【05】
「……?」
目を覚ますと、視界は半透明の青に染まっていた。というか、液体の中にいるような。私は何故息をしているのだろう。瞬きもしている。鼻に入ってこないし、目に染みないこの液体は一体何なのか。身体中に吸盤のようなものがついた管が取り付けられており、手足を大きく動かすことは叶わない。精々、微かに首の角度を動かしたり、指先を曲げるくらいだ。
足元から気泡が上がってきて、コポコポと音を立てている。肌に触れると少しくすぐったかった。
青い視界、私が液体と共に入れられている謎の容器の向こう側には、壁一面のモニターがある。白衣の人々が忙しなく動いているが、一様にこちらへ背を向けていて私の目覚めには誰も気が付いていな——
「…………」
いや、一人だけ、ジッと私を見つめている人がいたらしい。その人は足元にしゃがんでいたから気付くのに遅れてしまった。
小さな黒い丸眼鏡の奥、切れ長の瞳と目が合う。男性だ。おそらくは黒髪で、そしてやはり白衣を纏い、煙草らしきものを口の端にくわえていた。ぼんやりと見下ろすこと、どのくらいだろうか。白衣の男が立ち上がると、今度は私が見下ろされる番だった。
男は片手を白衣のポケットに突っ込み、煙草を人差し指と中指の間に挟み煙を燻らせている。やがてポケットから取り出した携帯灰皿に吸殻を格納すると、男は踵を返し、モニターの方へと立ち去ってしまった。
頭にモヤがかかったように気怠かったので、私はそのまま、再び眠りについた。
*
「……にゃ?」
次に目を覚ました時には白衣の群れに囲まれていた私である。あの管はなく、液体の中にもいない。白いワンピースを着せられて、簡易的な椅子に座らされている。
ぱちぱち瞬きをして首を回す。見上げた先にいる大勢の男女の殆どは手にバインダーや書類を持っていた。心無しか眼鏡率が高い。
私は首を傾げ、足をぱたつかせてみる。椅子が高いのか、足が床につかないのだ。何となく目をこすった。妙な違和感を覚え、再び首を傾ける。
…………指が、短い?
というか——
「ヤアヤアおはよう、勇者の子孫クン」
私を一定距離で取り囲んでいた中から一人、見覚えのある男性が一歩前に出た。サングラスの人。確か、液体の中にいたとき見つめ合ったような……。
「……おはよーございます?」
この人達は何なんだろう。どうしてここにいるんだっけ。疑問ばかりが増えていく。ひとを食ったような笑みを口端に浮かべたサングラスの男は、片手に持っていたバインダーに挟まれている紙を一枚めくった。
「ここは異能力研究所。私は所長のシフィルク=ユゴー。親しみを込めてシフィー所長と呼ぶように」
サングラスの男は淡々とした声で己の立場を明かした。
「いのーりょく……けんきゅーじょ……」
どうしてそんな場所に自分がいるのか、さっぱり分からない。
「し……しぴ……しぴぃ……」
「…………シフィー」
「しふぃしょちょ!」
「…………」
「…………う?」
上手く呂律が回らず、舌ったらずになってしまうのは何故だろう。
「ゆっちゃん、あの人にまた負けたはず……」
…………。
「ゆっちゃん……?」
己の口から無意識に零れ落ちた一人称に眉を寄せる。
「ゆっちゃ……ゆ……わ、わた、し。私……」
そういえば——
私は己の手を見下ろした。短い指、小さな手のひら。ぷにぷにして、私の記憶にあるものよりもずっと幼いそれ。素足のままの足にも目を向けた。やはり足のサイズも変わっている。
「ちっちゃくなってる」
——そう、私の体は幼い子供のものになっていた。
「……気付いたか。そうだ小娘、その身体は謎の男に呪われた。その時のことは覚えているか?」
探し物をしに公園へ行き、突如現れたセイブルの顔の男に何かをされ——しかしどうやってあの場から脱したのだろう。ああいや、護衛の人が助けてくれたのだろうか……?
「なんとなく?」
「……小娘、」
「ユイ」
「…………」
「ゆっちゃん、ユイ、です、しぴぃしゃん」
「シフィー」
「しっふぃしゃ……さん」
「シフィー」
「しふぃーしゃん」
「……で、ユイ。ユイの護衛をしていた男がお前をここへ運んできた」
「なんで?」
フフンと所長は鼻を鳴らした。その表情はどこか自慢げである。
「私のこの研究所が一番設備が整っているからだ」
「う?」
「呪いの研究……は流石に本来専門外だが。幼児化の呪いは既にサンプルがあった。その呪いは何も見目が幼くなるだけではない。発動時に対象の所有魔力の九割以上を犠牲にし、更に魔力の生成を制限する」
魔力とは常に体内で生成されるエネルギーだ。
一日に作り出せる魔力の量、貯め込める量は個々人で違うが、その範囲内ならば魔力を使用してもすぐに補充されるのが常である。そして魔力は何も魔法のみに使われる力ではなく、生命活動の一端も担っている。魔力の全てが枯渇すれば人は死んでしまうのだ。一説によれば、闇の民が長寿なのは内に貯められる魔力量が光の民の比ではないからだと言われている。
そんな魔力の九割も失えば、正直まともに体を動かすことはできないだろう。息苦しく、途方も無い疲労感にただ伏すしかなくなってしまう。……あの時に意識を保っていられなかった原因はそれか、と納得した。
「魔力付与の魔法薬は効果がない。あれは少量を回復するのには向かないんだ。どうやらこの呪いは一定以上の魔力所持も許さない。許容範囲を越えれば再び魔力を失ってしまう事が前例から判明している。魔力を失うプロセス、その理由、行き場には少々不審点があるが……これは置く。とにかく、お前が我が研究所に運び込まれたのは魔力を少量ずつ投与できる魔導具設備が一番整っているのが此処だったというだけの話だ」
「にゃるほど〜」
「ところでお前は元からそんなにふざけた口調だったのか?」
「……めんちゃいこ」
「明太子?」
「……もとからじゃにゃいです」
「幼年期の人格に思考が寄ってしまう観察結果はあったが、幼年期の口調がそれか?」
「…………うにゃ?」
「“うにゃ”とは何だ」
言われてみれば……妙、どころの話ではない。子供の頃の記憶を辿ってみても、普通に喋っていた。別に猫に憧れていた過去もないし……たぶん。
「ちいちゃい頃は自分のこと“ゆっちゃん”って言ってたけど、にゃんにゃんお喋りしてた記憶は……にゃいようにゃ……?」
「……ふむ? 言語能力に支障を来した例はお前が初めてだ。後で詳しく調べるか」
「…………しぴぃしゃんこにゃい」
「……。“こにゃい”とは……いや。で、次の話に移るが」
シフィー所長は頭を掻いた。
「身体の調子はどうだ?」
私は椅子から飛び降りた。素足のままなので、タイルの床はひんやりと冷たく感じられる。ぴょこぴょこその場で跳んでみたが、身体は軽く、動くことに問題はなさそうだった。
そういえば——と、サイズが合わなくなったはずの指輪を左手に探す。案の定中指には何もなく、肝が冷えたが、私の様子から何か察したのか「ネックレス」と所長が呟いた。ネックレス。自分の首元を見下ろすと、覚えのないチェーンをさげていた。ワンピースの下に隠れたトップを引っ張り出せば、見慣れた私の『流れ星の杖』の指輪が見え、ほっと胸を撫で下ろした。
安心したからか、よく見れば自分のものではない腕輪を右手首に装着している事にもようやく気がつく。それは透明な石が中央に配置された、シンプルな銀のリングだ。
(……あれ?)
よく見ると、これは昔着けさせられていた腕輪と同じものだろうか。ただ似ているだけかもしれないけれど、やけに懐かしい記憶を刺激されてしまう。
「これ、にゃんですか?」
「いい着眼点だ、私の問いへの返答が無かったことは流しておこう」
なんと、私のそばまで歩いてきた所長はそのまま空いた椅子に腰掛けてしまった。細い足を組み、どっかりと座るその姿は何やらとても偉そうだった。……いや、まあ、事実偉い人ではあるのだろうけれど。
「それは異能の制御用魔具だ」
「……‼︎」
「七名家、そして聖王家は代々異能を受け継ぐ“異能憑き”の家系なのだろう? 本来当主であったはずのお前もまた異能を継いでいるはずだ」
「…………」
「少々視せてもらったが……」
どこか詰まらなそうに所長はまた書類をめくった。
「相変わらず厄介な異能に好かれているな、マギアルッソは」
——相変わらず?
聞き間違いでなければ、初対面の私に大して使うには不相応な言葉がくっついていた。きょとんと所長を見つめてしまったが、彼はこちらの視線など意に介さず書類を眺めている。話の腰を折って追及すべきか悩んでいると、ぱち、と一瞬、小さな色眼鏡の向こうの瞳と目が合った。
「おかげでお前の意識が回復するまでに想定以上の魔力を無駄にした」
「……めんちゃいこ……」
「まあ、それについては不問にしておいてやる。異能を普段は魔法で封じ込めていたな?」
「……にゃい」
シフィー所長の言う通りだった。
普通、異能力は魔法で封じられるようなものではないが——マギアルッソ家にはその方法が秘術として伝わっている。それは異能全般ではなく、我が家に受け継がれる幾つかの異能の内の一種にのみ効果を表すものだ。しかしまさか、こうもあっさり看破されてしまうとは思わなかった。
「呪いを受けて制御のタガが外れたんだろうな。まあそれはいい。魔具もそのまま着けておけ。制御に回せるほどの魔力は今のお前に許容されていない」
「…………にゃん」
「今回、陛下から直々にお前の保護管理を仰せつかっている。しばらくはこの研究所で寝泊まりし、精々研究対象としての役割を果たすんだな」
「にゃ……しあいは……?」
「ああ——親善試合なら延期だ。日取り未定のな。……全く、前代未聞だぞ」




