【03】
図書館を出ると、空は暗く、土砂降りだった。
傘なんて持ち合わせていないが、まあ魔法でどうにかできるだろう……。杖を取り出しかけた私は、ふと視界の端に銀色を見た気がして動きを止めた。
「雨ですか」
——真横だ。
いつの間にか真横に男が立っている。
長い銀の髪の、探し人。
「せっ、せっくん……⁉︎」
息を呑むと、彼は「今朝も気になったのですが、せっくん、とは一体何なのですか」とこちらを向いた。
眼前の彼が纏う雰囲気はまた様変わりしており、近寄り難く、表情も冷たく見える。見目は全く変わらないのに、まるで二重人格か何かのようだ。
「だって、君は……セイブル=クラウンフィールでしょう?」
「せっくんって呼んでたの、忘れちゃった?」。ここで杖を召喚しては警戒される。杖が無いと余分な魔力を消費してしまうが、仕方ない。私は悟られないよう慎重に己の周囲に結界を張った。全てを弾けるものではないが、無いよりはマシだろう。
「クラウンフィールの一族はみんな戦死したって聞いてたけど、まさか生きて……それも闇の国で会うなんて」
「…………」
「まあ、私も人のことは言えないかもしれないけど……。でも、会えて嬉しいよ」
雨音と自分の声だけが場には満ちていた。タイミングが良いのか悪いのか、他の利用者が出てくるような事もなく、噴水広場にも人影は無い。
「そういえばこの国は呪術に厳しいって聞いたんだ。仮に魔物相手でも許可無く使うと捕まっちゃうみたいだから、せっくんもここでは使わないように気を付け——て?」
結界が壊されたのを知覚した時には、視界で可視化した魔力の破片が散っていた。急ぎ杖を喚び、より強固になるよう魔力を注ぎ込んだ結界を築く。
セイブルの方も左手に何かを握り締めている。透明で荒削りなあれは——そう、呪術結晶だ。結晶は仄かな魔力光を帯び、秘めた呪いを解放できる状態であることを示している。この男、忠告したそばから正気だろうか。
「……結界だけですか?」
「私はいま、貴女を攻撃したのですよ。やり返さないのですか?」。ようやく口を開いたかと思えば、何故か煽るように見下してくる。もう訳が分からなかった。
私は正直なところ戦闘が得意ではない。そもそもの話、魔物ならいざ知らず、人間相手に攻撃魔法を発動させた経験が一度もなかった。自分のせいで取り返しのつかないことになったらと考えると恐ろしくて仕方がない……というのが本音である。
人に敵意を持って追い回された場合、結界で身を守りつつ逃げるというのがこの数年で作り上げたお決まりのパターンだった。
「なっ、何するの、もう!」
ステップを踏むように後退し、何が起きているのか不明なままに壊されていく結界を何度も張り直した。
きっと、あの結晶を奪うしか道はない。
(私相手ならまだいいけど、もし他の人にも呪術を使ったら……)
今回はセイブルも魔法使いだし、手加減すれば凌いでくれるだろうか。そう信じ、斯くなる上はこちらからも仕掛けるしか——
「ひにゃあっ⁉︎」
…………滑った! かもしれない!
後退した右足が意に反しずるりと滑り、私は頭から後ろ向きに体勢を崩した。二つの柱が支える図書館エントランスの天井が視界に入った。艶やかな石は紫電の光を反射している。結界はもう壊された後だが、張り直す時間も、体と地面が衝突する前に魔法で何らかの対策をする暇もなさそうだった。
ギュッと目を瞑って、その瞬間を待つ。
「……?」
しかし何故だろう——予想した痛みは訪れず、目前で私のものではない結界が砕ける様子と、身体を誰かに抱き留められたような感触を背に感じた。
目には見えない何かが私の体に触れている。誰かに肩を抱かれている……ような気がする。目を白黒させていると、トンと背を押され、自分の足で立たされた。
でも、背後を一瞥しても私の後ろには誰もいない。
セイブルには私が魔法で自衛したように見えたのか、特に驚いている様子はなかった。
「ああ、勿体無い。そのまま頭を打ち付けて死んでいれば良かったのに。本当に悪運が強いですね」
その代わり、酷い言い草である。つい睨んでしまった。……よく見れば、彼の立ち位置は最初から全く動いていないようだった。
「二十年ぶりに再会した友達に言う台詞じゃないと思う……‼︎」
「貴女こそ! 呪術師に向けて“呪術を使うな”などと……愚弄しているとしか思えない!」
思わず文句を口にすれば、彼も余裕ぶった表情に怒りを乗せて対抗してきた。私も、グッと杖を握る手に力を込める。
「その気取った喋り方も変だよ! 今朝一瞬だけ見せた素の君に戻ってよ!」
「……今朝? 何の話です?」
「急に抱きついてきたり、暗示を解いてくれたりしたでしょう⁉︎」
「…………」
「というか今朝だって急に私の体の自由を奪ったり、話を聞けって言ったそばから逃げ出したり……今も急に攻撃してきて、君は一体何がしたいの?」
ようやく聞きたかった事を口にできた。
答えが返ってくるかは知らないが、前進と言える。
結界を張り直し、念の為に魔力も練り、いつでも次の攻撃に対応できるようにしながら返答を待つ。
「何がしたいか? ……決まっているでしょう」
彼は笑った。それは私が内心で望んでいたあの幼い笑顔ではなく、悪意や恨みを感じさせるものだった。
「ユイ=マギアルッソ。私は貴女を殺してやりたい」
どうしてと、尋ねる前に彼の結晶は光を放った。
——先程までの比ではない魔力が結晶に注ぎ込まれているのを肌で感じる。
静かに杖を構えると、セイブルも左手を掲げた。
「貴女に私達の呪術が通じれば、もう何も恐れるものなどありはしないのですから……」
密やかに、夢を囁くように。うっとりと告げたセイブル自身から、何か禍々しいものが溢れ出していく。
高まっていく緊張感の中、私は水精霊に協力を要請しようとしたのだが——
「……いや、流石に無理だよあれは」
すぐ近く。頭上から知らない男の声が降ってきて、集中を乱された。しかも、杖を持たない右腕を何者かに掴まれたではないか。
「——へ?」
間抜けな声が漏れてしまったのとほぼ同時に、私の視界は暗転した。
*
地面が消え去ったかのような浮遊感。
強制的に下ろされた闇の帳。
知らない魔力の気配に包まれながら、これは転移魔法だろうと見当をつける。すぐに視界に光が戻り、靴の裏は硬い地面に着地した。
目前に聳えるのは黒い城……魔王城である。
ガッシリと掴まれたままの右腕に視線を移すと、大きな手が我が右手首を掴んでいる。黒い袖を辿りながら徐々に視線を持ち上げた。
私の腕を掴んでいるのは、黒いスーツに身を包んだ見知らぬ男性だった。
歳の頃は光の民から見て二十後半……もしくは三十代だろうか。柔らかそうな黒髪を持っている。鋭く整った顔には何の表情も浮かんでおらず、無機質で冷たい印象を受けた。
呆然としている間にも雨は続いており、ザアザアと降る生温い雨粒が全身を濡らした。
「…………」
「…………」
同じく雨に打たれているスーツの男の髪が、みるみる内にぺたんこになっていく。深い黒の瞳もこちらを眺め、何も言えずに暫く見つめ合った。彼の仕立ての良さそうなスーツは既にずぶ濡れだが、視線どころか眉一つ動く気配も無く、特に意に介していないらしい。
——きっと足を滑らせた時に助けてくれたのはこの人なのだろう。
(でも……どうして?)
疑問がぐるぐると頭を回って、少し混乱している。
「えっと。ええと……ありがとう、ございます……?」
困惑と共に改めて見上げた先には、やっぱり何の表情も浮かんでいなかった。
「……ここもまだ安全とは言えない」
ポツリと呟き、男は私を城門の中へ引き摺り込んだ。そのまま庭園を抜け、城の内部へ。
すれ違う兵士や侍女たちが驚いたように見てくるのが少し気まずかった。
「お友達はもう少し選んだ方がいいと思うよ」
「……」
「結界をあっさり破られている時点で格上なんだから、君はすぐに逃げるべきだった」
「…………」
しかも、歩きながら淡々とした声でお説教のようなものをされている。私は神妙に黙ってそれを受け入れ、腕を引かれながら城内を歩いた。まるで子供になった気分だった。
「あらあら。伊井田さん、ユイ様も。そんなにずぶ濡れでは風邪をひきますよ」
——回廊を歩く途中、そんな私達に声が掛けられた。
黒いロングスカートと白いエプロン。美しく一つにまとめた黒髪。清楚な出で立ちの彼女は、昨晩私に部屋や城施設の案内をしてくれた侍女の佐知子さんだった。
(伊井田さん……)
知らぬままだった彼の名を反芻する。
四天王もそうだが、今のところ名前を知っている魔王城関係者は和の国をルーツとした名の人ばかりだ——なんて、ふとそんな事を考えた。終の国の血筋ならば私のように名前が先に来る筈だ。
「ちょうど良かった。彼女に着替えを。身支度を終えたら第一執務室に案内してやってください」
伊井田さんは私に触れていた手をパッと離し、言うが早いか踵を返してしまった。
振り返ってみたが、もうあの黒い姿は何処にもない。
「ユイ様、こちらへどうぞ」
促されるまま、今度は彼女の後を着いて行った。