恋ごころ
十二月二十四日・クリスマスイヴの夕刻、エースデベロッパーズ本社営業本部一部二課では部長の石原が、部下二十数名全員を呼び寄せていた。
「今夜はイヴだ。俺はクリスチャンではないけど、みんなも今夜ぐらいはゆっくりしたいだろう。家庭持ちは寄り道せずに、まっすぐ家に帰って下さい。また、独身者はたまには彼女とデートでもしてくれ。」
すかさず木之元がからかい半分に、
「部長、独身で、彼女がいない奴はどこに行けばいいんですか(笑)。」
「ナンパでもしてろ。」
全員がどっと沸いた。クリスマスイヴのこの時期、真っ直ぐに家に帰れるのは本社の営業部の中では営業一部のみだった。ノルマが達成できていない他の営業部は通常勤務であり、立川はそんな人たちを心底気の毒に思いつつも、この日を指折り待ち侘びていた。クリスマス休暇で澤村麻美がイギリスから帰国したからだ。何度かオックスフォードに手紙を出し、イヴに約束を交わしていた。身支度を整え、麻美と操へのクリスマスプレゼントを大切そうに抱え、パシフィックタワー一階ロビーを足早に歩いていると、古木敬一郎と遭遇した。古木はからかい半分に、
「なんだ、やけに急いでるけどデートにでも行くのか。」
「えっ!」
どうしてこの男はこんなに鋭いんだろうと驚いていたら、
「なんだ図星か。どこで待ち合わせしてるんだ。」
「・・・赤坂なんだ。」
「じゃ、駅まで一緒に行くか。」
二人は日比谷駅まで歩き出した。このビジネス街においても、師走の慌しさと、クリスマスイヴの喧騒さが交じり合っており、すれ違う人たちは、その殆どがサラリーマンで、紺のスーツに地味なネクタイをし、手には家族のためにケーキを提げた人たちが目立った。
立川は、この仕事の鬼のような古木敬一郎が、どんなクリスマスイヴを過ごすのかが気になり、探りを入れてみた。
「古木もデートなのかい?」
古木は淡々とした表情で、
「いや、契約交渉だ。」
流石に驚きを禁じ得ず、
「交渉って・・・。こんな日にか。」
「こんな日だからいいんじゃないか。クリスマスイヴに契約をする。これはこの夫婦にとって一生忘れない思い出になるからな。」
やっぱり何かが圧倒的に違うと感じつつ、
「君のことだから特別な仕掛けも準備してるんだろ。」
「そんな大袈裟な(笑)。今回はご主人が公務員なんだ。安定した職業なんだけど、若いから収入に若干の不安があったから、奥さんに安心して長く働ける仕事を世話してあげたんだ。」
仕事を斡旋したという言葉に立川は益々驚き、大声で、
「どんな仕事を世話したんだ。」
「なんだよ。そんなに興味あるのか。」
「君に興味のない社員なんて社内で一人もいないよ。」
古木は苦笑いしながらも、急に真顔になって云った。
「一人いるよ。うちの課長だ。」
一課の立川は、隣の二課に配属されている古木と、六本木で呑んで以来、休憩時間等にはよく話すようになっていた。しかし、冷静に思い起こせば課長の倉前と古木が会話している姿をここ数ヶ月見たこともなかった。
「倉前さんとはそんなに上手く行ってないのか。」
「正常な関係とは云い難いな。」
「部長は知ってるのか。」
「勿論だ。そのことで何度か話し合ったよ。気に入らない上司だから口も利かないでは世の中通らない。倉前課長も、彼なりの努力であの地位まで行ったんだから、もう少し課長を尊敬しなさいって云われた(苦笑)。多分、あの部長のことだから、倉前さんにも同じように「部下を大切にしろ」って云ってると思うけどな。でも感情的になってるのは課長の方なんだぜ。」
「職場で孤独を感じることなんてないのか。」
「寂寥感ってことか?ないない。この仕事は力あるのみだよ。」
強がって言ってないだけに、この男の真髄を垣間見た気がして、思わず本音を漏らしてしまった。
「まさに孤高の天才ここにありだな。俺なら耐えられないよ。」
この言葉に古木は少し気分を害したらしく、厳しい口調で、
「立川、俺たちは個人事業主なんだ。確かに会社の規模は大きいかも知れないが、それは看板のみであって、実情はたった一人の『立川商店』であり、『古木商店』なんだ。その小さな商店の集合体がエースデベロッパーズだと俺は思っている。心配してくれるのは有難いけど、俺はこんなクソみたいなことで悩んだりなんかしないぜ。それより、俺の気持ちがお前に理解されてなかったことの方が辛いぜ。」
最後の言葉は立川の胸に突き刺さった。なにより、めったに感情的になることはない古木だっただけに、彼の感情を逆撫でしてしまったようで、申し訳なく思い素直に謝罪した。
「ごめん、軽率な言葉だった・・・。」
素直に頭を下げる立川を苦笑しながら見ていた古木は、
「相変わらずだなお前は。どうしてそんなに直ぐに謝るんだ。もっと自己主張すればいいじゃないか(笑)。」
「なんか傷つけてしまったように感じたから・・・。」
「ご心配なく。そんな繊細さは持ち合わせておりません(笑)。それより質問ってなんだったっけ?」
「あっ、えーっと、あれ?なんだっけ?」
「そうだ、どんな仕事を紹介したかだったな。」
「あっ、そうそう、どんな仕事なの?」
「この奥さんは英語が堪能だったから、出版社の翻訳業務を紹介したんだ。翻訳だから出勤せずに自宅でできるし、出社は週に一度だけ、出来上がった原稿を渡し、新しい原稿を貰うだけだ。奥さんはそのことも気に入ってくれたんだ。毎日家にいて翻訳ばかりしていたら気が滅入るし、オフィス街へ出て行けることも気分転換になるって。それに子供が生まれた後も続けてできるしな。ご主人も、外に行かなくていいということで凄く喜んでくれたんだ。収入も定期収入として五年間は月に九万五千円で成立した。五年後に再契約って訳だ。それに五年経ったら、ご主人の給料も上がってるから、益々生活は楽になるって訳だ。」
「よくそんな出版社を知ってたな。」
「その出版社の東京支社長も俺のお客様なんだ。」
「そういうことか。ところで、どこの出版社なの?」
「オランダに本社がある、アムステルダム・サイエンス社だ。生物学の中では世界一の歴史があるそうだ。内幸町に東京支社があるよ。」
「それにしても凄いな。仕事の面倒までみるなんて。」
「契約における障害をソリューションしていくことも営業にとっては大切なことだしな。」
「また英語か・・・。俺はバカなんだから日本語で云ってくれ(笑)。」
「問題解決って意味だ。先進的な企業ではソリューション事業部って部署がある会社も増えてきたんだぜ。」
「相変わらずよく勉強してるなー。」
「こんなの勉強の内に入らないよ。それよりデートの相手はオックスフォードか?」
急に話を振られた立川は赤面しながら、
「まあ、デートって程のもんじゃないけどね。」
「お前こそ、相変わらず初だな。ミス・オックスフォードとはどこまでいったんだ。」
「やめてくれよ。本当にそんな関係じゃないんだから。」
「クリスマスプレゼントはもう買ったのか?」
「買ったよ。君の長靴がヒントになった(笑)。」
と、いいながら左手に持った紙袋を軽く持ち上げた。
「長靴がヒントだって(笑)。」
「まあ、いいじゃないか。」
この手の会話が元来苦手の立川は喋り難そうだった。
「そっかー、青春してるなー(笑)。でも、今日はイヴなんだからバッチリ決めろよ(笑)。じゃ、先に行くぜ。頑張れよ。」
古木は颯爽と去って行った。立川はそんな古木の後姿を見ながら、この男には逆立ちしても適いっこないと痛感していた。
地下鉄赤坂見付けの駅から徒歩五分の場所にあるヨーロピアンレジデンス・赤坂シティーは十二月十五日の入居日以来、約十日間で、半分近くが引越しを終え、入居していた。立川と初契約を交わした澤村操も二十日に引越しが終了しており、娘の麻美も一週間前に帰国していた。緊張しながらインターホンを鳴らすと、直ぐにドアが開いた。
「いらっしゃい、立川君。どうぞ、上がって頂戴。寒かったでしょ。もうお食事の準備はできてますからね。」
澤村操はいつものように、こぼれるような笑顔で立川を迎え入れた。
「こんばんは操さん。引越しでバタバタしてる時にお邪魔してご迷惑じゃなかったですか?」
「大歓迎よ。あなたが一番最初のお客様なのよ。」
紺のスカートにゆったりとした白いセーターが絶妙に似合っており、初対面の時同様に、操は年齢を感じさせない美しさと気品を保っていた。
「麻美は近くに買い物に行ってるけど、直ぐに帰りますから、どうぞ中に入って。」
長い廊下の正面にあるドアを開くと、四十畳程の広いリビングダイニングが広がっていた。女性が暮らしているだけに、部屋は繊細にコーディネートされており、いたる所に花が活けてあった。
自社の商品でありながら、一億三千万円のマンションの部屋を直に見たのは初めてだったので、洗練されたその造りに驚いていた。立川は業者として何か言わなくては思い、たどたどしい口調で、
「何か暮らしに不都合なこととかございませんか?」
と、尋ねたら、そんな立川の緊張を察した操は、母性溢れる口調で、優しい笑みを浮かべながら、
「とても快適よ。毎日、朝起きるのがとても楽しみなの。本当に買って良かったと思ってるのよ。それもこれも立川君、君のお陰よ。本当に有難う。」
この操の深い愛情に、立川は今更ながら心の中で感謝していた。そして恥ずかしそうに、紙袋を差し出し、
「今日は操さんに、クリスマスプレゼントを持ってきたんです。」
操は驚きの表情を浮かべ、
「えっ、私に!そんな、気を遣わなくていいのに・・・。」
「いえ、気を遣わなくていいプレゼントですからご遠慮なく。」
「でも・・・」
「どうぞどうぞ、でもそんなに期待されると困るなー。」
「そんなことないですよ。じゃ遠慮なく頂きます。」
とても嬉しそうに受け取ると、操が立川に向かって、
「開けてみてもいい?」
「どうぞ」
袋の中にある箱を開けると、婦人用のウォーキングシューズが入っており、メイドインイタリーと記載されていた。
「これってイタリア製じゃない。こんな高価なシューズを本当に頂いていいの?」
「高価だなんて。操さんにはいつまでも健康でいて欲しいから。よかったら、それ履いて赤坂の街を散策してみて下さい。」
「本当に有難う。大切に使わせて頂きます。」
操は感謝の心を精一杯表した。その時、玄関先から麻美の声がした。
「ただいまー。ママ、外は雪が降ってるよ。」
麻美の声を聞いた途端、立川は緊張と嬉しさで膝が震えだしていた。そして、リビングのドアが開いた瞬間、直立不動になって挨拶した。
「お帰りなさい、麻美さん。お会いしたかったです。」
一目見て、かなり緊張していることを察した麻美が、敢えて人懐っこく、「あっ、立川君いらっしゃい。寒いねー。」と、言うと同時に、立川の頬に両手をあてがった。まるで、母親が小さな子供にする仕草のようだった。この予期せぬパフォーマンスに、立川は口をパクパクさせ、心臓の鼓動が高鳴っていた。久しぶりに見る麻美は、健康的な美しさに益々磨きがかかり、正視できないほど輝いていた。
「さ、寒いっすね。おお元気でしたか・・・。」
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。今日はゆっくりできるんでしょう。寛いで行ってね。」
二歳年上の麻美は、なんとか立川の緊張を解そうと極めて自然な口調で立川を迎え入れた。それは、母親の操も同じで、嬉しさを前面に表し、
「麻美、立川君からクリスマスプレゼント貰っちゃったの。」
操が嬉しそうに、ウォーキングシューズを麻美に手渡した。
「素敵なウォーキングシューズね。そうか、だから手紙でママの足のサイズを訊いてたのね。ママね、十年前までは永福周辺をジョギングしてたのよ。でも、今はウォーキングに変わったから、今のママにピッタリのプレゼントね。」
「あっ、勿論麻美さんにも。」
もう一つの紙袋を麻美に渡した。
「えー、私にも。有難う。でも、お金使わせちゃったね。」
「とんでもないです。気に入って貰えるかどうか不安ですが、開けてみて下さい。」
中には、マフラーと手袋が入っていた。
「わーっ、綺麗なマフラーねー。あれっ、手袋も入ってる。んっ、これもイタリア製じゃない。ママにも私にもこんなに高価なプレゼントを・・・。大丈夫なの?」
「そんな、大丈夫ですよ。でも、若い女性にプレゼントすることなんて初めてなんで、迷ったんだけど、イギリスは多分寒い国だと思うし、麻美さんのイメージに合わせるのに苦労しました(苦笑)。」
「素敵なプレゼント、どうも有難う。」
「お二人に気に入って貰えて嬉しいです。」
二人の会話を笑顔で眺めていた操が、そろそろ食事にしましょうと、ダイニングに誘った。
「立川君は好き嫌いってあるの?」
「いえ、なんでもOKです。」
「良かった。今日は麻美と二人で造ったのよ。」
テーブルの中心にはローストビーフが置かれており、その隣に色とりどりのサラダが並べてあった。
「先ずは、スープから召し上がってみてね。スープといってもシチューに近いかも知れないけど。」
出されたスープは見たこともないような料理だった。
「いただきます。」
一口食べて、その濃厚な味に、若い立川は不思議な感覚を覚えた。しかし決して不味くはなく、口にしたことがない新鮮な味わいを感じていた。立川がスープを一口食べてる様子を、操と麻美が食い入るように見つめており、視線を感じた立川が、思わず尋ねた。
「どうしたんですか?」
二人は示し合わせたように、「美味しい?」と問い掛けた。
「あっ、ごめんなさい。食べてばかりいて・・・とても美味しいです。」
二人は申し合わせたように、
「本当?」
「本当ですって。でもこの食感は初めてなので、新鮮ですね。普通のクリームシチューとは違った味がするし、肉じゃなく魚が入っているのも珍しいですね。不思議なのはちっとも魚臭くないす。これなんて料理なんですか。」
麻美が安堵した表情で答えた。
「カレンスキンクスっていうスコットランドの伝統的な家庭料理なの。向こうじゃトラディショナルなスープとして有名なんだけど、日本にはあまり伝わってないの。本当はもっとポピュラーなものにしたかったんだけど、折角イギリスから帰ってきたので、立川君にイギリスの料理を味わって貰いたくて。」
「麻美さん、これいけますよ。なにより体が温まりますね。寒い日にはもってこいだし、とてもクリスマスらしい料理ですよ。それと、この魚はなんなの?」
「なんだと思う?」
「歯ごたえもあるし・・・なんだろう?」
「実は鱈の燻製なの。日本人が味わってる鱈とは全然違うでしょ。」
「へー、鱈ですか。鱈って柔らかい印象があったけど、燻製にしてるからこんな食感になるんですね。あっ、このスープおかわりできますか?」
麻美が操を眺めながら、なにやら勝ち誇った表情で、
「ママ、私の勝ちね。」と云った。
立川は若干怪訝そうな表情で、
「???勝ちってなにが?」
操は苦笑いしながら、
「いえね、珍しい料理だから、君が戸惑うと思ったの。でも、君は優しいから、不味くても必ず美味しいって云うわよって麻美と話してたの。」
「そんなことないですよ。この料理気に入りました。この料理名、もう一度教えて。」
「カレンスキンクスよ。」
「なんだか人の名前みたいで、覚え難いですね。カレンで覚えときます(笑)。」
それからは、麻美の大学院での生活や、立川の仕事の話で盛り上がった。そして、操も麻美も、半年前と比べれば、かなり大人びた立川に気付き始めていた。操はこの青年が、東京という街で一人で頑張っている姿を想像し、
「立川君も、大きなお金を動かす不動産のお仕事って大変じゃないの。」
「一番大変だったのは、地名が全く分からなかったことですね。生まれは四国だし、大学は関西だったから、東京はさっぱり分からなかったんです。最初はお客様の言ってる地名がさっぱり分かんなくて、お客様からは、お前地名も知らずに不動産の仕事をしてるのかって叱られてばかりいましたが、やっと少しだけどわかるようになってきました。
「今はどこに住んでるの?」
「板橋の東武練馬です。」
「板橋から日比谷までじゃ遠いねー。」
「一時間以上かかりますからね。でも、もう慣れましたよ。」
「あれからお仕事は順調なの?」
「それが、不思議なくらい順調なんです。でもこれは実力じゃなく、上司に恵まれてるからなんです。」
「上司って、あの木之元課長さんね。明るいし、ひょうきんな割には、凄く繊細な方ね。」
「課長は、言葉は変ですが、明るく厳しい人ですね(笑)。以前、一緒に呑みに行った時に云ってました。こんなにキツい仕事なんだから明るくやらなきゃやってられないと。」
「そういえば、部長さんも契約を済ませた後にお礼に来て頂きましたよ。」
「あー、石原部長ですね。僕の精神的支柱であり、最も尊敬する上司なんです。」
話を聞いていた麻美が、
「髭のないゲーブルね(笑)。」
「ゲーブル?」
「あのダンディーな部長さんって、クラーク・ゲーブルに似てない?」
「クラーク・ゲーブルって、あの『風と共に去りぬ』の?」
「そうそう(笑)。」
「そう言えば、なんとなく(苦笑)。明日からバトラー船長って呼ぼうかな(笑)。」
今度は操が、
「よく知ってるわね。あの映画観たことあるの?」
「はい。リバイバルで二~三度観ました。前半のクライマックスで、人参を土から掘り出し、食べながら、神様、私は飢えに負けませんってところは感動的でしたね。」
「私、辛い時や苦しい時に、何度もあの映画で救われたのよ。」
立川は、裕福そうに見える操に、そんな辛く苦しい過去があったのかと、意外な気がし、人の人生なんて上辺では分からないものだと思っていたら、麻美が不意に尋ねてきた。
「立川君の観た映画で一番印象に残った映画ってなーに?」
「なんだろう・・・。うーん・・・『奇跡の人』かな・・・。」
「ヘレン・ケラーとアニー・サリバンの、あの映画ね。」
「麻美さんも詳しいじゃないですか(笑)。サリバン先生役のアン・バンクロフトが演技が上手いのは分かってたけど、ヘレン・ケラー役のパティー・デュークの演技も凄いよね。映画を観てる内に、何度も本当のヘラン・ケラーと錯覚しそうになりましたよ。ところで、麻美さんの一番好きな映画ってなんなんですか?」
この問い掛けには隣に座っていた操が嬉しそうに横槍を入れてきた。
「この娘は終始一貫して『ジャイアンツ』なのよ。」
「ジャイアンツ?あのジェームズ・ディーンの遺作になった、あの映画ですか?」
麻美は恥ずかしそうに語り出した。
「なんだか、女性が好む映画じゃないみたいでしょ。でもね、あの古い映画には強い思い入れがあるの。アメリカ東部の教養ある裕福なお嬢様が、偶然出会ったテキサスの男に惹かれて結婚し、今までの生活とは全く違う環境の中で、テキサスの古い価値観に真正面から挑んで行き、民主主義をテキサスの中に植え付けていく。そして三十年の月日が経ち、レズリーは、身も心もテキサスの女になっていく。あのエリザベス・テイラーの生き方に凄く共感してしまって・・・。」
「ジェット・リンクや、ビック・ベネディクトじゃなく、レズリーに共感したなんて素敵ですねー。」
この立川の言葉に、麻美も操も驚きを隠せず、「詳しいですねー。」と、二人は口を揃えた。
「僕もあの映画は結構好きなんです。でも、やっぱり男なんで、ジェット・リンクに憧れました。虐げられた牧童のジェット・リンクが、石油の採掘事業に人生を賭けて挑んで行くものの、全く油田に辿り着けない。生活は困窮し、諦め掛けたその時、背後からドッカーンと石油が噴出し、人生が一転。遂にはアメリカ一の大富豪になっていく。しかし、富豪になっても尚、元主人・ビック・ベネディクトの女房・レズリーへの屈折した思いは募るばかり。そしてアル中になったジェットは、アメリカンドリームと云うには、悲しすぎる晩年を迎えていく・・・。
ストーリーとしては単純かも知れませんけど、如何にもアメリカ的な映画だし、アメリカでしか作れない作品ですよね。」
操と麻美は口を開けたまま立川を眺めていた。我に返った麻美が、少し首を振りながら、「すっごーい!」と唸った。立川は、照れ笑いしながらも、少し疑問に思っている言葉を二人に投げかけた。
「でもね、ずーっと疑問だったんですが、あの映画ってジャンルから云えば西部劇なんですかね?テキサスっていう場所を舞台にしてるけど、一般的な西部劇とは全く違いますよね。撃ち合いもなければ、殺し合いもない。あるのは家族という概念を徹底的に貫いた、壮大な人間ドラマですよね。」
立川の考えに、操が同調した。
「製作段階では、『風と共に去りぬ』を越える映画を作ろうとしてたみたいなのよ。共通するのは、二つの作品共に、舞台がアメリカ南部ってことね。『風と共に去りぬ』がジョージア州、『ジャイアンツ』がテキサス州の広大な大地を舞台にしてるし、土地に執着してるところなんかも似てるわね。でも西部劇と一番異なるところは、この二つの映画は、女性が主人公ってところよね。でも、スカーレット・オハラとレズリー・ベネディクトという、二人の個性が全く違っているところなんかも面白いね。」
操の解釈に納得した立川は、懐かしそうな顔で、
「また、リバイバルで観たい映画ですね。それにしても、三人が三人とも好きな映画が古典的で古めかしい映画ばかりなのには驚いちゃいますね(笑)」と云った。
その後も、映画の話で盛り上がっていたが、頃合を見計らって、操がそろそろケーキを食べましょうかといい、冷蔵庫からケーキを取り出した。それは手作りケーキだった。
「わー、美味しそうな手作りケーキですねー。」
「美味しいかどうか保障はできなわよ。麻美と二人で侃々諤々御託を並べながら作ってみたのよ(笑)。」
「お二人の手作りケーキなんて、感激です。美味しいに決まってます。」
そうだといいんだけど、と言いながら、麻美が三本のローソクに火をつけ、部屋のライトを消した。すると一瞬で部屋の中は幻想的なムードに包まれた。三人は、直ぐに消さず、キャンドルの灯を眺めていた。その後、操は意識的に少し距離を置くと、立川と麻美は、自然と額がくっつくほど近づいていた。蝋燭の火から照らし出される麻美の顔は、この上なく美しく、まるで目の前に天使が居るようにさえ思えた。そして小声でささやいた。
「なんだか消すのが勿体無いですね。」
麻美は優しく静かな声で、
「まるで時間が止まってるみたいだね。」
「ホントですねー。でも、そろそろ消しましょうか。じゃ、三人で一緒に消しましょう。操さんも一緒に消しましょう。」
操は遠慮がちに云った。
「若い二人で消した方がいいわよ。」
しかし、立川は、
「ダメですよ。三人で一緒に消さないと意味ないんですから。」
何が意味がないのか、立川は自分自身も分からなかったが、この言葉に麻美がとても嬉しそうだった。
「さあ、ママも入って。」
三人が息を吹きかけると、蝋燭の火は瞬く間に消え去った。立川は二十四年間の中で一番素敵なクリスマスイヴだと感じていた。そして、ケーキを食べ終わる頃に、操が立川に思いがけない言葉を投げかけた。
「立川君、今夜はクリスマスイヴなのよ。私から言うのも変だけど、イヴの夜ぐらいは麻美をデートに誘いなさいよ。」
操の言葉に吃驚した立川は、
「でも・・・もう遅いし・・・あの・・・。」
「まだ八時半過ぎじゃない。こんな夜にデートにも誘わない男なんてどうかしてるわよ。」
この言葉が導火線になったのか、今までにない男らしい口調で、「麻美さん、行こう。」と、麻美に云った。麻美は少しテレながらも「分かりました。」と云い、着替えるから待っててくれというと、自分の部屋に入った。
すると、操は立川に「娘のこと、これからもよろしくお願いします。」と、深々と頭を下げた。立川は思いもよらぬ展開に、極度しながらも、「こここちらこそ、宜しくお願いします。」と操以上に深く頭を下げていた。
着替えを済ませた麻美がリビングに姿を現すと、コートを羽織った襟元には立川からプレゼントされたマフラーが巻きつけられ、手にも同じく手袋をしていた。
「どう、似合う?」
という麻美に、操が
「よく似合うわよ。立川君、センスいいね」
と褒め称えた。
立川もテレながら、
「エリザベス・テイラーより綺麗です。」
と云ったら、操と麻美が腹を抱えて笑い出した。
操は二人を玄関先まで見送り、「行ってらっしゃい」と、笑顔で送り出した。
マンションを出た二人はいつの間にか手をつないでいた。
「麻美さん、どこか行ってみたい所ある?」
「銀座に行ってみない。」
「じゃ、そうしよう。」
デートらしいデートは初めてだったが、操のマンションで過ごした二時間で、必要以上の緊張感はなくなっていた。
クリスマスイヴの銀座は、イルミネーションやらクリスマスツリーやらで、光り輝いており、降り出した雪が、そのムードをより一層引き立てていた。
「こうやって二人で街を歩くのって初めてだね。」
「麻美さんが、帰国するのを指折り数えてました。」
「ホントー?」
「本当です。オックスフォードが電車で行ける所ならいいのにって、何度思ったことか。」
「私も、立川君から手紙が来る度に嬉しかったのよ。」
「それこそホントですかー。」
「ホントだよ。立川君、いつも手紙には会社のことや、四国のことなんか、面白く書いててくれるから、何度も何度も読み返してたのよ。」
「筆不精だから気の利いたこと書けなくてごめんね。」
「ううん、嘘のない内容ばかりだったから、読んでて気持ちよかった。」
立川は少年のような笑みを浮かべながら、
「正直言うと、女性に手紙を書くなんて初めてだったから、何度も何度も書き直したんです。(苦笑)。」
そして、麻美の手紙に対する正直な思いも口にした。
「俺もね、麻美さんの手紙に何度も救われたんですよ。そういう意味では、麻美さんの手紙は俺にとって『風と共に去りぬ』でしたよ。」
「えっ?」
「いや、さっき、操さんが「風と共に去りぬ」で何度も救われたって話してたでしょ。俺も仕事でストレス溜まりまくって、どうしようもない時に、麻美さんからの手紙読んで、何度も気持ちが落ち着いていったんです。これホントです。」
「あなたを救うような内容だったかなー(笑)。」
「いえ、勝手にそう解釈してましたから(苦笑)。ところで、どこかで一杯やりませんか?」
「オシャレで、高いお店は嫌よ(笑)。なんか、隠れ家みたいなお店知らない?」
本当は若い恋人たちが集まるカフェーなんかを考えていたが、麻美の言葉に急遽浮かんだのは、『いごっそう』だった。
「一軒、俺のお気に入りの店があるんだけど、そこでもいいかな?」
「どんなお店なの?」
「お世辞にもオシャレなお店とはいえないんだけど、頑固爺が一人でやってる土佐料理の小さな店なんだけど・・・。」
「そこがいい。そこ連れてって。」
「了解!」
立川は、上司の石原に連れて行って貰って以来、何度か一人で『いごっそう』に足を運んでいた。主人の孝蔵は、愛想良くとはいかないまでも、この大都会で必死で頑張っている立川という青年に、少しずつではあるが、心を開いていた。いごっそうの暖簾を潜ると、いつものように孝蔵が小さな店を一人で淡々と切り盛りしていた。
「こんばんは、孝さん。」
いつも通り大きな声で店に入ると、仏頂面でジャガイモの皮を剥いていた孝蔵が、顎を上げ、「おー、オメエか。」と、いつものように小さく反応した。しかし、背後に人影を感じた孝蔵は、「んっ、連れがいるのか?」と顔を少し横に向け、立川の背後に目を配った。
「紹介します。友達の澤村麻美さんです。」
「澤村です。はじめまして。」
麻美は緊張するでもなく、自然な笑顔で挨拶をした。
「ユー、オメエの恋人かい。」
「片思いだよ(笑)。」
麻美は笑っていた。
「突っ立ってないで、二人とも座んな。」
着座すると、孝蔵が麻美に云った。
「若い別嬪のお嬢さんの口に合うようなもんは置いてないけど、取りあえずビールでいいかい。」
すると、麻美が、
「土佐の地酒ってありませんか?」
孝蔵は驚いたような表情で、
「そりゃ勿論あるけど、そんなんでいいのかい。」
「はい、それお願いします。」
地酒を注文した麻美に驚いたのは孝蔵だけでなく、立川も同じだった。しかし、そこがまた麻美らしいとも思い、同じものを注文した。
「俺も一緒でいいです。」
「サカナは?」
立川が「いつものお願いします。」と言おうとしたが、麻美は、
「お魚の煮付けございますか?」
「金目鯛でいいかい?」
「はい。お願いします。」
横から立川が、
「孝さん、イカの煮付けも二人前お願いします。」
「あいよ。」
熱燗徳利で、土佐の地酒が出された。
麻美は器用に立川のお猪口に注ぐと、立川が今度は麻美にギクシャクしながら注いだ。
「それじゃ、乾杯!」
一口呑みほすと、酒の旨味が、喉を通り抜け、胃袋に流れ込む感覚を味わった。麻美はなんともいえない表情で、この快感を口にした。
「美味しいねー。」
「旨いっすね。麻美さんは結構いける口なの?」
「どうかなー。そんなに強い方じゃないけど、大学の時は、よくパパの相手してたのよ。」
「パパ?」
「私のお父さん。先週も家に来て、私がお酒の相手してたのよ。でもね、パパ、私が相手だと、つい呑み過ぎちゃうのよ。」
「分かる気がします。」
「えー、どうして(笑)。」
「あっ、いやー。なんとなくね。」
その時、孝蔵が、金目鯛の煮付けと、イカの煮付けを持って来た。
「ご主人も一杯いかがですか?」
麻美の勧めに普段は仏頂面の孝蔵が、珍しく嬉しそうにお猪口を差し出した。そして、
「綺麗な目をしたお嬢さんだ。こんな透き通る目を見たのは久しぶりだ。ユー、オメエにゃ勿体無いぜ。」と、笑った。
立川が、すかさず、「どういう意味だよ」と、笑い返した。孝蔵の言葉に、照れ笑いを浮かべながら、麻美が尋ねた。
「いつからこのお店の常連さんになったの?」
「半年前からかな。操さんとの初契約のお祝いに、部長のクラーク・ゲーブルに連れてきて貰ったんです(笑)。あの夜は、高級寿司店や、ナイトクラブも初体験したけど、俺にはここが一番よかったんです。そういう意味では操さんと、麻美さんのお陰です。それに、お母様は俺にとっても東京の母親代わりなんです。」
「ママのこと気に入ってくれてるんだ。」
「勿論です。気に入ってるっていうより、尊敬してます。」
麻美は穏やかな笑顔で、
「嬉しいなー。立川君、もう一杯どうぞ。」
「あっ、有難うございます。」
この光景を見ていた孝蔵が、
「おい、恋人同士なら名前で呼び合いなよ。」
思わぬ言葉に、焦った立川が、
「孝さん、なに云ってるんですか。」
「いいから言ってみなよ。」
すると、麻美の方から、
「悠樹。こんな感じでいいかしら。」
今度はオメエだ。
「呼び捨てはちょっと。」
「ダメだ。早く言え。」
「ちょっと待ってよ。」
かなり動転していた立川に、麻美が援護するかのように言った。
「私も名前を呼び捨てで言われたい。」
立川はまじまじと麻美の顔を見ながら、
「あ、あ、麻美・・・。」
煮えきれない立川に、孝蔵が決め付けるように言い放った。
「じれってえな。テメエも男ならもっと大きな声でいわねえか。」
立川は何かが吹っ切れたように、
「麻美!」と、怒鳴るように言った。
すると、孝蔵が
「怒鳴るんじゃない。オメエの目一杯の愛情を込めて三回言え!」
「よーし・・・『麻美、麻美、麻美』どうだい。」
それだけで、立川はぐっしょり汗をかいていた。
「よっしゃ。それでいい。これからは絶対にお互いを今のように呼び合うんだぞ。」
年上だし、契約者のお嬢さんなんで、多少の抵抗感はあったが、それでも立川は嬉しかったし、麻美も立川との距離が少し近くなった感覚を覚えた。
「仕事、忙しそうだね。当分イギリスには来れそうもないね。」
立川は申し訳なさそうに下を向いたまま
「なかなか纏まった休暇が取れなくて、ごめんね。」
「ううん、お仕事サボって来てなんて言えないしさ。でも案内したいところが沢山あるのよ。」
「じゃ・・・行けない変わりにイギリスを教えてよ。」
「イギリスを教える(笑)。」
「そう。麻美の言葉で教えて。」
「私、そんなに博学じゃないよ。でも・・・それも面白いかもね。じゃ、イギリスの正式名称って知ってる。」
「正式名称って結構長いんだよね。なんだっけ?」
「そう。少し長いんだけど、『グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国』って名称なのよ。イギリスは、元々大きく分けるとイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドって言う四つの国から成り立っていて、それを総称して日本人は「イギリス」って言ってるの。この四つの国は、非独立国であって、それぞれが首都を持っているの。イングランドの首都がロンドン、スコットランドの首都がエディンバラ、ウェールズの首都がカーディフ、北アイルランドの首都がベルファストなの。嘗て大航海時代は、、世界最強の海洋国家として七つの海を支配したけど。イギリスが栄えたのは二十世紀初期までで、その後は正しくアメリカの時代になったわね。そのアメリカも今では疲弊してるけど・・・。でもね、その新大陸アメリカに、昔、メイフラワー号に乗って、大西洋を渡り、東海岸に新しいイギリスを作ろうとしたのよ。それがニューイングランド地方なの。」
「今でも、アメリカのエスタブリッシュメントは圧倒的にイギリス人が多いの?」
「エスタブリッシュメントだなんて難しい言葉知ってるのね(笑)。」
「いえ、部長の受け売りです(笑)。」
「確かにWASPがアメリカ社会の、特にイースト・エスタブリッシュメントに多数いることに変わりはないけど、その反面、今やアメリカの政治や経済は、ユダヤ人抜きでは考えられないとも言われているしね。」
「そういえば、ユダヤのなんとかって本がベストセラーになりましたね。」
「でもね、ユダヤ人への差別って今でも信じられないぐらいあるの。それはアメリカ社会だけでなく、イギリスにおいても悲しいかな存在してるのよ。」
「ジェントルマンの国でもそうなんですか・・・。それと、さっきのワスプってなんなの?」
「ホワイト・アングロサクソン・ピューリタンの意味よ。平たく言えば上流階級ってことかな。」
イギリス暮らしをしている麻美にとっては、知識といえないようなことでも、立川には新鮮な知識として、興味深かった。
「街並みはどう?」
「私もロンドンとオックスフォード程度しか知らないから、偉そうには言えないけど、古いものと新しいものが上手く調和している感じはするよ。世界屈指の文明都市の割には、歴史を大切にしてる感が強いよね。そういう意味では、なんでもかんでも壊して新しいものを造り上げていく東京とは、文化や価値観そのものが違う感じがするわ。」
不動産開発業に携わる立川にはきつい言葉だった。
「今、東京は物凄い勢いで変化してるけど、君から見てどう思う?」
「うーん、不動産デベロッパーに勤務しているあなたの前じゃ、少し言い難いな・・・。」
「いや、正直に云ってくれないか。」
麻美は立川への配慮もあり、遠慮がちに言った。
「政治家でも財界人でもないから、問題の本質までは分からないけど、欧米人からしたら住み難い街であることは確かね。ロンドン郊外にある友人の自宅なんて、一般的な家庭なのに適度な広さがあって快適な暮らしが出来るの。でも、現実的にはロンドンもレントはかなり高くなりつつあるけどね。」
「実生活はどうなの?ヨーロッパの人たちは、なんかのんびりしてるって感じを受けるけど。」
「確かに日本人程しゃかりきになって働いているって感じは受けないけど。でも、それは業種や職種によると思うの。特にロンドンは世界的な金融街だから、その業界に従事してる人は、やはり寝る間を惜しんで働いているわよ。でも、彼等が一番望んでることは、一日も早く大金を儲けてリタイアすることなの。そして、その後は、経済の心配をしないで、自分の好きなことを好きな時間で満喫することこそ、彼等にとっての唯一のステイタスなんじゃないかな。この感覚は多分、今の日本人には理解に苦しむ選択のように感じるかも知れないけど。」
同じように、日々のビジネスに忙殺されている立川は、欧米のビジネスマンとの感覚の違いに驚いていた。大金を手にして、若いうちから社会と隔離することがステイタスに繋がる発想が理解できなかった。麻美は、そんな立川の考えを察したように、
「でもね、それはあくまでも欧米の一部の人たちの感覚であって、日本人がそれを真似する必要もないと思うの。働ける内は働くという考え方が悪いとは、私はちっとも思わないわよ。ただ、仕事や上司の奴隷になってまで、働き続けることが美徳であるって考え方には、やっぱり多少の抵抗はあるけどね。とにかく、大切なことは、相手がどこの国の人であろうと、日本人としての誇りを大切にしながら異国で生活していれば、いつか必ず相手も自分を認めてくれると思うの。卑屈になる必要なんかないしね。」
麻美には、イギリス人が母国に誇りを持っているように、彼女自身も日本人の誇りを大切にしている様子が垣間見えた。愛国心という大仰なものではないにしろ、彼女は日本人として、立派にイギリスの地で生活している。そのことが立川には頼もしく映った。
「オックスフォードってロンドンから近いの?」
「地下鉄で約一時間くらいよ。オックスフォード大学は英語圏では世界最古の大学だから、今でも文京地区って様相が強いの。だから治安はロンドンと比べればかなりいい方ね。それに日本人の留学生も結構いるのよ。それにみんな驚くほど勉強熱心で、世界中からオックスフォードの教育を受けたいっていう人たちが集まっているのよ。」
「日本人ってことで、苦労したことってある?」
「うーん、国籍がどうというより、やっぱり入学して直ぐの頃、英語が喋れなかったのが辛かったわ。やっぱり会話が出来ないとコミュニケーションが取れないから・・・だから入学直後の頃は結構落ち込んでたわよ(笑)。でも、それもやっぱり習うより慣れろね。最初は試験によってクラス分けされるんだけど、日本人ってペーパーテストって結構出来るのよ。私もたまたまペーパーテストが良かったから、なんと一番優秀なクラスに配属されてしまったの。でも実際に授業が始まると、教授が話す英語に全くついていけなかった。先生からは、三ヶ月で英会話を習得しておきなさいって言われて、それからは学内外を問わず誰彼なく話しかけていって、やっとの思いで英会話をマスターしたの。」
話を聞いていて、やっぱり麻美はかなり優秀な女性であることが立川にも理解できた。だが、決してそれを鼻にかけない謙虚さも感じており、その辺りは母親の操に似た性格なのだと思った。
「差別なんかはやっぱり存在するの?」
「そうねー、多少の差別はどこの国に行ってもあると思うけど、あからさまに酷いことをされたことは今のところないわよ。それに、やっぱり女性ってことで得してる部分ってあるのかも知れないわね。」
「麻美は心理学を専攻してるけど、卒業したら、そっちの道で活躍したいと思ってるわけ?」
この投げかけに、麻美は極めて古風な結論を示した。
「私の夢は、とても単純なんだけど、平和で幸せな家庭を築くことなの。ほら、悠樹も気付いてるように、うちは母子家庭だし。もっと分かりやすく言えば、私って妾の子でしょ。自分の子供はやっぱり両親が揃ってて、お母さんはいつも家を守っている、そんな家庭を持つことなの。」
立川は驚いていた。世界でもトップクラスの大学院で学んでいる麻美の夢が、幸せな家庭を持つことだとは意外だった。
「麻美さんに・・」
途端に麻美が立川の言葉を遮るように、わざと怒るふりをしながらも、笑いながらも、
「今、さん付けで呼んだ。さっき、ご主人と約束したじゃない。」
「(笑)そうだな、ごめんごめん。麻美に一つ訊きたいことがあるんだけど。もし、答え難かったら無理に答えなくていいからね。」
「なんでも訊いて。」
「お父さんってどんな人?。」
家庭のことを根掘り葉掘り訊くつもりは毛頭なかったが、どうしても操と夫との関係は知っておきたかった。しかし、麻美は全く動ずることなく語り出した。
「銀行員なの。ママと同じ銀行に勤務してて・・・。当然、本宅があって、正妻も居れば、お子様もいらっしゃるのよ。私は奥様とも子供さんとも会ったことないけど、ママはやっぱり大変だったみたい。」
「同じ銀行に勤務してたら、周囲の目なんかも相当だったんじゃないの。」
「多分、私を生む前後はかなりそういった風雪があったかも知れないね。それに時代も今とは全く違うしね・・・。元々、ママは永福では大変な資産家の令嬢として生まれて、女子大を出た後は銀行に勤務するという、当時のお嬢様育ちの典型のような人生を歩んでて、本来なら適当に見合い結婚で落ち着く筈だったんだけど、パパと深い中になってから、そういっレールからはみ出すようになってしまったの。」
田舎育ちの立川からしたら、周囲にそんな人生を送っている人なんかは見当たらないし、操がそんな日陰の人生を選択したことに、戸惑いを隠せないでいた。
「俺は・・・操さんの一面しか知らなかった。」
「でもね、ママは別に自分の人生の決断を後悔するようなタイプじゃないのよ。だから悠樹も同情なんかしないでね。いつも通りにママと関わっていてね。」
「勿論です。益々操さんが好きになりました。」
時間は夜の十一時半を少し越えていた。立川は東京で一番気に入ってる孝蔵の店で、愛する麻美と酒を酌み交わすことができたことが、心底嬉しかった。そして、麻美を知れば知るほど彼女の魅力に吸いこまれていった。もっともっと麻美を知りたかったし、このままこの夜を終わりたくない感情に爆発寸前にまでなっていた。しかし時計は残酷にも時を正確に刻んでいた。
「そろそろ出ようか。」
「もう十二時近くになるのね。出ましょうか。ご主人、今日はご馳走様でした。また伺わせて頂きます。」
麻美は最後まで丁寧に孝蔵にお礼を述べた。そして、追随するように立川が、「孝さん、お勘定お願いします。」と、言った。
孝蔵は二人を見やり、
「今日は俺のクリスマスプレゼントにしてやるよ。」
「???えっ、勘定はいいってこと?」
「二回も同じこと言わすな。」
孝蔵は、わざと立腹した表情を見せたが、責任感の強い麻美が、
「ご主人、それは困ります。そんな事されたら、これからお伺いし難くなります。悠樹同様、私もこのお店が好きになりましたから、また来たいので、どうか代金はお支払いさせて下さい。お願いします。」
「お嬢さん、これは俺の気持ちなんだ。男の気持ちを察してくれないか。」
「でも・・・」
「その代わり、今後帰国したら、またこいつと二人で来るって約束してくれ。」
麻美は立川の顔を見て、どうしたらいいのかという表情になっていた。しかし、人扱いを業としている立川の方が一日の長があり、孝蔵の気持ちを察していた。
「じゃ、孝さんのクリスマスプレゼント、有難く貰っておきます。それじゃ、また来ます。おやすみ。」
麻美は深々と孝蔵に頭を下げ、「本当に有難うございました。またお伺い致します。御機嫌よう。」と、この店の常連客からは考えられないような丁寧な別れの挨拶をすると、孝蔵はまるで父親のような表情で二人を送り出した。
イヴの銀座は、十二時といっても宵の口で、物凄い人たちで溢れかえっていた。みゆき通りを、手を繋いで歩いていたら、お互い土佐の地酒で火照った体に、寒風が言いようもなく心地よかった。そして、ガス灯通りに差し掛かった時には、多少人ごみも少なくなってきていた。立川は不意に立ち止まり、麻美の肩を表手で抱えると、その透き通るような目を見つめながら、顔を近づけた。かすかに麻美の柔らかい唇が震えているのが分かった。短い抱擁だったが、もう若い二人には言葉は必要なかった。地下鉄銀座口の横にある名もないホテルに入った二人は、部屋に入るなり、麻美を思い切り抱き寄せ、ベッドに倒し込んだ。麻美の衣服を剥ぎ取り、下着を脱がせると、水泳で鍛えた美しい裸体が露になった。一瞬、その美しさに息を呑んだ立川だったが、その後は、乳房に顔を埋め、不器用に麻美の体を貪った。麻美は小さく嗚咽のような声を出しながら、立川を母性に近い感情で迎え入れた。その肉体は、捥ぎたての果実のような甘美な香りを醸し出しており、麻美を抱く立川は、これが夢でないことを願わずにはいられなかった。
麻美との蕩けるようなセックスが終わり、ベッドで天井を眺めていた立川は、隣でうつ伏せで目を閉じている麻美に語りかけた。
「まさかこんな風になるとは夢にも思わなかった。君と初めて会ったのは、お母さんに謝罪に行った時だったよね。仕事で失敗していなけりゃ巡り合うこともなかったね。」
「あの時の悠樹の顔は緊張で強張っていたね(苦笑)。」
「言葉が見つからない状態だったからな・・・。あの時、君がいなかったら、ひょっとして会社を辞めてたかも知れない。でも・・・あれからずーっと君のことばかり考えてた。」
「私も考えてたよ。オックスフォードのアパートのベッドの中で、彼、今頃なにしてるかなーって。早くイギリスに来ないかなーって・・・。」
立川は、麻美の額の辺りを撫でながら、「人の出会いって本当に分からないね。」と言いながら情熱的なキスをし、二度目のセックスを求めていた。