることに意義はございませんが、石原さんを外すというのはいかがなもんでしょうか。上場後は、彼のような能力を持った人材こそ必要といえるのではないでしょうか。」
長年自分の意思で会社を動かしてきた上塚にとって、期限付きで特別採用した北野に、反論されることは我慢できなかった。
「君は上場までの準備をしてくれたらそれだけでいいんだよ。会社の人事にまで、口を挟む筋合いはないんだ。」
この横柄な物言いに、北野は黙ってなかった。
「お言葉ですが、どのような状況下においても、企業にとって一番大切なのは人材です。ましてや、エースデベロッパーズは年明け早々、株式上場という歴史の転換期に直面しようとしているんですから、役員人事だけは慎重に検討して頂きたいんです。一番役員に相応しい人材が、経営者の好き嫌いで除外されるということは、あってはいけないことなんです。」
受け止め方によっては喧嘩を売っているような北野の言葉に、上塚が反論しようと口を開きかけた時、専務の松木が取り成すように北野に語りかけた。
「北野君、社長だってその辺りは十二分に理解しているよ。しかしね、彼を役員に出来ない理由はそれ以外にもあるんだ。彼はやってはいけないことをやっているという疑惑があるからな。」
「なんですか、その疑惑って。」
「それこそ部外者の君には関係ないことじゃないかね。」
特別採用枠とはいえ、今や互いに力を合わせて株式上場に取り組んでいる筈の専務取締役から部外者扱いされたことに、北野は流石にむかっ腹が立ったが、挑発に乗るよりも、取り合えず彼等の腹の内を知りたかったので静観した。すると、松木は調子に乗って、ぞんざいな口調でまくし立てた。
「それにだな、青山と樋口の両支店長が、地方でゼロからスタートした思いに比べりゃ、石原なんて、本社で楽をしてたんだから、当然といえば当然の人事じゃよ。」
北野は、思わず(楽してたのはお前じゃないか)という言葉を吐きかけたが、寸前で飲み込んでいた。北野は、この松木という専務を全く評価していなかった。IRに必要な事項を質問しても、松木から明確な返事を貰ったことがなかった。そんな時は決まって石原が明快な回答を示してくれていた。
松木の言葉に北野が不快な表情をしていることを察した上塚は、現段階で北野と喧嘩沙汰になることを危惧し、話題を変えた。
「まっ、石原の件は、今後の継続審議ということでいいじゃないか。今、北野君と我々が喧嘩してもお互い何の得にもならないんだから、もう少し互いに前向きに話し合おうじゃないか(笑)。」
北野も感情的になっていた自分を恥じると同時に、上塚の気持ちの切り替えが早いことに感心していた。
「私も少し感情的になってしまい、申し訳ありませんでした。」
「感情的になるってことは、互いの存在を認め合ってる証拠だと前向きに解釈しようじゃないか(笑)。それより北野君、上場企業として、投資家に興味を引いて貰うために、ここだけは押さえておかなければならないことがあれば教えてくれないか。」
「一口で説明するのは難しいですね。とにかくポテンシャルの高い企業だというイメージを与えなければなりません。この会社は常に何か新しいことをやろうとしているという意識を投資家に植え付けて置くことが重要です。そのためには、変化に対応できる組織力と同時に、上塚社長ご自身のコーポレートガバナンスに対する姿勢が重要です。そして、そのガバナンスを実現できる内部統制水準を厳しく審査されます。お話をぶり返すようで申し訳ないのですが、この水準を保つためにも石原部長を役員にすべきだと私は思います。」
「なるほど。上場後はディスクロージャーが求められるだけに、常に組織は有機的で、挑戦的であれということだな。それと経営者自身に求められる企業統治に対する姿勢が重要ということか。事業面ではどうだろう。」
「先ず、中心となるマンション事業の高度安定化が重要です。中期経営計画において、年間どれだけの供給を行うのかを明確にしておかなければなりません。そして、示した数字に対して、百パーセント以上の実績を出すことです。ここ三年間の実績は経営計画以上の成果がありますが、上場後は、規模が拡大するだけに、継続が厳しくなってきます。それと、新規事業に如何に取り組むかも重要な課題です。それは他社との差別化にも繋がりますから、慎重に遂行していかなければなりません。」
北野の言葉を真剣に聞いていた上塚は、彼自身が暖めていた新規事業プラン思わせぶりにを持ち出した。
「マンション事業以外で私が考えている三本柱は、リゾート開発・ホテル事業・ゴルフ場開発なんだ。この三つは共同事業として資本参加している関係で、多少のノウハウはあるし、専門家との付き合いもあるから、結構自信はあるんだけど、どうだろうか。」
上塚の話し振りに、腹の中に何か隠しているなとは感じつつも、
「その前に、社長に伺いたいのですが、この景気は今後も継続して続くとお考えですか?」
自分の問いかけに答えず、本質論を逆に問いかけてきた北野に、
「含みのある言い方だね。君は景気が落ち込むとでも思ってるのか。」
「必ず頭打ちになると思います。その時に、ロクな調査や検討もせず、いい加減な考えで新規事業に莫大な資金をつぎ込んでしまったら命取りになりますよ。株主は皆さんが思ってる以上に敏感だということを頭の中に叩き込んでて欲しいから、敢えて厳しいことを言ってるんです。
上場した以上は、株主の利益を最優先しなければなりません。異論もあろうとは思いますが、上場企業である以上、この宿命から逃れることはできません。株主が離れていったり、株価が下落するということは、即、資金繰りに支障をきたし、経営の悪化に繋がるからです。しかし、株価ばかり気にしていたら腰を据えての事業なんかできません。この矛盾と、如何に向き合っていくかも経営者として考えなければいけないことです。」
上塚は北野の言葉に心中では納得しながらも、何か吹っ切れないものを感じていた。それは彼がエースデベロッパーズを創業して、何度も危ない橋を渡り続けて今日に至ったという上塚の自尊心からだった。勝つか負けるか、やってみなけりゃ分からないという彼自身の経営哲学が、北野が解く正論を拒否していた。
「しかし君、現実を見たまえ。情報量・資金量共に日本最大の不動産会社である三ツ星地所が数ヶ月前にニューヨークのロックベラービルを二千億円で買収したし、ハニーエレクトロンに至ってはコロンバン映画まで買収したじゃないか。三ツ星やハニーなんかは我々なんかとは桁違いの情報収集能力がある会社だよ。そんな会社が、あれだけの決断をしたんだから、君の心配は私には杞憂に感じてしまう。それにだね、君の意見を聞いていると、上場後は何も出来ないじゃないか(笑)。折角IPOしたとしても、なにもアクションを起こさないんであれば、それこそ株主の期待に応えられないじゃないか。リスクに積極的にチャレンジしてこそ、大きなリターンがある。そう思わないか。」
上塚の言葉に毅然とした態度で、北野が反論した。
「思いません。何故ならアメリカがこの状況を指を加えて見てる筈がないからです。あの国は新しい仕組みを作り上げることにかけては、日本なんかとは桁違いに優れているからです。そりゃ今は双子の赤字で瀕死の重傷を負ってはいますけど、何れ必ず自国に有利で、日本には不利になるような仕組みを考え、絶対に圧力をかけてきますよ。そうなったらジャパン・アズ・ナンバーワンなんて吹っ飛びます。事実、日銀は今までの金融緩和政策から一転して、金融引き締めに転じてきたじゃないですか。だからこそ慎重に事を運んで頂きたいんです。」
流石に上塚は沈黙した。それは上塚自身も若干ではあるが、感じていた不安であるからだ。しかし、その不穏な空気を切り裂いたのが、共栄銀行出身の常務の今岡だった。
「北野さん、私のような金融マンの立場から見て、あなたの仰ってることは確かに正論です。しかし、金融引き締め政策になったからといって、共栄銀行が、エースデベロッパーズに融資を差し控えるなんてことは絶対にあり得ません。いや、むしろ今まで以上に融資枠を広げるつもりでいるんですから。」
銀行の体質を知り尽くしている北野は、敢えて蔑むような顔つきで今岡に向かってゆっくり語りかけた。
「常務、それはあなたが今ある状況しか見えてないからですよ。置かれた環境が変わっても同じ台詞が言えますか。メインバンクからの出向なんだから、貴方も、もっと勉強して貰わなければ困りますよ。」
一瞬で今岡の顔つきが強張った。
「失敬じゃないか。今の言葉を訂正しろ。」
「言葉の訂正ぐらい何度でもしますよ。その代わり、あなたも状況が変わっても、貸し渋りなんかしないと約束しなさい。」
「君をこの会社に紹介したのはうちの銀行じゃないか。言葉を慎め。」
「うちの銀行だって!いつまで銀行員気取りなんですか。今のあなたはエースデベロッパーズの常務なんですよ。あなた、そのことを考えたことあるんですか。」
「なんだとー!」
今岡は、喧嘩慣れしていないだけに、見苦しさを露呈していた。上塚は溜息をつきながら、「二人ともいい加減にしなさい。」と、二人を嗜めた。
しかし、上塚の制止にも怒りの収まらない今岡は、銀行員という仮面を脱ぎ去り、ゴロツキのような口調で北野を罵り続けた。しかし北野は涼しい顔で受け流していた。上塚は頃合を見計らって、
「北野君、君だって元銀行員じゃないか。少しは言葉を慎みなさい。アメリカ生活が長かったから軋轢を恐れないのかも知れないが、今の発言は君に非がある。とにかく今岡君に謝罪しなさい。話はそれからだ。」
「社長、それは違いますよ。メインバンクの腹の内を確認しておくのも経営者の仕事じゃないですか。」
この言葉に、上塚は眉間に血管が浮き出るほどの怒りを露にし、怒鳴りつけた。
「喧しい!俺が謝れと言ってるんだから、素直に謝ったらどうだ。共栄銀行は、いや、今岡常務はうちが駆け出しの頃から、私の理念に共鳴してくれ、分不相応な融資をしてくれた当社にとって、一番大切な役員なんだ。分かったかー。」
流石の北野も、上塚のあまりの怒りに畏怖したのか、
「言葉が過ぎました。申し訳ありませんでした。」
と、深々と頭を下げた。そして上塚は厳しい口調で、
「今日は、役員会前に、皆と最後の調整をしたかったんだが、この有様だ。私はこれから、この若造にビジネス社会というものが、どんなもんかを教えるやるから、君たちは先に役員室で待機していてくれ。」と云った。
今岡はこの上塚の処置に満足したのか、先ほどまでの怒りは消えうせ、上機嫌で、
「かしこまりました。それでは失礼致します。」
と言い残し、松木共々社長室から退出した。二人が居なくなったのを確認した上塚は、態度をコロッと変えたかと思うと、ニコニコしながら、
「北野君、これで邪魔者はいなくなったよ。これからは本音で語り合おうじゃないか。」
と、掌を返したように身を乗り出して北野と向かい合った。北野は呆然と上塚の顔を見ながら、
「今のは演技だったんですか。」
と、心底驚いたような表情で、眼を白黒させていた。北野は、この上塚という人間の真意がどこにあるのか分からず、恐怖すら感じていたが、上塚はそんなことにはお構いなしで、
「どこに獅子身中の虫が居るとも限らんからな。」と、平然とした態度だった。
気を取り直した北野は、上塚が提案した新規事業計画に対して、改めて彼なりの考えを述べた。
「先ず、ゴルフ場は大反対です。その理由は、土地の確保が困難だということです。ここ数年、素人がゴルフ場経営に手を出し、数そのものが飽和状態ですし、会員権も若干ではありますが、下がりつつあります。誰もが考え付くビジネスに参入することは賛成し兼ねます。でもどうしてもやりたいと仰るなら、国内で、土地から仕入れるのではなく、海外のゴルフ場を買収するやり方をお薦めします。多分、国内で費やす費用の半分以下で買収できるのではないでしょうか。
次にホテル事業ですが、これも基本的には反対です。稼働率の悪いホテルが生み出す赤字は恐ろしいものです。チェーン化していれば、食材や備品の一括購入などで、出費を抑えることができますが、単体はどうしてもコストが高くなってしまいます。それに都心部にはホテルが集中しておりますし、今後は外資系ホテルが、虎視眈々と東京進出を狙っております。どうしてもホテル経営をやりたいのであれば、地方都市で、現在営業していて、稼働率が五十パーセント前後のホテルを買収してはどうでしょうか。五十パーセント程度の稼働率を損益分岐点である七十パーセントにすることは可能です。そして七五から八十パーセントをコンスタントに維持できるようになったら売却することをお薦めします。この場合の売却益は魅力的です。
最後にリゾート開発ですが、リゾート法改正で、企業としてリゾート開発を進めやすくなったことは事実ですが、最初から大きな事業をせずに、小さな投資で、様子を見ながら、積み重ねていく方法をお薦めします。後発組故、ノウハウがない部分を専門家を迎え入れながら段階的にやってみてはいかがでしょうか。」
上塚は、コンサルタントとしての北野の分析力に大いに納得していた。
「流石だな。私の考えていたことと殆どが合致しているよ。新規事業は効率を考えながら、慎重に推し進めていかなければならないってことだな。」
「仰る通りです。しかし、先ずは本業の更なる充実が第一です。」
「その本業なんだが、用地の仕入れは、都内だけでも三百を越す案件があるんだが、まとめて買い取った方が得策と思うんだが、どうだろうか。」
「それは余りにも無謀な考えですよ。取りあえずは、政府の金融引き締め政策の影響を見計らってからでもいいのではないでしょうか。それに現在の営業力で補え切れない程の仕入れをした場合、不良在庫を抱えることにも繋がり兼ねますし・・・。」
「完売神話を継続するのは大量の人材がいれば賄うことができるよ。それにだな、今、仕入れをやっておかないと、他社に先を越されてしまうじゃないか。とにかく、出来るだけ多くの用地を仕入れて、定期的に売り出していく方法がベストだと思うんだが。それに、闇雲に仕入れる訳じゃないんだ。その後の対策だって準備している。リスクヘッジとしたら、購入した用地を、仮にうちのマンションを出さない場合は、他社に転売する方法だってあるんだ。まあ、土地ころがしの一種だがね。」
この上塚の方針に、北野は真っ向から反論した。
「社長、そんなのリスクヘッジでもなんでもありませんよ。もし、地価が下落したら転売どころか、売り出すことすらできなくなりますよ。実はそのことで、先日、石原部長とも話し合ったんですが、彼もそのことを危惧してましたよ。」
上塚は石原を名前を聞いた途端に苦虫を噛み潰したような表情になり、
「半年前の銀座の土地のことを云ってるのか?あの時も、石原は反対してたが、結果は即日完売で、物凄い利益に繋がったじゃないか。営業の手を借りるまでもなかった。」
北野は顔を横に振りながら、真実を訥々と話し出した。
「そうじゃないんですよ。社長はご存知ないかも知れませんが、話が纏まりかけた時点から、石原部長は水面下で動いてたんです。彼のネットワークを最大限に駆使して、内密に投資家達を招いてのプレゼンをやったり、個人、法人に関わらず、徹底的に事前に営業活動を行った結果なんです。会社が上場前の大切な時期だからこそ、不良債務を抱えたくないという彼なりの努力が即日完売に繋がったんです。彼の存在なくして、あのプロジェクトは成功しませんでしたよ。」
「・・・」
「社長、これから先は、企業としての先見性がないと、太刀打ちできません。そういう意味でも石原さんを役員にしてください。」
「・・・」
「それとですね、IR活動の一環として、社長にお願いしたいのが、上場直後の第一回株主説明会では、マンションのマーケットは将来的に縮小傾向にあると仰って頂きたいんです。」
突拍子もない北野の言葉に、上塚は驚愕の眼差しで、強く反発した。
「バカな。事業の中枢であるマンション事業が縮小されるなんて言ったら、それこそ投資家は離れてしまうじゃないか。」
「いえ、マンション事業が縮小されるのではなく、マーケットそのものが縮小されるってことです。」
「同じことじゃないか。君、うちはマンションデベロッパーなんだ。その会社の経営者が、市場は小さくなりますなんて言ったら、投資家はどう反応するか、子供でも分かることじゃないのか。」
「だからこそなんです。だからこそ、他社に先立ち、新しいビジネスモデルを投資家に提案するんです。投資家は経営者の思考に敏感です。マンションデベロッパーとして、今や日本を代表する企業に成長したのに、この会社は、その次の展開を早くも考えている。そう投資家に思わせることが大切なんです。本業を安定させるということとは一見、矛盾しているようにも感じるかも知れませんが、もう一つの大きな柱を築こうとしている姿勢を打ち出すことで、アグレッシブな印象を与えられます。」
北野の話を聞き終わり、上塚は北野の研ぎ澄まされた感性と、株式を高値安定させるための術を心得ていることに脱帽していた。この男は使えるという確信を得ていた。
「北野君、上場前に君とここまで腹を割って話せたことは、本当に有意義だった。私も危ういところで『裸の大様』になるところだった。石原のことも、少し感情的になっていたことは事実として認めるよ。彼については前向きに検討させてもらう。」
上塚は納得した様子で、北野との話合いを終わろうといたが、「社長、一番大切なことが、まだ確認できていませんよ。」と、厳しい眼差しで上塚を見やった。
「安定株主の確保は、銀行や、ゼネコン、主要取引先等で、賄うことができましたが、社員持ち株会で、大勢の社員が株主になってますが、高値がついた時点で、それを元手に独立する輩が出てきた場合の引き締めはできていますか。」
「社員が独立して他の事業をやるんであれば、それはそれで結構なことじゃなか。」
「同業者になることだって有り得ますよ。その場合、顧客管理や情報管理は万全なんでしょうね。」
必死の形相で問いかける北野に向かって、余裕さえちらつかせながら、上塚が口を開いた。
「不動産デベロッパーなんて、一朝一夕にやれるもんじゃないよ。私が大都から独立してこの会社を作った時に、どれだけ苦労したことか。今のうちの社員に私のような情熱や野心を持っている奴なんているわけないじゃないか。」
上塚の短絡的な考えに北野は逆に青ざめていた。
「その考えが一番危険なんですよ。社長が苦労したのは資金繰りですよね。当面の運転資金がなかった。だからあなたは必死で銀行回りをして資金を調達したけど、もし、高値がついたら、その資金を元に自分でもやってみようと思う人間が現れる可能性だって大いにあり得ますよ。」
「俺を裏切る奴が出てくるって言うのか。北野君、君も心配性だな。俺を敵に回して何が出来るって言うんだ(笑)。」
「社長、時代は変わってるんですよ。それに、社員があなたに忠誠を尽くしているのは、株式上場を目前に控えているからですよ。あなたは天皇として、この会社に君臨し、内外問わず多くの敵を作っているんです。そのことを認識したらどうですか。」
突き刺すような言葉に、上塚は我に返った。
「誰が私を裏切るっていうんだ。」
北野は、頭を抱え込むような仕草で、上塚に語りかけた。
「あなたが分からないのに、私が知ってる筈ないじゃないですか。先ほど、両腕である専務や常務を煙に巻きましたね。彼等さえあなたは信用してないんですよ。もし、各部門の精鋭が大量に退社し、新会社を設立したら、とんでもないことになってしまいますよ。今からでも遅くありませんので、この社員だけは絶対に必要だという人間をリストアップして、話し合ってみたらいかがですか。」
事の重大さを察知した上塚は、改めて自分を心から慕い、尊敬している部下がいないことに驚愕していた。北野の言ったことは大袈裟かもしれないし、本当はそんな人間など一人も介在しないのかも知れない。しかし、どこか心の片隅に小さな棘が刺さっているような痛みも感じていた。それは今まで上塚の野望のために犠牲になった人間が突き刺している毒針のようで、小さいが、深い棘のように思えてならなかった。
一九九〇年の年が明けた。四国・高松に帰省していた立川は、高校の同窓会や、幼馴染との付き合いで、正月三が日を殆ど呑み明かしていた。年始は一月七日まで休暇を取れることになっていたが、気持ちは早くも東京に帰っていた。あのイヴの夜、麻美と男女の関係になって以来、前にも増して麻美のことが頭から離れなくなっていた。その感情は高まるばかりで、ゆっくり郷里で過ごす気持ちになれなかった。そして、一月三日の夕刻、高松空港発の最終便で東京に帰ることにした。羽田に着いたのは夜の八時を回っており、空港内は流石に帰省ラッシュで大勢の人で溢れかえっていたが、羽田を離れると、心持ち人が少ないようにも感じられた。
麻美の声を聞きたかったから、浜松町駅の構内から電話を掛けると、麻美は留守だったが、電話に出た操に、今から初詣に行くけど、一緒に行かないかと誘われた。麻美が留守ということで、少し気落ちしていたが、操の申し出を快く了承し、明治神宮前の喫茶「外苑」で待ち合わせることにした。
外苑に入ると、操は既に到着しており、店の奥から手を振っていた。近づくと、操はハンサムな中年紳士と同席していた。年始の挨拶を済ませると、操は、その男性を紹介した。
「紹介するわね、私の夫です。」
操は敢えて夫という言葉を使った。中年紳士は、満面に笑みを浮かべて丁寧に頭を下げた。
「はじめまして小山内と申します。いつも娘の麻美がお世話になっております。立川君にお会いできるのを楽しみにしておりました。」
流石に緊張を隠せずにいた。
「立川です。よろしくお願いします。」
と、深々と頭を下げた。
「君のことは妻からも麻美からも聞いております。思った通りの好青年で、安心しました。」
「いえ、まだまだ青二才の分際ゆえ、麻美さんにもご迷惑ばかりおかけしております。」
交際している女性の父親との会話なんて初体験だったので、頭の中で、何を話したらいいのか全く整理がつかなかった。しかし、目の前にいる紳士は、とても誠実そうで、温かみを感じる男性だった。
「エースデベロッパーズに勤務されてるんですね。あそこの上塚社長とは、もう十五年来のお付き合いをさせて頂いてるんですよ。今年は株式上場も控えており、立川君も忙しくなりますね。」
小山内は自分の息子より年下の立川にも、偉そうな態度を取らず、極めて丁寧な口調だった。
「社長をご存知なんですか。」
「ええ。仕事には厳しい人だけど、それだけに、実業界では信頼の厚い方なんですよ。徒手空拳で始めた事業ですから、何度か経営危機もあったんですが、それを乗り越え、あれだけの会社にしたんですから、大したもんです。」
「当社とお取り引きがあるんでしょうか。」
「ええ、私が勤務している銀行が、御社のメインバンクなんです。」
「そういえば、麻美さんから聞いたんですが、確か、お父様は銀行に勤務されてると仰ってました。」
「はい、共栄銀行です。」
その時、立川は全身に電流が走るのを感じた。操との契約交渉の際、メインバンクの共栄銀行の頭取が小山内という名前だったことを思い出した。そして恐る恐る確認するように小山内に向かって訊いた。
「つかぬ事をお伺いしますが・・・お父様は、ひょっとして共栄銀行の頭取ではないでしょうか。」
小山内はごくごく自然な口調で応えた。
「ええ。現在頭取職に就かせて頂いております。」
立川は一瞬息を呑んだ。よくよく顔を見れば、経済誌や新聞で何度か見覚えのある顔だった。この場合、何から話せばよいのかを必死で考えていたが、考えれば考えるほど錯乱していた。そんな立川の気持ちを察したのか、小山内は至ってフランクに語りかけた。
「あっ、でも今はプライベートだから緊張しないで下さいね。」
緊張するなという方が無理だと、心中では思いながらも、気を遣ってくれてることも小山内の態度で十二分に理解できた。硬くなってる立川を見ていた操が、声を掛けてきた。
「麻美から聞いたけど、クリスマスイヴは、銀座でとても美味しい土佐料理をご馳走してくれたって、とても喜んでたわよ。」
「いえ、ご馳走だなんてそんな・・・。」
操は小山内に微笑みながら、
「私にまで、クリスマスプレゼントを買ってくれたんですよ。」
小山内も操に合わせるように、
「良かったねー。私からもお礼をいいます。」
二人を見てると、自然と本当の夫婦に見えていた。
普段は行員何千人という組織の頂点に君臨し、多くの人間の陣頭指揮をしているにも関わらず、経済社会の中でスタートを切ったばかりの立川にこんなにも丁寧に接する小山内という人間にほんの少しづつ親しみのような感覚を覚えていた。
一緒に初詣をしようということになって、三人は、まだ大勢の初詣客で賑わう明治神宮を参拝した。麻美抜きで、歩いていると、流石に妙な気持ちになってはいたが、この二人には相手の緊張を解させる何かがあった。
神宮外苑から赤坂のマンションまでは目と鼻の先だったが、小山内が立川に、少し彼と話したいからということで、操は遠慮し、先に自宅に帰った。
「立川君、お腹減ってないかい。」
「少し減りましたね。」
「なにか食べないかい。」
「でしたら、うどんはいかがですか。」
「おっ、そうか。君は本場出身だったんだね。どこか旨いうどん屋知ってるのかい。」
「頭取の口に合うかどうかは分かりませんが、近くで一軒知ってるんです。」
「立川君、その頭取ってのは止めないかい。なんだか仕事してるみたいで堅苦しいじゃないか(笑)。」
「でも・・・」
「小山内さんか、お父さんでどうかな。」
「じゃ、遠慮なくお父さんって呼ばせて頂きます。」
「それじゃ私も立川君じゃなく、これからは下の名前で呼ばせて貰うね。確か、悠樹君だったね。」
「なんだか、親子みたいでテレちゃいますね(笑)。」
「いやいや、本当の親子になる可能性が高いからね。」
「あっ・・・いや・・・(苦笑)それじゃ行きましょうか。」
立川の地元・高松は、大小合わせると数百件といううどん屋が軒を連ねているが、蕎麦文化が定着している東京は、驚く程うどん専門店が少ない。それだけに専門店を見つけては、入店し、味をチェックしており、それもささやかな楽しみでもあった。
目的の店は目と鼻の先にあり、正月三日でも営業していた。
「お薦めはなんだい。」
「お父さん、うどんはシンプルに限ります。釜揚げうどんにしませんか。」
「じゃ、それにしよう。でも、やっぱり本場のうどんとは味が違うのかい?」
「まあ、本場といっても全部が全部美味い訳じゃないですからね。ただ、値段は圧倒的に東京が高いですね。向こうじゃ一杯百円なんてうどんはザラですから。」
「一杯百円!そんなに安いのかい。しかし、それでよく経営が成り立つね。」
「原価が知れてますから。でもサービスなんかはいい加減な店も多いですよ。ただ、そのいい加減さがウリになってますから。」
「うーん、なんとなく分かるような気がしますよ。」
立川は周囲を見渡して、「こんなにオシャレな店なんか数える程度ですよ。」と言うと、小山内も店内を見渡した。
確かに小さな店だが、赤坂という場所にある関係か、店内は洗練されており、余計な調度品なんかは置かずに、シックで落ち着ける雰囲気の店だった。
「ところで、年末年始は高松でゆっくりできましたか。」
「そうですね。日頃は相撲部屋みたいな職場で働いているから、本当にゆっくりできました。」
「相撲部屋か(笑)。まあ、成長期にある企業ってのは、業種業態は違えど、概ね相撲部屋的な要素はあるね。」
「未だに、出社して部屋に入るときは多少の緊張があるんです(笑)。」
「上塚さんのイズムが悠樹君のような新入社員にまで浸透してるんだから、ある意味凄いことだよ。」
「でも、社長とは言葉を交わしたこと一度もないんです。末端社員だから仕方ないかも知れませんが、それに、なんかいつもムスっとして、不機嫌そうな顔してるじゃないですか。そういえば笑った顔って見たことないですよ。」
「彼は昔からあまり笑わない人でしたよ。私は仕事柄何度もお会いしてますが、それでも冗談一つ聞いたことないですね。その分、好意的に解釈したら、信用のおける経営者ではあるんですよ。」
「背負ってるものが僕等とは違うんでしょうね。」
「まあ、一代であそこまで大きくした人ですからねー。計り知れないご苦労があったでしょうね。でも念願だった株式上場も、あと二週間後だし、上塚さんにとっては感慨深いことでしょうね。」
「上場ってそんなに大変なんですか。」
「そりゃ大変だよ。特に上塚さんの場合、殆ど自己資金ゼロから初めて、僅か十数年で、上場が狙える企業に成長させたんだから。ご家族を始め、色々なものを犠牲にしてきたんじゃないかな。並の人間じゃできないよ。」
立川なりに上塚という人間を想像していたら、注文していた釜揚うどんが運ばれてきた。コシの強い釜揚うどんを食べながら、小山内の話は、麻美のことだと思いつつも、なかなか小山内はそのことに触れようとしなかった。
その頃、麻美は高校の同窓会に出席していた。西麻布のイタリア料理店「プレーゴ」を貸しきっており、参加者総勢二十名が、六年振りに再会した同級生の変化に驚いていた。中でも麻美は高校時代から性別を問わず、大勢のクラスメイトに慕われていた。皆、二十五歳ということで、特に女性は、結婚という現実的な問題に直面していた。特に仲良しだった水泳部の荒木翠が、著名な国会議員の二世と結婚することになり、同じく水泳部でも泣き虫で有名だった淡路聡子も、三十二歳の公認会計士と結婚が決まっていた。司会進行役の松田洋二が、酔っ払ってマイク片手に大きな声を張り上げ、
「えー、皆さん。ビッグニュースです。我が一条高校が誇る、水泳部の「かしまし娘」の荒木翠さんと、淡路聡子さんが、六月に結婚することとなりました。おめでとうございまーす。」
参加者全員が、おめでとうを連呼した。しかし、悪酔いした松田は、更に大声を張り上げ、
「この水泳部の中で、翠も聡子も人妻になるってことだけど、俺はもう一人の存在が気になるんだ。あさみーーー、お前はどうなんだーーー。」
急に振られた麻美は真っ赤な顔になっていた。
「あさみー、お前、結婚の予定あるのかー。男連中は、あさみの今を知りたくないかー。」
すると、大勢の男性が調子付いて、一斉に「知りたーい。」と、声を揃えた。無理やりマイクを持たされた麻美は、
「お生憎様、今はまだ学生です(笑)。」
「青い目の彼氏がいるんじゃないのかー。」
「私は黒い目が好きなんです(笑)。」
「イギリスで女優デビュー考えてるんじゃないのかー。」
「松田君こそ東映の任侠映画で、高倉健に殺される役で、デビューするって聞いたけど(笑)。」
いなそうと思っても、酔っ払った松田には通じなかった。
「あさみー、お前が姐さん役ならいつでもOKだぞー。」
すると、水泳部キャプテンの原正之が、助け舟を出した。
「松田、お前、翠が結婚するって知って、落ち込んでたじゃないか。」
「正之、それは内緒だっていったじゃないかー(笑)。まあ、プリンス正之が、プリンセス麻美を庇うのは分かるけど、俺たちみんな、お前等二人は交際してるんじゃないかって噂してたんだぞ。その辺りを正之の口から喋って貰おうじゃないか。みんなー、聞きたくないか~!」
マイクを無理やり待たされた正之は、少したじろいではいたが、観念したのか、しっかりした口調で話し出した。
「麻美を意識したのは三年の夏の終わりからなんだ・・・」
松田が、ここぞとばかりに野次を飛ばした。
「やっぱり意識してたんだ。この野郎~!」
「おい、酔っ払い。黙って聞け(笑)。水泳部の練習は、今考えると、よくぞあそこまで出来たと思える程、厳しいトレーニングの毎日だったんだ。最後の大会は八月二十五日だったから、夏休みの二週間は、男性五名・女性五名の計十名で、木更津で合宿を張ったんだ。とにかく大会までにコンディションを最高に持って行きたかったから、合宿では鬼になった。あまりに過酷なトレーニングに逃げ出す奴まで現れる始末だった。特に女性は泣き出す奴ばかりだったんだ。聡子なんかは毎日泣いてた記憶しかないんだ(笑)。そんな時に、麻美はいつも、笑顔で励ます役に徹していた。正直不思議だったんだ。これだけ厳しいトレーニングをしてるのに、なんでこいつはこんなに明るいんだ。辛くないのかと・・・。そしてなんとか合宿を乗り越え、大会当日を迎えた。女性部員たちはメドレー競泳一本に絞っていた。トップバッターの背泳ぎは、泣き虫の聡子だったが、聡子は俺たちが想像できないような泳ぎで、堂々の一着だった。次に翠の平泳ぎだ。緊張気味の翠に麻美が何か話しかけたら、横で見ていた俺でさえ、翠の緊張が解れている様子が伺えた。結果はまたしても僅差ながらトップだった。そしてバタフライだ。二年生の絵里は素晴らしい泳ぎをしたが、相手は、都の記録保持者だったから、僅かに抜かれて二位になっていた。それでも差はほんの一メートルもなかった。そしてアンカーが麻美だ。麻美は渾身の力を振り絞って追い上げた。結果はみんなも知ってるようにタッチの差で二位だった。みんなプールから上がっているのに、麻美だけが上がってこない。泣いてるんだ。それも号泣していた。どんなに苦しいトレーニングでも麻美だけは泣かなかった。そんな麻美が、人目を憚らずに泣いていた。その後の表彰式でも、三人の素敵な笑顔の横で、麻美は泣き続けながら手を振っていた。今度は三人が、笑顔で麻美を励ましていた。その頃からだ、俺が麻美を意識するようになったのは。でも、高校生だ。それ以上のことは言えなかった。以上だ。」
原正之の言葉は、参加者全員を高校生にタイムスリップさせていた。同時に、もうあの頃には戻れないという現実が、全員を少しセンチメンタルな気分にさせた。麻美は、原の言葉を聴きながら、六年前の自分を見つめ直していた。
その後は、大いに盛り上がり、二次会の店を松田がマイクで荒っぽく喋っていたが、原正之が、麻美の耳元で小さく囁いた。
「次、決めているから一緒に行かないか。」
原との再開は麻美も楽しみにしていたから、快く了承した。原は、情熱的な男性で、強烈なキャプテンシーと同時に、男らしい優しさを兼ね備えている、その時代には珍しい硬骨漢だった。
同窓会の会場から目と鼻の先にある「キューブリック」という小さなパブに入店した麻美は、他の同級生がいないことに初めて気付いた。
「あれ、みんなは?」
「いや、麻美と二人っきりになりたかったんだ。」
少し複雑な気持ちになったが、それでも明るく振舞った。
「さっきは有難う、助かったわ(笑)。」
「久しぶりだな。お前が出席するっていうから俺も参加したんだ。それにしても六年かー。光陰矢のごとしだな。」
「でも原君ちっとも変わってないよ。」
「お前は変わったな。」
「おばさんになった?(笑)。」
「いや、益々美しくなったよ。」
「口が上手くなったところは少し変わったわね(笑)。ところで、今、仕事何してるの?」
「あれっ、知らなかったのか?実は俺も今は学生なんだよ。一旦保険会社に就職したんだけど、どうしてもアメリカのアイビーリーグに入学したくて、今年からハーバード大学に入学して、経営修士号を目指してるんだ。」
「ハーバード!凄いじゃない。」
「入るのも難しかったけど、出るのはもっと難しい(苦笑)。毎年、自信をなくした生徒の自殺者がでるからな・・・。」
「将来は何を目指してるの。」
「ハーバードは卒業イコール、巨大投資銀行や世界的コンサルタント会社ってイメージがあるけど、起業する奴の方が尊敬される風土もあるんだ。一日平均睡眠時間三時間ってのもざらだし、能力よりも精神力がないと続かない校風なんだ。今は暗中模索ってところかな。」
「そういえば、高校時代から、将来は大きな仕事をしたいと言ってたね。」
「そう、高校時代から麻美が好きだった。」
「はぐらかさないでよ(笑)。」
「真剣なんだよ。俺と交際しないか。」
明らかに原の目は真剣そのものだった。
「本気なの?」
「本気だ。」
「・・・」
「さっきの話は真実なんだ。大学に入ってからも思い続けていた。でもあの頃は言い出せなかった。言葉に出すと、お前との関係が壊れてしまうのが怖かった。でも今は違う。正直に言わない方が怖い。」
麻美は突然の成り行きに、どう対処したらいいのか分からなかった。
「私・・・交際してる人がいるの・・・。」
麻美の言葉は、想像以上に原正之にとっては衝撃的だった。二十五歳の独身の美しい娘が、恋人がいるという当たり前といえば当たり前の言葉だったが、原はその言葉を受け入れたくなかったし、男らしく引き下がるつもりもなかった。
「どんな男かは敢えて訊かない。でもこのまま引き下がるつもりは全くないんだ。いつか麻美を、その男から奪い返す。誓ってそうする。」
「そんな・・・困る・・・。」
麻美の動揺振りに、獰猛なジェラシーが湧き上がった原は、サディスティックな感情になっており、爆発しそうだったが、僅かに残った理性で、その感情を制御していた。
頭の回転が速い原は、これ以上麻美を追求することが、マイナスになることを察し、複雑な笑顔を造り、
「そんな辛い顔しないでくれ。もう帰るよ。でもこの気持ちに変わりはないってことは覚えておいてくれよな。」
そういい残すと、風のように去って行ってしまった。一人、取り残された麻美は、重い気持ちになっていた。麻美は決して、原を嫌いという訳ではなく、逆に同じ水泳部員として高校時代を共に過ごした原を尊敬もしていたし、頼りにもしていた。ただ、原の言葉によって、改めて立川の存在が、麻美の心を支配してることに感じずにはいられなかった。
さぬきうどんを食べ終わり、小山内は、立川に「そろそろ出ましょうか」と、言った。立川としたら、麻美とのことを色々訊かれると思っていたので、肩透かしを食らったような気持ちになっていた。何故、小山内は麻美のことに口を開かないのか・・・。では何故自分を誘ったのか・・・。その気持ちが理解できずに、思わず自分から口を開いていた。
「お父さん、どうして麻美さんと、僕のことを訊かないんですか。」
立川の問いかけに、優しい笑顔で答えた。
「君と麻美の何を訊けばいいの?」
「だって・・・。」
「麻美が君と交際している。父親として、私は君という人間を知りたかった。そしてこうやって君を知ることができた。それで十分ですよ。」
「こんな僅かな時間で、僕の何が分かったんですか?」
「優しくて、正直な青年だということが分かっただけで十分です。」
「・・・。」
この時、立川の脳裏には様々な葛藤が交差していた。小山内の言葉は本当なのか・・・訊くに値する人間だと認めてないのか・・・もう見切りをつけられたのか・・・マイナス発想だらけだった。気落ちした立川の顔を見た小山内は、立川が誤解していることを逸早く察し、今度は真剣に語りかけた。
「悠樹君、少し言葉が足りなかったから、誤解してるみたいだね。私は当人同士の心を大切にしたいんです。お互い好きな者同士が交際をするのが自然の摂理じゃないのかな。私は全面的に応援させて頂きますよ。」
この小山内の言葉に立川は疑心暗鬼に陥っていた。
「本当ですか・・・。」
小山内は立川の誤解を解かなければならないと思い、改まった口調で彼の心の奥底にある真実を語り出した。
「悠樹君、君も知ってる通り、私には戸籍上の家族があります。そして子供だっています。麻美の母親、つまり操と私は、銀行の上司と部下の関係でしたが、深い仲になってしまい彼女の人生を大きく狂わせてしまった。私とさえ、こんな関係にならなかったら、操は日陰の人生を歩むことはなかったんです。
麻美が生まれる前、私は、何度も何度も、早く別れて操にまっとうな人生を送らせなければならないと思ってました。一人の女性の人生を狂わせてしまう権利が私にある筈がない。しかし、別れようと、思えば思うほど、操への愛情は深まるばかりでした。
そんな時、麻美が生まれたんです。結婚もしていない一人の女性が、同じ職場の既婚男性の子供を生んだ。この事実は、その後の彼女の人生を決定付けてしまいました。
操は私に対して何も要求しない女性なんです。それどころか、絶対に離婚しないで欲しいと、言い続けてきました。私は腹を決めました。社会通念やモラル、そんなもんが何だって言うんだ。操の覚悟と比べたら、人間社会の常識や、社会通念なんか陳腐にさえ感じ、私の人生を賭けてこの母娘を守り抜こうと強く決意しました。
娘の麻美は家庭環境など関係なく、すくすくと育ちました。親バカと言われるかも知れませんが、可愛くて仕方ありません。そんな麻美に好きな男性ができたということを操から聞かされた時は、正直ショックでした(苦笑)。私には戸籍上の娘がいます。麻美より五歳上で、もう嫁いでいます。不思議なことに、その娘が結婚する時は寂しいという感情はあまり感じませんでした。
二つの家族を持ちながら、今でも心は操と麻美への愛情で一杯です。当然本妻は絶対に私を許さない筈です。本妻には何の落ち度もありません。入行して以来、銀行員の妻として私を支え続けてくれました。彼女への裏切りは明白です。私は大きな罪を犯した人間だから、必ず罰を受ける時が来ることを覚悟しています。しかし、麻美には何の罪もありません。自由闊達に自分の人生をまっとうして欲しいんです。そして愛する人と結ばれて欲しい。この気持ちに嘘偽りはありません。重い十字架を背負った、罪深い父親から、勝手なお願いですが、どうか麻美のことを宜しくお願いします。」
小山内は深々と頭を下げた。立川は、この金融界の大立者が、私生活で人知れずこんな苦労をしていたことに、人間の業の深さのようなものを感じつつ、小山内が操を守ったように、自分も麻美を守り抜こうと、静かに心に誓っていた。
時代はいよいよ九十年代に突入した。出社した一月七日は空気そのものが全く違っていた。本社に配属されている管理職約五十名は、通常出社ではなく、午前六時にパシフィックタワー内にある会議室に集合していた。株式上場を二週間後に控えた企業の経営者として、万全の体制を整えておきたかった。
上場した以上は、上塚としても、「俺の会社」という認識を捨て去り、株価の上昇を義務付けられる立場になる。いつ首を切られるかも分からないし、仕手集団に狙い撃ちされる可能性だってある。しかし、そんなネガティブな考えよりも、永年持ち続けてきた夢を実現できるというポジティブな思いの方が遥かに魅力的だった。それだけに、単なる年始の抽象的な訓示とは違い、物凄い形相で語り出した。
「皆さん、新年明けましておめでとうございます。年明け早々いよいよ株式上場だ。これからが本当の戦いになる。そしてこの戦いに勝ち残って、俺たちが業界の頂点に君臨するんだ。邪魔する奴は徹底的に息の根を止めろ。絶対に引き下がるな。勝ち抜くんだ。」
と、まるで有事の際の戦士に語りかけるような言葉だった。正月ボケしている多数の管理職も、この鬼神のような言葉に、一瞬で現実に戻った。上塚得意のパフォーマンスと同時に、彼の本心でもあった。
次にIPO準備室長の北野健吾から管理職に向けて、具体的な指示が出された。
「二週間後に株式を上場します。それにより莫大な資金が調達できます。上場企業である以上、大勢の株主から注目されていることを肝に銘じておいて下さい。また、管理職の皆様には現在抱えている諸問題を、出来る限り早急に解決に向けて努力して下さい。小さな問題であっても、それを引きずったまま株式上場になるのではなく、解決できる範囲であるならば、クリアーしてから上場に臨もうではありませんか。引き続き、各部門においては、部長職の皆様方に残って頂き、上場に向けての最終チェック、並びに上場後のビジョンについて、しっかりとコンセンサスを確認しあっておきます。部長職の皆様方には面談時間を書いた資料を配布しております。経営陣と、管理職が同じベクトルに向くように徹底的な話し合いをお願い致します。」
記載されたスケジュールは以上の通りであった。
八 時~・総務部・経理部
九 時~・人事部・秘書部
十 時~・経営企画室・IPO準備室
十一時~・事業部・宣伝部
十三時~・東日本支店
十四時~・西日本支店
十五時~・本社営業部
役員室で開かれた首脳会議は、固定メンバーとして、社長の上塚・専務の松木・準備室長の北野。それ以外は各部門の担当役員及び部長職が入室し、問題点の見直しと同時に、上場後の新しいビジョンについて腹を割って話し合っていた。
午前中は管理部門をメインとした会議だったが、それぞれが、上塚の想像以上の問題点を抱えていた。営業色の強い企業だけに、管理部門は責任者に丸上げしていた感が強く、上塚自身が知らないことも多々あった。しかし、管理部を預かる者たちは概ね忠誠心が強い人間が多かった。正確に言えば、忠誠心というより、与えられた仕事を黙々とこなす職人タイプの人間が多く、野望を秘めている人物は皆無であった。それぞれの考え方を知る絶好の機会なので、上塚から彼等に、将来的にどうすれば良いかを丁寧に質問してみた。管理部門の部長職は、上塚からめったに意見を訊かれる事がなかったので、緊張しながらも、改善策を積極的に提案した。
提案する以上は、会社に対しての強いロイヤリティーがある証拠だから、上塚も上機嫌で彼等の提案に、積極的に協力する姿勢を示した。彼等との話を進めていく内に、自分が経営者として営業本位になりすぎていたことに気付き、反省させられることが多かった。
宣伝部の部長などは、上場後の宣伝業務を驚くほど明確に整理しており、今の宣伝業務の欠点を具体的に上塚に進言し、今後の方向性を情熱的に語り出した。
午前の部が終了し、会議用弁当を食べながら、上塚は上機嫌で、北野に語りかけた。
「午前中の彼等を見る限りにおいては、独立しようとする輩など皆無だったんじゃないのかい。」
「正直、私もそう感じました。逆に宣伝部門が、あんなにモチベーションが高かったとは驚きです。彼等はクリエーターだから真面目すぎてもダメなんです。多少の遊び心がないと、いいコマーシャルメッセージや、パンフレットを創れないのですが、その分、遊び人が多い部署でもあるんで、一抹の心配はしていたんですが・・・。結果的に株式上場が、彼等のクリエーター魂に火をつけたみたいで、あれなら上場後も素晴らしい宣伝活動が望めますね。」
しかし、横でこの会話を聞いていた専務の松木が、口を開いた。
「社長、この際、上場後のCMキャラクターを巧(五十嵐巧)から他の誰かに変更してみてはどうでしょうか。」
「ん、巧では何か問題でもあるのか?」
「いえ、問題ということではないのですが、心機一転ということで・・・。」
「いや、それは無理だよ。大川先生の顔を潰すことにからな。」
「しかし、宣伝部門は私が担当しておりまして、部の連中も、そろそろ変えた方がいいんじゃないかと申し出ておりますが・・・。」
「いや、それは無理だ。何か不都合なことがあれば話は別だが、何の問題も起こしていない巧を変えることはできない。もう少し、巧で我慢してやってくれ。」
松木は無理強いすることなく承服した。
「承知しました。」
「ただ、私生活だけはチェックしておいてくれ。イメージを損なうと元も子もないからな。」
北野は食事を終わって、コーヒーを飲みながら核心を突いてきた。
「問題は午後からですね。特に営業の実力者の腹の内です。彼等が裏切ると厄介なことになります。いや、引き抜かれることだって考えておかなければなりません。特に顧客情報と、用地情報が漏れると、今後の戦略に狂いを生じますから・・。」
上塚は腕組みをし、口をへの字に曲げたまま深い溜息を吐いた。傍らで見ていた北野は、彼が頭をフル回転させながら、一人ひとりを分析していることを察していた。そして短い時間が経過した後、彼なりの結論が出たのか、吹っ切れたような表情で、語り出した。
「どう考えても、独立して反旗を翻す奴はいないよ。勿論科学的根拠はないし、経営者の勘という君の嫌いな結論かも知れないがね・・・。」
北野は、上塚の判断を尊重しながらも、
「いや、それなら問題はないんです。どう考えてもあなたが一番この会社を理解している訳なんだから。ただ、機密情報の徹底した管理は今後も続けられることをお薦めします。これからの時代は情報戦になる可能性が極めて高いですから。ところで、午後からの営業部門の会談では何をキーワードにするおつもりなんでしょうか?」
「勿論、管理職の心中を探ることも考えているが、とにかく拡大する経営戦略に営業が結果を伴えるかどうかが心配なんだ。もう一つ心配なことは、上場企業となったら、過去にやってきたようなドライな方法が通用するかどうかだ。飽食の時代に生まれた彼等だ。目を吊り上げて結果を出すことに拘ってくれるのだろうか?能力や偏差値が高い新入社員ほど、猛烈な営業職を嫌がるんじゃないだろうか。しかし、それをやらないと結果は出せない。結果が出ないと、業績は衰退する。この矛盾にどう対処するかだな。」
「難しい問題ですね。大量採用したら余剰人員を抱えることになる。かといって少数精鋭では賄いきれない。如何に多くの社員を経営者と同じ目線にするかですが、これは非常に難しいことですね。元来、経営者と社員は、対極にいるもんなんです。二・六・二の原則の通り、経営者の概念を持ち合わせている社員は二割いたら御の字です。現実は一割どころか五パーセントも存在しないんじゃないでしょうか。出世欲と、経営者の概念とは全く別物だということを日本の多くの経営者は誤解してます。」
「午後からは青山と樋口だな。時間はずらして行う予定だったが、急遽変更して二人一緒に面談しよう。彼等は絶対に必要な人間だ。二人とも対等な関係であることを理解させ、本社の主要ポストに就任させよう。」
この言葉に沈黙していた松木が、心配そうな顔つきで問いかけた。
「もう腹案はあるんですか。」
「彼等にピッタリのポストを考えているから専務も期待しておいて下さい。」
北野は、含み笑いを浮かべながら悦に入っている上塚に、専務取締役でさえ、人事の行く末を聞かされていないのかと、改めてこの会社の歪んだ体質を思い知らされていた。そしてその不安は、見事的中し、予想もしない展開へと発展していくのだった。