【04】
濡れた体を拭き、乾いた服へと着替えた後——なんと私は、部外者立ち入り禁止と昨夜説明されたばかりの城の二階へと足を踏み入れてしまった。佐知子さんが案内してくれたのは“第一執務室”とプレートのついた観音開きの扉の前だった。
微笑みと共に頭を下げると、彼女は早々に立ち去ってしまう。残された私は生唾を呑み下し、やけに大きく見えるその扉を叩いた。
「いいよ。入っておいで」
扉越しに聞こえてきた声は高く、幼く聴こえた。
金のドアハンドルを手に、扉を押し込む。蝶番がキィと小さく音を立てながら開いた扉の先には、脳裏に思い描いていた通りの人物達の姿があった。
部屋の中央には脚の短いテーブルを挟んで二人がけのソファが二対設置されており、少年魔王は私から見て左側のそれに悠然と腰掛けていた。
窓を背に置かれた執務机には頬杖をつく葉さんが、彼の背後に控えるようにして伊井田さんが立っている。よく見れば、伊井田さんの髪や衣服は既に乾いているようだった。
第一執務室は珈琲の香りで満たされていた。
外は風が出てきたのか、窓に雨粒が叩きつけられる音がよく響いている。
魔王に勧められるまま彼の向かいに腰を下ろす。そこには私の分であろうティーセットが既に用意されているのを一瞥し、こちらを観察している青い双眸を視界におさめた。
「呪術師に襲われていたと聞いたけど、大丈夫だった?」
「……ええ。そこの方が助けてくださったようなので」
「伊井田くんか。彼は優秀な護衛なんだ」
「しかし何故あの場にいらっしゃったのでしょう?」
何となく葉さんの方を向く。
今の彼に見慣れた緩さは無く、凛々しく映った。
「昼間会った時に暗示がどうとか言ってたのが、どうにも心配になっちゃったのよ」
しかし、口を開くと普段通りの印象になるのが不思議である。
「なら、あの時からずっと何処かに潜んでいたんですか?」
「黙ってて悪いね」
「……いえ。助かりました」
彼の言葉は薄っすら予想していた通りなので別段驚きはないけれど、もう一つ気になる事があったので、私は魔王に視線を戻した。
「では、魔王様はどうしてこの場に……?」
一国の主ともあれば忙しい身であろうに、わざわざ同席しているのは何故だろう。
美しい所作でカップを傾けていた魔王は、静かにそれをソーサーへと戻し、長い睫毛を持ち上げた。彼の大きな瞳は海のよう。見目の愛らしさとは裏腹に、底知れぬものを感じさせられる。
「僕のこの姿が呪いによるものだというのはもう聞いた?」
「……はい」
「だからだよ」
吐息のようなため息をひとつ。
「客人に恥ずかしい話を聞かせてしまうけれど、未だ犯人の手掛かりはない。だから今、呪術師の話題にはちょっと敏感になっていてねぇ」
………………。
「彼は……捕まってしまうのでしょうか?」
「彼にも一度話を聞きたいと思っているよ。……友達を売るようで嫌かな? 幼児化の呪いに無関係のようなら国へ帰してあげるから安心して。僕達は情報が欲しいだけなんだ」
一見すると柔らかな物言いだが、言い知れぬ圧を感じた。恐怖、と言い換えてもいい。
(これは……逆らうと大変なことになりそうな……)
嫌な汗が背筋を伝った。
「…………」
私が知るセイブル=クラウンフィールは誰かを呪うような人間ではなかった。
彼は幼くとも高潔な魔法使だったと信じている。
でも、今日出会った彼は——
「…………私の知る範囲なら、お答えします」
*
セイブル=クラウンフィール。
夜光戦争当時は十二歳とあまりにも幼かったが、当主の命により彼もまた戦場へ駆り立てられたと聞いている。
もしも本当にあれが本人であるなら、今は三十二歳か。
彼は次男ではあったが、女神の加護を継いでいたので当主として育てられた。
クラウンフィールに伝わる加護は如何なる瘴気にも汚染されずに済む守りの力だ。
決して魔物に転じないから、人が立ち入れないような瘴気の中にも一人立ち向かっていける天性の魔物殺し。
しかし彼はそれ以外にも特殊な異能を生まれ持った。
それはまるで夢のようにでたらめで、ある種で希望に満ちている。
「——彼は何の犠牲も無しに新たな呪いを創造することができました」
呪術を“命を犠牲に編み出し、誰かを苦しめるもの”と定義するならば、彼の扱うそれは呪いと呼べる代物ではなかったかもしれない。しかし彼自身は異能で創作した結晶を呪術結晶であるとして譲らなかった。
「彼自身が“これは呪いである”と認識する事象を結晶化する異能——と言うのが正しいのかもしれません」
“呪術に対する呪いである”などという無茶な定義付けで解呪用の結晶を作り出す事すら可能だったから、呪術にこじつければ大抵の思い付きを叶えられた。
例えば幼い私は数時間だけ犬になる呪いなんてものをセイブルに作らせて野山を駆け回り遊んだ事すらあるし、正直何でもありだ。かつての自分にとっての彼は、便利な遊び道具を次々と開発できる凄いお兄ちゃん的な感覚だった。
本当に異能というものは理解に苦しむ。
だからか、話を聞いた魔王達も難しい顔になってしまった。
(きっと容疑者として彼ほど都合が良い人もそうはいないだろう)
でも、と。
それでもこの心にはかつての彼が積み上げた信頼が残っているから、疑いきれない。
「様子が可笑しかったんです。私に襲いかかってきた彼の様子と、図書館で一瞬だけ見せた顔はまるで別人でした。口調もそうだし、かけたばかりの暗示を自ら解いてくれたり、行動にも矛盾があって、操られている可能性もあるのではと……」
そもそも、何故私を殺そうというのだろう?
もしも魔王に呪いをかけたのが彼ならば、その意図は?
光の民の彼がなぜ何の関わりもないはずの隣国の魔王を呪うのか?
何より、もし仮に本当に殺意や恨みを私や魔王に抱いていたとして——私の知るセイブル=クラウンフィールは、決してその発散方法に呪術を採用するような人物ではなかった。
——彼のクラウンフィール家は魔物討伐の専門家として活躍した一族だが、どれだけ魔物を屠り人を救っても、呪術師である彼らが英雄と見做されることはなかった。
大量の命を犠牲に編み出された呪術結晶と特殊式。彼らはそれを代々受け継ぎ、術を行使した。戦時中に作られた呪術が殆どで、それ自体を今の世で裁く法は無い。少なくとも近代のクラウンフィール一族は先祖が創った結晶のみを使い人々に貢献しており、彼らは現代の犯罪行為に相当する行為はひとつもしていない筈だった。
しかし人々は彼らの受け継ぐ呪術結晶の為に流れた血を想像し、拒絶した。
セイブルはそんな呪術師の現状を、子供ながらいつも憂いていた。
「彼は己の力やその血筋を誇っていました。成り立ちはどうあれ、魔物から人々を守ってきた一族の行いを正しいと信じていたから。“呪術師”というだけで嫌な顔をされる現状は悲しいのだと。現代では決して解呪法を創れない呪術の全てに解呪結晶を用意できたらなんて、そんな夢をよく語っていました。そんな彼が呪術を“呪い”として扱う筈が……」
無駄で、余計なことかもしれないけれど。
私は口を動かさずにはいられなかった。
「——大丈夫。まずは話を聞くだけだから」
そんな私を宥めるように優しい声が掛けられる。
顔を持ち上げると、穏やかに笑む魔王の姿があった。
「先も述べた通り、今はどんな情報でも欲しいだけだよ。潔白と判断したなら何もしない。もしも何か関わりがあれば、然るべき対応を取らざるを得ないけれど——」
「…………は、い。分かっています」
「ありがとう。と言っても、まずは本人にコンタクトを取らなければ何もできないからねぇ……。ユイちゃんは今まで通りに出歩いてくれても構わないけれど、その代わり事が済むまでの間は必ず護衛を連れて行ってほしい。また襲われないとも限らないからね」
「護衛……ですか」
「うん」
にっこりと、悪意を感じさせない無邪気な笑み。
少年魔王は何故だか自慢げに口を動かした。
「僕が一番に信頼している者を手配するよ。大丈夫! 潜入魔法で姿を消させておくから、気を遣う事はないからね」
潜入魔法——スパイ活動に適した様々な魔法を一括りにして呼ばれるものだ。透過や消音、魔力の隠蔽など、難度の高いそれらを重ね掛けする。
私は微動だにせず立ち続けている伊井田さんの姿を一瞥した。
謝礼を口にするのも何となく憚られ、私は目を伏せた。
「護衛が嫌なら俺と一緒に出かける手もあるのよ?」
すると、横からそんな声が飛んでくる。
「葉介。君とこんな可愛らしいお嬢さんを二人で出歩かせるのは心配だよ。ロルフくんにも申し訳が立たない」
「陛下、流石に自分も時と場合は弁えてますよ」
……ずっと黙っていた葉さんが口を開いた途端、場に流れる空気が和らいだようで不思議だった。
「本当かなぁ……」
魔王はやはりあの雑誌を読んでいないようだ。葉さんには王都までずっと二人で案内してもらいながら来たと話せばどんな反応をするのだろうか……。
「……ふふ。いえ、葉さんはお忙しいでしょうから、護衛の方にお任せします」
気を遣ってくれたのだろうと解釈したのだが、葉さんはといえば「そう? 俺にしといた方がユイちゃんも安心じゃない?」などと残念そうに引き下がる様子を見せ、魔王様に窘められていた。