——「手を振る君」
「——由利香、悪いけど今日休むよ」
黒髪を一つに束ねた妹兼秘書に声をかけると、ソファで手帳を開き今日の予定をチェックしていた彼女が「はぁ?」と怒りを滲ませた声で振り向いた。
「ミシロさん、貴方今日どれだけ大切な会議があると思っているんですか。具合が悪いのですか? なら午前中病院を手配しますから、午後の会議には絶対に出席して頂きますよ」
「会議より大切な用ができたんだ。悪いね、由利香」
「いいえ駄目です。許しませんよ。……松治さん、貴方もゲームをしていないでミシロさんに言ってやってください」
由利香の向かいのソファで携帯ゲーム機の遊びに興じていたぼくの兄弟分であり、ドライバーでもある松治は、「そうだなあ……」と気の無い返事をしている。ややあってゲームから顔を上げた松治は、短く切った灰色の髪をガシガシとかき混ぜながらこちらを見た。
「ミシロさんのその用事ってのは一体?」
「……探し物だよ」
「探し物? なんだ、それなら俺が代わりに探しときますよ。会議終わるまで暇だし」
確かに、今日の会議の重要性は理解しているつもりだ。分かっては、いるのだが。
「……いや、ぼくが自分で探したいんだよ」
それでもと、ある種の覚悟と共に引き下がったが、日頃の行いの成果かさほど深刻に捉えられた様子はなかった。
「ケータイの他にもまだ他にも何か落とされていたんですか?」
由利香が呆れたように言う。「というか、座ったらどうです」と促され、そういえば立ちっぱなしだったことに気がついた。
妹分の隣に腰掛けながら「落としたわけじゃないよ」と否定する。
「なら何をお探しで?」
「ノエル」
——空気が凍るとは、正しく今のこの状態を指すのだろう。
「……昨日見たんだ。あれはノエルだった」
ふわっと妙に跳ねている、独特の色合いを持つ緑青の髪。葡萄酒色の大きな瞳。懐かしく、愛らしい顔。
記憶の中と寸分違わぬ姿形で、尚且つ、彼女も明らかにぼくを意識していた。
何よりもあの子を見間違えるなどあり得ない。別人のわけがなかった。
「ノエルがこの街にいる。少なくとも昨日いたんだ。まだ近くにいるかもしれない。探さないと……」
昨日は仕事が終わってから街中を探し回ったが、そう簡単には見つからなかった。そもそもぼくの知るノエルは夜に活動するような子でもなかったから、探すならば日中だろう。
静まり返った早朝のリビングで、暫しぼくらは無言でいた。誰も、何も口にしない。由利香は悲しい話を聞いたように眉根を寄せ俯いて、松治も眉間に深い皺を刻んでいた。
何度も口を開きかけては閉ざす迷いに満ちた由利香を横目に見ながら、松治が長く息を吐いた。
「……ミシロさん。俺らは邪魔になるかもしれないって、あん時話し合ったじゃないか。探してどうするっていうんだ。……もう、過去なんだ。お互いに」
松治の言っていることは正しい。
六年前のあの日、ぼくらはノエルとの日々を過去にすると——ノエルの存在を、記憶の隅へと追いやる決断をした。
——でも。
「手を振ったんだ。ぼくに。……知らないふりもできたはずなのに」
それに、すぐには逃げなかった。
あのとき邪魔が入らなければ、もしかしたらノエルは——
「少しは時間も経ったのに、ぼくはノエルを過去にできなかったよ。……会いたいんだ」
ぼくの存在は彼女にとって迷惑だろうか。……そうだろうな。我儘を言っている自覚はある。邪魔が入ろうと無かろうと、逃げられたというその結果が事実だろうに、諦め悪く受け入れる気にならない。
「……はは。ぼくもストーカーみたいだな。春妃に文句言えないね」
ノエルに逃げられ取り乱したぼくを見て、そういや驚いた顔してたっけな。いつもはどれだけ言っても帰らないのに、昨日はすぐに諦めてくれた。
「……ミシロさん。会いたい気持ちは分かりますが、それでも午後の会議には出席して頂かなければ困ります。どうしても探し出したいならばこちらで手配しますから、貴方は少し頭を冷やしてください」
仕方なさそうにため息を吐き出した由利香と、何か言いたげだが口を噤んでいる松治の二人を見て、ぼくもひとつ息をついた。
……ノエル。
君の口から拒絶の言葉を聞ければ、少しはこの未練を断ち切ることができるのだろうか。
昨日向けられた笑顔が脳裏をずっとちらついている。
しばらく、消えそうにない。