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刎頚への兆し

エースデベロッパーズ本社営業本部一部二課の課長・倉前俊介は久しぶりに巡ってきた、第二・四半期(七月から九月)の課長職部門で全国優勝に確かな手ごたえを感じていた。課の営業成績を預かる課長職にあって、いつも第一営業課長・木之元薫の後塵に拝していた。これまでも何度か木之元の一課に迫る成績を出したことはあったが、それでも一度たりとも木之元の上を行ったことはなく、紙一重のところまできても、最終的には負けてしまい、どうしても木之元の壁を超えられないというもどかしさに苛まれていた。

入社年度は木之元が一年先輩になり、倉前としたらこの世代おいて、木之元に次いでの出世頭ではあるが、一度も抜けないことに大きなストレスを感じていた。しかし、これは木之元も同じで、常時二課の成績を意識しており、最後の数日間まで競り合っていても、いつも最後の最後で倉前の二課を引き離していた。木之元としたら、一度抜かれたら、抜き返すことの困難さを痛切に感じているので、突発的な大型契約で、ごく稀に違う課や地方支店の課長が優勝することはあっても、倉前だけには絶対優勝させないように心がけていた。しかし、八十九年度・第二四半期(七月~九月)においては、若干ながらリードしており、「今度こそ!」という思いが確信になりつつあった。

倉前を確信させたのは、今年二課に配属になった新入社員が、この三ヶ月間、新人とは思えないような記録的な成績を出していたからだ。そして後二日で九月も終わろうとしていた矢先に、この新入社員がまたもや一億円近い契約を上げ、これで勝負あり。やっと念願の木之元越えが実感として沸いてきた。

一週間前に総務から配布された本支店全課の成績一覧が回って来ており、二位の木之元を一億三千万円リードしており、首位の倉前が率いる二課が通算で、十九億二千万円という途方もない営業成績を出して堂々の一位を独走していた。そして、その新入社員が一人で十一億八千万円という物凄さだった。

 そして十月四日に六本木パレスホテルにて八十九年度第二期ゴールドコンテスト表彰式が開催された。このゴールドコンテストは四半期毎に開催され、その期間の成績優秀者を表彰し、金一封が贈呈される。年四回開催される表彰式だが、管理職部門での優勝は、殆ど石原と木之元が独占していたが、個人優勝したのが新入社員だったのは、長い歴史の中でも初めてであった。また、個人の部で新入社員が二人入っているのも前例のないことだった。

 個人成績表彰で立川の名前が入っていることは、立川自身が一番驚いていた。澤村操の初契約以後、三ヶ月間で、都合六件の契約を完了させたが、その殆どは課長の木之元の力によるもであり、実力という言葉からは程遠いものだった。

 六本木パレスホテル・ニューイングランドの間は、エースデベロッパーズの役員・支店長・各部門の部長職・表彰対象者・そしていつものように各界からの有名人で溢れかえっていた。一流の外資系ホテルでの表彰式だけあって、出席者は全員、高価な背広を羽織って参加していた。急成長を続ける不動産会社だけあって、列席した顔ぶれを見ると、一癖も二癖もあるような男たちの中で、立川一人が表情にあどけなさを残しており、その分逆に目だっているようにも見えた。

 司会進行は新東京テレビでお馴染みのアナウンサーである、酒井毅が毎回この式典の司会を担当しており、この酒井もまた、ヨーロピアンレジデンス・目黒タワーの購入者の一人である。そして、エースデベロッパーズが、酒井が担当している人気トーク番組『酒井毅のお宝トーク』のスポンサーに三年前からなっており、社長の上塚も何度か出演したことがあり、その縁で購入に至り、それ以来この式典の司会進行を続けている。テレビ局の人気アナウンサーらしく人の良さと誠実さが入り混じったような酒井が一際大きな声で開会を宣伝した。

「皆様、大変長らくお待たせ致しました。ただ今より、一九八九年度エースデベロッパーズ第二期ゴールドコンテスト表彰式を開催致します。司会はいつものように私、酒井毅が進行させて頂きます。皆様、宜しくお願い致します。」

 会場からタイミングよく大きな拍手が起こった。

「さて、皆さん。ここに先週八月二十九日の日本建築新聞がございます。この第二面、第三面の両面にエースデベロッパーズが掲載されております。大見出しは『非上場の超優良企業・時代をリードするエースデベロッパーズ』と掲載されております。どうですこれは。中を読むと、もっと驚きますよ。全部紹介したいのですが、時間の関係もあるので、少しだけ紹介させて頂きます。『日本には五千社を超える上場企業があるが、中には成長が止まってしまっている名声だけの企業も残念ながら数多くある。しかし、このエースデベロッパーズは、非上場ながら、日の出の勢いで急成長を続けている。その成長の中心にいるのが、社長の上塚弘明氏だ。上塚氏は五年前の本紙の取材で、「成長期に入ると安定を求めるのが世の常だが、私は安定という言葉が嫌いです。安定というのは安住の地のことでしょう。本来、安住の地などというものは何処にも介在しないんです。だから私は目的は持っても目標は持たない主義なんです。」と、答えている。あれから五年が経過し、その言葉は現実として立証された。侍を髣髴とさせる上塚社長と、エースデベロッパーズから目が離せない。』素晴らしい賛辞ではありませんか。それではこれより、辛口で評判の日本建築新聞にここまで書かせた上塚社長から開会のご挨拶を頂きます。宜しくお願い致します。」

 酒井毅の大仰な紹介のあと、上塚がいつものように冷静な表情の中に若干の笑顔を交えた独特な顔つきで挨拶に立った。

「えー、ただ今、酒井さんから過分なご紹介を賜り、恐縮しております。さて、第二期は予定を大きく上回る業績を出すことができました。四半期毎の成績から云えば、過去最高の結果を残すことが出来、役員一同大変満足しております。特に目立ったのが新入社員の活躍です。入社式以来、三ヶ月に及ぶ研修が実を結んだ結果だと思います。若い力がこのような結果を出すのは我が社の将来にとって大きな希望となるでしょう。優勝した古木敬一郎君、おめでとう。新人が並み居る先輩を乗り越え、頂点に立つことは至難の業であることは明白です。ましてや三ヶ月で十億円を越える業績を上げるとは天晴れとしかいいようがありません。彼は入社式で、新入社員代表のスピーチをしてくれた事をよーく覚えております。古木君の仕事振りは課長、部長から聞いておりまが、とにかく貪欲で研究熱心とのことで、些かの妥協も恐れず邁進してくれた結果の賜物ではないでしょうか。いつもならこの後表彰に移る訳ですが、今回は特別に、今、この場で古木君を表彰したいと思います。古木君、登壇しなさい。皆さん、大きな拍手で称えてあげて下さい。」

 進行が狂ってしまったが、ベテランアナウンサーの酒井は心得たもので、機転を利かせ、声高に叫んだ。

「ゴールデンルーキー・古木敬一郎君の登壇です。皆様、盛大な拍手をお願いします。」

 上塚が、壇上で古木と対話するつもりで、マイクをもう一本用意してくれと係員に伝えた。指名された古木敬一郎は、入社式での代表挨拶同様、堂々と、ゆっくり壇上に上がった。普段は仏頂面の上塚が、珍しく満面に笑みを浮かべながら壇上に古木敬一郎を迎え入れ、力強く握手を交わした。

「優勝おめでとう。」

「有難うございます。」

エースデベロッパーズの上塚といえば、社内では文字通り超ワンマン経営者として全社員に畏怖されていたが、この古木敬一郎という新人は入社式同様、別段作り笑いや、愛想笑いをすることもなく堂々と上塚と対峙していた。

「まさかこの場で、新入社員に優勝の祝辞を述べるとは思ってもなかったが、このサプライズに驚くと同時に感激しております。ベテランでなければ成果は出せないという悪しき慣習を古木君が打破してくれました。今の気持ちを率直に聞かせてくれるかい。」

 鋭い眼光と、隙のない佇まいで、古木が応対した。

「初契約は結構遅かった方なんです。それまでは自分成りに分析に力を注いでました。地方と違って東京は多様な生活形態を送られてる人が大勢います。ですから、深夜でなければゆっくり話せない人もいれば、早朝でないと話ができない人もいます。端的にいえば、自分の生活に契約交渉を合わせるのではなく、お客様の時間を最優先したということが、成果に繋がったのではないでしょうか。」

「お客様に合わせると一口で言っても、それを実行するのは、はかなりしんどかったんじゃないのかい。」

「そうですね。一番印象に残っているのは、築地の魚市場のお客様です。午前三時に来てくれと云われましたが、その時間に行くと、もう契約して頂く準備が整ってました。そこには都合五回訪問させて頂いたんですが、いつも時間が違うんです。深夜の時もあれば、早朝の時もあり、最後は午前三時だったんですが、相手の都合に合わせたのが、とてもご主人に気に入って貰えて契約できました。」

「まさに苦労の賜物だね。君の分析の中で、お客様の都合に合わせること以外で何かあれば話して貰いたいんだが。」

「私のやり方など、先輩諸氏にレクチャーできるような代物ではござませんが、強いて言えば、お客様に愛されるということかも知れません。抽象的な表現かも知れませんが、契約までの最短距離を歩もうと思えば、やはり愛される人間になることが一番近道のように思えます・・・。」

「愛される人間になるか。とても素晴らしい言葉だけど、もう少し具体的にいえばどういうことだろう。」

「言葉で表現するのは難しいことなんですが、交渉の過程で、お客様の歴史に触れることは我々営業にとって大切な宝物です。何処で生まれて、学校はどこ、家族構成、親に対する愛情、子供に対する愛情、教育、夫婦での思い出、趣味等、数え上げたらキリがございませんが、その中で人から云われて一番嬉しいことや、されて一番嬉しいことをさり気なく行う。時には自腹で何かをプレゼントしたこともありますが、そういう時にも敢えて高価な物を贈るのではなく、心に残る物を送る。そうすることで、血のつながりや、男女間ではない愛情が芽生えてくると思います。その辺りを大切にしようと心がけてました。」

「築地市場のお客様には何かプレゼントしたのかい。」

「はい、長靴を送りました。」

「長靴?それはどうして?」

「足元を見た時に、かなり使い込んでおり、小さな穴も開いていたので、通気性が良く、ツボを刺激する健康長靴みたいな物を探したら浅草にありましたので、購入し、プレゼントしました。」

「お客様の反応はどうだった。」

「最初は驚いておりましたが、大変喜んで頂き、一昨日もお邪魔しましたら、ご使用して頂いており、足に馴染んできて、もうこれ以外は履けないと仰って頂き、とても嬉しい思いがしました。」

「一本の契約にそんな経緯があったとは、聞いてる私の方も嬉しくなってきたよ。皆様もそう思いませんか?」

 場内からは割れんばかりの拍手がこだました。上塚は長引く喝采を頃合を見計らって手で制すると、

「君にとって思い出に残る契約になったね。まさしく愛情が齎した契約といえますね。」

「仰る通りです。感激したのは、そのお客様がその後、同業者を二名ご紹介頂き、その二名もご契約頂き、都合二億五千万円の契約に繋がったことです。」

 上塚はわざとオーバーなアクションで、

「なに!紹介まで出たのか。古木君、その長靴の代金は幾らだったんだね。」

「上代三千八百円です。」

 機転を利かせた上塚が壇上から古木の上司である石原に、

「石原部長、彼に三千八百円即刻返してあげなさい。」

 ウィットに飛んだ上塚の言葉に会場から大きな笑いが漏れた。返す刀で場内の石原が「承知しました。」と、大声で返すと今度は大きな爆笑に繋がった。壇上では、流石の上塚も感服しており、

「皆さん、三千八百円の長靴が二億五千万円になったんです(笑)。どうです、これが新入社員の営業だと思いますか。彼との会話の中にはベテランでさえ舌を巻く程の説得力がございます。古木君、これからもこの情熱を忘れることなく日々精進して、次回の第三四半期にも必ず入賞して下さい。いや、またトップでこの場に立っていて下さい。そして、先輩諸氏は、新人の古木君に先を越されたことを恥と思い、絶対に阻止して下さい。」

 会場でこの様子を見ていた立川は、自分と同い年の古木を別次元の人間として眺めていた。世の中には凄い奴がいるもんだと、他人事のように関心しきっており、その後、個人部門で、立川の表彰もあったが、司会者より古木だけでなく、彼も新入社員だという紹介をされたが、その扱いは古木と比較すること事態がナンセンスと思える程、小さなものだった。

 表彰式は専ら古木敬一郎のための催しのようになり、部門別表彰において、課長職部門で、木之元を抜いて優勝した営業本部第二課の倉前俊介の表彰も、それなりに派手さはあったものの、今回ばかりは古木の陰に隠れてしまい、拍子抜けする思いであった。最後は部長職部門で、石原が表彰されたが、いつものように指定席なので、特別喜ぶ素振りも見せず、賞状を受け取ると、静かに一礼して降壇したのみだった。

 九時を過ぎ、フィナーレを向かえ、最後の挨拶を専務の松木修が締めくくった。式典は終了したが、多数の会社関係者や、芸能人・有名人たちが上塚を取り囲んでいた。中でも取り分け熱心だったのが、昨年からエースデベロッパーズのコマーシャルキャラクターに抜擢された二枚目俳優として人気の五十巧作夫妻だった。五十嵐は上塚を父親のように慕っているので、表彰式には毎回出席しており、立川はブラウン管の中のスターが、上塚にヘコヘコしている姿が面白く、少し距離をとってこの光景をミーハー気分で眺めていた。その時、背後から声がかかった。

「芸能人がそんなに珍しいのかい。」

 振り返ってみると、なんと古木敬一郎が立っていた。見透かされてしまったようでばつの悪さを感じつつも、

「あっ、いや、別にそういう訳じゃないけど・・・芸人が社長に媚を売っているのがなんか面白くて・・・。」

「パワフルマンになったら嫌でも向こうからへつらって来るよ。」

「そうだね(笑)。ところで俺になにか?」

「時間があれば一杯やらないか。」

 一番注目されてる新入社員が自分を誘うのが不思議だった。

「いいよ。何処行こうか。」

「取り合えず、外に出ないか。こんな所でウロウロしてると、新入社員に説教したくてうずうずしている役員連中から無理やり二次会に連れて行かされるぞ。」

「そうだね(笑)。」

「静かな場所がいいから、俺の知ってる店に行こうぜ。」

 パレスホテルを出た二人は六本木交差点から徒歩五分の所にある「ジャネット」という小さな店に入った。店内はジャズが流れていたが、音量を低く設定しているので、会話するには持って来いの場所だった。カウンターに陣取った二人は、立川がモスコミュールを、古木はバーボンを注文した。その後、古木はポケットからラークを取り出し、旨そうに吸い始めた。立川はこの記録保持者の横顔を眺めながら、知らない人が見たら、どう見ても先輩と後輩、或いは上司と部下にしか見えないだろうなと思いながら小さく苦笑した。その笑いに気付いた古木が、怪訝そうな顔で、

「何が可笑しいんだ。」

「いや、とても同い年には見えないと思ってね。」

「俺が老けてるとでも言いたいのか(笑)。」

「そんなことないよ。でもね、社長を相手にして、あれだけ堂々としてるのは社員では君ぐらいしかいないと思ってね(苦笑)。」

「それなりに緊張してたんだぜ(笑)。」

「本当かよ。」

「本当だよ。それより今日はお前に悪いことしてしまったな。」

「悪いことって?」

「いや、お前だって新人で入賞したのに表彰式では俺ばっかりになったから・・・。」

「そんなことを気にしてくれてたの?結構繊細なんだね。」

「繊細じゃなきゃ、営業はできないよ。尤も、繊細でない上司も中には居るけどね。」

「誰のこと?」

「うちの課長だ。」

「倉前課長って神経質そうに見えるけど。」

「神経質と繊細は違うよ。とにかくあの課長には閉口した。」

「でも、そんな上司の下であの成績なんだから凄いね。」

「なに言ってんだ、あの課長じゃなかったら、あんなもんじゃなかったぜ。」

「凄い台詞だ。」

 自分の言葉が間違った解釈をされていると感じた古木は、少し焦った素振りで、

「いや、決して自慢してる訳じゃないんだ。でもあの課長は、客の前でヒヤッとする台詞をいけしゃあしゃあと云うもんだから・・・よそう、もう終わったことだ。それより彼女とは上手くいってるのか。」

「彼女?」

「なに言ってんだ、億ションを買ってくれた人のお嬢さんだよ。」

 一瞬で立川の顔が真っ赤になった。

「いや、あれは・・・」

「彼女なんだろ?」

「彼女じゃないよ。友達だよ。それより何で知ってんだ?」

「みんな知ってるさ。お前んところの課長がフロアで言いふらしてたぜ(笑)。」

「えーーー、参ったな。」

「参ることないじゃないか、独身なんだから。相手はOLなのか?」

「いや、大学院生なんだ。それもイギリスのオックスフォードの・・・。」

「凄いじゃないか、頑張れよ。」

「何を頑張るんだ(笑)。」

 店内にはウィントン・マルサリスの音楽が流れていた。古木は二杯目のバーボンをウエイターに注文した。バーボン片手にクラシックジャズを聴く姿は、絵になっており、どこか幼さの残る立川とは対照的だった。そして、この大人びた古木に問い掛けた。

「君はどうしてエースに入社したんだ。」

 古木は一瞬、その問い掛けに躊躇しながらも、顎を上げ、空を見つめながら云った。

「ゴードン・ゲッコーになれる近道のように思えたからなんだ。」

「???誰それ!。」

「去年公開された映画で、『ウォール街』って知ってるか?」

「タイトルは知ってるけど見てないんだ。映画の主人公なの?」

「そうだ。主演のマイケル・ダグラスはあの演技が評価され、アカデミー賞の主演男優賞を受賞したんだ。モデルになったのは実在の人物で、アイヴァン・ボウスキーとか、マイケル・ミルケンとか言われてるけど、俺は映画のゴードン・ゲッコーにシビれてしまった。貧しい生まれだが、野心に満ち溢れて、不動産と上場企業の株式買占めで成り上がった投資銀行家なんだ。映画では最後に失墜してしまうんだけど、失墜してもいいからゲッコーになりたいんだ。だから今はビジネスを覚えるための投資期間だと考えてるんだ。そのためには出来上がった企業だと、仕事が分業化されてしまっているし、中小企業だと、スケールメリットがない。その点、エースは成長過程にあるから出世も早いし、若い内に様々な経験ができそうだと思ったからなんだ。」

「ということは将来は独立する訳なのか?」

「そうだ。将来と言っても近い将来だけどな。できれば二十代で独立したいんだ。」

「資金はどうするんだよ。親が出してくれるのか?」

「両親はとっくの昔に亡くなったよ。妹が一人いるけど、今は大学生なんだ。」

「大学の学資はどうしたんだ。」

「学費は国立大学だったからそんなに苦労はなかったし、生活費はアルバイトと、奨学金で賄ったよ。でも、授業とバイトの両立は正直しんどかったな(苦笑)。それとな、さっき今、資金の話が出たけど、ノウハウと実績があれば資金は誰かが出してくれると信じてるんだ。だから今はひたすらその二つに集中してるんだ。」

「なんか、お前ならできるような気がするよ。言葉では上手く言えないけど、お前は誰とも似てないし、誰よりも向上心があるしな。」

「お前だって、誰とも似てないぜ。」

「俺は田舎モンで、何処にでもいるタイプだよ。」

「その田舎臭さが、誰とも違うんだ」。

「それって喜んでいいことなのか(笑)。」

「強烈な武器になるような気がするぜ。」

「田舎モンが武器に(苦笑)」

 古木の顔は真剣だった。そして、誰も考え付かないような古木ならではの観察力を披露した。

「今日の式典を見てみろ。あの場に居合わせた連中は社長を始め、役員も表彰対象者も顔つきは皆同じで、佇まいも同じような人間ばかりだ。この世界で伸し上がることのできるのはあんな人間ばかりの筈なのに、お前一人が全く違う。到底、ビジネスができるタイプには見えないのに、並み居る先輩を押しのけて全社で九位に入った。正直言って何でこんな野郎が、何故この場に居るんだと思ったけど、逆にある意味お前が恐怖にも感じ出したんだ・・・。ひょっとしたら俺の強力なライバルかなとも思ったぜ。」

 古木の観察力に立川は、恥ずかしさと、戸惑いで何ともいえない表情になった。何か言おうとしたけど、どう切り替えしてよいか分からず、

「世間知らずのお坊ちゃまは悔しいけど当たってるよ(笑)。でも、だからこそ、俺が恐怖だなんて正直笑っちゃうな。俺とお前じゃ悲しいかなモノが違う。俺の契約は殆どが課長の木之元さんの力なんだ。俺は話を聞いてくれる客を探してくるだけだから、恐怖もくそもないよ。ライバルだなんてとんでもない。それより、俺ってそんなに田舎臭いか(笑)。」

「容姿云々じゃないんだ。上手く言えないが、醸し出す雰囲気だとか、ものの考え方や、価値観なんかが金太郎飴のように皆同じなのにお前だけが違うんだ。地方出身者は、東京という街や社会に馴染もうと必死で努力するのに、お前は敢えて自然体のままなんだ。」

「褒めてくれてると思うんだけど、素直に喜べない複雑な心境だなー(笑)。」

「好き勝手なこと云って悪かったな。気を悪くしないでくれよ。それより、部長と銀座に行ったんだってな。俺も連れて行ってくれたんだ。六時間近く、ビジネスの話ばっかり質問攻めしたんだけど、嫌な顔ひとつせず、全部真摯に答えてくれて感動したよ。」

 立川は以外だった。どこか機械的で、冷たい感じのする古木が、上司と呑みに行って感動したという言葉に人間らしさを感じて微笑ましかった。

「古木でも感動することってあるんだね。少し安心したよ。」

「当たり前じゃないか。でもあの部長は凄いな。業界の過去・現在を徹底的に分析して、来るべき未来に何をしたらいいのか方針と計画が備わっているもんな。」

「土地神話と、経済の崩壊の話もしてた?」

「してたしてた。その通りだと思うよ。それとな、時代に合った企業は未来がないって言葉が一番印象的だったな。時代の一歩前を見据える力と同時に、新しい時代を創っていくのが企業の使命だとも言ってたよ。あの人が何故、あの地位にいるのかよーく分かったよ。俺、思うんだけど、日本って今が頂点のような気がしてならないんだ。敗戦の焼け跡から世界の頂点まで上り詰めるのは大変な時間と苦労があったけど、落ちるのは早いんじゃないかな。それとな、今のうちのビジネスモデルは近い将来使い物にならないような気がするんだ。」

「うちのビジネスモデルって?」

「営業力でモノを売るってことだ。確かに絶対必要な条件かも知れないけど、それだけで複雑化するこれからの時代を勝ち抜くことはできないように思うんだ。同じ不動産を扱っている企業にもランクがある。旧財閥系や電鉄系のような巨大資本と、我々のような新興デベロッパー、そして街の不動産屋さんだ。財閥系や電鉄系企業は有り余る財力と広大な土地を所有しているから、経営もキャピタルゲインからインカムゲインに方針を切り替えている。そうすることによって経営が安定する。でもそれは財力があるからできる訳であて、新興デベロッパーは売り続けることでしか経営を維持できない。何故、財閥系不動産会社が、分譲マンションのビジネスに本腰を入れないかといったら、旨味がないからだと思うんだ。リスクを背負って大きな資金を投入しても在庫を抱えたり、いたずらに値引きをしたりしてたら、最終的な純利益はリスキーな割には少ない。そんなことよりかは行政とタイアップしてテーマパークを作ったり、再開発事業を行った方がビジネスとしたら面白いし儲かる。一番危険な層が俺たちの会社のように、大きな借金をして大きな商売をやってる会社なんだ。これだけ確立された世の中だからいくら頑張っても財閥系のようにはなれない。かといって街の不動産屋のようになったら社員を養うこともできない。でも、この中間層って奴が一番ポテンシャルが高いのも事実なんだ。しかし、ポテンシャルが高いが故に新しいビジネスモデルを導入して業界をリードする存在にならないと、戦国時代を勝ち残ることは難しいような気がするんだ。じゃ、それは何だと具体的に訊かれても困るんだけどね。」

 立川は古木の言葉を聞きつつ、自分の不勉強さを恥じていた。この野心家は単なる野心だけでなく、自分の人生を成功に導くために、物凄い努力を惜しんでいない。

「お前の話を聞いていると自分が情けなくなってくるんだ。俺は大学時代は遊びほうけて、ロクに勉強なんかしなかったけど、お前の話を聞いていると、何故もっと勉強しなかったのかと後悔してしまうよ・・・。」

「あんまり買いかぶらないでくれ。今、話したのはたまたま俺の考え方であって、お前の知ってることで、俺の知らないことだって同じぐらいあるさ。」

「・・・そんなもんないよ。」

「何、落ち込んでるんだ。それより、いつか俺と一緒にアントレプレナーしないか。」

「おい、日本語で言え(笑)!なんだよ、そのアンドレなんとかって。アンドレ・ザ・ジャイアントなら知ってるけど(笑)。」

「なにそれ?人の名前なの?」

「プロレスラーだ。世界の大巨人・・・。いいよ、だからそのアンドレなんとかを教えてくれ。」

「アントレプレナー。つまり起業。会社を起こすってことだ。」

「誰がだ?」

「だからお前と俺とでだ。兵隊のままで終わる人生よりも、大将になろうぜ。」

「考えたこともないよ。」

「だから考えろよ。俺、お前が気に入ったんだ。」

「俺のどこが気に入ったんだよ(笑)。」

「愚直なまでに正直なところだ。」

「なんだよそれ、答えになってないじゃないか。」

「今はわかんなくてもその内分かるさ。」

「おい、その上から目線の言い方には少し抵抗があるぞ(笑)。」

「悪いな(笑)。でも、お前のそのバカがつくほど正直なところがお前の最大の魅力だ。お前の彼女も多分そんなところが気に入ったんじゃないかな。」

「なんだよそれ。」

「いいじゃないか。これからも仲良くやろうぜ。」

「まっ、いいか(笑)。」

「そこだよ。そう言うところが気に入ったんだ。お前を見てると、欲が見え隠れしないんだ。ウォール街で、ゴードン・ゲッコーが、【欲は正しい。欲は導いてくれる。欲こそ未来だ】って言ってるけど、そんな気配が全くない分、俺にはお前が新鮮に映るんだ。」

「古木よ、難しいことは分かんないけど、俺もお前が結構気に入ってきたぜ。それじゃ杯を交わそうじゃないか兄弟!」

「そうだな(笑)。」

 軽くグラスを合わせると立川は一気にカクテルを飲み干し、古木は軽くバーボンのロックに口をつけた。

 考え方から何もかも違う二人であったが、何故か意気投合とまではいかないまでも、互いに落ち着ける関係になりつつあることは二人とも感じ取っていた。それからはお互い口数も減り、室内に流れるジャズを心ゆくまで満喫した。鎧を脱ぎ捨てた古木の顔は表彰式とは違った穏やかな顔つきとなっており、初めて二十三歳の若者の純情さが若干だが垣間見えた気がした。色々とプライベートなことも訊きたかったが、野暮ったくなるのを恐れて口を閉ざして立川も古木同様クラシックジャズを堪能した。


 福岡から一ヶ月振りに帰京した青山元彦は、羽田空港内のティールームで、札幌支店長の樋口正三を待っていた。二人は同期入社で、本社で六年間に渡って経験と実績を積んだ後、全国制覇に向けて社長の上塚から、東の開発は樋口、西の開発は青山に任せるという厳命の下に、獅子奮迅の活躍を見せ、期待以上の成果を上げてきた。支店網拡大に着手してから今年で十年目を迎えており、当初は二人とも二十八歳という若さで支店長という重責を任されたが、その若さ故、地元金融機関や、地主、それに現地採用した社員などから馬鹿にされたり、ナメられたりで散々な目にあった。しかし、今ではその苦労が実り、地方都市にエースデベロッパーズのマンション、ヨーロピアン・レジデンスをブランドとして定着させることに成功した。

 青山はカフェオレを飲みながら、ささやかな趣味である、アガサ・クリスティーの推理小説『オリエント急行殺人事件』を読み耽っていた。エースデベロッパーズのような野武士集団にあって、青山は全くといっていいほどがさつなところがなく、周囲も驚くほど、几帳面で折り目正しい性格をしている。推理小説を好むだけあって、物事を組み立てていく能力に長けており、タクティカル(戦略)とオルタナティブ(戦術)に優れ、頭脳明晰な管理職として、金融機関からも、業者からも高い信頼を得ている。但し、仕事振りが冷静沈着なだけに、いい加減な仕事をする部下を激しく叱り付けることも多々あり、部下からすると、非常にとっつき難い管理職でもあった。しかし、大変な努力家であり、支店長に就任してから各種資格試験に挑み、取引に必要な資格のみでなく、技術系の資格も有していることだ。設計、鑑定、インテリア等にも一定以上の水準を保っているから、専門業者としてもいい加減な提案はできない。業者との馴れ合いを嫌い、常に互いが緊張関係を保ちながら仕事を遂行するので、出来上がった物件は近隣の他社物件と比べれば常に一ランク上に仕上がっており、その分、営業活動の円滑化に繋がっている。


青山は、読みかけだった推理小説がいよいよ佳境を迎え、名探偵エルキュール・ポワロが、オリエントエクスプレスの中で起きた殺人事件を解明しようとした矢先に、背後から樋口の声がした。

「相変わらず推理小説か、好きだな君も。」

 親分と言われている男らしく、厚い胸板に派手なエルメスのネクタイをしめた札幌支店長の樋口が笑いながら話しかけた。難しい表情で推理小説を読んでいた青山も、急に人懐っこい顔になり、

「おー、元気か。札幌はもう初雪じゃないのか。」

「残念ながら今年は例年より遅いそうだ。君こそ博多暮らしは慣れたか?」

「何処に行っても住めば都だ。そう思わなけりゃやってられないからな。それに福岡は今年からダイエーホークスが来て、盛り上がってるぞ。もともと野球熱の強いところだからな。」

「そうだったな。ライオンズが所沢に移転した後はプロ球団がなかったからな。」

「年配者の中には、未だに西鉄ライオンズに強い拘りを持っている人も結構いるよ。何せホークスの母体は当時、西鉄の永遠のライバルだった南海ホークスだからな。そういう人にとってはホークスを応援することに若干の違和感はあるかも知れないな。でも、大多数の人がホークスを受け入れていることも事実なんだ。それに熱狂的なんだ九州の野球ファンは。でも博多の人たちが熱狂するのは別に野球だけじゃないんだぜ。山笠に代表される祭りなんか、東京とは比較にならないほどの熱気だしな。苦労したのは『九州一国論』を唱えていただけに、余所者をなかなか認めてくれないという難しさがあったけど、一度認めてくれたら最後まで面倒を見てくれる。それが博多っ子だ。今は博多が本当に好きになったよ。ところで君の方はどうなんだ。」

「札幌は博多とは全く違う気風だな。リトル東京と言われているだけに、都会的な雰囲気を持った街だけど、それはあくまで札幌のみで、札幌から一歩外に出ると、やっぱり全然違う雰囲気を感じてしまうよ。でも、寒い街だからかも分からないけど、概ね人々は暖かいよ。それに、新しい街だけあって暮らしやすい基盤整備ができてるんだ。」

「欧米から日本に来たビジネスマンが、ごみごみした東京の暮らしに辟易とするらしいけど、そんな人たちも札幌に行ったら自国に帰ったような懐かしさを感じ、落ち着いた気持ちになれるそうだよ。」

「分かる気がする。とにかく広いからな(笑)。それにしても東京を離れてもう十年経ったんだな・・・。入社した時は、まさか転勤族となって北国暮らしをするなんて、思ってもなかった(苦笑)。」

「お互い様だ(笑)。東京生まれの俺たちにとって地方は憧れと同時に、ある種の怖さもあった。そう思わないか?」

「そうだな。会社よりも俺個人を受け入れてくれるかどうか本当に心配だった。思い出すのは東北に支店を出した時だ。地元の大地主と喋ってて、言葉の意味が分からず、何度も聞き直したら、誤解を生じてしまい、俺が信じられないのかって怒りだしたことがあった。でも二年経ったら俺も無意識に東北弁を喋っているんだから世話ないよな(苦笑)。」


 情に厚く、涙もろい樋口はとても社員を大切にしており、部下からは「親分」とか「ボス」という呼ばれ方をしており、その言葉が本当によく似合う、男が惚れる男だった。難しい仕事を成し遂げた社員には、ポンと、一週間の特別休暇を与えたり、やっとのことでデートを取り付けた若い男性社員に対して、お前も男なら正々堂々と真正面から勝負しろと言って、三万円のポケットマナーを渡したりもした。また、バックオフィスで働く人たちに対しても、月に一度は必ず札幌市内でも指折りのレストランでフランス料理などを振舞ったりしている。自分の部下を家族同様に大切にしているだけに、上司が部下に横柄な言動を取ろうものなら容赦なく叱り付けることもあるが、叱った相手にも必ずフォローを忘れないし、部下を叱り付ける場合も常に相手に逃げ道を用意してやっている。こんな人間性だけに、彼を慕う者は後を絶たず、過去に勤務した、北陸支店、東北支店などの部下たちは、札幌に来るたびに樋口のもとを訪れている。


 十年前、社運を賭して支店網拡大に踏み切った際、その中心的人事を誰にするか、役員会では議論が百出した。野心旺盛な当時の中間管理職は、役員への好機到来と、自ら名乗り出る者もあったが、結論は誰もが驚く人事だった。当時、青山も樋口も入社六年目の二十八歳という若さであり、社内では一定以上の実績はあったものの、それでもビジネス社会の常識では考えられない人事だけに、一番驚いたのは他でもない当人たちだった。なによりもあらゆる面においての経験不足というハンディキャップは当時の彼等には埋めようがなかった。社長の上塚が、彼等に白羽の矢を立てたのは、上塚自身にとっても大きな賭けだった。マネジメント経験が豊富な管理職を宛がうのは簡単だ。しかし、彼等は手を抜く術も知っている。自社の盛衰がかかっているこの支店網拡大という一大事業に対して手を抜くような管理職では務まらない。その最も大きな要因としては、メインバンクの共栄銀行が提示した条件だった。当初、共栄は全国制覇のために必要な莫大な融資に対して二の足を踏んでいた。やっと関東圏で定着したビジネスだから、もう少し熟成してからでもいいのではないか、事を性急に運びすぎると上塚に進言した。しかし上塚は元来守りの経営ができないタイプでもあり、熟成とか安住という考え方を最も嫌う経営者故、双方の主張は大きく対立し、融資は暗礁に乗り上げる寸前にまでなったが、それを救ったのが、当時共栄銀行の常務に就任したばかりの小山内誠だった。小山内は上塚の提示した中期経営計画を何度も読み返した。強気の経営計画の中に、上塚らしい繊細さと、先を見据えた周到さが克明に記載されていた。そして何より絶対に実現してみせるという経営者としての意思の強さを感じ、最終的には融資に踏み切った。但し、小山内は融資に際し一つの条件を出した。支店開設に伴う融資はする。プロジェクトに必要な資金も出そう。しかし、必ず三年でその支店を黒字にすること。三年経って、もしその支店が赤字なら、その時点で融資はストップし、それから先の支店開設に伴う融資は打ち切るというものだった。この厳しい条件に対し、上塚は、それなら東京を中心に東西の都市圏に同時に支店を出し、競わす方策を取らせて欲しいと食い下がった。互いを意識することで相乗効果を生み出すことができるし、そうすることによって予定していた半分の年数で全国制覇が達成できるという目論見だった。流石に小山内も考え込んだが、最終的には上塚の情熱に押し切られる形となった。

では誰を支店長にするか?その時期、管理職の中で、このハードな仕事を任せられるのは当時課長だった石原健三しか見当たらなかった。しかし、石原を支店長にしたら利益の源泉でもある関東圏の収益が落ち込む恐れが生じてくる。思い悩んだ末に辿り着いた人事は若手二人の登用だった。人事が決定し、、役員室に呼ばれた二人は、正式に説明を受け、あまりの責任の重さに蒼白になっていた。青山と樋口は、それまで特に親友という訳ではなかったが、それから急速に接近し、お互いを励ましあう関係になっていった。


 羽田空港は師走の喧騒も手伝ってか、人々が普段より早足で歩いているようにも思え、その光景をぼんやりと眺めていた樋口が、

「数年前までは、地方から羽田に来ると東京に帰ってきたって思ったけど、今は何故か東京にやって来たと思うよ。」

 何気なく言った言葉なのに、青山は驚いたように樋口の顔を見ながら、

「君もそうか!俺も数年前からそんな感じがしてたんだ。実家も親戚も友人だって東京に集中してるのに不思議な気持ちだった。ところで、専務から明日、本社に出社しろと連絡を受けたけど、この師走の忙しい時になんだろう?何か聞いてるか?」

 樋口は含みのある顔で

「特には聞いてないけど、そろそろじゃないか。」

「そろそろって?」

「俺たちの本社復帰だよ。」

 青山は、その言葉を若干期待はしていたが、そうはっきり云われると、期待外れになる怖さも手伝ってか、混ぜっ返すように笑いながら云った。

「まさか。」

「でも、今年で約束の十年だぜ。」

「十年前の約束を会社が覚えているかな(苦笑)。でも、本当にそうだったら嬉しいな。お互い義務を果たせたんだから。」

「義務を果たせたか・・・。その言葉が言えるようになるとは十年前は思ってもいなかったな(苦笑)。」

「心底そう思うよ。」

「ところで後進は育っているのか?」

「副支店長に権限を少しづつ委譲してたからな。事業の仕事は概ね覚えたけど、営業のマネジメントには多少の不安はあるな。福岡はどうだ。」

「うちは逆だ。営業面はなんとか安定しつつあるけど、仕入れが弱い。仕入れが弱いと、どうしても営業の足を引っ張るようになるからな。事業部の連中も、もっと成長してくれないと。」

「でも営業が安定してるのは羨ましい限りだ。数字の目処が立つってのは支店を預かる者にとっては一番重要な事だからな。営業と言えば、本社に凄い新人が入ったそうじゃないか。第二期をトップで通過して、第三期目が終了する今月も、ぶっちぎりだそうだ。確か古木敬一郎とか言ってたな。今月の社内報に巻頭カラーでインタビュー記事が掲載されてたぜ。新人が巻頭でインタビューなんて前代未聞だ(笑)。」

「俺もコンテストで会ったけど、いい面構えしてたなー。少し話してみたけど、考え方もしっかりしてるし、ありゃ石原二世かも知れないな。」

「部長よりも社長とよく似た雰囲気じゃないかな。」

「そうかも知れないな。」

「そういえば新人で入賞したのが、もう一人いなかったか?」

「いたいた。でも名前はなんだっけ?」

「俺も名前は覚えてないけど・・・。本社の一部一課だから木之元君のところだ。」

「でも、タイプが全く違ってたな。あまり個性も感じられなかったし、顔つきも優しい感じのする奴だったし・・・。」

「新人が入賞することは、この世界では考えられないほど凄いことなのに、古木という男のせいで忘れられてんだから、そのなんとかって奴も気の毒だな(笑)。」

「ホントにそうだな。それよりもう七時だ。そろそろ行くか。」

「今宵は新橋の『政吉』で飲み明かそうぜ。」

「異議なし!」

 旅の疲れもなんのその。二人は吸い寄せられるように、サラリーマンの聖地・新橋のネオンの海に向かって行った。


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