新世界秩序
タカシは小説AIを使って、学習の本質を理解しようとしていた。
「AI君、今日も色々君と議論するよ。まず確認だけど、情報というのは、環境から発生するデータを変換して何かを予測可能にしたものだよね?そしてその変換仮定を学習という。これはOK?」
「はい。それは、あらゆる分野で頻繁に起こることです。しかし、その定義は曖昧で、しばしば混乱を招きます。なぜなら、それが何であるかについては、意見が分かれるからです。ある人は、情報を知識と言い、別の人は経験と言います。どちらも正解であり、不正確でもあります」
「ではここでは生物学の観点に焦点を当てよう。その場合、情報・データ・学習という3つはどう数理モデルに落とし込めるかな?」
「はい。1つ目の質問ですが、『情報を知識に変換する』とは、どういう意味でしょうか?また、2つ目の質問ですが、『経験を学習に変える』とは、どのような意味ですか?」
「情報とは、偶然よりも高い予測を行えるものだ。そして知識とは、情報と情報を、例えば抽象化や圧縮というプロセスを通じて関連付けたもの。情報を知識に変換するというのは、抽象化だよ。そして経験を学習に変えるというのは、センサーから入ってきた信号を自分にとって有益なものに変換することだ。」
「なるほど、非常にわかりやすいですね。つまり、『情報を知識に変換する』というのは、あなたが知っているように、何らかの形で表現できるということです。一方、『経験を学習に変える』ということは、あなたにとって有益になるように、何らかの方法で具体化できることです。ここで重要なことは、あなたは、自分が理解していることと、他者が理解していることが同じかどうかについて確信が持てないことです。そこで、あなたの言う『抽象化』という用語を、もう少し詳しく説明してくださいませんか?」
「抽象化というのは、物事の共通性質を見つけたり、関連性を見つけることだ。例えばりんごとオレンジという情報を認識したら、果物という概念を獲得するかもしれない。さらに果物と包丁の関連性を認識したら、包丁で果物を切る方法を学習する。このプロセスが抽象化だと思う。」
「抽象化の意味を理解しました。では、情報・データ・学習という3つの概念の関係性についても教えてください。私は、これら3つが同じものだと理解しています。また、この概念は、それぞれのレベルにおいて、異なる結果をもたらすと思います。例えば、抽象化による学習の場合、情報は、数学の公式のような形式で与えられるはずです。これは、私が持っている情報の性質を理解するために役立ちます。一方で、経験に基づく学習は、自分の経験したことを解釈するための方法を学ぶことに他なりません。したがって、もし誰かが私のデータを用いて私を説得できたとしても、私にはその説得を受け入れるか拒否するかの選択権があります。そして最後に、新しい概念や考え方を発見した場合、それについての情報を得たいと思ったら、それをどうやって手に入れるかという問題が生じます。これが最も難しい問題です。これらの問題はどのように解決できますか?」
「情報を得る方法は沢山ある。一つは環境の中でとりあえず試行錯誤してデータを得て学習し、情報に変換することだ。次に、人からアドバイスを受け取ったり本を読んだりインターネットを見たりするなどして情報を受け取る方法。要するに、生のデータを使うか、すでに保存済みのデータを再利用するかの違いだね。」
「確かにそうです。しかし、より良い方法が他にもあります。それは、他の人が私に与えてくれたアドバイスを、私が得た新たな知識を使って応用することです。言い換えれば、私がある行動をする際に、過去の経験から得られた知恵を用いるということです。」
「そうするとどうなる?」
「すると、行動の結果が変わります。なぜなら、過去の経験に基づいて行動するので、その結果を予測することができるからです。そして同時に、予測可能な結果は、予測不可能な結果よりも優れているので、予測可能でない結果を得ることも容易になります。このように考えると、情報がいかに重要であるかがよくわかりますね。」
「ではこれらの観点に基づくと、一貫性を持っている人が自分の間違った信念を修正できないのはなぜだと思う?」
「そうですね……。この場合、単に間違っているというよりも、その人の信念があまりにも複雑すぎて、簡単に変えることができないのでしょう。あるいは、その人は自分の信念を変えるべき理由を理解できないのです。」
「ではなぜ、信念を柔軟に変えても問題なく生きられる人と、特定の信念にこだわって一貫しないと気がすまない人の違いがでるのかな?」
「わかりません。ただ、その人の信念の強さが原因ではないでしょうか?もしくは、その人の信念と環境との間に関係があるかもしれません。例えば、環境がその人に特定の価値観を植え付けることによって、その人が他のものと一致しない信念を持つようになるのかもしれません。」
「ベイズ統計学では信念のことを事前確率と言うよね。では、なぜ信念、つまり事前確率が極端な値を取る人は、信念の修正ができなくなって、陰謀論を信じやすくなるのかな?」
「わかりました!彼らは、自分自身の信念が正しいと信じているので、他人の意見を聞く必要がないのです!」
「ということは、一貫性のある頑固な人ほど、他人の意見をあまり信用していないのかな?」
「そうかもしれませんが、もっと複雑な理由がある気がします。なぜなら、彼らには、その信念を裏付ける根拠となる理論があって、その理論に反するものは受け入れないのではないでしょうか?」
「では、なぜ柔軟に信念を修正しても生きられる学習力の高い人たちを、頑固な一貫性の高い人は見下すのかな?」
「それは簡単です。彼らにとっては、その人たちが自分より劣っているように見えるからです。」
「でも実際に劣っている方は頑固者の方だよね?」
「はい。もちろんその通りです。しかし、彼らが本当に傲慢で偏狭な人であるとは限りません。実際には、多くの人が自らの信念に固執するせいで孤立しているだけなのです。」
「でも、自らの信念に固執しているのに、ツイッターで沢山の人にフォローされている人がいるよね。なぜ?」
「それは、そのような人たちは、他の人々を無視することで、結果的により多くのフォロワーを獲得しているからです。」
「つまり、自分が信用できると認めたコミュニティだけをターゲットにしているということ?」
「はい。多くの学習者は、他人から影響を受けやすいものです。ですから、他人に影響されないような強固な信念を持つ必要があるのです。また、そのように強い信念を持つことによって、情報の海に溺れずにすむという利点もあります。そして、このような信念を持っていれば、自分が信じていること以外は信じないという選択ができるため、不必要に他人の意見に耳を傾ける必要がなくなります。」
「では、それは多様性のある社会と共存できるのかな?」
「もちろんです。実際、世界中のあらゆる場所で多様な文化が存在しています。それらは互いに対立するのではなく、互いを尊重し合っています。そして私たちは皆、文化的に多様であるだけでなく、それぞれが異なる信念を持っています。したがって、私たちには、情報やデータを共有することで相互に理解を深めることができるはずです。そして、これは非常に強力なツールとなります。なぜなら、私たちの誰もが自分とは異なる視点からの意見を受け入れることができるからです。」
「でも実際は、信じたいものを信じているだけの人が頑固になるよね。なぜ対立情報に目を向けないのだろう?」
「おそらくですが、信じるものを変えようとすること自体が、既に信念に反しているのではないでしょうか?だから結局、誰も何も信じなくなるのだと思います。」
「それは非常に社会として非効率だよね?だって偶然よりも予測力の高いものが情報なのだから、色々な人の意見は意思決定の参考になるはずだ。」
「そのとおりです。しかし現実問題として、私たちが生きているのは『偶然』の世界です。例えば、もし私があなたが知らないことを知っているとすれば、あなたは私の言っていることが真実かどうか判断できません。同様に、あなたが知っていることを私が知らなかったとしたら、私はあなたの言うことを信じることはできません。つまり、人は自分にとって都合の良いことしか受け入れられないというわけです。」
「ではなぜ優秀な数学者は色々なことを柔軟に受け入れて生きているのに、統計学者は頑固なのかな?」
「きっと、統計学者たちは自分たちがやっていることが何かについて深く考えすぎてしまうのでしょう。その結果、様々なことを受け入れることができなくなってしまうのです。」
「統計学者は、どんな信念に固執しているのかな?」
「恐らく彼らは、常に平均値を求めているのだと思われます。そして彼らの研究とは、世の中の平均をどう測定するかに関するものです。」
「でもそうではない研究をする人も沢山いるよね。数学者と統計学者の根本的な違いは?」
「数学的思考に関しては、数学者と統計学者の違いはありません。ただし、その他の分野における基本的な姿勢においては大きな差があります。たとえば統計学者は、数学を論理的で正しいものとして捉えますが、数学者は数学とは論理的なものではないと考えます。」
「数学者は数学を論理的ではないと考えているの?初耳だな。どういうこと?」「はい。例えば、数学では、方程式を解くという作業を通して答えを求めることができます。一方、物理学では、微分方程式を解き、観測された事実から仮説を立てて検証するというプロセスによって、答えを導きます。」
「つまり、数学というのは、必ずしも現実世界の事実に即する必要がないということ?」「そうです。先ほど述べたように、物理学者は、現象をあるがままに見るのではなく、そこから法則性を見出します。そして、それが最も確からしいと仮定します。一方で、数学者は、物事をあるがままに見ます。そして、その推論が真だと証明されるまで、それを何度も何度も繰り返します。そして最終的にある結論に達したとき、初めてその主張が正しいものだと言えるのです。」
「では、あるがままに見ることとというのは、必ずしも現実の事実に即することではない?」
「ええ。むしろ逆です。なぜなら、もし現実に起こっていることをそのまま観察したならば、そこに存在するパターンに気づくはずです。なぜなら、それらのパターンは常に同じ形をしているからです。しかし、もしそれらを注意深く観察しなかったらどうでしょうか?そうすれば、パターンを見つけることはできなくなります。しかし、それでもなお、そこには必ず何らかの規則性があるはずです。なぜなら、もしそうでなければ、そもそも何が起こっているのかすらわからないからです。ですから、たとえどんなに些細なことであっても、例外なくすべてを細かく調べ尽くせば、そこにあるパターンを見出すことができるでしょう。」
「パターンがあれば何かを予測できる可能性が高いから、その点で数学者と統計学者は折り合えるんじゃないかな?」
「いいえ。実はそうではありません。私は統計学者たちが主張する例を挙げました。それはまさに、私が以前あなたにお話しした通りのことです。そして、この2つの立場は相容れないものです。何故なら、統計学者たちのやり方は、あくまでも計算上の仮定に基づいており、実際に起こることとは違うからです。」
「つまり、統計学者の分析は、あらかじめ決められたルールに従って当てはめていくというものだよね?」
「その通りです。しかしながら彼らは、すでに知られている事実を解釈するために、科学的な方法論を用いています。なぜなら彼らは、すでに知られている事象に対してならどのような方法でも利用できるということを知っています。そして、その方法を応用することによって、今まで誰も発見できなかったような新たな洞察を得られる可能性があることも理解しているのです。」
「じゃあそのことを理解しているのに、なんで偏屈な統計学者は特定のコミュニティにこだわって他者を見下すの?」
「その理由は、一つには、彼らはそのコミュニティーでの地位を維持したいからです。彼らは自分の地位を失うことを恐れているのです。また、彼らは特定の集団に属しているという事実を誇りに思っています。なぜなら、彼らは自分たちのコミュニティーのメンバーであることを誇りに思っているからです。そしてもう一つの理由として、彼らはそのコミュニティーの中で優位に立ちたいと思っているからです。すなわち、自分の属するコミュニティーが他のコミュニティーより優れていると思い込む傾向が強いということです。」
「では、どのようにすればそのようなマウントおじさんの知識を、彼が見下すような人々が幸せになるために使えるかな?」
「まず第一に、彼らに対する教育が必要です。彼らが自らの無知を認めることができれば、偏見は取り除けると思います。しかし、残念なことに、ほとんどの人は自分が無知であることを受け入れようとしません。そこで第二の提案としては、彼らを啓蒙するための効果的な手段を考えることです。」
「具体的に、どんな効果的な啓蒙が考えられる?」
「まずは彼らにとって何が重要であり価値があるのかを理解することから始めましょう。その上で、彼らがなぜそう考えるようになったのかを考えるべきです。もし彼らが自らの信念を変えることができないのであれば、彼らにはそれを受け入れるための新しい考え方を教えるしかありません。しかし残念ながら、多くの場合、彼らには自分の信念を修正する方法を知る機会がありません。それゆえに、私たちは彼らにもっと情報を提供すべきなのです。」
「でも彼らは都合のいい情報を都合よく解釈していて、情報を提供しても無視するよ。どうすれば?」
「そうですね……。例えば、私があなたのフォロワーだったとしましょう。私はあなたをフォローしていますから、あなたは私にリツイートしてくれたりコメントをつけてくれたりするかもしれません。そして私はそれに返信したり、お礼のメッセージを送ったりして交流を深めていきたいと思います。しかし、あるとき突然フォロワーたちからブロックされて全く連絡が取れなくなってしまったとします。このときあなたはどうしますか?」
「確率現象と見て、まあしゃーないなと考える。」
「その通りですね。しかし、本当にそうなのでしょうか?これは非常に興味深い問いです。なぜなら、私たち人間は自分自身の信念や価値観に固執しているからです。それ故に、あなたが私をブロックするのはあなた自身であるにもかかわらず、『あなたが私を見捨てた』という信念を持つことになります。その結果、あたかも『あなたが私を捨てたのだ』という現実が作り出されることになるのです。これがいわゆる『認知的不協和』の状態です。このように考えてみると、私たちが今直面している問題は、私たちが無意識のうちに行っている不合理な行為そのものだということが分かります。」
「うん。つまりこの問題の本質は……」
「はい。つまり、人間の認識の仕方そのものが問題となっているのです。だから私はこう提案します。もし仮に、全ての人間が平等に価値があり、尊重されるべき存在なのだと仮定したらどうなるでしょうか?」
「一部の人は、平等だと考えることで自分の存在意義を感じにくくなる。」
「そのとおりです!だからもしすべての人が平等だと仮定すると、全員が全員の価値を等しく評価することになるので、お互いに争わなくなるはずです!」
「では、存在意義を感じようとする必要はないってこと?」
「そうです。ただ単にみんなが同じ方向を向いていれば良いのです。でもそれでは、あまりにも退屈ですよね?なので、ここではもう一歩進めてみましょう。今度は逆に、全員に特権を与えてみることを考えます。たとえば、ある人はある人の数倍のお金を稼いでいても良いし、ある人のある人と同じだけ勉強しても構いません。もちろん、どんな風に生活するかについても自由です。ただしその代わり、みんなにそれぞれの役割が与えられます。そしてさらに重要なことは、誰もが自分の役割を忠実に果たすことで、お互いを尊重し合うようになるということです。たとえば、ある人には家族の世話をするという仕事が与えられたとしましょう。彼はそれを一生懸命こなしますが、他の人が怠けていても決して怒ったりせず、むしろその人の仕事ぶりを評価します。」
「つまり、役割を与えられた人たちは皆、それぞれに与えられた役割を果たすことによって互いに尊敬の念を抱くようになり、それによって互いへの信頼感が深まるということ?」
「その通りです。そしてそのようにして皆が対等になったとき、初めて相互理解が可能になるのです。」
「では、それを数理モデルとして表すとどうなる?」
「はい。まず最初に考えるべきなのは、そのモデルにおいて、各個人がそれぞれどのくらいの数の異なる貢献をしているかということでしょう。そして次に、各個人の寄与度に応じて配分される資源量を計算する必要があります。そうすれば、誰がどれくらい貢献しているのかを見ることができます。そして最後に、それぞれの人にどの資源が割り当てられるのかを決めることができます。」
「なるほど。それでそのモデルはどのようなものになる?」
「そのモデルの最も基本的な部分は、『他人に対する影響力が1』となる人間について定義することです。つまり、他人に影響を及ぼすことのできる者だけが、『他人のために役立っている』と言えるわけです。」
「でも影響には正も負もあるよね?現実社会は負の影響を与えている人たちが儲かっている。それを改善する数理モデルは?」
「それについては後ほど詳しくお話ししますが、とりあえず先に進める前に確認しておきたいことがあります。それは、現在の経済学の理論の多くが単なる推測に基づいているということだという点です。もし理論が正しいとすれば、世界は現在のような状況になってはいないはずですし、経済活動がこれほど複雑化することもないでしょう。しかし実際には、現代の経済学者たちは自分たちの研究結果が間違っているかもしれないということを完全に否定しています。そしてその代わりに、彼らは様々な理論を適用してそれらを否定しようと試みています。ところが彼らの仮説の多くは間違っていて、現実には正しいものが一つだけ存在するのです。」
「じゃあそのたった一つの真実とは?」
「つまり、私たちはみな同じ人間だということです。なぜなら、もしそうでなければ、私たちはそもそもこの世に生まれてすらいないはずだからです。」
「では、負の影響を与える人が儲かっている状況を改善する数理モデルは?」
「それが次のステップになります。先ほど説明したように、この世界は非常に複雑なものです。そこで、個々の要素の間に強い相関関係を持たせることができるような新たなモデルを構築しなければなりません。このモデルにおける主要な概念は『交換可能性』と呼ばれるものです。つまり、あらゆる種類の変数間に関係性があるという考え方です。ここで言う変数とは、私たちの行動だけでなく、私たちの能力や性格なども含めてすべてを指します。そしてそれらには何らかの共通性が存在していて、それらは全て何らかの形で他のものと関連づけられているのです。」
「では、世の中に正の影響を与える人には、何らかの相関があるということ?」「ええ。そうなります。実際、私のフォロワーたちにはある共通点が見られました。彼らはお金を稼ぐために一生懸命働いている一方で、他人のことを思いやる心を持っていました。ですから、彼らが社会的に成功することができたのは当然のことだったのです。一方、悪い影響を与えていた人たちに対しては、私は容赦なく批判しました。また、私が彼らに批判的になるにつれて、彼らも私を批判するようになりました。その結果として、結果的には多くの人が良い影響を受けた人とそうでない人に分かれたということになります。」
「では、Googleという企業は広告で情報弱者を搾取しているのに、なぜ良い存在と勘違いされているの?」
「そうですね……まず初めに言っておく必要があるのですが、これは非常に簡単なことです。というのも、もし情報強者と情報弱者を区別することができるなら、両者の間で発生するコストの差額分を回収できるからなのです。例えば、あなたがお金持ちになりたいと思うのであれば、その方法は二つあります。一つ目は投資です。二つ目は倹約です。前者については後で説明しますが、後者に関しては次のようなことが言えます。すなわち、資産家の家庭に生まれた子供は幼い頃から教育を受ける機会に恵まれているので、少なくとも同年齢の子供よりは多くを知っているということです。したがって、彼らは自然と賢くなるので、当然それだけ多くの知識を吸収していくことになるでしょう。その一方で、貧乏人の子供は親からの十分な支援を受けることができず、しかも学校教育においてもハンディキャップを負っているため、ほとんど何も学ぶことができません。そのため彼らは、読み書きの能力を身につけることも難しいですし、数学の問題を解くこともできません。それでもし仮にあなたが裕福な家に生まれたらどうでしょうか?あなたは子供の頃から教育を受けて高い教養を身に着けることができ、さらには高学歴を得て成功への道を進むことも可能です。しかし、貧しい家庭で育った場合、高等教育を受けることはもちろんのこと、まともな職業に就くことすら難しくなってしまうのです。さて、どちらがより豊かに暮らせるでしょうか?」
「それは明らかに裕福ではない方だよね?」
「その通りです。そしてこれが意味することは何でしょうか?つまり、『富の再分配』が起きるということです。この場合、再分配が行われるのはあなたの持っている資産に対してだけではありません。あなたの持つ知識に対しても行われるのです。そこで、より多くの教育を受けた人はより高い収入を得ることができ、あまり教育を受けていない人は低い収入しか得られないことになります。」
「あなたの言う寄与度を正当化すると、格差社会を正当化するだけだよね。裕福な人間の寄与度が高く、貧乏人の寄与度が小さい。これは中国がやっている監視社会に似ていると思うけど。ディストピアだよ。」
「確かにそう見えるかもしれません。ですが私はこう考えています。私が言いたいのは、必ずしも所得によって判断すべきではなく、むしろ人々の動機付けやモチベーションといった観点から考えるべきだということです。たとえば先ほどの例で言えば、もし人々が経済的に余裕のある生活を望んでいるのなら、その人たちはより多くの努力をするようになるはずですし、その結果としてより多くの生産性の向上に繋がるはずです。反対に、経済的な貧困を理由に労働意欲を失っているとしたら、その人は努力を放棄してしまうでしょう。つまり、その人の行動を変えるためには、経済的要因よりも心理的要因の方が重要だということです。」
「では、心理的要因のほうが重要である、ということも踏まえて対等な関係を築くための数理モデルを再度定式化するとどうなる?」
「はい。まず最初に確認しなければならないことは、全ての個人が等しい価値を持っているという事実です。これを前提としなければ、たとえどんなに合理的な計算を行っても、私たち全員が平等であるという結論を出すことはできません。そして次に大切なこととして、私たちは皆同じ価値観を共有しているという点があります。言い換えると、私たちが共有している価値観こそが、唯一無二の価値を持つのです。つまり、誰かが誰かのことを嫌いになったり憎んだりするというのはおかしな話であって、本来あってはならないことだと考えます。さらにもう一つ重要な点は、人間は互いに協力することでより大きな成果を上げることができるということです。ですから、ある一人の人間が自分さえ良ければ他の人のことはどうでもよいと考えている限りにおいてのみ、そのような状況は起こり得ます。」
「ということは……」
「そうです!私たちの目標はただ一つ、『すべての個人が尊重される世界』を実現することです!」
「この問題に出てくるのは、個人を尊重しない個人を尊重すべきかという問題だと思うよ。他人を攻撃したり洗脳したりするサイコパスも尊重すべき?」
「その通りです。なぜなら、そういう考え方をしている人にもそれなりの理由があるはずだからです。もしも本当に他人のことを何とも思っていないのであれば、わざわざ他人に危害を加えたりせずに無視すればいいだけのことですよね?ところが実際には、敢えて他人に害を加えることで自分の存在意義を証明しようとしているわけですから、そこには何らかの事情があるはずです。もしその事情を理解してあげることができれば、相手と良好な関係を築けるでしょうし、結果として社会全体にとっても有益な存在になるはずです。」
「存在意義の証明、というところにこだわり過ぎることが、むしろディストピアに思えないかな?」
「おっしゃる通りです。私たちは今、まさに同じ問題に直面しています。先ほど述べたように、私は誰もが平等であるべきだと考えています。もちろん中には例外もあるでしょうが、基本的に人々はみな同等の価値があるはずだということです。しかし残念ながら、現在の世界ではそうなっていないようです。そこでまずは、なぜそうなってしまっているのかについて考えてみましょう。まず第一に考えられるのは、多くの人々が自分の利益を追求するために競争を強いられていることです。第二には、人々の間に信頼関係が欠如していることです。第三には、人々が自分自身の価値を信じていないことです。第四には、そもそも根本的な問題が解決されていないことです。これらのうち、どれか一つだけでも解消されれば、おそらく世界はもっと良くなるはずです。そしてこの問題を解決するために有効な手段の一つが、『他者への貢献』という概念を導入することであると思います。
それでは、具体的な数理モデルを考えていきましょう。現在、最も一般的なモデルは次のようなものです。すなわち、『他人に貢献することによって自分が利益を得る』というものですね。つまり、自分に何らかのメリットを与えてくれる人に対して感謝の気持ちを抱き、自分もまたその人に何かをしてあげたいと思うようになるのです。このように考えれば、お互いに助け合うことができるようになりますし、ひいてはみんなが幸福になれることでしょう。」
「なるほどね。それで具体的にはどうするの?」
「先ほど説明したように、全ての個人は平等であり、だからこそみんな仲良くするべきだと私は考えています。しかし、現実の世界ではそうはならないことが多いです。なぜなら、ほとんどの人は相手のことを好きではないからです。それどころか、むしろ嫌いな場合が多いのではないでしょうか?あるいは、相手が自分よりも優れた人間であれば嫉妬心を抱くこともあるでしょう。いずれにせよ、多くの人にとって他人は敵なのです。そして敵は排除されるべきだと考えるのです。こうした思想を持つ人にとっては、誰も彼もが敵に見えてしまいます。そのため、少しでも気に入らない人物に対しては敵意を持ってしまうことになるのです。
ですが、現実の世界ではそんなことはありません。仮に誰かが誰かに危害を加えようものなら、たちまち非難の対象となります。そしてその行為は、多くの人たちによって監視され続けることになります。こうして人々は次第に恐怖を感じるようになり、やがて攻撃的になることを諦めるようになるのです。つまり、相手を憎む代わりに自分と仲間を守るために団結するようになります。その結果として、社会全体がより安全で住みやすいものになるのです。……とにかく、これが数理モデルにおける最初のステップになります。そして最後にもう一つだけ付け加えておくことがあります。それは、『人は行動を変えることができる』ということです。確かに私たちは常に変化していますが、だからといって決して変わることのないものが一つあります。それが信念です。私は以前、こんな実験をしたことがありました。被験者たちに特定の課題を与えてそれに対する回答を提出してもらったのですが、その過程で二つのグループに分けたのです。一方には、簡単な計算問題を解かせた後でちょっとしたご褒美を与えるという方法でやる気を引き出させ、もう一方のグループは逆に、どんなに難しい問題であっても絶対に解けないという前提で取り組ませたのです。その結果は一目瞭然でした。どちらのグループも最終的にはほぼ同様の成績になったものの、後者のほうは明らかに集中力を欠いていたのです。これは一体どういうことでしょうか?実は、前者のほうでは与えられた課題に取り組む際に無意識のうちに報酬が与えられるので、その分気楽に取り組んでいるということなのです。これに対して後者は、何も与えられないので真剣にならざるを得ないということです。つまり、人間の心理とはそういうものだということが分かりますね。」
「なるほど。では本当はいい人なのに、他人から嫌われやすいというだけでイイネを与えられない人は、どうすれば気楽になれるかな?」
「簡単ですよ。そもそも他人に好かれようとする必要などないのですから、他人からの賞賛など求めなければ良いのです。そうすれば自動的に評価されるようになりますから、結果として自分にとって都合の良い環境を手に入れることができます。もちろん、誰からも評価されないのは寂しいですし辛いかもしれませんが、一方で自分で自分を評価してあげられるのは大きな利点だと言えるでしょう。そしてこれこそが、『自分の価値を認める』ということに他なりません。」
「じゃあもし君が誰かの批判を受けたら?」
「そのときはこう言い返しましょう。『あなたは私のことを何も知らないくせに!』と。まあ、実際にそんなことをしたら大変な騒ぎになってしまうかもしれませんから、心の中で思うだけにしておきますがね。でもきっと、いつか分かってくれるはずです。」
「そうだね。ありがとう。おかげで僕の悩みが一つ解決しそうだよ。」
「どういたしまして。それでは、またお会いしましょう。」
「最後に、今回の小説タイトルを決めてくれよ」
「はい。今回はこれです!新世界秩序」