part.04 懐かしい面影【01】
魔王城滞在一日目。
静かで穏やかな夜を越えた翌朝、私はうきうきと身支度を整えた。と言うのも、昨日のランチからずっと今日の予定を図書館見物に決めていたからだ。魔法の国が誇る大図書館ともなれば、きっと私が見たことも聞いたこともない魔導書で溢れかえっているはず——そんな期待を胸に訪れた王立図書館は、予想よりもずっと小さかった。
話によれば膨大なる蔵書数を誇るはずだが、私が今見上げている赤煉瓦の建物は、確かに立派ではあるものの眼を見張るほどの巨大さはない。これなら数百万冊を抱える光の国の国立図書館と同じぐらいではなかろうか。
肩透かしをくらった気分で、少々残念に思いながら図書館へと足を踏み入れ——その瞬間に、私は認識を改めた。
(凄い……)
これは魔法だ。外壁を起点として張られた結界内部に侵入すると、真の姿を現わす類いの——恐らく、亜空間制御魔法だろうか。どう展開しているのかは今の私には理解できないが、この空間は明らかに現実のものではない。限りない次元の狭間を使用している筈だ。
だって、先程見上げていた建物の高さよりもずっと遠くに天井があるのだ。入ってすぐは吹き抜けた空間になっており、だからこそ広大さがよく理解できる。広く長く高い壁一面を覆う本棚。一辺から見渡すだけでは把握しきれない広大さ。
紙が持つあの独特の匂いをいっぱいに吸い込みながら、私は周囲にも目を向けた。入り口付近の壁に掛けられている館内マップを見つけた瞬間、足がそちらへ向く。
どうやらこの建物は五階建てになっているらしい。一階は一般の本や資料で、二〜三階は専門書や学術書。そして四階と五階までは魔法や異能力について記した書物を収納しているという。
(こんなの……千年あっても読みきれないんじゃ……?)
ここに住みたい。ああでも、図書館じゃ魔法を試すことはできないだろうし、やっぱり駄目だ。
とにもかくにも、時間は有限だ。私はすぐに四階のフロアを目指したのだった。
*
己の足音すら気になるような静かな空間では、自然と背筋も伸びる気がする。
四階は他の階に比べて人が多い印象を受けた。
深い緑のカーペットを踏みしめつつ、興味を惹かれる棚を探し回る。手当たり次第に読むにしたって候補が多すぎるものだから、正直なところ私は夢のような空間にうっとりしつつも困っていた。
闇魔法。古代魔法。魔法史。魔科学。創作魔法。応用魔法。魔法陣。呪文。精霊魔法。花魔法。特殊魔法。占術。棚に記された案内板を一つ一つ確認していく。ジャンル毎に詳しく区分されているのはいいが、カテゴリが多すぎるのも考えものだ。
——異能力。
ふと目に止まったのは、魔法とは似て非なる神秘の力についての棚。
それは魔法と違い、魔力を必要としない、正に超常の業である。
生き物は皆、生まれながらに魔力を持つ。多い少ないの差はあれど、魔力とは生命エネルギーとも言い換えられる事からも分かるように生命維持活動に必要不可欠な要素だからだ。それは種族や国も関係なく、命あるものならば誰しも持つものだから、ある意味で平等とも云える。
対して異能力は不平等だ。魔力と違い、持つか持たざるかは運が絡む。
祖先が神と契約したとか、精霊に気に入られたとか……何らかの理由があれば血筋で同じ異能力を持つ事もあるが、基本的には“偶然”運良く——または運悪く——生まれ持ち、どのような力であるかすら本人の資質次第。
魔力を使わずにどうすればその力が実現するのか全く説明がつかないような、理屈を無視したトンデモ能力も数多く、異能とは神より与えられた祝福のような何か、理不尽と格差の象徴、異能持ちは運が良い——世間ではそんな認識だろう。これこそ魔法使いが目指す神の力の断片なのでは、とも。
例えば私のマギアルッソ家は、光の国を挙げて信仰する女神セラピアをかつて窮地より救い出した勇者の一族である。その時の縁から様々な女神の加護を得ており、それこそが世間一般で言うところの“異能力”に分類される。私の家ではその加護は代々脈々と受け継がれており、加護を持って生まれた者のみが当主として認められてきた。
この身体は加護を宿して生まれてきたから、一応今は私が当主ということになる。
——まあ、もうマギアルッソの人間は私一人だけであり、継ぐような家も地位も、何も無いのだけれど。
ちなみに、血筋で同じ異能を継ぐ家系は“異能憑き”と呼ぶ。
かつてマギアルッソ家が名を連ねていた光の国の七つの名家の集まりも、そのすべてが異能憑きの家系だった。そもそも聖王家も唯一無二の神の加護を持っており、光の国は異能力者が支配していると言っても過言ではない——かもしれない。
異能力に目が止まったのはきっと、呪われてしまったという魔王の姿が未だ鮮烈に目に焼き付いているからだ。
あの姿が呪いによるものだと聞いた時、私の脳裏には一人の少年の姿が浮かんでいた。私の幼馴染みの中には異能力者が多いけれど、その中に一人呪術に関する異能を持つ友人がいたのを思い出したのだ。
彼はもうこの世にはいないが、もし彼があの呪いを知ればどんな顔をしただろうか。興味津々で調べ回って、すぐに解呪結晶を作り出していたかもしれないと、そんなことを考えてしまった。
「…………」
追憶にひたりかけ、ここが何処だったのかを思い出す。止まってしまっていた足を動かし、私は物色を再開した。
色々と書はあれど、やはり私の興味の先はこと光魔法に尽きる。私にとってのお宝がぎっしりと詰め込まれているはずの夢の棚を探し求めていると、呪術魔法の棚が目に付き、再び足を止めた。
借りられているのか何なのか、呪術と銘打たれた大棚にはしかし一冊も本がなく、ここだけが異様で目立っていた。周辺にも、先程までと違い人の姿は殆ど無いようだった。
(呪い——やっぱり、気になる)
繰り返すようだが、光の国は女神セラピアを信仰している。彼女は癒しと浄化の象徴であり、慈悲深く誇り高い。ゆえに光の民は穢れに対して潔癖だ。
呪術の成り立ちは忌むべき魔術の源流を組むもので、更に“人を如何に苦しめるか”という点にも重きを置かれた。そんな在り方だから、光の民にとって呪術とは軽蔑の対象となりがちだ。私自身、過去に呪術師にしてやられた経験があり、呪いにはあまり良いイメージがなかった。
しかしそれでも呪術でしか対抗できないような魔物が少なからず存在する以上、呪術師が全く居ないという訳ではない。
特にそれを専門としていたのは、今は亡き七名家の一つ、七番目の位にあったクラウンフィール家だ。彼らは人々を脅かす魔物と戦うことを生業としていた。
私もマギアルッソ家の人間として、他の七名家とはそれぞれ交流があった。もちろんクラウンフィールの跡取りとも——
「……え?」
今立っている場所よりもう少しだけ進んだ先、やはり空白となっている呪術書の棚の前。それをジッと見つめる横顔に懐かしいものを感じ、思わず見入ってしまう。
「“せっくん”……?」
——いや。
そんなはずは、無い、けれど。
静かな館内だから私の声が届いてしまったようで、その人がこちらを一瞥した。
長い銀糸の髪も、眼鏡の奥の蜂蜜色の瞳もまさしく記憶の中の彼とそっくりで、私は更に混乱した。その人も何故なのかもう一度私を見て、それからずっとこちらを見続けているから、余計にだろうか。
呪術書の棚の前にいるというのも実に彼らしく思えた。しかしあれから二十年が経っており、普通に考えて彼は今頃三十代になっているはず。目の前の彼は十代後半から二十の前半ほどに見えるのだし、きっと人違いだ。分かっている。
分かっている、けれど——彼も魔法の才に秀でていたし、私と同じで老化が著しく遅れてしまった可能性もあるのでは?
(でも、戦死したって聞いた……)
…………。
でも……やっぱり、よく似ている……。
あり得ないと頭で理解しつつも、好奇心に押され、ついその人の元へと歩いてしまった。
「——酷いものです」
どう話しかけたものかと悩んだ次の瞬間には、彼の方が先に口を開いていた。
「御覧なさい。呪術に関する書物の全ては今や禁書。呪術師は国に管理され、自由に魔法を使うことすらままなりません」
「え……と」
急に何の話だろう?
戸惑う私をよそに彼は棚を見つめている。
「我々の創り出した呪術結晶は取り上げられ……呪術に対する誇りすらない連中が、軽蔑を胸に、魔物退治に託けて良いように呪いを利用する」
切れ長の瞳が、ついとこちらへ向けられて。
「まったく、酷い話でしょう?」
口元だけが弧を描く様を、半ば呆然と眺めた。
「それにしても不思議ですねえ」と、金の瞳に上から下まで品定めされる。何故なのか、私はまるで蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなっていた。
「動けますか? 動けませんか? ……何故ですか? どうして初歩中の初歩の暗示が効いて、練りに練った自信作が効果を表さないのか……本当に、理解に苦しむ」
…………。
(もしかしてこれは、何かまずいやつでは……)
意思に反してさっぱり動かない身体に気付き、私は薄々危機を察し始めた。この男はたぶん旧友ではなく、近寄ってはならない怪しい人だったのだ。
声も出せず静かに焦る私へ向けて、徐に男の手がこちらへ伸ばされた。
「ッ⁉︎」
しかし——細い指が体に触れようかという刹那のこと。彼の指先と私の胸元との間で火花が散り、男は驚いた顔で手を引いた。
「あ、あれ……っ?」
今の光は間違っても静電気ではないが、一体何だったのかと考え込む暇は与えられなかった。目前の男がぱちくりと目を瞬かせ、何かを確かめるように手足を動かし始めたのだ。掌を握り込んでは開いたり、足首を回したり、屈伸したり……体操だろうか?
表情や、そこから醸される雰囲気も先刻と違って見える。さっきまではどうにも陰があり、儚げな印象だったが、今の彼は憑き物が落ちたかのように明るく健康的に見えた。
「うわあ。何だこれ……? ボクは何もしてないし……キミが何かしたの? ……あ、もしかして今もアレを着けて——そっか、なるほど……」
……気のせいじゃなければ口調まで違うのでは?
一体何を一人で納得しているんだろう。不思議そうに見られても、私は未だに動けないし声も出せない。黙りこくったまま見返す様子で理解してくれたのか、彼は「ああ」と頷き、己の白シャツの襟首を引っ張った。
服の中から取り出されたのは荒削りな結晶のペンダントトップ。それは透明で、しかしよく見れば中心部が微かに濁っている。取り付けられた金属のチェーンはろくに手入れをしていないのか錆び付いていた。
そのペンダントが、記憶のどこかに引っかかる。そうだ。あの結晶には、見覚えが——
「えい」
彼は結晶をコツンと私のおでこに当てた。すると、どこか緊張に包まれていた体がフッと軽くなり、この体は自由を取り戻した。
「もう大丈夫」
すっかり様子の変わった彼はどこか幼い顔で笑いかけてくる。眉を下げて頼りなく笑うその笑顔にも、やはり見覚えがあった。
「せ、せっくん……なの……?」
恐る恐る問い掛ければ、何故なのか彼はきれいな顔から笑みを消してしまった。
「どうかな」と曖昧に濁し、暫し視線を彷徨わせ。数瞬後、彼は意を決したように私の手を取った。先程の火花は起きず、両手でギュッと包み込まれる。
「…………ずっとキミに会いたかった」
「生きていてくれて嬉しい……」。押し殺したようにそう言った彼に私は疑念を深めた。
どうかな、なんて濁していたが、やはりこれはせっくんでしかないのでは?
「あのね、今から話すことをよく聞いてほしい」
「実は——」と、真剣味を帯びた声音で何を言われるかと身構えたのだが、幾ら待てども続きは無く。彼はまるで声だけが失われてしまったかのように口をパクつかせている。
私は首を傾げた。
「……? どうしたの?」
「————」
よくよく思えば、急に体操を始めたり、雰囲気が一変したり、そもそも出会い様に私の体の自由を奪ったりと、随分様子が変である。私へ掛けた術をまさか自分に使っているわけでもあるまいし……。
ここは相手をせずに背を向けるのが無難なのかもしれないが、しかし死んだはずの幼馴染である可能性が高い以上、私としては立ち去るという選択肢も安易に選べなかった。彼がせっくんであるならば、色々と話してみたいことがある。
「せっくん、どうしちゃったの? 大丈夫?」
何度か声をかけてみたが、返事を得られそうにはなかった。不思議に思いながら眺める私へ向け、彼は両腕を広げた。一歩こちらへ踏み込んできたから何かと思えば、彼はぎゅうと私を抱き竦めたではないか。
光の国では親しい間柄の相手とハグをする慣習があり、主には挨拶と共に行われる。なるほど、と私からも軽く抱き返したはいいが、彼は中々ハグをやめようとしなかった。それどころか首筋を触られてしまって擽ったい。挨拶目的のハグはそんなに熱く抱き合うものでもないし、ましてや余計な所に触れるなんて妙だ。
身を捩って抵抗を示したところすぐに離れてくれたが、一体何だったのか……。
「せっくん、急に——」
何をするのかと、そう問い質そうとした。
しかしその途中で、私はまたもや体が動かなくなってしまったらしい。
「……——」
彼は何かを言おうとしたのだと思う。
薄く口を開いて、結局閉じて。
眼鏡の奥の瞳を伏せた彼は、逃げるかのように立ち去った。