【03】
船旅は思いの外快適で、退屈しないものだった。
心配していた船酔いも無く、客室の円窓からも海の景色が堪能できるのが何より良い。私は食事以外は部屋に篭って窓辺のソファに掛け、持ち込んだ魔導書を読んで過ごしていた。ふと本から目を上げた時に煌く海原と青空が視界に入るのは何だか贅沢な気分で、気に入った。
更には毎食毎食、飽きもせず葉さんが私の部屋の扉を叩くのである。一人で食事を取るのが苦手なタイプなのか、それとも他の女性客からの誘いを逃れるための手段なのかは分からないが、話相手がいるというのは新鮮で、中々悪くない気分だった。
「そういえば、葉さんはどんなお仕事をされているんですか?」
カフェテラスで昼の軽食を取り、食後の一杯を楽しんでいた時だった。ふと思いついた疑問を口にすると、アイスコーヒーを片手に葉さんが笑う。
「何だと思う?」
「……質問に質問で返さないでください」
アイスティーのグラスを置き不満の目で見れば、ますます笑みを深めるものだからタチが悪い。この数日で分かったが、この人はあまり自分について語りたがらない節があった。
「そういうユイちゃんはどんな仕事してんの?」
何か尋ねると、このように躱されてしまう。
「答えたら葉さんのも教えてくれるなら、話してもいいですけど」
「あー、どうしようかな」
「……つまり人にはおいそれと話せないご職業という解釈でよろしいですか?」
「そうそう」
「私はそんなに危ない方と食事をしているんですね」
隠しきれずにため息をひとつ。彼はやっぱり笑うだけだ。
「ユイちゃん俺以外の怪しい男に着いてっちゃ駄目よ?」
「葉さんにも着いていかないですよ」
「着いてきてくれないと案内ができないっての」
「……それもそうですね」
そういえばそんな話だったっけと、すっかり当初の予定を忘れていた自分に気がつき、少し笑ってしまった。
「今日はえらくご機嫌だな?」
菫色の瞳が探るようにこちらを見るから、私は視線を空に投げる。
「いい天気ですからね」
夏が近づいてきたからか、空の青は濃い。雲一つない空からの日差しは例年のごとくそろそろ私には耐え難い強さになってくるのだろう。
「夏の暑さは嫌いですけど、こうやって晴れた夏空は好きなんです」
アイスティーに手を伸ばすと、グラスには水の粒がいくつもついていて、私の手を濡らした。最初よりもだいぶ小さくなった氷が涼やかな音を立てる。
「ふぅん? 毎日快晴なら今日みたいな可愛いユイちゃんに会えるってことか。明日も晴れるかね」
「……た、たぶん雨ですよ。雨」
「ユイちゃんってけっこう初心だよな。見た目通りというか」
「む。私は見た目より上だって以前お話しましたよね?」
「でも実年齢教えてもらってないしな〜? 見た目十代半ばか後半に見えるってことは、仮に二十歳だとしても上の範囲だし、それなら年相応とも言えるしな?」
「……そんなに私の年齢が気になりますか」
「いや?」と、彼は言う。その視線の先が気になって追いかけると、数羽の鴎が風に乗っていた。
「器が大きすぎると、人間でもたまーに老化が遅くなるのが居たりするのよね。半魔人ってやつ。俺らの目から見ればそっちのが正常のように映るから、闇の民相手には気にしなくてもいいんだけどな。もうずっと何年も変わらないんだろ? それこそ今代聖王陛下みたいに、十代の頃からさ」
「……はぁ」
流石は私の何倍も生きているだけあって、この小さなコンプレックスなどお見通しというわけか。
「友人もあなたのように気にするなと言いますが、光の国でこうなのは少々面倒くさいんです」
アイスティーを飲み干して、意味もなくストローで残りの氷をかき混ぜてみる。ふと気になってもう一度空を見上げたが、鴎は見えなくなっていた。
「なら、闇の国は居心地がいいかもな。夏もそっちより涼しくて過ごしやすいぜ」
「ああー……それはいいですね。予定を変更して夏が過ぎ去るまで居ようかなあ」
「仕事は?」
「問題ないです」
——どうせ帰る家すらなくなった無職だし。
(……闇の国、かあ……)
どんな所だろうか。
あと二回夜を越えれば着いてしまう所までやって来たのだ。
少し、楽しみになってきた。
*
待望の闇の国は——何と言うか、雑多な印象を受けた。
白い煉瓦壁と青い石屋根で統一された光の国の街並みとは異なり、壁も屋根もカラフルで、しかも建材すら木や石など様々らしい。周辺国で一番の歴史を誇る大国だが、良くも悪くも古さは感じられない。まあ、ここが港町だから様々な文化が入り乱れているだけかもしれないけれど、異世界にでも迷い込んだような景色に私は少なからず興奮していた。
それに、試しにフードを外してみたけれど、誰も何の反応もしないのだ。私の緑髪と赤目の組み合わせは光の国でマギアルッソ家の者だけが継ぐ色で、あまりに目立ちすぎる。だから今までは町を歩くときには顔を隠すか、幻術を掛けなければならなかった。
この解放感は私に更なる興奮を与えた。
だから、だろうか。
ふらふらと色んなものに目移りしていると、気が付けば隣を歩いていたはずの葉さんの姿が見えなくなっていたのだ。どうも逸れてしまったらしいと結論を出すまでそう時間は要らなかった。
現在地は埠頭近くの露店街。一体いつまで葉さんが隣に居たかは定かではなく、連絡手段は皆無だ。
お互いにケータイは所持しているが、連絡先は交換していない。何故ならば私のケータイは異国で使えるような契約になっていないのである。それを告げた時の葉さんの顔は今思い出しても笑える。『そんなモン持ってる必要ある?』とまで扱き下ろしていた。
「ねえねえ、聞いた? あの噂!」
「魔王様が子供になっちゃったってやつ?」
はぐれた際にはあまり歩き回るのは良くないと聞く。私は目についたベンチに腰掛け、行き交う人々を眺めることに決めた。
「そうそう、子供になる魔法なんてあったっけー?」
「祐司様がまた新しい魔法を創ったのかも!」
すると隣のベンチに座っていた女性二人の話し声が耳に入ってくる。
(子供になる魔法……聞いたことないなぁ……)
流石は魔法のメッカというべきか。いや、それにしたってどうして一国の主がわざわざ幼児化しているのか。公務に差し支えたりしそうなものだけれど……。
「でもさ、“月黒”で取り上げてないの怪しくない? あんまり名前聞かない週刊誌にちょこっと載ってただけっしょー?」
「確かにー……デマかなぁ。伊月様の美少年時代のお姿、今の魔科学技術で拝見したかったなあ……」
「分かる……高画質のポスターとか欲しいよね……」
「手に入れたら毎日拝むわ〜……」
伊月=シスディリア——闇の国を治める現魔王。
かつてこの大陸には二つの国が存在していた。
魔法使いの終の国と、魔術師の和の国。
遥か昔、二つの国は——魔法使いと魔術師は、争いに争った。
最後には魔法使いが勝利を収め、和の国を吸収し、闇の国として名を改めた。以降、魔術は危険なものとして禁じられ、多くの魔術師が捕らえられた。そして捕縛を逃れた一部の魔術師達は団結すると各地で暴動を起こし、闇の国は永く荒れていたのだという。
しかし今こうして港を眺めてもそんな荒れた空気はない。海を挟んだこの地に住む人々も、自国で見かける人々とそう変わらぬ様子で、連れと楽しげに笑い合ったりと賑やかなものだ。
一見して平和な景色にしか見えないし、実際に今の闇の国は平和らしい。
というのも、父から玉座を継いだ現魔王は四天王を引き連れ自ら戦場に立ち、数多くの火種を速やかに鎮圧してみせた。その圧倒的な力量から最強の魔王の名を恣にしていると聞く。
(王都に着いたら、その最強の魔王と戦うことになるんだよね……)
戦うと言っても命のやり取りではなく、ただの娯楽のようなものだと聖王は言っていたけれど、それでも気は重い。最強の魔王や四天王達が使う魔法にはもちろん興味があるが、私は別に戦いはそこまで得意でもないし……。
はあ、とため息を吐いた。
見上げた空は青いが、暗い雲が出てきている。一雨来そうだ。
「そういえばさー、ここに来る前、若様見ちゃった!」
「えっ嘘⁉︎」
「なんかキョロキョロしててさー、誰か探してるっぽかったんだよね」
「きっと好みの美女でも探してたんでしょ〜。若様だもん」
「やっぱり?」
女性達は未だに盛り上がっている。話題は魔王から謎の人物へと移っていた。それにつられて私の興味も薄れ、他の要素に意識を向けることとする。
呼び込みの声。値切る声。露天に並ぶ魚達。しかしやはり、この喧騒を作り出している人々の中に老人と呼ぶべき見目の人が居ないのが奇妙に見えた。まあ、闇の民で私から見て“老人”に映るような年老いた容姿をしているとすれば、きっと最低でも八百年は生きているだろうし、純粋に数が少ないのだと理解はできる。その時代はこの国も戦乱の最中だったはずだし……。
年の取り方の差を思えば、隣のベンチの女性達だって、私と同い年ほどに見えても実際は私の十倍以上生きているのかもしれない……。もしかしてこの人混みの中で私よりも年下の人は居ないのでは、などと考えて恐ろしくなっていると、通りの先で果実を詰め込んだ紙袋を破いてしまったらしい女性を見つけた。周りは迷惑そうに避けるだけで、拾ってあげるような人はいない。
思わず腰を浮かせていた。
「大丈夫ですか?」
一緒になって果実を拾い集め、女性に向き直る。この人も、同い年、くらいに見えた。
「あ、ありがとう……」
そばかすとおさげの髪が印象的な人だ。浮かない顔をしたまま一向に果実を受け取らないから不思議に思っていたら、「ご、ごめんなさい、これ以上は持てそうになくて……」とか細い声を絞り出した。
「あ」
そういえば、袋は破れてしまったのだったか。よくよく見れば女性は両腕いっぱいに果物を抱えていて、さらにそこに追加するのは無理そうだ。と言っても、私も袋の代わりになるものは持っていないし……。
「家は近いんですか?」
「え? ええ……」
「よかったら、運ぶの手伝いますよ」
*
「へへへ……お土産いっぱいもらっちゃった……」
女性宅は港を見下ろせる丘の上に存在していた。お茶を一杯ご馳走になっただけでなくお土産におやつや食料までもらってしまい、そんなつもりで手伝った訳ではなかったけれど嬉しくなってしまった。
マイ亜空間へとそれらを収納してから、ホクホクで丘を下りていく。
亜空間制御魔法——それは私達が認識する外に幾重もの認識外亜空間が折り重なっていると仮定し、そこに魔法の力を使って干渉、亜空間の一部を知覚し、無理やりこちらへ近しいモノへと変質させ、目に見えない部屋としての形を与え、まるで倉庫のように使ってしまおうという魔法である。作成した亜空間倉庫には製作者だけが分かる鍵を掛けて、他者から容易に干渉できないように防御策も取られている。
難易度は転移魔法と並んで数少ない一等級……つまり最高難度であるものの、一度覚えてしまえばもう手放せない快適さを与えてくれる。魔力消費は極僅かだし、亜空間内部は時の流れによる干渉を受けないので食事を入れておいても腐ることがない。しかも盗まれる心配もなく、何と便利なことだろう。私はこの魔法が大好きだった。
「もし、そこのお嬢さん」
十字路へ差し掛かると、見るからに怪しい人物が立て看板の横に立っていた。黒いローブを目深に被っている為に顔立ちは不明だが、背はそこまで高くない。その嗄れた声は低く、おそらく男性だろうとは思うが断言する自信はなかった。周囲を見渡したが、私達以外に人はいない。
怪しいけど、あまりに怪しいから、逆にそういう仮装かもしれない。客引きだろうか?
「……何ですか?」
恐る恐る近寄ると、ローブの人物は手に持っていたチラシの束から一枚を私に差し出した。やはり客引きの人だったことに安堵し、受け取ったそれにザッと目を通す。内容を確認したところ、紙面いっぱいにでかでかと魔法陣が描かれていた。月のモチーフを配置し、古代言語を書き込んだ一般的な闇魔法の陣だ。
「————」
これは何か訊ねんと顔を上げると、ちょうどローブの人物の口元が動いているのを目撃した。声は聞き取れなかったが、問いただす暇もない。何故ならば手中のチラシが——魔法陣が紫電の輝きを放ち、私の視界を灼いたからだ。思わず目を閉じ、蹌踉めく。スッと身体から力が抜けていく感覚があったが、知覚できた異常はそのくらいで、私はすぐに意識を手放してしまったのだった。