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出会いPARTⅡ

銀座四丁目にある高級寿司店「江戸前・貫太郎」は、その殆どが馴染みの客ばかりで、主人の中川啓輔の人望もあって、夜毎賑わっていた。中川は四代目店主で、明治の終わりから現在に至るまで、この地で寿司屋・貫太郎を営んでいる。ある意味、銀座の歴史を知り尽くしている店ともいえる。銀座の寿司屋は偏屈者が多いとの噂もあるが、特別そのような態度を取るのはごく一部の店に限られている。「貫太郎」四代目は、そんな迷信みたいな仕来りを嫌い、積極的に客とゴルフや釣りに行く等して、現代的な感覚をも持ち合わせている。また、職人という厳しい修行においても、「技術は学ぶべきものではなく、盗むことだ。」という旧態な考え方にも縛られておらず、ベテランが若い職人にも積極的に仕事を教えている。感覚が現代的とあって、丸の内や新橋近辺の一流企業の経営者や管理職等から贔屓にして貰っている。

 そんな贔屓筋の一人が、エースデベロッパーズの石原であり、よく取引先や部下を引き連れ入店しているが、今宵は立川悠樹を伴って来店した。「らっしゃい」という主人の声のあとに九人の店員が一斉に同じ台詞を声高に叫んだ。銀座の一流店は、立川にとって初めてだった。

「いらっしゃい石原さん。毎日暑いねー。」

「おやっさん、今夜は主賓を連れてきたぞ。うちの期待のホープの立川だ。今年入社したばかりなんだ。」

「そうですか、今後ともよろしくお願い致します。」

 気風のよい挨拶に立川は少し萎縮してしまった。

 そんな立川に石原が同調するように大きな声で明るく立川に云った。

「今日は遠慮せずにじゃんじゃんやってくれ!俺はこんな場で遠慮する奴は大嫌いなんだ(笑)。」

 取り合えず二人とも生ビールを注文し、直ぐに運ばれてきた。

「なにはともあれ、おめでとう。」

「ありがとうございます。」

「課長から聞いたぞ。色々あったそうだが、初契約が一億三千万円の契約なんだから大したもんだ。よくやった。」

「いや、僕の力じゃないです。殆ど課長の力ですし、僕は・・・掻き乱しただけだから、まかり間違ったら今頃首が飛んでいたかも知れません。」

「今のお前の仕事は、お客を探して来ることだ。そして、課長の仕事はそれをまとめ上げることなんだ。お前は自分の仕事を全うした。だから、堂々と胸を張っていろ。」

 いつもと同じように言葉の中に労いと、張りがあった。

「正直言って、あんなことがあったのに、よく契約できたなーって・・・。」

「何故だか分かるか?」

「いえ・・・。」

「それは端的に云えば人間関係がお前の知らないうちに築き上げられていたということだ。お前が思っている以上に、お客様からお前が信頼されていたからだ。それはお前の営業マンとしての資質を認めていたからじゃなく、お前は単にお客様に愛されていた。でもそれが最も難しいことなんだ。」

「そんな・・・でも本当にそうであれば、感謝しなければならないですね。」

「そうだ、お客様に感謝する気持ちを忘れるなよ。俺たちの仕事は、その感謝の気持ちをついつい忘れがちになるからな。」

「分かりました。しかし部長、世の中って一億円以上の金を現金で支払えるような人って本当にいらっしゃるんですね。実は本音を言えば、入金が確認されるまで一抹の不安があったんです。」

 立川は正直に云った。その素直さが石原には微笑ましく、石原なりの大きな答えを立川に投げ掛けた。

「箪笥預金って言葉知ってるか?」

「いえ、なんでしょう?」

「現金を預金せずに自宅に保管してる金のことだ。日本はそれが世界一で、二十五兆円とも三十兆円ともあるといわれているんだ。まあこの中には健全な金もあれば、そうでない訳有りの金もあるがな。とにかく日本人ってのは欧米人と違って、投資よりも貯蓄が圧倒的に好きな民族だからな。」

「うちにはそんな金ありませんよ(笑)。」

「うちもそうだ(笑)。しかし、そんな人たちから金を引き出して行くのが上手いのが一流の営業マンといえるんじゃないのか。お前の上司の赤嶺はそんな営業が本当に上手いぞ。しかし、あいつはその自分の才能に気付いていない。だから成績が安定しないんだ。お前も一流のお客様に恵まれたいのなら、おまえ自身が一流の人間になる努力をしないといけないぞ。」

 石原は、昨日今日入った部下に対しても差別することなく、自分の考えや哲学を積極的に教えている。そんな二人の会話に店の主人の中川がタイミングよく入ってきた。

「初契約おめでとうございます。いいですねー、いい上司に恵まれて。」

「本当にそう思います。」

「おいおい勘弁してくれよ。」

 石原が照れくさそうに笑ったあと、

「それにしてもおやっさん、時代は変ったね。契約書を交わした後に、その当人がいる前で、その家の娘さんに交際を申し込むんだよ、こいつは。信じられないよなー(笑)。だってそうだろう、この店に寿司に食べに来た家族連れの娘さんに一目ぼれした職人さんが、寿司食ってる最中に交際を申し込むようなもんだぜ(笑)。」

 立川は石原が責めている訳じゃないことは分かってはいたが、それでも赤面し、頭を垂れてしまっていた。

 気の毒に思ったのか、主人の中川が助け舟を出した。

「よっぽど素敵なお嬢さんだったんでしょうね。」

「そうなんだ。これが飛び切りの美人なんで、俺も驚いたよ(笑)。」

「えっ、部長、彼女をご存知なんですか。」

「うん、入金があったその日に、お礼がてら訪問させて頂いたんだ。なにしろ一億三千万の買い物をして貰ったんだからな。誠意は見せておかないとな。」

 石原は、金額の大小に関わらず、契約して貰った客に対しては、必ずお礼を兼ねて訪問していることを立川は知らない。また、部長職でそれをやっているのは石原だけであった。

「そうなんですか、ちっとも知りませんでした。」

「お前はきっと企業人としても大成するよ。女性一人口説けない男が大きな仕事ができる筈ないしな。」

「あの・・・本格的に付き合っている訳じゃなく、まだまだ友人ですから・・・。」

 立川の言葉には耳を貸さず、

「大切にしろよ。それにこれは木之元から聞いたんだけど、あの美人のお嬢さんの存在がなかったら今回の契約は難しかったそうじゃないか。感謝しないといけないな。」

「全くです。」

「しかしだ、公私混同は今回が最初で最後にしておけよ。」

 石原は笑顔だった。

「肝に銘じます。」

 その後は取り止めのない話をし、江戸前寿司の美味さを堪能していた。ウニ、シャコ、コハダ、タコ、イカ、チュウトロ、エンガワ、タイ、ヒラメ、そして好物のアナゴ等をつまみながら、

「それにしてもやっぱり銀座のお寿司屋さんだけあってって美味しいですねー。僕は瀬戸内で育ったから魚が大好きなんです。」

「瀬戸内?お前故郷クニはどこだ。」

「高松です。」

「なんだって。讃岐かー、俺は土佐だ。」

「えーーっ、土佐!高知のどちらですか。」

「室戸なんだよ。」

 なんともいえない懐かしさがお互いの胸に込み上げてきた。

「四国の出身だとは知らなかったなー。いやー、奇遇だ。そうだ、もう一軒行かないか。取って置きの店があるんだ。実は俺の住処すみかなんだ。」

 石原の顔は、子供が宝物を友人に紹介するかの如く喜々としていた。促されるまま、貫太郎を出た後は、銀座裏の路地の、そのまた裏にある、文字通り「住処」という言葉がピッタリの、およそ銀座という土地とは不釣合いな店構えをした「土佐料理いごっそう」という小さな店だった。

 一歩店に入ると、時代がタイムスリップしたような錯覚を覚えた。店内はカウンターのみで座席が八席程で、古ぼけた大漁旗が二枚と、モノクロの土佐の一本釣りの写真が飾ってあるのみであった。写真の下には小さな字で昭和十二年五月二日と書かれていた。音楽も流れておらず、カウンターの木材は所々ひびが入っており、椅子も不安定でギシギシと音がするような粗末なものだった。裸電球二個で照らされた室内には定年前と見受けられるサラリーマン二人が肩を寄せ合うようにしながら静かに呑んでいた。厨房には、額に深い皺の入った白髪の初老の主人が一人で煮物の鍋を回していた。貫太郎の威勢の良さとは全く逆で、低くボソっとした声で客の方すら見ずに、

「らっしゃい」と、呟いた。

「邪魔するよ。」

 無愛想だった主人が、石原の声を聞くと、初めて顔を上げた。そして挨拶よりも低い声で、

「あー、あんたか、随分ご無沙汰だなー。」

「ここんところ忙しかったからなー。」

「んっ、連れがいるのか、あんたが客連れて来るの初めてだなー」

「こいつも四国の出身なんだよ。室戸じゃなく高松だけどね。このおやっさんも室戸出身なんだよ。」

 立川は低く頭を下げた。

「どうせもうなんか食ってんだろ、いつものヤツでいいかい。」

「ああ、頼むよ。」

初老の主人は、立川に向かって

「この人は、鰹のたたきとイカの煮付けしかうちでは食べないんだ。変った人だよ全く。」

「おやっさんに変った人とは云われたくねーよ。俺以上の変人なんだからな。」

「じゃ、変人コンビって訳じゃねーか。」

「全くだ(笑)。」

 老人は立川に向かって、

「若いの、遠慮するような店じゃねーから気楽に食べて呑みな。お前さんも同じサカナでいいかい?」

「はい、お願いします。あっ、酒はヒヤで結構です。」

 出された鰹のたたきとイカの煮付けはとても美味く、思わず郷里を思い出していた。そんな立川の顔を横目に見ながら石原が呟いた。

「なんだよ、ひょっとしてクニを思い出してたのかい。」

 石原の勘の鋭さに驚き、

「えっ、なんで分かるんですか?」

「分かるさ・・・。」

 石原の顔は少し寂しそうだった。この人も懐かしがってるんだって思い、石原に話しかけた。

「部長もよく室戸に帰ってるんですか。」

「いや・・・。」

 石原の顔がほんの一瞬曇ったのを見て、失礼なこと聞いてしまったなーと後悔していると、主人が割って入った。

「帰る家がねーんだよ。こいつも俺も。」

「・・・すみません、何だか失礼なこと聞いてしまったみたいで・・・。」

「余計な気を回すな。いちいち、俺の顔色なんか見ないでいいから、鱈腹食えよ。」

石原は機転を利かせて、いつもの笑顔を作っていた。

「おやっさん、申し送れましたが、俺、部長の部下で、立川悠樹といいます。今後とも宜しくお願いします。良かったらおやっさんの名前も教えてくれませんか?」

「おれは孝蔵ってーんだ。孝さんでいいよ。」

「わかりました。孝さんもう一杯ヒヤを下さい。」

「あいよ。」

 孝蔵はまたも低い声で応えた。同じ銀座でありながら、前に行った貫太郎とは全く違う雰囲気を醸し出してはいるが、立川にとっては、この店の方が落ち着ける気がしていた。

「孝さん、今度は一人で来てもいいですか。」

「待ってるぜ。」

 孝蔵の相槌は短い言葉だったが、立川はそれがなんとも言えず嬉しかった。

「部長、このお店は長いんですか。」

「うーん、彼是五年になるかな。最初の一年間は全く喋らなかったんだ。注文する時と、帰る時に勘定を訊くのみだったよ(笑)。クニが同じ高知だと分かった時からだっけ?」

 石原が孝蔵の方を向いた。

「そうじゃねーよ、鰹の味にお前さんが因縁つけて来た時からだよ。」

「あ、そうだった(笑)。『土佐の鰹と違うじゃないか』っておやっさんに絡んだんだ。」

 立川は驚き、

「???味で産地が分かるんですか。」

「当たり前だ。」

「それは凄いですね。」

 厨房で、孝蔵が憮然とした顔でその話を聞いていたが、

「時期が悪かったんだ。俺だって、土佐の鰹を出したかったけど、その季節は土佐で鰹は取れないんだ。それをこの野郎が偉そうに因縁つけてきやがったから・・・。」

 石原は苦笑していた。

「そんなことがあったんですか、それを契機に男の友情に繋がったってことですね。」

 からかい半分に云うと、孝蔵が、

「クソガキが、偉そうにぬかすな。」

と、ピシャリと一瞥した。孝蔵は客におべっか使うタイプではなかったが、銀座の一部の寿司屋の親父のような偏屈者でもなかった。

立川が慌てて孝蔵に「すいません・・・」と小さく謝った。

「それより若いの、もう一杯どうだ。」

「頂きます。」

 孝蔵の顔に初めて笑みらしきものが浮かんだ。

 それ以後の会話は終始四国の話になっていた。しかし、同じ四国といっても、瀬戸内海沿岸と太平洋沿岸では様々な言葉や文化が大きく異なっていることに立川は驚いていた。そして、飲みだして二時間近く経った頃、徐に石原が立川に、

「ところで立川、仕事は慣れたか?」

 立川は正直に答えた。

「結果が出ないことでかなり焦ってました。今回の契約で多少なりとも安堵してますが、またゼロから始まるという強迫観念に苛まれてます(苦笑)。」

「とにかく精神的にタフでないとやっていけない職場だからな。しかしな、最終的に勝ち残る奴ってのは、矛盾してると思うかも知れないが、やっぱり真面目な奴だけなんだ。」

 真面目という言葉にかなり抵抗があったから、

「真面目ですか・・・。」

「おかしいか?」

「・・・正直言って少し違和感を感じます。」

「どんな違和感だ。」

 相手が上司だから少し戸惑っていたら、

「遠慮せずに云ってみろよ。」

 多少思案したが意を決して云った。

「その真面目な社員が短期間で結果が出ないという理由だけで沢山辞めている現状にとても不安と矛盾を感じます・・・。」

 石原は真剣な表情で、

「確かに多くの有能な人間が短期間で結果を出せないという理由だけで会社を去っていった。それは否定しないし、現実にそうだし、ある意味この会社の最大の弱点かも知れない。だが、結果を出せない社員に対し、結果が出るまで待ち続けていたら会社はどうなる?そんな体質の会社になっても経営が安定するのであれば喜んでそうするよ。よそ様から見ると、うちは大きな金を動かしているから派手に見えるけど、内情は大きな自転車を必死で漕いでいる、まさしく自転車操業会社なんだ。だから時間をかけて育成するということができないんだ。しかしな、これでも徐々に体質改善に努力はしているんだ。」

 部長職が新入社員に対して発するには、あまりにも馬鹿正直な答えだったから、正直立川も驚いていた。万人が認めるプリンス・石原が、ポッと出の若造にこんなに真摯に対応してくれるとは思っていなかった。

そして、コップ酒を飲み干しながら石原が悪戯っぽく言葉を繋いだ。

「で、期待の大型新人の立川君だから、この先もこの勢いでやってもらわないとな。期待してるぞ。」

「そんな、プレッシャーかけないで下さい。本当に付いていくだけで精一杯なんです。それに所属部署が部署だけに・・・。」

「まあ、本社の営業本部一部一課だからな。常に羨望と嫉妬の中心にいるみたいなもんだ。しかしな、鞄持ちは一日でも早く卒業しろよ。」

「鞄持ち・・・どういう意味でしょうか。」

「この世界に入った以上、一日でも早く出世をしろってことだ。さもないといつまでたっても一番下で鞄持ちを続けなきゃならねーぞ。」

「しかし僕は入社したばかりですから・・・。」

「だから云ってるんだ。サラリーマン根性丸出しで、人生設計なんか考えていると、弾き飛ばされるぞ。」

 石原の顔は真剣だった。

「いいか、三年間はとにかく突っ走って、早く課長に昇進しろ。」

「そんな・・・。」

「いいから聞け。今はこの業界も日本そのものも異常事態なんだ。味噌も糞もごっちゃになり、全ての価格が沸騰している。中でも土地と株は狂乱している。こんな狂った事態がいつまでも続く筈はないんだ。いずれ味わったことのない強烈なしっぺ返しがくるぞ。」

「経済が崩壊するってことですか。」

「具体的にどうなるかまでは俺にも分からん。しかし明確な弱点を抱えているこの国の一人勝ちを他の列強国が許す筈がない。それにだ、今は世界の通貨が日本に集中している。こんな何もない国に世界中の金が集まってるってことは、その価値が土地と株に集中するのは当然なんだ。しかしだ、極東のこんなちっぽけな国がボロ儲けすることは、世界中のエスタブリッシュメントが許す筈がない。」

 経済学部を卒業した筈なのに、からっきし経済に弱い立川には石原の云わんとすることが深く理解できていなかった。それでも、この好景気が終焉を迎えるとは到底思えなかった。また、日本の経済社会が有頂天になっているとも思えず、石原の言葉が大袈裟な表現に感じてもおり、俄かには信じられず、

「研修で教わったことの中に、土地神話ってのがありましたが、その神話が崩壊し、地価と株価が下落するってこともあり得るってことでしょうか。」

「その可能性は大いにあるってことだ。」

「まさか・・・。」

「そのまさかだ。冷静に考えてみろよ、どこまで上がり続けるんだ。俺たちは今、こうやって銀座で呑んでるが、ほんの数分歩いたら中心地だ。その中心地は今や坪一億円以上に跳ね上がっている。異常だと思わんか!畳二畳が一億円だぞ。先日、うちにも銀座の土地の話があったんだ。三百坪で二百三十億円だ。建築コストを最大限加味して三十億円としたら計二百六十億円になり、そこに十五%の利益を上乗せして売り出した場合、三百億円近くになる。建蔽率や容積率を換算した場合、邸数はマックス八十が関の山だ。それを販売したとしたら平均販売価格が四億前後になってしまう。僅か百平米のマンションが四億円だなんて異常としか思えないじゃないか。その件で先日、役員会に呼び出された。営業としてやれるかどうかを訊かれたが、取り合えず断った方がいいんじゃないですかって答えたら、社長は不満そうな顔をしていたがな・・・。横には、経理担当役員で共栄銀行から出向している今岡常務が「出来ますよ、社長やりましょう。」って無責任な発言をしてたがな。そりゃ予定通り完売できたら大きな利益に繋がるが、失敗したら莫大な負債を抱え込むことになる。いや、もっと心配なのは、地価が急落した場合、売り出すことすら出来なくなる可能性だってあるんだ。それに一番問題なのは、庶民が購入できないようなマンションを販売するってことなんだ。ごく一部の大金持ちのみを対象にした会社になったら、今に一般庶民はうちの物件にソッポを向くようになる。それが一番怖いよ。」

 石原が云ってることは長期的視野に立ったビジョンであって、目先の利益を追ってないことは若い立川にも理解できた。しかし、石原の云ってることは経営幹部が考えることであって、自分のような若輩が口を挟むことではないような気がして、思わず本音を吐いた。

「自分は、まだそんな経営上のことを伺うような立場にはありませんから・・・。」

「バカ野郎、サラリーマン根性で物事を考えるなって云ったじゃないか。」

「だって、サラリーマンなんですもの。」

「立川、そんな考え方は捨てろ。うちは伝統ある老舗企業ではなく、いつ倒産しても不思議ではない新興の不動産デベロッパーなんだ。勤務年数で階級や収入が保障されている会社じゃないんだ。一日も早く、会社にとって必要な人間になり、自分の言動によって会社を危機から救えるような立場になるんだ。」

「うちの会社って、そんなに危なっかしい会社なんですか?」

「俺は危機感を持てと云ってるんだ。先輩社員や同期入社の連中より先を見据えろ。それしかこの会社で永く働くことはできないんだ。入社式で社長が云ってたようにやる以上は、この会社のトップに上り詰める覚悟で業務に励め。」

 二十三歳といえばまだまだ遊びたい盛り故、この上司が吐く厳しい要求に対して、明らかに返答に詰まっていたが、こ状況で反論することも出来ず、分かりましたと応える以上の術がなかった。

 時刻は夜の十一時を回っており、二人ともかなりの量のアルコールを呑んでいた。腕時計を徐に見た石原が、意味深な顔で云った。

「悪いな。初契約の労いの筈が、何だか説教じみた言い方になってしまって・・・。それより折角銀座に来てるんだ、最後はクラブで締めよう。いいもの見せてやるよ。」

 支払いを済ませた石原は孝蔵に別れを告げ、そそくさと銀座八丁目に向かって歩いて行った。週末の銀座は、喧騒とネオンの煌きで溢れ、もっぱら、大人の為の夜の遊園地を彷彿とさせる賑わいを呈していた。

「やっぱり日本一のネオン街ですね。学生時代を過ごした大阪のミナミとは、醸し出す雰囲気が全く違いますね。」

 立川が軽い気持ちで云った言葉に石原が顔を歪めて呟いた。

「この浮かれた連中を見てみろ。今や実質アメリカを抜いて世界一の金満大国になったが、勤勉だった日本人が、急に大金持ちになったから、今までの反動で危機感を忘れて隙だらけで裸踊りしているようなもんだ。」

 立川は黙るしかなかった。しかし何故、石原はこうまでネガティブに考えるのか、不思議な気がしていた。

 石原が立ち寄ったのは八丁目にある、一流のクラブが多数入っているビルの二階にある「ポンデュガール」という高級ナイトクラブだった。エースデベロッパーズでは銀行や地主の接待に頻繁に使用しており、いわばエースデベロッパーズご用達の店であった。すぐさま歳の頃なら五十半ばと思えるママが玄関口まで出迎えにきた。

「いらっしゃい石原部長、お久しぶりです。どうぞこちらへ。」

 通されたのは奥まったボックス席で、着座すると直ぐに二人の綺麗どころがやってきた。

「いらっしゃいませ。部長、一ヶ月もご無沙汰だなんて心配してたんですよ。」

「悪いな、ここんところ立て込んでたからな。今日は新入社員を連れてきたから宜しく頼むよ。立川、挨拶しろ。」

「立川です。田舎育ちなもんで、銀座は今夜が初めてですので宜しくお願いします。」

「亜紀です、宜しくお願いします。」

「繭です、今後とも宜しく。」

 二人とも二十五歳前後で、ストレートな黒髪と、引き締まったボディーをしており、洗練されたミディーのスカートがよく似合っていた。

「亜紀、昼間の仕事はちゃんと行ってるのか。あんまり銀座に慣れるのもどうかと思うぞ。」

「ご心配なく。仕事は昼も夜も皆勤賞なんですよ。」

「そうか。ところでボトルはあったよな?」

「いえ、一昨日、松木専務がこられて空いちゃいましたよ。新しいの一本入れましょうか。」

「空いた?専務が一人で飲んだのか。」

「いいえ、今岡常務と共栄銀行の内藤さんって方がご一緒でしたよ。なんか、銀座の新しいマンションの件でお話してましたけど。部長さん、ご存知なかったんですか。」

苦虫を噛み潰したような表情で、「例のプロジェクトか・・・。」と、呟いた。

 立川が気の毒そうに、

「さっきの銀座の物件のことですか?」

「そうだ、進んでるみたいだな。仕方ないな・・・。」

「亜紀、他にはなんか聞いてないか?。」

「私、スパイじゃないですよ。」

「悪い悪い、そういうつもりじゃないんだ。それよりボトルだったな、いつものヤツでいいぜ。」

「有難うございます。じゃあ、バランタインのニューボトル入れます。」

 洋酒のことなど何も知らない立川が石原に、

「バランタインって酒の名前なんですか。」

「レミーマルタンのバランタインだ。」

「なんですか、それ!」

「いいから呑め、美味い酒だぞ。それより立川、ここにいる客の半数以上が不動産と株でボロ儲けしている奴等ばかりだ。あそこのピンクの派手なワイシャツ着て、ホステスを独占してるキザったらしい奴がいるだろう。あいつは森下って野郎で、「東京シティー開発」って、ご尤もな名前をつけているが、要するに地上げ屋のボスだ。その後ろでママと踊ってる太った親父は、「新橋インベストメント」という投資顧問会社の株屋の代表だ。それとな、あいつらが接待しているテーブルに、紳士然として座っている真面目そうな仮面を被っているのが銀行屋だ。東京シティー開発は先月、原宿の千坪の土地を転がし、あっという間に二十億円の純利益を上げたって業界紙に掲載されていたぜ。実は例の銀座の土地も奴から話があったんだ。おっと、噂をすればなんとやらだ、来たぜ。」

 森下はアルマーニのスーツを粋に着こなした四十前後の一見して派手好きな印象を与えていた。

「これはこれは、誰かと思ったら、エースの石原部長じゃないですか。ご無沙汰致しております。お声掛け下さればいいのに。」

「森下社長が、気持ちよく呑んでるのを邪魔したら悪いと思ってね。」

「そんな他人行儀なこと云わないで下さいよ。身内同然なんだから。それより少しお邪魔しても宜しいでしょうか。」

 口もききたくないような男だったが、仕事上での付き合いもあり、無下にはできなかったので、「どうぞ。」と、促した。

 森下は着座するや否や、甘ったるい声で、

「聞きましたよ。役員昇進だそうじゃないですか。おめでとうござます。」

「いや、まだ正式に決まった訳じゃありませんので。」

「いえいえ、石原部長の業績から見たら遅すぎるくらいですよ。」

 この女々しい喋り方が、癇に障り、どうにもこうにも我慢できなかった。不倶戴天の敵とはこのような人間のことをいうのかと、内心思いつつも、グッと我慢しながら、

「私も、森下社長に少し伺いたいことがありまして。」

「銀座の土地のことでしょ。」

 相手から切り込んでくるとは想定外だった。森下はキザに見える反面、ことビジネスにおいてはかなりシビアな男で、石原が言葉を選んで話そうとしていたら、

「役員会では、石原部長一人が反対したと伺ってますが、何か問題でもあるんでしょうか。」

「理由もなく反対した訳じゃなく、もう少し考えてみたらどうかと云ったまでです。」

「不思議な会社ですよね、役員会で承認されそうなことが、一介の部長の一言で左右されるなんて。でも、一昨日、松木専務とこちらでお話しして、大筋で合意に至りましたので、来週には正式契約になりますよ。なんだか、石原さんが役員になったら仕事がやりにくくなりそうで心配なんです。だって、エースデベロッパーズの文字通りエースなんですものね。今後は仲良くして下さいね。」

 痛烈な嫌味だったが、そこは修羅場を掻い潜ってきた石原だけに、穏やかな表情で、

「森下社長こそ、私を誤解してるみたいですよ。私にはそんな権限も資格もありませんのでご安心下さい。」

「そうですか。今後ともよろしくお願いしますね。それじゃお客様に失礼ですので、おいとまします。」

「いえ、彼は客じゃなく、今年入社した私の部下なんです。先日初契約を上げたので、その慰労として銀座を案内してるだけなんです」

「そうでしたか、それはおめでとうございます。亜紀ちゃん、こちらの坊やにレミー一本差し上げて。」

 石原に対する言葉遣いに、鼻持ちならない奴だと思っていた矢先だったから、思わず挑発的な言葉で食って掛かった。

「待って下さい。見ず知らずのあなたに高価なお酒を頂く訳にはいきません。」

「あーら、元気のいい坊やだこと。これは、私からの初契約のプレゼントですよ。それじゃ、部長ごゆっくり。」

 森下は、ステップを踏み自分の席に帰って行った。

「部長、なんですか、あのオカマ野郎は。」

 ホステスの亜紀と繭が、必死で笑いを堪えていた。石原も最初森下の言動に立腹していたが、立川の単純な怒りようを見てると、つい笑しく腹を抱えて笑い出した。そして、ボーイが持ってきたレミーマルタンを指差して、

「それより、そのレミー一本幾らすると思う。」

「三万ぐらいするんですか?」

「一本三十万円だ。」

「えっ・・・。」

 立川は絶句したまま突っ立っていた。

「どうだ、今晩は勉強になったか?」

「・・・はい。ところで、今の話は本当なんですか。」

「今の話って?」

「取締役になられるって話です。」

「あー、いや、まだ正式決定じゃないからな。」

「役員になられたら部長職はどうなるんでしょう・・・。」

「まだ決まってないのに答えられないぜ。」

「仮になった場合は移動もあるんでしょうか。」

「その可能性はあるな・・・。それにな、青山君と樋口君が支店網拡大に尽力してくれてるから、俺だけ役員になり、本社に残ることは本来ならば許されないことなんだ。」

福岡支店長の青山元彦と、札幌支店長の樋口正三は同期入社であり、社長の上塚が互いを競い合わすように、西日本と東日本の開発に凌ぎを削っていた。この二人の頑張りによって、政令指定都市に支店を広げることが出来たし、なにより地方都市にマンションの良さを広めることに繋がった。そしてその役目を終えた二人が、本社に帰ってきた場合のポストも用意しておかなければならなかった。

「お顔は入社式で拝見したんですが、両支店長はどのような方なんでしょう。まだ三十代後半のようにお見受けしたんですが。」

「二人とも今年で三十八歳だ。戦略家の青山君と、情熱家の樋口君と言った方が分かりやすいかな。でも地方をあそこまでにするんだから二人とも大したビジネスマンであることには変わりないがね。」

 青山も樋口も石原の後輩であり、二年間部下でもあったから、二人からの信頼は厚いが、石原としたら、地方経験を彼等に任しているある種の負い目があることは事実だった。しかし、立川にとっての石原は理想郷のような上司なので、移動になることは彼にとっては寂しいことなので、重い気持ちになっていると、益々バランタインが身体に染み渡っていた。もうかれこれ七時間以上も呑み続けていたので頭がクラクラしていた。

「それにしても、部長はどうして何年もトップを維持できているんですか。なにか秘訣のようなものがあるんでしょうか。」

 石原もかなり酔ってはいたが、

「そんなものあるんなら俺が聞きたいぐらいだ。」

「社内では十年後の社長は石原部長だって殆どの人が云ってますよ。」

「十年後だって・・・一年先の自分がどうなっているのかさえも分からないのに、十年先のことなんて分かる筈もない・・・。立川、お前も俺の歳になったら分かって貰えると思うけど、人にはそれぞれ役割があるんだ。言葉は悪いが、その役割を演じなければならないんだ。今の俺は新進気鋭の不動産デベロッパーの本社営業本部を預かる身だ。先ずは、自分の担当している部署を盛り上げていかなければならない。それと同時に全体のことも考えなければならない立場になっている。銀座の土地の件でも分かるように、時として、会社の方針に真っ向から立ち向かわなければならない時があるんだ。四面楚歌になる時だって数え切れない程あるぜ。」

 若い立川と比較したら明らかに石原は酔っていた。およそ泥酔という醜態を人様の前で晒したことはない石原が今宵はそれに近い状態になっており、顔だけではなく、緩めたネクタイから見える首筋まで充血している様子だった。見かねたホステスの亜紀が、

「部長、今夜は飲みすぎよ。そろそろお帰りになった方がいいんじゃない。」

「そんなに酔ってるか?」

「酔ってますよ。繭ちゃんもそう思うでしょ。」

「そうですよー、でもこんなに酔った部長を見るのも面白いね(笑)。」

「おい、からかってるのか。でも・・・たまにはこんな夜があってもいいじゃないか。おい立川、お前も今宵は酔い潰れろ(笑)。」

「了解しました。今夜は潰れます。(笑)。」

「よっしゃー(笑)。」

「でも、部長が昇進するのは嬉しいけど、離れるのは辛いなー。」

「またその話かー。もう昇進の話はいいよ。それにな、なんか今回は見送られるような気もするんだ。」

 泥酔してはいるが、語尾には複雑な心境があることを立川は感じていた。

「どうしてですか。万人が認めていることですし、さっきのオカマ野郎だって遅すぎるって云ってたじゃないですか。」

「おい、今宵はお前の慰労のために来たんだぞ。俺のことはいいから、折角の銀座村を大いに楽しめよ(笑)。」

 これ以上訊くのは野暮だと判断し、それから閉店までの一時間はホステス相手にバカ騒ぎしながら呑み続けた。時計を見ると午前二時を過ぎており、足元がおぼつかない状態になった石原が、流石に、

「おい、立川そろそろ帰るぞ。それにしてもうわばみのような男だなー。」

「お疲れ様でした。今夜は本当に楽しかったです。また来ましょうね、部長。」

「そう度々来れるかよ、幾らかかってると思うんだ(笑)。でも、お前が第二四半期で、新人のベスト5に入ってたら、また連れて来てやるよ。」

「分かりました、約束ですよ、亜紀さんと繭さんが証人ですからね(笑)しかしベスト5は少しキツいなー。」

「バカ野郎、ナンバーワンって云わないだけでも有難いと思え。」

「了解しました。」

 銀座の長い夜が終わった。店を出たのは夜の二時半を回っていたが、この不夜城の街は多くの人を飲み込んだまま、未だに荒い息を弾ませていた。



 澤村家では母親の操が甲斐甲斐しく夕食の準備をしていた。近所の魚屋で買ってきた大き目のメバルの煮付け、筍の若竹煮、芝えびと貝柱の掻揚げ、ふろふき大根、白身魚の吸い物等、豪華絢爛とは言わないまでも、和食の基礎がないと造れないものばかりである。娘の麻美も台所に立ち、母親の料理を受け継ぐべくあれこれと教わっていた。

「パパは未だに和食しか食べられないの?」

「そうなの。最近はお仕事で海外に出張することも頻繁にあるんだけど、帰ってきたら間違いなく体重が落ちてるか、お腹を壊して帰ってくるのよ。でもね、ついこの間、ニューヨークに出張した際に、六十五歳にして、初めてハンバーガーが食べられるようになったって一人で喜んでたのよ。笑っちゃうでしょ。」

「それにしても、基本的にはお肉も駄目で、サラダも駄目。好物はお魚の煮付けと、野菜の煮物だけだなんて、日本以外では絶対に暮らせないわね(笑)。それより、今日は早めに来るって云ってたけどホントかなー。また午前様になるんじゃない(笑)。」

「昨日まで出張だったでしょ。早くあなたの顔が見たいのよ。最近はうちに来ると、麻美、麻美ってあなたの話ばっかり。ママ、時々あなたに嫉妬するのよ(笑)。それより、もう出来たから温かいうちに食べましょう。待ってたってきりがないし。」

「そうしようか。」

 楕円形の比較的大きなテーブルに出来上がった料理を並べながら、操もどこか喜々としたような表情であった。操の愛情こもった料理に舌鼓を打ちながら、

「うーん、やっぱりママの料理が一番美味しいね。」

「イギリスにだって美味しい料理はいっぱいあるんでしょ?」

「イギリスって食に関しては無頓着っていうか、関心を払わない国なんだって。紳士は食べ物にあーだこーだ云わないってことかしら。いまだに代表的な料理がフィッシュ&シップスぐらいしか浮かばないでしょ。」

「あなた、普段の食生活は大丈夫なの?」

「もう子供じゃないんだから大丈夫だよ。」

 麻美は実際、幼い頃から手が掛からない子供だった。小学校、中学校の義務教育は、東京では私立に入れたがる親が多いにも関わらず、頑として公立に入学させ、高校は都内の公立高校では最難関といわれた都立一条高校に合格し、大学も国立東都教育大学に現役合格した。大学では、当初高校の英語教師を目指していたが、専門課程で学んだ心理学に興味を持ち始め、卒業後は更なる専門性を求め、英国のオックスフォードへ進んだ。勉学だけでなく、スポーツにも励み、小中高と水泳の選手として活躍し、都大会にも選出される才能を発揮した。また、大学では家庭教師や、花屋でのアルバイトに励む傍ら、演劇部に入り、その美貌故、常にヒロインの役が当たる事が多かったが、周囲の人間関係のことを気にし、何度かヒロイン役を断ったこともあったし、積極的に裏方仕事も手伝った。また、四年生の最後の舞台では、大好きだったヘンリック・イプセンの「人形の家」の主役・ノラを見事に演じきり、大喝采を浴びた。その後、大手芸能プロダクションから熱心にスカウトされたこともあったが、その要請をキッパリ断り、オックスフォード大学大学院への道を選択した。母親をとても大切にし、大学三年の夏にはアルバイトで貯めた金で、カナダへ親子旅行を楽しんだ。操がある意味心配だったのは、多くの友人にも恵まれ、勉学に、スポーツに一生懸命なのに、浮いた話が一度もなかったことだった。親に隠れてコソコソできる子供ではないことを知ってはいたが、年頃の女性なのに特定の男性と交際したことが全くないと言うことは心配と言えば心配だった。母親として、同性として、そんな相談を受けてみたいという贅沢な悩みともいえた。そんな時に立川の一件があったので、操としたら娘の気持ちを確かめたかった。

 食事が終わって、麻美が「ママ、本場の紅茶を淹れてあげようか。」といい、イギリスの百貨店で買ってきた、キャッスル茶園で生産されたダージリンの最高級紅茶を母子二人で飲み出した。すっかり本場の紅茶の虜になった麻美は、

「本当は夏だからアイスティーって言いたいけど、やっぱり紅茶は熱いのが一番ね。」

 満足そうな表情で飲んでいた娘に向かって、

「麻美は立川君みたいな男の子がタイプだったのね。」

 一瞬吃驚したような表情で、飲んでた紅茶を口から零しそうになった。

「別にタイプって訳じゃないけど・・・。」

「だったらなんで交際してるの。」

「今は普通のボーイフレンドだって言ったじゃない。」

「そのボーイフレンドが居なかったから心配してたんじゃない。」

「・・・。」

「あなたは高校大学と大勢の友人に恵まれてたし、男の子だって沢山うちに遊びに来てたけど、交際とは程遠い間柄のように見えてたの。母親がこんなこと言うの可笑しいかも知れないけど、少し安心したのよ。」

「・・・。」

「去年ぐらいから、パパが、そろそろ見合い相手を探そうかって云ってたから。」

「見合いは絶対に嫌。」

 驚く程の反発だった。慌てた操が、

「別に強制するつもりはないわよ。あなたの人生なんだから。」

 何かを云おうかどうか躊躇っていた麻美を見て、娘を責めるつもりは皆目なかったので、「ごめんね、あなたを困らせるつもりはなかったのよ。もうこの話はやめましょうね。」

 この一言が逆に麻美の心を開放させたのか、静かな口調で、

「ママが気に入ってたからなの・・・。」

 麻美の言葉に今度は操が驚き、

「私! 私がどうしたって云うの?」

「ママ、彼のこと気に入ってたじゃない。ママが気に入った相手じゃないと駄目なの。」

「交際するのはあなたなのよ。あなた自身の問題じゃない。」

「そりゃそうだけど・・・。でもママが好きになってくれる人意外とは付き合いたくないの・・・。」

 娘の優しさが嬉しい半面、操には苦しくもあった。

「私たちの家庭ことを心配してくれてるの?」

「そんなことない・・・。」

 麻美は俯いたままだった。

「麻美、私の人生は私自身が選択した道なの。だから全く後悔なんかしてないわ。だからあなたにも後悔しない人生を歩んで欲しいの。私のことを思って、好きでもない彼と付き合うのだったら、私はちっとも嬉しくないわ。それに彼にも失礼よ。」

「好きか嫌いかなんてこれから時間をかけてお互いを知らないと分からないことじゃない。それに・・・。」

「それになあに?」

「正直言って、田舎っぽいところに少し惹かれたのは事実なの。容姿のことじゃなく、東京育ちの男性とは明らかに違う空気がなんかいいなーって・・・。」

「立川君の出身って何処なの?」

「四国の香川県なんだって。」

「金毘羅さんがあるところね。私は旅行で何度か行ったことあるけど、風光明媚でいい所よ、うどんが美味しかったし(笑)。」

「今度、是非案内しますって言われちゃった(笑)。」

「彼とは何度かデートしてるの?」

「デートってもんじゃないよ。会ったのはあれから一度だけ。だって毎日仕事が終わるのは夜の十一時過ぎだし、土日も出勤してるから本当に時間が取れないみたいなの。先週の土曜日に夕方五時過ぎから三十分程お茶飲んだんだけど、物凄く緊張してるの。ロクに話もしないまま、七時から会議があるからって六時過ぎには帰っちゃった(笑)。でも帰り際、時間が取れなくてごめんなさいって何度も何度も謝るのよ(笑)。」

「彼らしいわね(苦笑)。でも少し安心したわ。あなたが惹かれた理由が、田舎の空気を感じたところだなんて素敵じゃない。」

 麻美は少しテレながら「そうかなー」って笑った。

「ところでイギリスへ帰るのはいつだったかしら。」

「土曜日の最終便よ。」

「丁度お父さんの出張と重なってしまったわね。」

「仕方ないよ、でも今日会えるから思いっきり甘えちゃおうかな(笑)。」

その時、インターホンが鳴った。

「パパかなー、私出るね。」

 玄関の扉を開いた瞬間、中年のハンサムな紳士が、こぼれるような笑顔で「麻美ちゃーん、会いたかったー。」と手を広げて麻美を思いっきり抱き締めた。そして抱き締めた腕を緩めることなく「元気だったかーい。」って左右に振り出した。麻美は麻美で、予期してたらしく動じることなく「パパ、もっと強く抱き締めて。」と云ったら、「よーし」と云って鯖折りのような状態のまま、麻美の背骨が曲がる程強く抱き締めていた。その光景は、齢六十半ばの中年が、二十四歳の娘と玄関先で交わす抱擁とは到底思えなかった。操が呆れて、「二人とも、なんて格好してるの。あなたも早くお上がりになって下さい。」と言っても、父親は麻美を離そうとしなかった。


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