いつも通りの日常が来ると信じた二人の行く末とは?!
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いつもの朝日。布団の感触。疲れの残っていないすっきりとした朝。
今日はコールセンターのバイトの日であるが、時間を見ると、まだ七時であった。家を出るのは九時十五分で十分間に合うので、ゆっくり準備すればいい。
ここまで考えて俺は違和感に気づいた。
「部屋に時計がある?」
そんなはずは無い。そもそも時計を、一人暮らしを始めてからというもの、買ったことが一度もない。それを寝転びながらでも、丁度見上げる位置に、しっかりと見ているのである。瞬間的に泥酔の疑いをかけてみたが、昨日深夜までコンビニのバイトをしていた為に、飲んでいるハズが無かった。
さらに腕を伸ばして驚いた。いつもの節くれだった手がそこには無かった。代わりにあるのは、体毛の無い色白のほっそりとした腕と、これもまた繊細な手の甲だった。
まさか漫画でもあるまいに、と体を起こしてみて確信した。ひとり言をボソッと呟いてみる。その声は、自分の声とこれまで認識してきたものとは、遥かに異なるものであった。
急いで部屋の扉を開け、目の前に階段を見た時には、もう自分が別世界に来たのだと認めざるを得なかった。
なんとか洗面所まで巡り着いた俺は、深呼吸をして恐る恐る鏡の中の自分を見た。
「いやもう完璧な女子やないか」
今更だが髪が肩まで届く感触と、胸の重みを感じた。
早急に確認しなければならないことを思い付いた俺は、再び部屋に戻り、今度は部屋の物を物色し始める。ようやく財布に行き着いた俺は、中身を開き、カードを片っ端から探っていく。
「斎藤かすみ。二十五歳、俺と同いか」
情報番組の被害者誘拐の仕方か!と思いつつ俺は呟いた。その時、今度は盛大な着信ブザー音に驚かされた。当たり前だが、知らない番号からである。
スマホのロックが奇跡的にかけられていなかった為、相手と話すことに成功した。しかしこんな朝早くから電話とは、よほどの暇人なんだろう。
<おい斎藤。分かっているな?今日のミーティング資料全部用意しとけって昨日言ったよな?俺に恥かかせたらどうなるか…その時は覚悟しとけよ>
やはり、余程の暇人からの電話であった。この電話から推測するに、どうやら「斎藤かすみ」は会社員であるようだ。話の口調とイントネーション的に、今自分は関東にいるのだろうか。
<斎藤。お前俺の声が聞こえないのか。返事もできないとかとんでもないロクデナシだな>
「すみません。おそらく大丈夫かと思いますが、念の為確認致します」
しまった!いつものコールセンターでの応対の癖が、つい口をついて出てしまった。相手は一瞬黙ったが、最後に<調子に乗るなよ>と電話が切れた。
俺はすぐにそのスマホで、おそらく自分の連絡先であろう連絡先を入力し、その相手先が電話に出るのを待った。
<はい>
奇跡的に相手は電話に出た。その声はまさしく俺の声そのものである。向こうは自分の携帯番号からかかってきたので安心したのだろう。俺のスマホもロックをかけていないら、操作は楽だった筈である。
「斎藤かすみさんですか?」
わかっているとはいえ、自分の声の主に、別の名を確認するなど人生初の体験なので、少し緊張した。
<はい>と答えてくれたのには安心した。
<そちらは、戸田将馬さんですか?>
この問いが来たということは、向こうは向こうで俺の身分証を探し当てたのだろう。俺は<はい>と答え、本題に入った。
「斎藤さん、ほんまにビックリしましたよね。朝起きたら部屋変わってるし、何か知らんけど体も変わってるし。」相手はそうですね、とだけ答える。
「それで斎藤さん、今日の朝上司っぽい人から連絡があって、今日のミーティングの資料用意しておくようにとか何とか。それってどこに置かれてます?」
場所を聞き出すことに成功した俺だが、実際の場所を探し当てるのがすこぶる苦手なので、探すのに十数分を要してしまった。
「ありがとうございます。かすみさんはどこの会社にお勤めしてるんですか?」
聞いたことのない会社名をかすみさんは名乗った。とはいえ、もし大手だったとしても自分はそこまで会社に詳しくない為に、人よりは知識不足ではある。あとは簡単に、かすみさんが住んでいる住所と会社住所を聞いておいた。
「それで、そっちの状況なんですけど、コールセンターでバイトしてて、」
そのコールセンターの住所と、自分の体が居る住所を合わせて伝えておいた。ここまでは良かった。その晩に大事なミーティングが入っているのを、俺はすっかり忘れていた。
しかもその内容には一度や二度で事前に伝えきれる内容ではない。
「晩のミーティングはあるけど、それは急遽休みの連絡を入れなあかんくて、」
連絡を誰とどうとるか、その内容も含めて伝えるのにはLINEが一番と考えた俺は、かすみさんLINEの友達追加に自分のIDを入力し、追加しておいた。
追加した旨を伝え、かすみさんも俺とのLINEができる状態にしてくれた。誰にどう連絡して、内容もこのまま送ってほしいと旨を伝えた後、俺は重大な問題に気付いた。
「かすみさん、電話-コールセンターでバイトしたり、電話業務されたことありまか?」
無い、との返答が返ってきた時には俺は頭を抱えた。
「じゃそっちも休み連絡を。咳が朝出てて、一週間程お休みをもらえたらって言うてもらえますか?」
ついでにこの連絡先相手も教えておいた。幸い明日は土曜日である。
「明日かすみさんの会社て休みですよね?俺そっちの大阪まで行きます!ほんまに色々連絡せなあかんくなってもうたから、どうしてもそっちじゃないとできないので」
向こうでかすみさんが<でも!>と言いかけた。
「大丈夫です、会いに行くのは自分の体やし、かすみさんも自分の体に会うだけですよ」
などとよく分からん事を言いつつ、かすみさんとは明日、俺の本来住んでいるマンションで昼に合流することになった。最初少し渋っていたかすみさんも<わかりました>と了承してくれた。
「ありがとうございます。じゃ明日十三時そこのマンションの部屋集合で」
朝の予定を急遽自分で忙しくしたような感覚であった。
「かすみ!いつまでそこに居るの?会社は!?」
下から怒鳴り声が聞こえた。二十五にもなって親が子を学校に行かすような感覚で怒られる環境にいるとは…。
時計を見ると、七時半だった。会社は九時からスタートするのと、このかすみさんの家からだと30分もあれば着く距離である。
「多分間に合うからいける!」と答えてから再び俺は少し後悔した。
「あっ」と別のことを思い出して俺はかすみさんに再び電話した。
「化粧用具はどこにあるんですか?」
<化粧はしてない>
頭の思考回路が停止した。女子は皆やっているものだと勝手に思っていた。
<マスクで会社は誤魔化してる>
成程そういうことか、と納得した俺は、その他普段身支度で必要なことを教えてもらい、電話を切った。さて、手早く身支度を済ませて、と思った俺は急に後ろに気配を感じて振り返った。
「あんたって子は!朝から誰に電話してるんだ!そんな暇あったら朝食作りなさい!」
待って、家でもこんな感じなのか?会社の上司があんな態度になっていたのもなんとなく解った気がする。
もしかすると、かすみさんは常に誰かの言いなりになっているのかもしれない。
「ほら!朝食をつくるんだ!今度手を抜いたら容赦しないからね」
かすみさんの母らしき人が怒鳴っている。朝食といっても、かすみさん宅での朝食メニューが解らない為、一旦一階まで降りていった。もちろん、資料は鞄に入れて、今手に持っている。
「ほらさっさと作る」
時計をちらっと見た後に、食材達に目を移した俺は、唖然となった。何しろ、目の前の量を今から作るようでは会社に余裕で遅刻である。
「ごめん会社に遅刻するから無理やわ。作られへん」
またしてもしまったと思った。かすみさんはおそらくこういう返しをしていない。しばらくは様子を見よう、かすみさんらしい対応をしよう、と決意した十分前を返して欲しい。
「あんた私に反抗する気?」
「そんなつもりないんだけど、会社に遅れちゃうから……」
こういう言い回しをしているのか?と探り探り答える。
「朝みんな食べられないじゃないの!みんなあんたのせいで」
だめだ。このやりとりをしている間に二、三分すぎている。今家を出れば十分間に合うが、このままやりとりを続けていると本当に間に合わなくなる。
「あかん。ほんまに間に合わん。朝食はごめん、作られへん。じゃ」
足早に廊下を通り抜け、教えてもらったパンプスを履いてそのまま家を出た。
会社に着いた俺を待っていたのは、例の上司の怒号だった。
「お前なんで電話に出ない?今日遅刻しておいて連絡も謝罪もないとはいい度胸だな」
「八時四十五分にはついてますし、九時勤務開始なので、十分間に合ってます」
「俺の部署は八時なんだよ!大遅刻した上に今日は生意気だな」
それは完全に自分ルールじゃないか、という言葉はどうにか抑えることができた。
「今日は残業確定だな。おい。資料は持ってきたか」
言われるが儘に資料を渡した。その上司は俺に一瞥をくれた後、何も言わずに自分の席へ座った。
プレゼンが終了し、ミーティングそのものは快調に終わった。上司はニコやかに全員と挨拶をかわし、最後の一人と握手した時のことだった。
「このプレゼンは誰が作ったのかね?中身も細かく調べられていて、非常に分かりやすかったよ。」
一応、中身は俺だが外身はかすみさんなので、「それは私が、」と言いかけた。
「私が全て担当させて頂きました」
被せるように言ってきたのはあろうことか、上司である。いやこんな漫画典型的な横取り見たん初めてやわ、という感覚でこのやりとりを聞いていた。
定時は十七時だが、俺は帰ることを許されなかった。たまっている仕事がある、といって大量に渡されたのだ。どう考えても一日で終わる量ではない。そのことを伝えると、
「なら、明日来てやれよ。明日明後日会社来て終わらせろよ。月曜終わってなかったらどうなるか覚えとけよ」
この台詞を聞いて俺は確信した。かすみさんは確実に今、振り回される人になっている。
言うだけ言い残して上司は定時で帰った。その他皆も八割定時で帰っていく。残っていたメンバーも十八時になる頃には、課長を含め皆撤収していった。
そして、十八時を過ぎる頃には、このフロアーには誰も人が居なかった。そして、俺はこの時を待っていた。もらった大量の仕事は何もいれていなかった、デスクの棚に入れ、
自分もそそくさと撤収した。
「ただいま」
「ただいまじゃねえんだコラ!」
帰ったら帰ったで第一声がこれである。振り回されすぎるのも程がある、と考えると少しだけ笑けてきた。思わず「フッ」とおそらく声が漏れてしまったのだろう、次の瞬間、右ほほがヒリヒリした。
「笑ってる元気がよくあるねえ、ふてぶてしい!朝食を作らなかった責任はどう取るつもり?おかげで家族全員が迷惑したわ」
いやあんたが作ればええやん、俺が作られへんかったんやから、と言いかけた言葉は、なんとか今回も引っ込めることができた。
「今から私ら回転寿司行ってくるから」と今度は奥から旦那、妹を引き連れてやって来た。
「お前は絶対に来るなよ。家族の恥。じゃ行こうか」
何という絶好のタイミングだろうか。そのまま三人は外に出て行ってしまった。
俺は再びかすみさんに連絡を取った。
「もしもし、かすみさん?」
<はい>
「今から荷物をまとめるんですが、キャリーバッグかでかい鞄ありますか?」
<ないです>
またしてもショックを受けてしまった。無い、大きめの鞄もキャリーバッグもないとは。
<でも親のなら、あると思います>
仕方が無いので、かすみさんの親のキャリーバッグを拝借することにした。向こうが普段着ている服や下着やらをひとしきり詰めた後、再度かすみさんに連絡を入れた。
「風呂は入りました?」
いえ、とだけ返答が返ってきたので、俺はこう答えた。
「じゃもし嫌でなければ、自分の風呂場で使って下さい。もし嫌なら近くの銭湯行ってもらったら」
<じゃ、銭湯に行きます>
嫌なんかい、と思いながらも俺は続けた。
「じゃその時に、して欲しいことがあって。銭湯に持っていくもの、肌ケアをする順番、方法まで全て教えた。しかし一つどうも不可思議なことがある。
何故応対がしっかりしている彼女は、ここまで振り回される人生になっているのか。その点だけが納得できなかった。
<ちょっとあんたどういうこと>
怒鳴り声もそろそろ飽きたんだが、と思いながらも電話の主はかすみさんの母だった。
<家に居ないし、私のキャリーバッグもない>
「東京出張なったから、あとキャリーバッグないし、間に合わんしで借りた」
これぐらいは応対しているだろう、と思いながら俺はかすみさんの声で言った。
<勝手なことすんな!私が帰るまで留守番するのが当たり前!あと東京は許さん!行く必要ない!>
「行くの決まってる事やし変えられへん。夕食については何も言ってへんかったから外で食った」
<何様のつもり?!喋り方もヘンになってるし、どうなるか覚えてろよ>
しまった、と思った時にはもう遅かった。
<おい。勝手に金抜き取っただろ。返せよ>
「それ元々かすみさ…私の給料やねんから取ったことになれへんやろ」
危うくかすみさん、と言いかけたのと、俺、と言いかけたのを修正した為に、少し変な言い回しになってしまった。
<ふざけるな。返せ今すぐ>
「今新宿駅おるからムリ」
お気づきだろうか。俺は大胆にも、たまたま開けた棚に、かすみさん名の入った給与明細と講座を見付けた為、その明細書と同じ額のお金を下ろしたのである。
それが、どうやら母管理になっていたらしく、アプリで大幅に減った金額を今見たのだろう。勿論このお金は、かすみさんに渡すつもりでいる。
<なら今から新宿に行って取り返してやる。お前犯罪だからな>
「自分の給料分だけ返してもらったねん。それが犯罪なるのはおかしい」
ただ中身が違う人間なので、グレーなのだが。
<お前人間のクズだな。今までどれだけ、―>
「ごめん夜行バス来たから切る」
尚も言い寄ろうとする暴君母を、俺は強制的に黙らせた。
<次は梅田、梅田、―>
朝日の明るさに少し照らされながら目覚めた時、隣のおっさんのいびきと、二列席を目の前に見たので、俺は夜行バスに居たことを再認識した。
あのやりとりが終わった頃にはもう夜行バスに俺は乗っていたのである。
少し話が遡るが、かすみさんには許可をもらい、事前に風呂などは済ませてった。個人的には気になることだらけであった為に、それも尋ねたのだが<仕方がないことです>との返答だったので、正直俺は助かった。と同時に、相手の器量の大きさに頭が上がらない。
本当になんでこのタイプの人間が、周りに振り回される人生になっているのか益々訳が分からなかった。二日ぶりに梅田に戻ったのだが、まるで一週間程度戻っていない感覚であった。又朝からスマホが鳴っていたのだが、完全にスルーしておいた。
キャリーケースでガラゴロ引きながらなんとか地下鉄に乗り込み、ようやく体が変わる前に自分が居たマンションまで巡り着いた。連絡すべきと判断した俺は、かすみさんに電話した。
<―はい。>
しかしよくすぐ電話に出る人だと思いつつ、俺は続ける。
「着きました。今マンションの玄関に居ますので、今から部屋に向かいます」
<本当に来ちゃったんですね>
そのかすみさんの声には、いつもの堂々とした様子は無かった。
「いやだって昨日行くと言いましたし。そりゃ来ますよ。入りますね」
入りますね、と言い終わる頃には、もう俺はそのフロアーに到着し、もう部屋の扉の所まで来ていた。
ガチャ、と中に入ると、遠目でも解る程、俺の体に入ったかすみさんはビクッとした。
「昼ぐらいですねって言いながら午前中に着いてしまいました。改めて、俺、戸田と申します」
「いえいえ、頂度暇していたので、―斎藤かすみです」
電話越では解らなかったが、少し自信無さ気な雰囲気がうかがえた。
「もしかして、ずっと今まで家に居たんですか」
「出ていく用事も無いし、遊ぶ友人も居ないし、―映画とか見てました」
他愛もない雑談を一通り終えた所で本題に入る。どうやら少し心を開いてくれたようである。
「いきなりこんな形になって焦ったでしょ」
「そうですけど、なってしまったことはもう仕方ないです」
この人は現実をそのまま受け容れる人だと俺は理解した。
「あっ、そうや、余計なことしたんですけど、―」
俺はかすみさんに給料分を渡した。
「親に全部管理されて、抜かれてたかすみさんの給料です。受け取ってください」
「―そんなことしたんですか」
すいません、とは言ったものの、かすみさんは黙って受け取っただけであった。その間にもスマホがずっと鳴っていたが、これはずっと無視していた。
「―上司からの電話ですか?」
色々と勘の鋭い人である。そうです、と答えると電話に出るよう促された。次の瞬間にはもう電話がかかってきた為、俺は渋々上司と話をすることにした。
<お前!聞いたぞ。昨日は定時で帰って今日は出勤してないらしいじゃねえか。今すぐ会社に来い>
「今は大阪にいるので不可能です」
<何で大阪!今すぐ戻ってこい!>
「この二日は大阪に居るのでできないですね」そのまま電話を切った。
「かすみさん、俺のスマホ一旦借りますね」
かすみさんは黙って俺にスマホを手渡す。「ありがとう」とだけ伝えると、俺はLINE含め、これまでのやりとりしていた友人全員にコンタクトを取り、事情を文字上で説明した。
そのうちの何人かとは実際に会って話すこととなり、本日夕方にそのうちの二人と合流することとなった。
「かすみさん、夕方に自分の親友と会うことになったので、かすみさんも来てくれません?」
かすみさんはコクンと頷き、俺はその旨をそのままLINEで伝えた。20-30分程してようやく全員とのやりとりが完了したので、ほっと一息ついた俺であったが、すぐにそうしている場合でないことを悟った。
「俺、かすみさんの体ですっぴんやん…」
色々と調べた結果、どうやら化粧代行してもらえる場所があるらしいことを知った俺は速攻で予約してやった。一度に様々な事をした為に少し疲れが来たが、ひとまず本日の予定ができた。
「というかもうちょっとで昼ですね、どっか食いに行きましょ」
何がいい、と聞くと何でもいい、と答えたので、回転寿司に行くことにした。
「え、かすみさんて失礼ですけど、おいくつでしたか?」
同い年、と分かった上で質問しているが、会話上聞いておいた。
「二十五です」
「あ、じゃおない年やからタメ口で」
「りょうかい」
適応能力早!と思いつつも、逆に形式ばったことが嫌いだった俺にはすごく助かった。
「やっほー」
夕方合流予定の親友が姿を現した。もう一人のその親友の幼馴染も一緒である。
「で、今日あれやんな、LINEでゆうてた話やんな?」
俺の体に入っているかすみさんではなく、かすみさんの体に入っている俺を見ていってくれたのは凄く嬉しかった。俺は続ける。
「そう。まず昨日目覚めたら、―」
俺は一から十まで説明した。まず部屋が違っていたこと。何より体が入れ替わっていたこと。いくら自分は自分であると主張しても、それを証明できる物が何一つ無いこと。そしていつ、元の正常な状態に戻るか解らないこと。
「あと、普段お世話になっている方々にも、会って喋りましょう、てことなってんやけど。証明できるもの、というより信じてもらうしか無いねん」
「確かに」と親友が呟いた後、「私は信じるで」と即答した。
あっけにとられた表情の俺をよそに。「な?」と隣の幼馴染にも同意を求めたが、これもまたあっさり頷いてしまった。
親友の名はミユと言うが、ミユは冗談を飛ばしたり、様々な話をしてくれた。
「あでも、これ皆にちゃんと喋った方がいいから―。」
それから色々喋ってミユとその幼馴染とは別れた。隣のかすみさんにちらっと目をやった俺は、ボソッと呟く言葉を聞き逃さなかった。
「あんな人と普段接してるんだ…」
「純粋に喋ってて楽しかった?」気になることはすぐに聞いてしまうタイプの俺は、ついそう聞いてしまった。
「うん、楽しかった、久しぶりに」
俺はこの時、初めてかすみさんが笑った気がした。
「明日さ、」俺は改めてかすみさんを見ながら誘った。「大阪で色々遊ばへん?」彼女は目を丸くしている。
「大阪あんま来たことないならこの機会やし、どっか行こや」
自分で話しながら勝手にテンションが上がってくる。大阪をあまり知らない人を、色々な場所で遊んで楽しんで、というのは俺にとってひそかな楽しみなのである。
「まあ二人が不安なら、友達もう一人おってもええし」
かすみさんは首を振って「二人でもいい」と言ってくれた。そうと決まれば明日の予定がほぼ決まったようなものである。その間またスマホが鳴りっぱなしであったが、無視しておいた。
「じゃ俺ホテルかどっかで泊まってくるわ」
「自分の部屋なのに外に行くの?」
一応体としては外部者なので、当然、俺体裁上は外で泊まるのがベストと考えた。しかしそれをかすみさんは余りよろしく感じていないようであった。
「だって男女一つの部屋てのもあんまりよろしくないし、かといってかすみさんが外行く訳にいかへんし。第一体が入れ替わっているから、このまんま床に寝るって訳にもいけへんから、どっか泊まってくるわ」
そう言うと、わかったと了承した。次の日の集合時刻と場所を決めた後、俺たちは解散した。
「じゃまた明日で!」
ホテルを探すのに手間はかからなかった。値段の安めのホテルを偶然見付けて泊まることができたので、もう俺は大満足である。とはいえ、俺はホテルの日用品を使う気には一切なれなかったので、それらを使う代わりに、普段自分が使っているものを買い揃えて持ってきていた。これはこれで、満足である。
じっくり入れ替わった先の自分の顔を眺めることもなかったので、改めて鏡の中の自分を見てみた。プロに手入れしてもらったとはいえ、非常に顔立ちが整っている。
これを普段マスクでノーメイクで隠してあるのか―。
ここまで考えて着信ブザー音で現実に引き戻される。元の携帯持ち主同士で、スマホを交換しておけばよかったか、と今更ながら後悔しながら電話に出る。
<あんた今の今まで一度も電話に出ないとはいい度胸だねえ>
ねちっこい喋り方の第一声を聞いた俺は、勝手に暇人第二号と名付けていた。
<勝手に出ていきやがって。飯作る担当はあんたなんだから、今すぐ作りに来い。今回三回もさぼりやがって>
「今大阪におるから無理」
<何の用事があって大阪に行く。私の許可なしに行くことは許さない。今まで言うことを聞くいい子だったってのに、何だ今回の態度は!>
「急遽用事ができたねん」
もはや口調やイントネーションが違うことはとうに諦めていた。
<へえ。こっちで友達もいないようなあんたが大阪に用事があるとはねえ>
「あるから来た。用件それだけ?」
暇人をまともに相手にするのが面倒になってきたので、俺はそう答えた。
<何だその反抗的態度は!帰ったら覚えてろよ>
「はい。覚えておきます。」
それだけ言うと、俺は電話を切った。もういい加減一人暮らしをしたほうがお互いのためではないかと思った俺は、かすみさんに連絡を取った。
「かすみさん、一つ相談があんねん。」
<―何? >
「一人暮らししてもいい?こっちの体で東京で。」
<何で一人暮らしをしなきゃいけないの。>
やはり反対食らうよな、と思った俺は言葉を重ねた。
「だってこのまんまやったら、親がまたやいやい言うし。かすみさんがしんどなるだけやし。一つ屋根の下からは練れたほうが、向こうもイライラせんで済むし、かすみさんも心理的に落ち着けると思うで。」
<―一人暮らしなんてできない>
「かすみさん、今、実際に俺の体で、実は一人暮らしできてんねん。」
<…何もしていない。料理も作っていない。コンビニとかで買って食べてる。>
「飯はそうやろうけど、昨日風呂入ってベッドで寝たやろ?飯も買って、帰って食ったやろ?」
かすみさんから、電話越しにうん、という返答が返ってきた。
「それが一人暮らしやねん。」
なおも向こうが言い返そうとしているのを遮って、あえて俺は続ける。
「掃除とか料理とか…それは、体験で後でわかってくるもんやねん。部屋、何かゴミ落ちてんなあ、掃除ってやっぱ大事やなあ、とか。毎日コンビニじゃ何か体しんどい時あるなあ。野菜はやっぱ大事やなあ、自分で添加物ないもの作ってみるかあ。とか。」
今すぐ全部!と考えるとしんどいから、風呂入った、家で飯食った、一人部屋で寝た、これを自分でできていれば生活自体はできている。つまり、一人暮らしはできている。
以上の内容をかすみさんに伝えた。
<わかった…いいよ、一人暮らししても。家賃とかは私の給料から引かれてもいいから。>
ただ具体的にどこに住むのか、どういったマンションなのかは相談してほしいとのことだったので、そこは了承した。
「じゃまた明日で!」
かすみさんも同じように明日、と返答し、俺は電話を切った。
「お待たせ。」
俺は、俺の体に入っているかすみさんの肩をポンと叩いた。
本日は、かすみさんが行ったことがないというUSJに来ていた。正直なところ、俺も余りここを訪れたことがない。小学校以来一度も見たことがない為、目新しいものばかりに囲まれていて、心が躍る。
「そういえばアトラクションて得意?」
「わからない」とかすみさんは答えた。「あまり乗ったことがない」
「じゃ片っ端から乗っていくか。とりあえずハリーポッターから」
それからというもの、ハリーポッターに始まり、ジェラシックパーク、ハリウッドドリームなど…敷地内にあるありとあらゆるアトラクションを次々に乗っていった。はじめはどうかと正直様子を見ていたが、彼女は俺が提案する内容に、ノーと言う素振りはなかった。
「無理に合わせんでええんやで?」時折そう尋ねてみるのだが、
「無理はしてない。現に楽しんでるし」と答えるばかりであった。
ちらっと彼女の様子を見てみると、目を輝かせながら歩いているのを確認したため、俺は安堵して次の場所へと向かった。
そうこうしているうちに昼になり、夕方になり、あっという間に晩になってしまった。
「いやもう晩になったなあ。何気にほぼ全部のアトラクション回れたし。ほんま最高や」
くるっと振り返って、「また行こな」と言うと、「うん」とかすみさんは即答した。
その後解散する前に一度、お互いのスマホを交換し、自分の知り合い、友人に全てラインとやりとりをすました俺は、再びスマホを交換し直した。
「lineでやりとりするときなんやけど、―」
具体的に誰と誰がどういう関係で、普段誰とやりとりしているかをざっと教えた。それだけでは足りないだろうから、実際に紙に書いて手渡しもした。
「みんな事情は知ってるからわかってくれると思う。あとは仕事先やねんけど、それは明日回ろ?」
「―仕事、―私の仕事先は?明日は出勤のはず…」
「明日も休みますと伝えてあります。」と俺はあえてドヤ顔で言った。
実は二日目に関しては、一日だけどうしても必要なことなので、と別の上司にお願いして有休をとることに成功していたのである。
「かすみんは何も心配せんでいける!」
とっさにかすみさんの名を「かすみん」と呼んでしまったが、相手は特に動じた様子見もなかったので、そのままにしておいた。再度、明日も集合する予定を決めてこの日は解散した。
次の日も同じ待ち合わせ場所にしてあったので、容易に合流できた。
普段自分が通勤しているコールセンターの建物に入り、エレベーターで乗り込んだ。ちらりと彼女の方をみやると、いつになく少し肩を震わせている様子であった。俺は彼女を宥め、コールセンターの社員に、待ち合わせ場所として指定された部屋に入っていく。その前に一度連絡を入れてほしいといわれていたことを思い出し、Lineにて相手先へ連絡を入れた。
すると数分ののち、奥から馴染みのある顔が出てきた。いわゆる、自分の上司である。
「こちらへどうぞ」
普段敬語で話されることがないので、俺は他人行儀感をすごく感じてしまった。
通された先には、会議室のような部屋が広がっており、そのうちの二席に座るよう上司は促した。かすみんと俺は、隣り合わせでゆっくり腰を下ろす。同時に上司の寺田さんはゆっくり口を開いた。
「あれやんな、lineで送ってきてくれてた件やんな」
寺田さんは、俺たち二人を交互に見ながら言った。事情を話せるのが、かすみんの体である俺なので、一から十までを細かく説明した。
「ただ会社としては在籍しているのが俺の体と、証明書がそちらで一致してしまうので…中身知識としては俺が熟知していることになるんですけど、体が俺であるかすみんが出社すると、新人レベルに知識がない俺が出勤することになってしまいます。」
そして中身が入れ替わっているということに関しては、ただただ信じてもらうしかないと伝えた。
「なるほどな、―」と寺田さんは考えてから、「ちなみに斎藤さんはどこに住んでいるんですか」と聞いた。
「私は東京です」とかすみんは答え、また寺田さんは少し黙った。
「仕事は東京でどういった内容のものをされているんですか?」
「事務ですね…」
「正直そこはどうですか?」
雑な問いかけではあったが、これだけでかすみんの肩は少し震えるのが分かった。
「もし、嫌じゃなかったら、斎藤さんとしてはこっちに新規で入社することにして、戸田君はそのまま継続で在籍。二人で共有できるから、やりやすいと思う。で、斎藤さんは戸田君からの紹介入社てことにしたら。」
ただ斎藤さんは東京やからなあ、と寺田さんは唸った。
「正直給料て今どれくらい?」
斎藤さんは正直に手取り十五万と答えたが、その額の少なさに寺田さんは目を丸くした。
「その給料やったら、こっちは時給制やけど、計算したらその給料超えるで」
寺田さんは、仮に時給がこれぐらいなら、とわざわざ全部計算してくれた。
「紹介てことで斎藤さんとしては入るんやけど、もし中身が戸田君やったら時給も上がっていくし」
具体的な中身のこともこと細かく教えられてしまった。
「ただ斎藤さん東京やから無理に、とは言えへんけど…」
お金の部分に関しては、心配しなくてもいいと伝えた。かすみんは解りました、ありがとうございます、考えときますと返答した。
俺はエレベーター内でかすみんと話した。
「正味嫌やんな、東京からこっち来ることになったら」
かすみんは「え?」と俺の方を振り向く。
「今回の話は断るつもりなんやろ?」
「何で私が断ると感じたの?」
「考えときます、て言ったやん。だから断るかなと。」
俺は即決で断るつもりという返答を想像していたので、そうでないことを知り驚愕した。
「私、今回の話には乗ろうと思う…今も大阪に住んでいるようなもんだし、それでいい」
俺はやはり、何でこの意志がはっきりしている女性が、今まで振り回されてきたのかがまるで分らなかった。
「でもさすがに今すぐは待って、それは、―」
「うん?よくよく考えたら、今の会社辞めて、こっちに来て、入社手続きするん実質俺やんな?俺がOKならそれでいいてことやんな」
「でもまた東京に戻らないと、―」
「仕事なくなってしまうことが不安?」俺は単刀直入に聞いた。「それとも変わることが不安?」
「変わることはちょっと…」
「最初は抵抗あるよな。けどまず俺の体に入ってる時点で、自然と俺が所属するところに行かなあかんし、もし俺が一緒することになったら、業務は教えれるし、かすみん的にも安心できると思うで?」
つまり、かすみんの体である俺が東京から大阪に引越しをし、俺の体であるかすみんからの紹介という形で入社すればいい話である。ただ退職届を出してから実質入社するまでに多少の時間が必要なので、しばらくかすみん一人で大阪での勤務という恰好にはなると思う、と伝えると、わかったと了承をもらえた。
次に掛け持ち先のバイトに事情を話しに行ったのだが、これがまた厄介であった。
確かに体が入れ替わっているなどの話はにわかには信じがたい話ではあるのだが、―。
「とにかく戸田の言うことは信じられん」の一点張りであった。
「体としては、僕の体で働くので、外見的には戸田になるのは間違いないのですが、中身が違う人間なので、これまでの知識がない、新人を相手にすると思っていただければ」
「現実にそんな事が起こるはずないやん。なのに何であんたが喋ってんねん」
「だから中身は戸田なので、このまま喋るしかないんですよ」
「証明できるものは?」
「ありません。証明とか照明でないとか以前に、そうなっていることを信じていただくしかありません」
高田さん、今対応している上司の名前がそうなのだが、なかなか了承してもらえない。
「今回の話はなかったことにして。今まで通り、週二回で来ること。解ったな」
「ごめんな今日一日付き合わして」
二箇所をまわっただけであったが、もう太陽が沈みかけている。嫌の一言もなく、嫌な雰囲気を出すわけでもなく、ずっとかすみんは付いてきてくれている。
「必要なことじゃん」
この一言で、少し心に抱いていた罪悪感はすべて消し飛んだ。かすみんは本当に今ある現状をすべて理解し、受け入れるだけの器の持ち主であった。
「一つ目のコールセンターはまあ何とかなるとして、二つ目のバイトはしんどかったら抜けていいから。」
「了解」とだけかすみんは答えて、後は沈黙が続いた。
「あ、そうや、大阪に住む予定のマンションまた調べてまた言うな?」
おおよその家賃や部屋の住む予定先は決めてあったので、その概要をかすみんに見せる事にした。
すると、彼女は思いの外あっさりと了承してもらえた。
「あとは初期費用やな…」
そこを含めて考えると、どうもすぐに引っ越しと仕事先を変えるというのは困難を極めそうであった。俺はそのままスマホを手に取り、寺田さんに連絡を入れることとした。意外にもすぐに電話に出てくれたので、先ほどかすみんと話した内容の顛末をそのまま伝えることに成功した。
「―という事情なので、すぐ、とはいきませんが、アドバイスいただいた通りにしたいと思います。なので、斎藤さんのことはよろしくお願いします」
俺は保護者か、と思いつつ、ようやく一通り連絡しなければならない事情はすべて解消したこと
に、俺はほっと一息ついた。
「わ。俺そろそろ東京戻らなあかんわ。この三日間ほんまありがとうな。」
にっと笑って手を差し出すと、かすみんもまた笑って手を差し出し、俺の手を握り返してきた。
さすがに夜行バスで帰ることは、次の朝に支障が出るので、新幹線で帰ることにした。
そこで何気なくスマホを取り出した俺であったが、そういえばずっと鳴っていた電話があったことを思い出し、履歴を開いてみる。そこには暇人二名からの連絡先が交互に並べられてあった。そのうちの一人とはコンタクトを取らなければならなかったので、俺は渋々スマホを耳にあてがった。
<お前というヤツは。三日間も家を放置しやがって。どうなるか解ってんだろうな>
「どうなるん」もうかすみんとしてではなく、戸田として接することとした。
<生意気な奴め。お前の居場所はここにはないと思え>
「三か月我慢してくれたら俺、―、私そっから出ていくから安心して」
思わず一人称を、「俺」と言いかけた俺は、慌ててその言葉を喉の奥へと押しやった。
<は?お前に行く先なんかあるか。勝手に出ていくことは許さない>
「さっき出ていけって言うた記憶はなくなったん」
<お前の身勝手にこっちが合わしてやってんだ>
相手は自分の都合で意見や物言いを変えた挙句、ついには人のせいにし始めた。はあと俺はため息をついて、
「とにかく終電で帰る。晩飯とか外で食ってくるからよろしく」
そのまま電話を切り、先に深く腰かけると同時タイミングで眠気が襲い、気が付けばそのまま意識は夢の中へと吸収されていった。
東京に戻ってきたタイミングで俺はかすみんに連絡を取った。無事に着いたという内容だけではあったが、妙な沈黙の後、やがて彼女はボソッと言った。
<この三日間ありがとね>
「いやそれはこっちの台詞やから。なんせ、―」
<USJも初めてだったし、それ以外の仕事のこともそうだし>
自分ひとりだったら何もできていない、といった旨の内容をかすみんは伝えてくる。俺はてっきり振り回しすぎたか、と感じていたので、思い違いだったことが判明して、内心ほっとした。
「こっちこそサンキュな。また大阪にちょくちょく戻るから、よろしく!」
今度は相手の即答返事が聞けたので、つい俺もうれしくなった。お互いに簡単な挨拶を交わした後、俺たちはそのまま終話した。
次の日、俺は会社にて、例の暇人上司に朝っぱらから捕まってしまった。
「お前俺の指示に従わないとはいい度胸だな」
俺はデスクに仕舞ってある大量の書類を取り出した。
「これの提出期限は今日ですか?」
「人の話を無視するのかロクデナシめ。俺の指示に従わなかった理由を答えろ」
「その晩は外せない予定があったのと、大阪に行かなければならない用事がありましたので、―」
「部下は上司の命令に従うのは絶対条件だ。なぜ逆らった」
「すいません、今回は無理でした」
「お前絶対今週土日は残業しろよ」
上司は俺に、サービス残業をしろと言うのだろうか。用もないのにただ会社に居るだけ、というのは非常に時間の無駄である。
「今週土日も無理ですね」
俺がそう言った途端、上司は逆上した。
「みんな残業してるんだ!お前も残業しろ!することは山ほどある」
「この前十八時頃まで残りましたが、誰もいませんでしたよ。嘘はやめてください」
おそらく普段ここまで「かすみ」としては応対していなかったのだろう、周囲が少しざわめき始めている。少し離れたところでは、ひそひそと話す男女二人組の社員の姿があり、対応の仕方がいつものかすみんではないだの何だのといった、俺にとっては心底どうでもいい内容であった。とはいえ、ひそひそと話すその雰囲気は余り心地いいものではなかった。しかし以前のかすみんとは全然違う、ということだけはどうやら解ってもらえたようで、俺は一旦満足した。
「お前、言うようになったな、田舎者が。俺の指示を受けないなど、後で後悔しても知らねえぞ」
「残業を一緒にしてくれる他の方を探してください。とにかく土日と、今週の残業はできませんので」
俺はもうきっぱりと言ってやった。三か月後にはもう辞める予定であるから、何をされようと知ったことではない。
「すいません、することがあるので、失礼します」
昼休みになり、そういえば弁当箱らしきものを鞄に入れてあったことを思い出した。俺は取り出した箱を開け、中身をのぞいたが、そこには何も入っていないことが判明した。俺は急に恥ずかしくなり、慌ててその弁当箱をもとの鞄の中に仕舞った。
「やあ斎藤さん」
一人の女性が近付いてきて、とっさに俺は「お疲れ様です」と相手に言った。
「そんな形式ばった挨拶…一応同期だよ」
「あ、そうなんや、ごめん名前覚えるん苦手で、―名前なんて言うん?」
「香村唯。下の名前だけでいいよ」
この唯とかいう人物は、これまで社内で接してきたややこしそうなヤツでは、少なくともなさそうだ、と俺は感じた。改めて斎藤かすみであることを名乗ると、なぜか相手は覚えていた。
「あれだけ上司に名前連呼されてたら、そりゃ名前くらい覚えるって」
確かに事あるごとに呼び出されては、何かさせられていたりしたので、名は知れていて当然である。
「で、彼氏でもできたの?」
突然よくわからない質問が飛んできたので、俺は思わず「へっ?」と拍子抜けた声を漏らしてしまった。
「だってまるで別人だし。男ができたぐらいしかないって、それだけ変化するのは」
成程。俺はもはや「斎藤かすみ」として接することは諦めていたので、中身が入れ替わった事実を知らない香村さんの目には、どうもそう映って見えるらしい。
「ね、教えてよ、誰?どんな人?」
「誰とか誰じゃないとか、そんなんちゃうねん」
一応、俺はこの香村唯とかいう女性に、今までに起こった、事の顛末を話すことにした。意外にも香村さんは、こちらの話をじっと黙って聞いていた。
「で、てことは、かすみの中のあんたは誰?」
「俺、戸田翔馬って言うねん」何も隠す必要がなくなった俺は答えた。その後、香村さんは、俺の本名の漢字、生年月日、年齢、や住所など根掘り葉掘り聞かれた。
「なるほどね、どうやらあんたの話は本当っぽいね」
前かがみになりながら香村はまたじっと俺の方に目を向けて、外に目を向けることをしなかった。気恥ずかしくなって、俺は目を背けたが、彼女はお構いなしに、そのままの態勢で口を開いた。
「化粧はしてんだ」
俺は一応、としか答えられなかった。
「色々中途半端なんだなあ…今日終わってから時間ある?」
特に予定が入っていたわけではない為に、「ある」と答えると、香村はさらに顔を近づけてきて言葉を重ねる。
「今日化粧やったげるから、それ練習していこ。ウチが下降りるまで待ってて」
会社終わり、ビルの下の玄関に向かうと、そこには約束通り、香村唯の姿があった。
「お待たせ」と声をかけると、彼女は威勢よく「おけい、行こか」と歩き始める。
「ちなみに、どこ行くん」
「そんなの、ウチの家に決まってんじゃんか」
「いきなり俺、唯の家上がっていいん?ほぼ初対面やろ?」
香村は、ただただ歩きながら言葉を重ねる。
「だって、信じてもらえるかどうかわからないのに、今の自分の状況話してくれてさ。しかもその目が嘘を言ってなさそうだったしさ。ほぼ初対面なのによかったのか?っていうその台詞、そのまま返すわ」
この返答を聞いたとき、香村の方が一枚も二枚も上手だったことを、俺は認めざるを得なかった。
なぜかすみんは、こんな人が同期で、しかも近くに居たことに気づけなかったのだろうか。
「まあ、軽く化粧し直すだけだし、そこまで長居することにはならないし。いいっしょ別に」
そうこうしている内に、香村が住んでいるとかいう、マンション玄関に辿り着いた。玄関は言ってエレベーターに乗り、8階まで来たところで、扉が開く。
少しだけ待つように香村が俺に伝え、彼女の姿は部屋の暗闇に消えていった。十分ほど経って再びドアが開き、「おいで」と香村が顔を覗かせた。
部屋の中へと足を踏み入れた俺は、香村の部屋が余りに自分のマンションの部屋と違うことを思い知らされた。靴棚がある玄関、風呂トイレ洗面所がすべて別になっている各部屋。そして何より、ダイニングキッチンの部屋と寝室とが分かれており、それぞれ少なくとも八畳ぐらいはありそうな広さであった。
「何でこんな部屋に住めてるの?って顔するじゃん」
香村はにやにやしながら俺に近づいてくる。彼女の手には化粧道具が幾らか握られていた。
「いやだって、まさかこんなとこに住んでるとか思えへんやん」
香村は手際よく準備しながら、「そうかなあ」と呟いた。
「ちなみに家賃どんくらいなん」
俺自身、マンションの引っ越しを考えていたこともあって、家賃であったり、部屋の造りや広さなどに関しては、ひどく関心があった。
「どれぐらいの価値の部屋に見える?」と香村から、逆質問が飛んできた。
「せやなあ…八万ぐらいか?」
実際、俺が大阪で狙っている物件がそれぐらいだったので、俺はそう答えた。
「十万ちょっとぐらいだったかなあ」
自分の知り合いには、誰も家賃十万の部屋に住んでいるものがいなかったので、俺は思わず「十万?!」と大声をあげてしまった。
「父親か誰かがお金持ちとか」
「ウチって、そんな雰囲気のヤツに思われてんの?それはウチ自身がもっと変わらんとなあ」
香村は少し残念そうに言ったが、それでも化粧準備の方は着々と準備が進んでいく。
「ちなみに一つ言っておくと、皆が就職する二十二歳の時から頑張ったことが、今に結果が出始めてて、だから他の人からしてみたら、ちょっとだけいいとこに住んでるかもね」
「かもね、どころか、完全にええとこやん」つい俺は本音を出してしまった。
「よし準備できた。じゃ、順番に進めていくから、よく覚えておいて」
香村は手際よく化粧を進めていき、あれこれ説明しながら、化粧に必要な工程をこなしていく。十分もしないうちに全てその作業が完了したらしく、彼女はほら、と鏡の前に俺を座らせた。
「はい完成!」
わずか数分で仕上げを完了させて見せた彼女には、頭が上がらない。唯は鏡を持ってきて、「どう?」と一声俺に聞いた。そこに映っていたのは、斎藤かすみではあったが、随分といい仕上がりになっている。思わず鏡に映るその顔に、俺は一瞬ドキッとしてしまった。
「まさか自分の、―というかまあ、今は自分の顔か。思わず見とれた、って感じ?」
にやついた顔で俺を見る唯には、悔しいが、俺の感情は筒抜け状態であるらしい。
「オッケー。ひとまずサンキュ。さっきのやり方、極力覚えとくから」
「最初、分かんないと思うから、気軽に来たらいいじゃん。それに、―」
言葉を続けかけた唯は、一度口をつぐんだ。だがその口が再び開かれるまでに十秒とかからなかった。
「いいこと思いついた。ウチ、これをビジネスにしよかな」
俺は、自分の予想外すぎる回答を受けたので、また拍子抜けた声をあげてしまった。
「ホラ、化粧も終わったから解散!じゃ、また明日で」
色々唯にはしてもらったものの、俺の中では、彼女は結局よくわからない人、と位置付けられてしまった。
「あ、そうだ、Line交換してなかった。それだけして解散しよ」
俺は元のかすみの家に帰った途端に痛みと熱さを感じ、そらされた視線を真っすぐに戻すと、やはりかすみの母親の仕業であることが分かった。かすみんの妹らしき人物も、その母親の後ろにはいたが、こちらの気分を害するに十分な笑みを浮かべていた。
「お前はもうかえってこなくてよし。これまでも家族とも思っていなかったが、もう我慢の限界だ。出ていけ」
後ろで待機している妹も、出ていけ、とコピーしてくる。元々長くこちらで住むつもりがなかったために、俺としても好都合である。
「出ていくで。二、三か月我慢してくれたら出ていく」
「二、三か月もお前を家で見なければならないのか。出ていけ、顔も見たくない」
かすみんの母親は、ちらりと妹の方を見やって、また視線をこちらに戻した。
「妹の方はこんなにもいい子に育ったのに、お前は常に親に逆らいやがって」
「いい子に育った?ちゃうやろ、言いなりになるよう仕向けただけやろ」
もはやこの母親に対して、俺の中では遠慮の欠片も残っていなかったので、思っていたことをそのまま言ってやった。案の定、彼女はまたぴーぴー言っていたが、無視しておいた。妹の方はといううと、これもまた親に倣ってあーだこーだ言っていたが、これも相手にしなかった。
「気が済んだ?じゃそういうことで」
「二、三か月居座られたら邪魔だし」
「じゃ済まへんから、―どいて」
俺はそのまま荷物をまとめ、後のことは一切考えずに、斎藤家を後にしてしまった。
さて、勢いで俺は斎藤家を飛び出してきたものの、衣食住がないという、非常に困った問題に直面した。ひとまず一泊はどうにかなるが、今後住む場所というのを確保していなかったのだから当然である。どうしたものか、とカフェの外のテーブル席に腰を下ろしていると、夜にも関わらず言い争いをしている三人組を発見した。まあ、そんな日もあるだろうぐらいに考えて、コーヒーを口にしていると、彼らの内容がふと耳に入ってきた。
「そんなおとぎ話みたいな話を信じろって?ありえないし説得力ゼロ!」
「現にそうなってんだから、そうがないじゃんか!証明できる物も一切ないから信じてもらうしかないんだって」
この内容は、俺が以前誰かに話した内容にそっくりだったために、非常に驚いた。
「だからって重要な話って呼び出してコレ?浮気とかありえないから」
「違う!その誤解を含めて今日伝えるつもりで、―」
「何が、体が入れ替わった、じゃ。適当な嘘で誤魔化そうとすんな」
俺の中で、「体が入れ替わった」というワードが出た時点で、俺と同じ状況に居る人ということが確信へと変わった。自分以外に、同じ体験をしている人がいた、ということが嬉しくもあった。
「残念ながら事実は、―」と女性が言い終わる前に、俺はその三人組のところへ割って入ってしまっていた。
「この二人が言うてることはほんまの話です。ただそれ以上にこの二人には大事な用事があったので、ちょっとお借りしますね」
そまま俺たちはカフェの中へと足を踏み入れた。
「それで、自分たちの話は信じてもらえるわけですね」
席についてしばらく話をしていると、やがて男は言った。この男の名は黒田というらしい。正確には、黒田の中にいる人物は、土屋という女性らしいのだが、二人は、どちらも見た目が二十代後半といった所である。
「だってお二人さんが、僕の体験にあまりにも似ていたもので」
俺も自分のことを話す時が来た、と思って、自分の身に起きた出来事を全て話した。こんなに安心して喋れるのはいつぶりであろうか。
「じゃ見た目は斎藤さんで、中身が戸田さんというわけですね」男側が重ねて言った。
「朝起きて部屋見たら全然違うし、場所も性別も違うし。本当、私パニックになった」
完全にこの二人は自分と同じ体験をしている。女性側にも聞いてみると、全くその通りの現象っだと主張した。
「でも何だか嬉しいです」俺はつい本音を吐いてしまった。
「だって俺以外に体が変わる体験をしていて、という人が今目の前に座ってるんですよ!気を遣わずに喋るのがどんなに楽か」
「確かに!それは楽ですね、ちなみにおいくつなんですか?」
相手はこちらに年齢を聞いてきたのだが、これもお互いがかなり近い年齢であることがわかったので、さらに驚いた。
「おっと、そろそろ行かねば。今日は話せてよかった。楽しかった、また話そな!」
彼らとはもちろん、連絡先を交換しておいた。
ひとまず今晩の泊まる先が決まり、ほっと一息ついたところで、スマホに着信が入った。出てみるとかすみんだったため、久しぶりに話せるということもあって、割と話が弾んだ。
「元気してる?」
<うん、戸田君こそ大丈夫なの?>
「全然。今までと環境が変わりすぎて大分焦ったけど、落ち着いてきた」
かすみんは一旦間を置いてから、再び口を開いた。
<戸田君の周りって、ホントいい人ばかりだね>
「突然どうした?」半分冗談混じりに返しながら、相槌をいれる。
<何か一つのことをやろう、ってなった時に皆助けてくれるし、私の大したことない話も聞いてくれたり…あとはご飯行ったり、―>
かすみんが、俺の友人達のことを好印象に思ってもらえることは非常に嬉しいことであった。
「ちなみに誰と喋ったん」
<前に会った女友達二人と、会社の人たちと、―これまで戸田君が接してきた人たちかなあ>
滅茶苦茶色んな人と会ってますやん!と心の中で叫びつつ、こんな短期間でもうそんなに溶け込めたのか、と感心するほどであった。
<一人に会ったら、また別の人とも繋がれることになって…なんというか、凄く楽しい>
これまでの経験上、どれも新鮮なことで、それが次に繋がって、などを体験できるのがいいとかすみんは続けた。まあ、新鮮さでいうと俺もそうなのだが。
彼女の話によると、心配だったコールセンターも今のところ問題なく続けられているとのことだった。出会った当初の彼女の印象は、余り喋れないといった感じであったが、意外とそのコールセンターでは楽しめていそうなのと、実は話すのがかなり好きな人である、ということが分かった。人が変わっていく様子を見られるのは嬉しいことだ、と誰かが言っていたが、改めてそれを時実感した。
<戸田君はどう?私の家のことだからかなり苦労してるよね、ごめんね、今までちゃんとできてなくて>
「別に謝ることじゃないし、俺特に気にしてへんで。ただ、俺余りにかすみんの人生を変えすぎてるかもしれへん」
俺は事情を全て話すことにした。会社は辞めるつもりがあること、会社の同期の一人と話せる仲になったこと、実家は出る事になった事。
かすみんは一通りじっと黙って聞いていたが、やがて一言<ありがとう>とだけ俺に言った。
<それだけのことができる、しかも私の人生をいい方向に変えてくれたじゃん。中々いないよ、そんな人>
ひとしきりかすみんと電話で話し始めてから、かれこれ一時間は経っていた。長電話ありがとう、とお互いに軽く挨拶して電話を切った俺は、今度は別の誰かから電話が来ていたことを知り、かけ直す。
<気づくの遅すぎん?>
声の主は唯であった。少し深夜に差し掛かっているのもかかわらず、すぐに電話に出てくれるあたりは優しい。
「ごめん、ちょい別の人との話が長引いた」
<全然いいけど、―困ったことがあったら頼るんだよ>
偶然なのかどうかはわからない。ただ、今俺は困っている状況といえば状況だったのと、タイミングがタイミングだっただけに、俺はギクッとなった。
<今何か悩んでることとかある?>
「―あえて言うなら、斎藤家から家出した感じやから、住む場所がないとかやなあ」
<え?それ大問題じゃんか>
何故唯はここまでしてくれるのかは謎だが、少なからず俺は色々と助けてもらっている。普段あまり困ったことはない、と言い張る俺も、なぜか唯には正直に話してしまった。
<そうだ、ウチ来てシェアハウスみたいにすりゃいいじゃん。絶対そうしよ!会社を二、三か月でやめるにしても、宿がその期間丸まる無いんじゃキツイし>
今日来るか、と彼女からお誘いを受けたが、さすがに今すぐとなるのは迷惑かと思ったのと、宿は確保している旨を伝えると、明日の晩に唯の家にあがらせて貰うこととなった。感謝の意を伝えると、そのまま相手は<じゃまた明日、ウチのマンション下集合で>と終話した。
次の日の晩、俺は唯の部屋にお邪魔させてもらうこととなった。相変わらずの容量の良さで入浴・就寝に必要な最低限の場所や使い方などを教えてもらい、俺はその通りに従った。ひとしきり終了したところで、唯はじっと俺の顔を見つめた。何か、と尋ねてみると、どうも化粧の仕方が雑であったらしく、俺は一からやり直さなければならない現実を突きつけられた。
「けど今からは寝るし、顔面のケアだけして、化粧は明日しよっか」
唯はそう言って、次の日に備えるため、とか言って自分の部屋に帰っていった。
「にしても何でここまでしてくれるん」
俺はつい最近抱いていた疑問を唯にぶつけてみた。唯は少し考えて、くるっと俺の方へ向き直る。
「中身が変わってしまってもさ、今までの“斎藤さん”と今の“斎藤さん”とを比較して見たらさ、自分を変えようと頑張ってる姿に見えてさ。そう思ったら応援したくなったんだよね」
その唯の笑顔がこの時、いつもの数十倍格好よく、俺の目に映って見えた。
「唯―、唯!起きへんかったら遅刻すんぞ」
ほぼシェアハウスに近い生活を、唯と過ごしてみてわかったのだが、彼女は余りにも朝が弱すぎる人物であった。今日この時も、俺が何度か声をかけ始めて、もう出勤三十分前である。
「あと十分は寝る、―」
「いや今八時半やから」
このやりとりをしながら、何やこの夫婦やりとりは!と軽く思いつつ、俺はなんとか唯を起こし、軽めに朝食をとって外へと出た。
普段の朝活はどうしているのかと聞いてみたが、大音量で鳴るアラームを何個か周りに設置して、それでようやく目覚めるらしかった。ただそれで遅刻なく勤務できているとの話であったので、そこには俺は納得しておいた。
「これから、朝出勤の時間に縛られないような人生にしないとね」
ボソッと、しかし力が籠った唯の独り言に俺はなぜか反応して、彼女の方を見てしまった。唯は前を見ているようで、もっと先を見据えるような眼をしており、思惑とは裏腹に、俺の心臓は次第に勝手に暴れ出していった。
唯は俺の視線に気づいてこっちに顔を向け、にっと笑みを浮かべた。
「ウチは夢を実現するから、見といてな」
「おう斎藤。最近お前に話しかけてもらえる同期ができたらしいじゃねえか」
例の暇人上司が、相変わらずの口調で話しかけてくる。俺は、馬の耳に念仏状態であるというのに、相手は全くのお構いなしに絡んでくる。
「どんな奴だ?どうせお前みたいに陰キャで誰もかまって貰えねえ奴だろ。調子乗って俺の顔に泥塗ったら許さないからな」
「そういう個人的な感情でいくら絡んでも時間の無駄ですよ。俺、―私はもうそういったことに振り回されることをやめたので」
上司はむすっとした表情にはなったが、彼は自分の仕事を放置して、わざわざ時間を作って俺に絡みに来たようである。そのまま相手にしないでおこうと、そのままデスクに向かっていると、再び上司は口を開きかけた。その時丁度割り込んできた声があった、唯である。
「何?また部下いじめ?」
なんと彼女は、今絡んできた上司の、さらに上の上司だったのである。例の暇人上司は、また見苦しい言い訳をしていたが、その続きを言うことは、許されなかった。
「自分でできない仕事を人に押し付けてるだけの人間が、嫌味だけを言いに来るとか、随分暇があるもんだね。早く自分の持ち場について、自分の仕事の後処理しなよ」
暇人上司は、この唯の発言により、元の席に戻らざるを得なくなった。
彼が自分のブースに顔が隠れたところで、唯が身をかがめてこっそり俺に耳打ちする。
「あんな事をわざわざ言いに来るとかさ、俺って自信が保てないのさ、て言いに来てるようなもんだよ、もっと自分を磨いてこいって毎回思ってんだよね」
俺はこの時、唯の前では、嘘で取り繕うのはやめにしよう、と心底誓った。
帰り道、いつもは一人で帰っていた道を、今日は唯も一緒に歩いている。談笑しながら帰っていると、一人であたふたしている男を発見した。あまりにも頭を抱えたり、挙動不審だったので、俺は思わず「すいません」と声をかけてしまった。
「何か困ってはりますか?」
「あの、信じてもらえないと思うんですけど、―というか私が信じられないんですけど、」
その男性は、ひどく怯え切った目で俺を見た。
「いつもの私の体じゃないんです」
それを聞いた瞬間、俺はその男性に、自分の体で本来使っているはずの携帯番号を、今その男が持っているスマホで入力し、すぐに電話を入れることを勧めた。と同時に、相手と直接会うことを強く念押ししておいた。
唯も近付いてきて、何があったのかを説明するよう、俺に求めた。
「俺と同じく、体が入れ替わった現象が起きたらしい」
唯も目を丸くして、ひとまずこの男性―おそらく中身は女性であるが、―を落ち着かせるためにも、近くのカフェへとその人物を誘導した。
ひとまず俺と唯は男性の話を聞くことにし、男性はポツポツと、体が入れ替わるまでの一連の流れを話した。そうこうしているうちに、あまり目立たない格好をした女性が店内に入ってきた。その女性は「あっ」と声を上げるなり、俺たちの方へ近付いてきて、「その体、俺のヤツ!」と驚いた様子であった。
唯はその女性にも、席に着くように促し、俺たち四人はひとしきり話をした。
「こういうことって、頻繁にあんの?」
唯は二人を見送った後、俺に尋ねた。俺自身も、こう何度も目撃できるものではない為、唯の発言は否定しておいた。
「じゃウチが、この現象を見れるってのも、中々珍しいってことじゃんね!」
俺の方を見た唯の目は今まで以上に輝いており、内心俺は動揺した。
「ウチにもそういうこと、起こってくんないかなあ」
丁度その時、唯のスマホが鳴り、珍しいことがよく連続で起こるもんだ、と彼女は独り言を言いながら、その電話に出る。始めは普通に対応していた唯であったが、次第に言葉を失くし、しまいにはその場に立ち尽くしてしまった。何が起こったのかを俺が聞く前に、唯は教えてくれた。
「父さんと母さんが入れ替わった…」
詳細を聞くと、どうやら彼女の父親は病気で入院しており、その病人の父と健康である母親が入れ替わったのだそうである。
「入れ替わる、て健康な者同士でなるんじゃなかったんだ」
俺は俺で、こうも連続で事が起こるとは想像がつかなかった。
「え?アプリでニュースが見れるなら見た方がいいって?」
唯は慌てて電話を切り、偶然入っていたアプリにて、ニュースをオンラインで見始めた。俺も同じ画面を横から覗かせてもらった。
<今回、実験に成功された経緯とその成果についてお話をお伺いいたします、それでは先生、よろしくお願いいたします>
どうやらオンラインで、記者会見が開かれている様子であった。司会進行役の女性の声と共に、画面上ではこれから会見を開く者達全員の姿が映し出され、そこに俺の父親の姿があるのを認めたときには、自分の目を疑わずにはいられなかった。
<私は今回、ついに人が夢見た、あるいは非現実世界として描き出されていた、ある現象を現実化することに成功しました>
俺の父親、戸田 祐三郎は神妙な面持ちで語り出した。確かに俺の父親は、科学者であることは知っていたが、いったい何をどうしているのかは、極秘裏だと言って一度も聞かされたことがなかった。
<私の息子も言っていた、第二の人生。そして我々もその可能性について長らく研究を重ねてきました。そして、ようやく一つの可能性として、今回形にすることができたのです。それがこちらです>
彼の手には、サプリのようなものが握られていた。しかしそのサプリには、俺は見覚えがあった。
<皆さんも幼いころに読んだことがあるでしょう。漫画の中で主人公と別の人物が入れ替わり、それぞれ別の世界を過ごしていくことになるストーリー。ある意味それは、それぞれの者にとって新鮮で、第二の人生を送っているといえる。そんな素晴らしき体験が、皆様にも提供できるよう、私は現実化したのです。こちらのサプリには、ある物質が含まれており、―>
彼の話を要約すると、以下の通りである。
サプリには微量の特殊な粒子が含まれている。それを長い間摂取し続けることにより、その粒子を持つ者同士が引き寄せあうという。ただし特定の者と比企宇寄せ合うには、二者のDNAを、その粒子に記憶させる必要があり、事前に遺伝子操作のような作業が必要とのこと。更にここだけでは、ただ単に二人が物理的に引き寄せられるだけなので、実験と施行を繰り返し、精神と意識的移行のみを可能とした物質に仕上げたそうである。
<我々は実に十五年の歳月を費やし、完成させました>
画面の中の俺がよく知る人物は、なおも言葉を重ねた。
<人はみな、自分の人生について知る必要があります。今の生活より、よりよいライフスタイルを送る。幸せのサイズを大きくする、―その一つのきっかけを我々は作ったのです>
確かに最終的に目指す先が、人生の幸せということならば、誰しもが喜ぶだろう。人の人生をよりよい方向に変えていけるという話が、すぐそこにあるのである。俺の場合、実際に斎藤かすみの体を借り、現に人生の方向を変えている。唯と一緒に行動している、というのが何よりの証拠である。かすみんのままでは、申し訳ないが、彼女と話すきっかけは無かったように思う。
<そして人生を変えたい者は、手を挙げてほしい。私がその手助けをしましょう>
記者会見は終了し、後は質問タイムとなったので、記者たちが次々に質問を、祐三郎に投げかけていく。だがその内容は、もはや俺は聞いていなかった。
「唯、この後なんやけど、俺行かなあかん場所できた」
「そっか、それは行ったほうがいいな」
「むっちゃあっさり送り出そうとするやん」
「だってさ、」唯は少し遠くを見るような目になった。
「多分それ、ウチも行かないといけない場所だと思うし」
結局、俺は再び唯と行動を共にすることとなった。父親の勤務先は、あのテレビの一件で皆に知れ渡っていたので、その場所を割り出すのに時間はかからなかった。
「にしてもこの距離を運転することになるとか思わんかった」
隣で、車の運転席にいる唯がボソッと言った。
「ハプニング起きて、車でそこそこのスピードで現場向かうとか、ハリウッド映画か」
「ほんまそれな」
電車で行こうとしたのだが、電車はやめた方がいいと唯が言い出し、何と車を出してくれたのである。それは唯に悪い、と断ろうとしたのだが、彼女はいいからとそのまま俺を助手席に乗せ、今に至る。現在は、というと、高速に乗って、横浜に向かう途中である。
「にしてもよく自分の車なんか持ってたなあ。座り心地もいいし」
「そりゃだって、―いいやつ買ったもん。その時の頑張った自分へのご褒美ってことで」
一瞬、こちらをちらっと見て唯は続ける。
「どうせ乗るんなら、というか誰かを乗せるんなら、快適な方がいいっしょ」
俺はこの時、彼女が全く別世界にいる人に思えた。
「この場所で正解なんだよね?」
俺たちは、地図で示された父親の勤務先に着いたはずであった。だがそこは、もはや荒野という表現が適切な程、草が伸びきった広い砂地の場所である。改めて住所と場所とを再検索をかけると、間違いなくここが表示されるのである。
「グーグルマップに頼ったから、とか?」
「そんなことないやろ」
そう返答しながらも、俺もこの地については疑い始めていた。
「あ、あそこに矢印と、入口っぽいとこ見える。あそこに車を入れてみよっか」
唯は、自身の台詞を言い終わるか言い終わらないかのうちに、アクセルを踏んで車を再び動かし、地下に向かう入口に向かった。ぐるぐる螺旋状に向かう地下ルートに沿って車を進めて数分後、ようやく駐車場らしき場所にたどり着いた。
「―今度こそ、正解でいいんだよね」
何台かはその駐車場に停められていたが、この広い空間にその数台しか見かけられないのは異常である。
「ま、ウチらが初のポルシェ乗り込みってことで、記念の一台だね」
もはや唯が、一体何の仕事をすればそんなものが買える人生になるのか、聞き出したいぐらいであった。彼女は、過去自分の将来のために頑張ったとが、今の自分のライフスタイルにつながっているとは言っていたが…。
「ぼんやりしてないで降りなよ、着いたんだよ」
唯に言われて現実世界に呼び戻され、俺は駐車場へと降り立った。
建物の中へと続く入口を探し回り始めた俺たちであったが、通常の駐車場とはどうも仕組みが異なるようで、中々見つけ出せずにいた。偶然一人の科学者らしき人が出てくるところを見つけ、建物に入るための入り口を聞き出すことに成功した俺たちは、彼にお礼を告げて、踵を返す。
「方向音痴になるとこやったわ」
「いやもう現にそうだから」
「そうやっけ?」
「だってさっき引き返すときに、左に行くところを、右に行ったでしょ」
唯は、軽く俺の頬を突ついて、「しっかりして」と冗談交じりに茶化してきた。
そんなやりとりをしているうちに、ようやく先程の科学者から教えてもらった、この建物の入り口に辿り着いた。そのはずだったのだが、俺と唯はお互いに顔を見合わせた。
「―壁、だよね」
「壁やなあ」と唯の言葉をオウム返ししつつ、俺は壁を手で探り始める。
「映画とかやったら、壁に仕掛けがあって、偶然中に入れる、みたいなシチュエーションとかあんねんけど」
そんな偶然あるわけないやん、と言いかけたその台詞は、喉の奥へ押しやる羽目になった。たまたま探ったところが仕掛けボタンになっていたらしく、重々しい音を立てながら壁が移動を始め、事が終わると、目の前には、建物内部へと続く通路が広がっていた。
「もうハリウッド映画じゃん」
「どんだけ連発すんねん、その台詞」
相変わらずのやりとりを彼女としながら、俺たちはひとまず、その通路の先へと向かった。
意外と通路の先には、明るめの待機室のような空間が広がっていた。
そこには事務室の受付の場所が設置されており、そこには人の姿があったので、唯は早速その者にある事を尋ねていた。
「すいません、戸田教授と話がしたいのですが」
「アポイントは取られていますか?」
「いや、そちらはまだしておりませんが」
「ではお引き取りください。教授は今、対応に追われていますので、アポイントを取られていない方との接触は、お断りしています」
「そこを何とか、―」食い下がろうとする唯を、俺は引き留めた。
「失礼しました。私は、戸田教授の息子の戸田将馬、―例の入れ替わり実験の対象となった者で、斎藤かすみの体を借りていますが、至急、直接にお会いしなければなりません。直接教授にご連絡を」
「入れ替わったという証拠は?」
「対象になったのは二人のはず。データが残っていれば、斎藤かすみ、戸田将馬、両名でお調べください」
俺は斎藤かすみの身分証を、受付の者に手渡した。
受付の者は、しばらくパソコンをいじっていたが、やがて俺たちの方に顔をあげて言った。
「確かに、その方と、戸田将馬に間違いなさそうですね」
「ではすぐに教授に連絡を。緊急です、三十分だけでもいいので」
受付の者は、こちらを睨んだ後、席を立って奥の方へ姿を消してしまった。
しばらくののちに、同じ受付の者が出てきて、「教授は、あなた方に会ってくれるそうです」とだけ告げた。唯は俺の方を見て、「よかったじゃん」と心底嬉しそうにした。
案内の者に従って奥の方へ進んでいった先には、エレベーターがあった。こちらもまた、先ほどの壁の扉同様、何とも重々しい扉である。そのエレベーターに乗ってみてわかったのだが、どうやらこの建物は、地下五階の構造をしているらしかった。
「教授は、この廊下の突き当りを右に曲がった、さらに奥の部屋にいます」
俺たちはその係りの者に感謝の意を示し、言われた通りに通路を進む。
「うわ、今更ながら、ちょい緊張してきた」
「いや、親子っしょ?」
「親子でも、ほとんど会話したことないからなあ」
奥へと進んだ俺たちは、その扉が、厳重なセキュリティロックがかけられていることを知った。どう開けたものか、と考えを巡らせていると、扉が開き、中から「入りなさい」との声を聴いたので、二人共、無事に中へ入ることに成功した。
教授、―つまり俺の父なのだが、―は尚も実験やデータをくまなく操作している最中であった。ひとしきり作業が終わったのか、唯と俺を別の部屋へと案内した。応接間と掲げたプレートがあるその部屋は、まさしく研究室と呼ぶにふさわしい、独特の匂いが漂っていた。
「お前の方から来るとか珍しいやん、将馬」
ソファーに座るなり、教授は俺に突如話しかけた。
「それから、そっちの嬢ちゃんは初めましてやな。教授の戸田 祐三郎と申します、よろしく」
「嬢ちゃんとかいう台詞、映画でしか聞いたことない。香村 唯です。よろしくお願いします」
しっかりと握手を交わしながらも、何時もの調子を崩さない唯に、なぜか俺は嫉妬した。祐三郎は、彼女を大いに気に入った様子である。
「あっ、思い出した!香村ってあの夫婦さんの娘さんか!いやあ、あの二人はよく知ってる。結構な中で、ほんまに仲良くさせてもらってよかった思て」
「挨拶はええねんけど、色々聞きたいことあんねん」
このままいくと、雑談だけで軽く三十分は過ぎてしまう、と感じた俺は口を挟んだ。
「俺、今は斎藤かすみの体やねんけど、あの記者会見の話やとサプリは長い間飲み続けて、しかも入れ替わるお互いのDNAを、それぞれサプリに覚えさせなあかんって話やんな?」
「せやで。それは確かや。私が保証する」
「じゃそれ、最初は俺が実質の実験体、て理解でいいんやんな?」
俺の父親は一瞬ぐっと詰まった。
「責めてるんちゃうねん。確認したいだけやねん。しかもあのサプリ見覚えあるし。確か、栄養とか今後の健康か何かに影響するとか、そんな話やった気する」
俺の父親は押しのように黙ったままで、何も返答をよこさなかった。
「その話聞いて飲んだんやから、それは俺の判断やねんけど、体が入れ替わるとか、その可能性がちょっとでもあったんなら、そうって正直に言うてくれたらよかったのに」
「言うても信じへんやん。で、栄養は少なからずサプリには含まれてるから、間違ってはない。今やったら皆、このサプリのほんまの効果を信用してくれてるけど」
「で、もう一個確認があって、」
ざっと俺の質問を要約すると、
今後、自分の体とかすみんの体が再び入れ替わり、元に戻ることができるのか。体が入れ替わった者同士の当事者には、事前にきちんと説明義務が果たされているのか。何より、実際に実験にOKしたのは、少なくともこの当事者二人であるが、どうやって入れ替わり実験の現実化に成功してきたのか、といった点である。
祐三郎の答えは以下の通りであった。
再び入れ替わることは可能であるが、一度入れ替わっていることにより、両当事者の体には粒子の効果が消滅しているので、さらに追加で同当事者のDNAを有したサプリを摂取する必要がある。そのため、元の体に戻るには、時間が必要とのこと。
基本的に実験は、同意を得たうえで行われるが、二十歳未満の者同士が入れ替わる場合で、両当事者の親が、実験に承諾した場合、説明義務は親になされるケースがほとんどであり、当人には説明が行き届いていない場合があるとのこと。
了承に関しては、双方に説明義務をきちんと果たし、合意を得たうえで、且つ、実験に前向きな姿勢を見せてくれた者しか受け付けていないために、強制的ではないこと。
「言ってみれば、営業と同じや。合意が生まれへん限り、実験せえへん」
確かに、全体的に見れば条件も、実験を行う行為にしても、統制がとれているように思える。
「じゃ何で、そこに人生の話を絡ませた」
真意を問うべく、俺は最後に父親に聞いた。
「それはな、俺が本来そこが目的にスタートした実験やったからや。今まで例えば、退屈してた毎日を過ごしてる人がおるとする。通勤、勤務、退勤、あとは寝るだけの人生。そんな毎日を過ごしていた人が、例えば人脈、時間、お金にゆとりのある人と入れ替わるとする。どうなる?」
「確かに、お互いの生活環境が変わるわけだから、今までとは全然違う人生を送り始めると思う」
「やんな。そしたら人生は変わっていけるし、自分自身も変わっていける。環境を変えない限り、人は変われない。私は、皆に豊かな人生を送ってほしいと願うがゆえに編み出した答えなのだ」
父親はまっすぐな目で、俺に語り出した。どうやら彼には、嘘偽りはないようだ。
「じゃ、ウチの家族はどうだったんですか」
唯のこの発言を聞くまでは、恥ずかしながら、俺は唯の両親も入れ替わっていたという事実を忘れていた。
「どういう話で、入れ替わり実験が実行されたのですか」
「それはな、ほら、唯ちゃんの父さんは病気でずっと入院してたやろう?だから母が、自分の体を使ってでいいから、一度は外で過ごす感覚をもう一度味わってほしいとのことで、今回の話には乗ると言ってくださったんやで」
唯は納得したようだったが、どうも俺は腑に落ちなかった。
「えとな、おとん。何かちゃう気するわ」
「何がどうちゃうねん」父親は、少し不満げに声を上げる。
「環境が変わると人生が変わる。人生を変えたかったら、まず接する人、人生を変えて成功した人たちと接する環境に行ったり、仕事先を変えたり、っていうのはすごい大事なことやし、そこに気づいて今回の実験を行った、っていうのは、ほんまに素晴らしいことやわ」
祐三郎は、ただただ頷くだけであった。
「でもそれ、自分自身で経験して、学んでいかなあかんことやわ。誰かに強制的にはい、っていきなり、これまでの生活環境を変えるような方法を渡されたらあかん。今回の体を入れ替えさせる、みたいに、いきなり全部がらっと環境を変えさせたらあかん」
俺は何故か、隣で唯が大きく頷いた気がした。
「いきなりがらっと環境が変わった先…体が変わったその人が、入れ替わる前の者の過ごした環境で、同じように行動できると思う?そうでなくても、―」
要するに、俺が言いたいのは以下のとおりである。
例えばAさんとBさんがいて、Aさんが普通のサラリーマン、Bさんが会社をいくつか経営する成功者だったとする。この二人が入れ替わった時に、Aさん(の体)=Bさん、Bさん(の体)=A
さんとなる。これまで過ごしてきたAさんのサラリーマン生活からしてみると、Bさんの生活環境、仕事内容、経営、全てが今までと違うわけである。ではそのBさんライフスタイルにぽん、と放り込まれたBさん(の体)Aさんは、元のBさんと同じ要領、知識量、生活リズムなど、同じようにふるまえるかと言われれば、それは不可能な話である。Bさん(の体)Aさんは、知識や経験が全くないことにより、これまでBさんが築いてきた生活環境や経営している会社、これまで築き上げてきた信頼関係までも失ってしまう可能性もある。学ぶといっても、余りに学ばなければならないことが多すぎて、結果Bさん(の体)Aさんを苦しめかねない。
一方のAさん(の体)Bさんは、入れ替わった後のAさんのサラリーマン生活に戻ったとしても、本気を出せば、元のBさんと過ごしてきた環境を作ることができる。というのも、成功者になるための知識や経験が豊富にあるため、それを元に行動すればいい訳である。なので、体が入れ替わったとしても、十分やっていけると言えるだろう。
ではこの二人が、また元の自分の体に戻ってきたとしよう。Bさんは、Aさんによって失った信頼、会社、人間関係が多少あって、ショックな出来事がいくらかあったとする。こちらも本気を出せば元に戻したり、まだ信頼してくれている仲間に助けてくれたりなどして、再び立ち直ることもできるだろう。
一方のAさんは、Bさんの体に入ったことで、幾らか学んだことがあるとはいえ、まだ自分の力でこなすには、色々と未熟だったとする。入れ替わった後に、Bさんが作ってくれた環境変化に、適応できるかと言われば、まだAさんにとって未知の世界である。
仮にこの二人が連携をとっていたとしても、Bさんの指示でAさんの生活が成り立っているわけで、Aさんが、自分で人生を変えるために必要な、経験や知識が人から完全に与えられたものとなってしまう。結局はAさんのことなのに、自分ごとになっていないが為に、自ら行動したいことでもないため、「しなければならないことを押し付けられた人生」と認識してしまいかねない。結果、Aさんを苦しめてしまいかねない。本来であれば、自分がそうしようと決めて行動し、それが結果に表れて、ハッピーライフを送るはずのところを、強制的に与えられた環境によって苦痛を与えてしまっては、本末転倒である。
「だから、最終的にはBさんのライフスタイルが、Aさんの理想のライフスタイルであっても、自分から進んで得る知識、経験、学び、これがなかったらしんどいだけやねん」
「なるほどね。確かにそこはすっ飛ばしたらまずいね」
唯は元々、理解度が早い性格なのか、こちらが言いたいことを全て把握してくれていた。
「だからおとん、おとんの実験のやり方で、環境をぽん、っていきなり与えるのは、俺はちょっとちゃう気すんねんなあ」
父親はがくんと椅子にもたれかかり、「俺の十五年が」という台詞をひたすらに繰り返していた。俺は意外にも、彼がすっと俺の話を受け入れてくれたのにはまず驚いた。ただ、受け入れてくれたとしたならば、これまで彼が信じてきたものが総崩れしたのだから、ぐったりするのも無理はないと、俺は感じていた。
「なあ、最後にこれだけ聞かして」
祐三郎は、もう何でもいいが聞いてやる、とだけ言って頭を抱えた。
「斎藤かすみの話でさ、―」
この時俺は、床の何かを踏んづけた気がして、そこに目をやると、テレビのリモコンがそこにあった。偶然にも電源ボタンを踏んだようで、近くにあったテレビに画面が映し出される。そこに映し出された人物を見て、俺は思わず息をのんだ。
<教授のおかげで、私たちも人生が変わりました>
笑顔で話す、五十代の女性。彼女は俺のよく知る顔であった。
<娘が入れ替わってからどうなることか、と思いましたが、これでよかったんです。おかげで、このような生活ができるようになって>
そこには、三人で生活するには少し広すぎる部屋と、話している本人が身に着けるには高価なバッグ、服装が映し出されていた。
「将馬、大丈夫?」
唯は、俺の様子を見て何かを悟ったのだろう、少し気遣うように俺に話しかけた。
「おとん。斎藤家に何した?」
「特別なことは何もしてない。彼女は一番最初に、実験の話に乗る、って言ってくれたんや。最初どうしても実験にされるのは、皆嫌がるからな。俺も断られ続けたんやけど、この人は受けてもいいよ、言うてくれてな」
「それでどうしたん。最初おとんは何てその人に言うたん?」
「実験に協力してくれた、一番最初の人やから、お礼を渡すことにしたねん」
「お礼を渡す?」俺は、いよいよこの実験の話の雲行きが怪しくなった気がした。
「謝礼金や。そらだって、危険かもしれへん実験に協力すると言ってくれたわけやから」
「いくら渡した」
「売上のうち、六百万円が毎年、斎藤家に入るようにした」
俺は、頭をハンマーで殴られたような気分であった。唯も、普段の唯らしからぬ声をあげている。
「おとんの収入は?」
「今回の売り上げのお陰で、六百万円も、全体からしてみれば十分の一ぐらいやで」
「会社として大丈夫やから、ちゃうねん。そんだけの金額渡されて、相手は何も言うてなかったん」
「最初は断ってたけど、まあ、それはしょうがない、受取りましょう、て」
裕三郎は、相変わらず、うなだれた調子で言葉を重ねる。
「だから落ち着いてるし、そういうことにはもう慣れてる人なんかなと」
「おとんの方から、いやこれは絶対受け取ってください、でないと帰しません、に近いこと言うたん」
「いや、これがお礼として、この六百万円が毎年入るようにさせてもらえたら、って言ったら、よろしいのに、と言いながら、お礼と言われてしまっては仕方ありませんね、ってすぐ受け取ってくれた」
俺は耐えられなくなって、おとんの目の前までつかつかと進んでいき、思わず彼の胸ぐらを掴んでしまった。後ろから唯が飛んできて、制止の声を上げる。
「何でおとん、そこで違和感持たんかったん。何でそこですぐに好意を受け取った人、ってなったん」
祐三郎は、おっかなびっくり、といった表情をしており、自分が何故今責められているかを理解できていない様子であった。俺はあえて言葉を重ねる。
「俺も人のこと言われへんからこんなん言う立場にないんやけど…。普通そんな多額の金、仮に実験に協力した、って言うても、いきなりそんな大金ぽん、て渡されたら普通の一般の人やったら遠慮するで。それをすんなり受け取って…しかも、その斎藤家の人は、特別その大金を扱うにふさわしい雰囲気を感じる人やったん?」
祐三郎は、途中までうんうんと頷くばかりであったが、最後には「今思ったら、雰囲気をまとってるような人ちゃうかった」とボソッと言った。
「じゃ後日娘を連れてまいります。この子、実験に非常に興味があるようで、って言われて。それで俺は、実験をその娘さんにすることにしたんや」
俺は父親の話を聞いて、背筋が自分でもわかる程、ぞわっとする感覚を覚えた。
「その時のかすみんは、実際に実験を受ける時どんな反応だった」
「覚えてない。俺は、俺の実験を手伝ってくれるっていうので頭が一杯で、彼女たちの表情まで見てなかった」
「俺、かすみんの体になってわかったんやけど、―かすみんの母親は、自分に利益のある事にしか興味を持たない」
この言葉を聞いた父親は、思わず目を見張って俺を見た。
「今回の話も、あんたが六百万円を毎年払うという、そこだけが欲しいから、―儲け話として便乗してきただけや。ほんまに話し合って連れてきたんならわかるけど、あの家族は、母親が自分の娘を圧迫しているような環境の家庭やった。自分自身は一切この実験に関与せず、娘を実験にやろう、って考えやねんから…楽して金だけもらってしまおうて考えが見え見えやねん。あんたと会ってるとき、話してる言葉の節々とか、表情、親子の雰囲気…どっかに違和感が絶対あったはずや」
もし謝礼金が二十万とかなら、協力しないか、謝礼金の値段を上げるように要求してきたはず、と付け足しておいた。
「この母親は、金が欲しかっただけ。現に自分の家族や、入れ替わった本人のインタビューがないやん、自分のことばっか話して。そういうことや」
ようやく俺は気分が落ち着いてきたので、父親を掴んでいた胸倉を離した。唯は少しほっとした表情を浮かべる。
「そんな自分の都合のいいように人を利用するような、ややこしい人を見分ける判断力をつけていかなあかんわ、おとん。俺もやけど」
「教授!」この時、別の科学者が自分のセキュリティーを使い、祐三郎の研究室に慌ただしく入ってきた。
「何や、そんなバタバタ入ってきて。入る時は、一言断ってから入れ、と何度も言っているだろう」
「失礼しました。しかしこれを見てください」
その科学者が持ってきたノートパソコンには、とある会社のWEBサイトが表示されていた。そのサイトの中にある、会社紹介らしき動画をクリックすると、社長らしき人物が画面の中で語り出した。
<戸田 祐三郎教授の考えられた、“入れ替わりサプリ”は実に素晴らしい>
彼の手には、例のサプリが握られていた。
「おい。まだ公表したばかりだし、ノウハウや商品に関しては、企業が一般向けに販売していい、など私は一言も言ってへんぞ」
部屋に入ってきた科学者は、「すみませんが、誰が勝手にその許可を出したのかはわかりません」とだけ答え、俺は、その会社の社長動画を食い入るように見た。
<我々は、このサプリの可能性についていち早く気付き、どうにか教授の研究所直属の会社として、こちらを商品化して、みなさんの間に広めることができるようになりました。ただし、我々だけが、このサプリを世に広めるのではありません。我々と一緒に、“仲間”としてこのサプリをビジネス的に広めていくのです>
ここでふと動画が切り替わり、さっき入ってきた科学者と同じ格好をした科学者が、その社長と手を取り合っているシーンが映し出された。ご丁寧にも、こちらの科学者にもインタビューされている箇所があり、同時に彼の名前とこの研究室名もテロップに表示される。
「事実確認を急げ。この科学者を割り出して、私の所へ連れ来るよう、各研究員にも伝達を。急げ!」
パソコンを持ってきた科学者は、「はい!」と威勢の良い返答をして走り去った。
戸田祐三郎としての威厳を取り戻した父親は、改めて俺たちに向かってこう言った。
「この研究は、とんでもない方向に向かったかもせえへん。唯ちゃんと将馬は、この会社に探りを入れてほしい。ビジネス的に“仲間”として、サプリを皆の間に広めていくとかいう、あの社長の台詞が気になる。少しでも疑いの会話に気づいたら、彼らの会話にも注意を向けるように。怪しまれへんようにくれぐれも気をつけてな、行動開始!」
俺と唯は、さっき走り去った科学者同様、急ぎで父親の研究室を抜け出す羽目となった。
「なんか、こういう事態になる方がスリルあるじゃんか」
「いや、ハリウッド映画の見過ぎか」
唯が言ったことに対し、俺が即返答をよこしたことで、彼女は満足げに笑った。俺は、この先の行動を共にする、いいコンビになりそうだ、と直感的に感じた。
「さて、車に乗り込むか」
「どっから探ろっか」
シートベルトを着けながら、唯は俺に尋ねた。
「さあ、こんなことは俺も人生初やから、分かれへんなあ…」
「行先決まらんと、車発進できませんけど、兄やん」
冗談交じりに言う唯の言葉を聞いて、一か八かを狙う覚悟で俺は言った。
「ひとまず都内のカフェのあるとこ…その辺当たっていこ」
「了解!でも今日は遅いから、また明日だな」
唯は言い終わるや否や、車のアクセルを入れ、俺たちは都内に向かうために駐車場を出た。
次の日、唯の車でとあるカフェに着いた俺たちであったが、別々に行動しようという話になり、一旦分かれた。各テーブルの話声が聞きやすいであろう位置に俺は席を取り、注文はコーヒーだけにして、パソコンで作業しているフリをする。他人の会話の内容に注意を向けながら、完全なスパイやないかと内心思いつつ、ひとまず一、二時間を過ごすこととした。
Lineで唯とやりとりをし、その後車で落ち合う。お互いに収穫はあったかを確認し合い、それが無いとわかると、再び唯の車に乗り込んだ。そうして、ほぼ一日、ありとあらゆるカフェを回った。
「駄目、今日はもう限界」
唯が椅子で、伸びしながら珍しく弱音を吐いた。かれこれ十か所以上は回り、すでに時計は二十一時を過ぎたところであるが、一つも手掛かりなしである。しかも新型ウイルスが世界的に萬栄しているということもあって、各カフェが時短営業を行っている影響で、調査は余計に困難を極めた。今は、奇跡的に深夜まで営業しているチェーン店に腰を下ろし、一息ついているところであった。
「ありがとうな、ほんまに。車出して、ずっと運転て、中々しんどいやろ」
「いいって、そうしようと思って行動してるだけだから」
その当たり前のように言える、彼女の器の大きさには、俺は頭が上がらなかった。
「唯って、なんやかんや優しすぎん?」
「そうかなあ」
「いやだって、普通ここまでせえへんやん。今も色々協力してくれてるし。文句一切言えへんし」
唯はしばらく考える様子を見せたが、やがて口を開いた。
「両親の件が絡んでるしさ。電車より、車の方が色々融通が利くし。まあ、長期ドライブしながらの調査って何かスリルあるしー、まあ、そんな感じかな、ウチは」
この状況でも、色々と唯は楽しんでそうであった。
次の瞬間、唯の表情にさっと緊張が走り、顔を少し俺に近付けて「二つ隣の席」と、手短に小声で俺に話した。
その席の方に目をやると、スラっとした女性と、同じくスラっとした男性が座っており、その反対側には、その二人と同じ年ぐらいの男性が座っていた。
会話の話ぶりから察するに、どうも仲の良い関係というよりは、どこかよそよそしい感じが見て取れた。
とここまで観察したところで、ぐっと両頬を誰かの両手で押さえられ、元の唯の顔が正面に見える位置に顔を戻されてしまった。
「あんまりじっと見てたら、バレてまうじゃんか」
俺はつい、至近距離にある唯の顔とその瞳に、ドキッとしてしまった。
しかし耳を澄まして二つ隣の席の会話を聞いてみるに、以上の内容のようであった。
「ざっと内容はこのような形なのですが、戸田教授の“サプリ”を試してみたいと思いませんか?」
まずはスラっとした男女組のうち、男性の方が、反対側に座っている男性に問いかけた。
「そうですね、ご自身で試されるのはハードルが高いと思うので、試してみたいなと思った人を連れてきてくれるだけでも大丈夫です」
こちらは女性が話した内容であった。
「あ、それならできそうです」テーブル反対側の席にいる男性が答える。
「ではまず、我々にそのような人を紹介していただければ、それだけで、あなたに一万円の紹介料が入ります。仮にこの人が、“サプリ”を飲みたい、ビジネスとしても広げていきたい、と感じてくれたとします。すると、一箱分のサプリの売り上げの十五%があなたの利益となるわけで、―」
もはやこれは確定事項である。ビジネスを“仲間”として広げる今回のそれは、蓋を開けてみると、マルチ商法、ネットワークビジネスと呼ばれる類の物であった。男女二人の話の中で、入会費に二十万かかるなどといった内容も入っていた。この会社のトップはどうやら、サプリを“世間に広める”目的ではなく、“儲かる”ためのツールとして考えているようである。
俺は席を立とうとしたが、唯の制止により、妨げられた。
「あの二人が、会社の名前を出してからだよ」
まだ三人は、何か色々と話していたようであるが、最終的に、俺たちの欲しがっていた情報を彼等は口にする。
「ではこの契約書類の一番上に、ウェルコムド会社と書かれていることをご確認ください」
唯は、にやっと笑みを浮かべ、荷物をまとめ始めた。
「将馬、ウチん家の場所、覚えてる?」
突然言われたことなので、俺は「ああ」と気の無い返事をしてしまった。
「ごめん悪いんだけどさ、住所はラインで送るのと、あとタクシー代は出すから、先帰っといてくれない?これで足りなかったらまた言って。足りるとは思うけど」
そう言って唯は、俺に一万円を渡した。俺は慌てて、何が何でも返そうとしたが、唯は決して受け取ることを許さなかった。
「じゃ悪いけど、先帰ってて。後で行くから」
俺は、唯が結局何をどうするつもりなのかを解らないままに、支払いを済まし、店を後にした。最後に映った唯は、例の三人席のところに話しかけているように見えた。
「ただいま、―あれ、まだ起きてたんだ将馬」
唯が帰路についたのは、深夜二時を回った頃であった。
「何となく、というか久々にこの海外ドラマ見始めたら止まらんくなってな、」
海外ドラマシリーズを何気なく見た俺は、中々にそれが面白くて止められなくなったのである。
「それよりさ、ウチ、さっきのあのサプリビジネスの話聞いてきてさ。明日セミナー説明会が開催されるらしいから、聞きに行ってくる」
「聞きに行ってくる、って会員になってくるってこと?」
「まさか。ウチそんなチープな奴に見えてたんすか、兄やん」
唯は、肩で軽く俺の方を押した。最近唯との距離が近すぎているような気がするが、それは頭の片隅に追いやっていた。
「説明どんなもんか聞いてくる。こっそり録音しとくし」
唯はそう言って、得意げにスマホを取り出した。彼女は、この潜入に関して楽しみを感じているらしかった。
次の日。いつも通り会社に行って、定時で切り上げ、唯と合流する。
「じゃこの後、ウチは例のセミナーに行ってくるけど、将馬はどうする?」
「俺は、一旦家に帰ろかな」
「おけい。じゃ後程」
唯は、そのまま自分の車が置かれている駐車場に向かった。
「ごめん斎藤、ちょっといいかな?」
俺が勝手に、暇人二号と名付けている上司から声がかかった。俺が定時で帰るタイミングを、おそらく狙って声をかけてきたのだろう。ただ俺は、彼に話しかけられること自体が面倒に感じていた。
「いや、今までのことは悪いと思って。すまなかった」
この上司の芝居がかった様子から、どうも反省というよりかは、彼は別の目的で接触してきた可能性を俺は疑った。
「許されることではないと思うが、どうかそれでも許してほしい」
「わかりました」
俺は、この上司が俺に接触してきた目的を話すのを促すために、簡単に返事しておいた。
「そうか。それは本当に良かった。ところで、斎藤。お前の母親のインタビューを見たぞ。随分彼女は雰囲気がガラッと変わって、生活も楽しそうじゃないか」
かすみんの母親の映像を見たということは、おそらく彼は、自分も同じくその教授と接触すれば、豊かな生活が保証されると考えたのだろう。そこで、かすみんの母親に接触すれば、教授に会うことができると判断して俺に話しかけたのだろうが、その目的が、俺にとって怪しまれないよう、遠回しにものを言っているのがバレバレである。
「お前の母は、あの戸田教授と繋がっているんだろう?俺もあの教授に近づいて、よりよい生活を、―」
「そんなに自分に利益のある話が欲しいですか」
おそらく限りなく低いであろう声が、かすみんの声を使って出た時には、正直俺自身も驚いた。上司の眉間に皺が寄る。
「母に会わせて欲しい。もうすでに豊かな生活を送ってんだから、俺がそのライフスタイルを送るには、すでにその生活スタイルになっている人に近づくのが正解だ。俺もそうなりたい。だから、会わせてほしい」
「私は、斎藤家からは縁が切れているので、会いたいのなら、ご自身でコンタクトを取ってほしいですね。ある程度、私の実家の住所や連絡先はご存じでしょうし」
その台詞を吐いて俺が踵を返すと、すぐ後ろで「待てゴラ!」と怒鳴り散らす声が飛んできた。
「上司である俺が、わざわざここまで頭を下げてやってんだ。しかもわざわざ時間をお前に咲いてやってんだ。ちっとぐらい教えろ。母との縁が切れたから何だ、俺にお前の母の居場所をつい止めろというのか。お前が俺を、その母とやらの元に案内しやがれ」
その声を聴いて、どこから湧いてきたのか、会社に属する後輩や同期合わせて、およそ十人ほどが集まってきた。
「斎藤先輩。それはあんまりですよ」
「何の話?」俺はとぼけてみせた。
かすみんにも一応後輩がいたことは知っていたが、まさか上司の取り巻き達だったとは、俺はこの時まで気が付かなかった。
「自分だけ取り分あるのは、ズルいです。教授に会えば、いい生活ができる、という権限を独り占めするつもりですか」
「取り分?独り占め?何の話してるん」
「とぼけるな。現にお前の母親が、すでに教授によって、楽な生活を送っているではないか。その権利を独占することなど、許されない。俺は今まで、散々お前に尽くしてきたではないか。だから俺たちにも、お前の母同様、豊かになる生活を送ることができるようにお前が手配しろ」
彼らは、教授に合わせろ、かすみんの母親に会わせろ、とあんまりにしつこかった。俺は渋々、斎藤家に連絡を入れ、会いたいと言っている会社の人がいる、とだけ伝えておいた。どうやら、かすみんの母は乗り気なようであったので、上司には、彼女には会える旨と、今度は直接母に連絡を入れて、やりとりをするように、と念押ししておいた。自分の利益だけを考える者には、同じ考えの人間が集まる…類は友を呼ぶとはこのことか、と俺は妙に納得した。
ようやく帰路についた俺は、スマホの着信音に気付き、電話に出た。
<戸田君、久しぶり、元気してた?>
「かすみん!久しぶり!元気やで、そっちは?」
久しぶりにかすみんに話せたのと、元気そうな声を聴いて、俺は一安心した。だがそれは、すぐに緊張へと変わっているのを、同時に感じた。
<戸田君。例の“サプリ”のニュース見た?>
「見たで。どうもあれ、見たことあるやつや、思ってたらさ」
<そうなんだ。私も内容を詳しくは知らんくって、さっきまで。まあ、私も見たことあるサプリを教授からもらって、飲めって言われたものをそのまま飲んだから、これは私の判断でいいんだけど、―。今日、私“サプリ”に関するビジネスの勧誘受けたんだよ>
俺は、とうとうかすみんの住む大阪にも、その手の話が回ってきたか、と頭を抱えそうになった。やはりこの時代、誰かが始めたその系統の話が世間に出回るスピードは速い。
<それも戸田君の、以前働いていた先の同期、って言うんだよ。名前は、前田たつや。知ってる?>
「―全然知らんし、多分知ってても、喋ったことないなあ」
かすみんが受けた内容としては、“サプリ”を誰かに勧めて、勧められた人がサプリを購入すれば、その売り上げ分二十%が入るのと、紹介料が追加で2~3万円あるとのことだった。
<別に興味ないからいい、って言ったんだけどね>
その話には続きがあって、その会員になるために、頭金三十万円を払わなければならないという。
「全く次から次へと、―。完全に利益が欲しいから、って集まった人達の組織やなあ」
かすみんに、東京に来れるかどうかを尋ね、明日ならOKとのことで、明日の昼に、俺たちは会う約束をして、終話した。
「よっ、久しぶりにいいの買ってきたで」
俺といる時間が長いせいか、唯の口調も徐々に関西寄りになってきた。
「寒くなってきたし、鍋しよ」
いつもの様に、唯は台所へ向かう。流石に毎回やってもらってばかりは気が引けるので、今回は俺もキッチンの方へと向かった。
「何か手伝えることある?」
「いやいや、将馬は座っといて。具材鍋に放り込んで、ほったらかしにしてたら、出来上がるから」
“ほったらかし”の使い道をマスターしてしまった唯に、俺は思わずにやっとしてしまった。
「やとしても、何か悪いわ。むしろ何かさせて」
「じゃあさ、ウチは作るから、将馬は洗い物の方、後で頼んでいい?」
「やるやる、絶対やる」勢い余って俺は返答した。
「絶対売れる、みたいなテンションで言わないで。じゃ、将馬は座ってゆっくり待ってて」
「そういや、例の会社のセミナー、どやった?」
鍋を二人でつつきながら、俺は思い出したように言った。
「あれさ、もうほんまに笑う」
唯は、鍋の具を自分の皿に取りながらポツポツ話した。
「ま、ざっくり内容としては、カフェでウチらが聞いた通りやねんけど、途中から説明してる人がテンション上がり出してさ。“一人に言ったら、その人が別の人に言うと思わない?で、次々どんどん伝わって、―って考えたら、どんどん自分に紹介料と売り上げの利益が入るから、素晴らしいでしょ”だってさ。この時点で、自分の利益のことしか考えてないし、そのために誰かを会員にするとか、―自分たちの懐が潤えば、それでいい、って考えがバレバレ」
そう言って、彼女はスマホを取り出し、録音再生ボタンを押す。
<この“サプリ”一人で買うと、大変ですよ。一般の方からしたら、ちょっと高!って思いますからね。大丈夫です、そこを我々が、―>
俺はじっと聞いていたが、途中から聞いていられなくなり、唯には再生を止めるよう促した。
「これ、教授には持っていくよね?」
「ああ、持っていく。というか、もう全国にこれに似たようなもんが出回ってるっぽい」
「やっぱりそうなんだね」
「とりあえず、行くか」
俺は片付けと、洗い物をするべく立ち上がったが、唯は少し不満げな表情であった。
「行くってもう深夜だし!てか車出すんウチやねんけども」
俺は、そういった肝心な事は、すっぽり忘れていたので、慌てて唯に謝り、明日にしようと彼女に再提案を持ち掛けた。唯は軽く笑って、「かめへんかめへん」とおどけて見せた。
「いいよ、出すよ車。明日ウチは風邪引いたことにする。あとはまあ、今はこの問題が最優先だし」
そんな簡単に事を決めてしまっていいのか、と内心俺は呆れたが、唯はそれをも見透かすように言葉を重ねる。
「会社に問い詰められたら、教授に協力を頼まれてる、って答えればいいだけだし。会社のみんなも、これには反論できないっしょ」
時折、唯の発案には驚かされてきたが、今回のそれは、俺の中では最大かもしれなかった。
「洗い物ありがとう、片づけてくれてる間に準備してくる」
俺は洗い物を済ませ、唯は身支度を整え、お互いが準備万端になったところで、車に乗り込んだ。毎度毎度ごめんな、と言うと、向こうはもう気にしていなかった様で、「何のこと?」と聞き返してきた。数秒の間が空いた後、「ああ」と唯は思い出したかのように言ったかと思えば、
「将馬謝ってばっかじゃんか。これからは、“ごめん”より、“ありがとう”の言う回数が増える人生にせなあかんで」
とさらっとこんなアドバイスを俺にした。
何故かこの言葉は、俺の心に槍を突き立てられたかのように、グサッと来た。
「とりあえず、向かうで兄やん」
「“兄やん“やめい」
いつものやりとりに戻ったところで、唯は車を発進させた。
「なるほど、そんな感じか」
ひとしきり録音を聞き終えた祐三郎は、ボソッと呟いた。
「にしてもよく録音を残してくれた。でかしたな」
「どういたしまして」唯は、いつもに増して、得意げに答える。
「ちなみに、この会社と取引をした張本人、―前回私たちが見た動画に映っていた、この研究所所属の科学者は覚えてるな?」
唯と俺はコクンと頷いた。
「あいつに聞き出したところ、その会社の社長が持ち掛けた話に、大いに賛同したらしい。ちなみに、会社側からの説明の中では、“サプリ”を自分たちの販売ツール、もしくはビジネスツールとして利用する内容は、なかったそうだ」
祐三郎は頭を抱えた。
「“サプリを世間に広めることについては、お任せを”と聞いたらしい。世間に広まる事=販売されることにもなる、とどうして勘ぐらなかったんやろ」
そういうあんたも、人を見抜く力は弱いんやけども、と俺は一瞬思ったが、この言葉は彼には言わないでおいた。
<教授!戸田教授はいらっしゃいませんか!>
突如入口の内戦を通じて、焦りを滲ました外部からの声が、部屋の中に響き渡った。祐三郎は、ゆったりとした足取りでそちらに向かい、応答した。
「私なら中におる。どないしたんや、そんなおっきい声出して」
<ぜひお耳に入れたいことが、―>
相手が言い終わらないうちに、彼は入口の扉のロックを解除し、研究員を部屋の中へと招いた。
「これを見てほしくて」
彼の持ってきたタブレットには、WEBサイトが表示されており、各口コミが多数見受けられた。
「私は、口コミなど信用せんぞ」
「違うんです、その評価のされ方というか、書き込み内容がおかしいというか」
唯も俺も気になって、彼が持ってきたタブレットを覗き込む。
その口コミには、戸田教授に近づけばいい生活ができるらしいぞ、とか、契約を結べばお金がもらえるらしい、との書き込みが見受けられた。
挙句の果てには、“教授のサプリがほしい方はこちらへ”と書かれたリンクまで張り付けられていた。
「一体どこの情報で、しかも誰があちこちにサプリを蔓延らせてるんや」
「おとん、残念ながらきっかけは、斎藤家と最初に契約を交わしたことと、科学者がウェルコムド会社と契約を結んだことから始まったんやで」
今度は父のスマホに着信が入り、彼はその対応に追われた。数分ほど父は、電話先の相手とやりとりをしていたが、その電話が終わるや否や、今度は血相を変えて自分のPCのキーボードで何かを打ち込み始めた。次の瞬間、部屋の中で沈黙を保っていたモニター画面が立ち上がる。
「おとん、何してるん。いきなりパソコンいじり出して」
「ええか、みんな。このニュースよう見とけよ」
モニターにはニュースが映し出されていた。画面の中では、男女二人組がインタビューを受けている様子であった。ただ、その内容が通常のそれとは異なっていた。
<はい。あのサプリを続けたおかげで、ある日目覚めたら彼女と入れ替わってました>
まずは女性が口を開いた。続いて、男性がそのあとのストーリーを語る。
<おかげで色々なことがわかりましたよ。ホントに、やっぱりエロかったんだね、ユウトは>
男性の表情から察するに、その彼はまんざらでもない雰囲気が覗えた。また別の画面に切り替わり、今度は別の二人組が映し出され、先ほどと同様のインタビューを受けた。そうして、順番に町中の、入れ替わった男女二人組のインタビューが続けられていった。そうして、最後に、一番最初に俺たちが見たカップルに画面が戻った。
<そりゃ、最初は、違和感は少しはありましたけど。でも入れ替わる前までと同じ量、時間を費やすと元の体に戻るという説明だったので安心できました>
父親はまた、祐三郎としての威厳をすっかり失くしていた。
「思った以上に、全国に広まってたね」
唯は、誰に話しかけるでもなく、ポツンと言った。
「そりゃ、この時代、誰かがSNS上で何か言ったら、みんなに一気に広まってまうやろ」
この時、俺のスマホの方に着信が入り、Lineのアイコンからして、俺の体であるかすみんからだと解った。
「どした?」
<どした、じゃないんだって!色々と大変なことになってるよ>
何と、戸田教授のサプリの話をした、向こうの俺の友人が、別の友人から「マルチまがい商法」だの、「ねずみ講」だの言われたらしい。
<戸田教授のサプリ、ニュースになってるくらい有名やん、って軽く話題に触れたらしいんだよね。そしたら、“何?俺にサプリ売るつもりなん?お前、そのつもりで俺に会おう言うたん”ってかえされたらしいよ>
俺は思わず唯を見た。彼女も何かを悟ったらしく、こちらに歩み寄ってくる。俺は、スマホをスピーカーモードにしてかすみんに話を続ける。
「かすみん。他に似たような事を言ってる人おった?」
<実際に聞いたのはその時だけ。でもさ、動画で似たような内容を、喋ってる人はいたよ。私、何気なく調べてみたんだ。そしたら、これは流石にもう収取がつかなくなってるんじゃないかなって感じてさ。“戸田教授のサプリの、本当はヤバかった裏話”で調べてみて>
俺は、とある動画サイトの方から、かすみんの言われた通りのタイトルで検索をかけてみた。成程、似たようなタイトルの動画が多数出てくる。
「わかった、かすみん。ありがとう。後で見てみる」
<うん、本当にヤバいから、いろんな意味で。私は別に、何とも思わなかったから良かったけど、―でも動画はよく見てね、他のも合わせて>
あと、明日は多分、この件で俺がバタバタだろうから、無理に会わなくていいよ、とかすみんは付け足した。
<じゃあ、また何かあったら連絡するから>
そう言って、かすみんは電話を切った。向こうは向こうで、随分複雑になっているようである。
「将馬、何ちゃっかりデートの約束してんねん」
唯は、肘でつんつんと俺の脇腹を突ついて、油断も隙もないヤツ、と茶々を入れた。
「いやそんなんちゃうから!…にしてもこの状況はよくないなあ」
俺は、いつもの唯のぺースに巻き込まれながらもボソッと呟いた。
「確かに。これは、とんでもなくまずい事になったよ」
唯も、先ほどのまでの悪戯顔をしていたのが嘘のように、緊張の色をその顔に滲ませた。
俺たちは唯の車に戻ることにし、先程かすみんの言っていた動画を見ることにした。かすみんの車のナビには、そのナビ機能とは別に、テレビや動画などをBluetoothを通して映像を映し出せる機能も備わっているらしかった。言われてみれば、彼女の車のナビは、通常のそれとは確かに、一回り大きいように見える。これが高級車と一般車の違いというものだろうか。
「将馬、さっき斎藤さんが言ってた動画タイトル、悪いんだけど、もう一回教えてくれない?」
「えーと、戸田教授のサプリの、本当はヤバかった裏話、やで」
唯は「サンキュ」と言って、自分のスマホで動画を検索し、車のナビに動画を映し出す。
かすみんに勧められた動画は一人のトーク動画であったが、十分ほどの内容であった。しかし最近流行りのワードがタイトルに入っていることもあって、視聴回数は十万を軽く超えていた。ある意味、目の付け所は流石だと感じた。
「じゃ、最初から流すよ」
<さて、今回僕が皆さまにお届けするのは、何と何と、今流行りに流行っている、―>
動画配信者がよくする出だしから始まったその動画の内容は、以下の通りであった。
まずは俺の父親が開発した、サプリの効果や概要。入れ替わった体が元に戻る方法など、サプリについてよく調べ上げられた要素が詰まっていた。
<問題は、これは実際に僕が体験したことですが、ここからですよ、皆さん、本当にヤバいのは>
彼が主張するに、今まであまり交流を全く持たない、何なら全くと言っていい程、話したことがない元会社の上司から、突然食事の誘いが来たそうある。何か緊急の出来事でもあったのか、と思った彼は行くことにしたのだが、カフェでの待ち合わせだったそうである。軽く改めて自己紹介と、雑談をしばらくしたのちに、いよいよ本題に移ったそうである。
以下は、彼の話を元に、その状況を具体化したものである。
(二日前の夕刻十八時頃)
「ねえ、ところで今、戸田教授の“サプリ”流行ってるじゃん?あれどう思う?」
「まさか漫画の世界の話を、現実で体験できると誰も思ってないですからね。本当に凄いと思います」
上司であるみどり先輩、とはいえ、会社では全く交流を持たなかった女先輩と話す僕は、動画配信者のトミーという。今回は、二日前に起こった出来事を、そのままお伝えしよう。
今僕は、このみどり先輩に、自分が“サプリ”に対して持っている印象を伝えた所である。彼女は、「そっか」とだけ言って、今度は自分の話を始めた。
「私もね、教授のサプリの可能性に気づいて、もっといろんな人に知ってほしい、って活動してる会社に出会ったのね。普通だったら、会社に入ってそこに勤務するだけだけど、そうじゃなくて、自分の生活も豊かになるし、時間も縛られずに、権利として収入が入るし」
こんな話を唐突にされても、相手には悪いが、僕は話の展開が読めない。それを読み取ってなのか、単なる一連の流れなのか、みどり先輩は一枚の紙を持ち出した。
「無理に自分でこの仕事を、全部する必要はないんだ。サプリを試したいなあ、ビジネス的に広めていきたいなあ、って人を紹介してくれたら、私らが対応するし。ただせっかく紹介してくれたから、トミーには、―」
目の前の紙に丸が三つ書かれ、それが線で結ばれた。そしてAさん、Bさん、Cさん、紹介料、そして数十万する会員費。この四つのワードが彼女の口から飛び出てきたときには、もうお決まりのパターンとしか僕は見ていなかった。
「それってマルチまがい商法ですよね」
我慢できなくなった僕は、気付けばそう彼女に問いかけていた。
「違法だし、そんな犯罪に手を染めているような組織に与するつもりはありません」
「そんなのと一緒にしないで。これはMLMなのだから」
「その意味、分かって言ってるんですか?」
「ええ、もちろん」みどり先輩は、少したじろいだ様に見えた。
「では教えてください。MLMとは何ですか?」
「それは…」この時、次の言葉が発されるまでに、間があったのを僕は見逃さない。「アメリカが発祥の最新合法ビジネスだよ」
「前々からありましたよ。色々知識も浅そうだし、何ですかこの時間は。帰らせていただきます」
<ここまで来れば、皆さん分かったでしょう。これはもうマルチまがいですよ、勧誘ですよ。こんな風に、人を巻き込んで犯罪に誘い込むような組織連中ですよ、このサプリ開発会社は。みなさんも騙されないように気を付けてくださいね。これが、戸田教授とかいうヤツが考えた、サプリの本当の裏の顔です。それでは>
動画はここで終わっていた。その動画のコメント欄にも、「教授最低」「結局マルチかよ」などと書かれたものが多数を占めた。「私も買わされかけた、騙されそうになった」などど言った文句もかかり残されていた。
ほかの動画も色々と見て回ったのだが、どれも内容は似たようなものであった。最後の締めくくりとしては、「違法として、取り締まるべき」などと訴えているものまであった。
「こんなのどうしようもないよ」唯はギリ、と唇を噛んだ。
「おとんのところへ引き返そう。これは対応せなあかん現実やし」
唯も同感し、二人揃って車を出た。
一度入っていた祐三郎の研究室へは戻ることが容易であった。そこに居るはずの父親は、最後に見た時にも増して、負のオーラを激しく漂わせながら椅子にへばっていた。
「将馬、聞いてくれ。私の夢が、目指そうとした未来が、終わってしもうた」
何があったのかを問い糺す前に、彼はその内容を教えてくれた。
「一番最初に契約を交わし、今回世間に私のサプリを販売するきっかけとなった、ウェルコムド会社。あそこがとんずらした」
「とんずらした、ってどういうこと?」唯が俺の代わりに尋ねる。
「もうあの会社は存在せえへんねん!利益を得るだけ得て、こちらの言い分はまるで聞かずに、自分たちの立場が危うくなった瞬間に消えやがった」
その会社はとは、もう連絡が取れず、ましてや社長すらもコンタクトが取れないという。
「私個人としても、この会社を色々探ってみたんや。ほんなら、この会社の実態はどんなんやったと思う?」
父曰く、その会社を調査するために、知り合いに頼んで専門の調査団を結成し、先程の数分の間に調べ上げたのだそうである。父には、こういった顔の広さという面も、持ち合わせているのだ。
結果、判明したことが幾つかあるという。まず、この会社は、今回の件に限らず、数々の商品を扱い、マルチまがい商法の仕組みを作って、利益が出て、世間からバッシングが食らいそうなタイミングで会社倒産。名を変え、扱う商品も変え、また自分たちの利益のためだけに活動しているような組織、というところであった。それが今回、たまたまウェルコムド会社だった訳で、上手く法律の網をすり抜けてきたような、所謂常習犯である。
「今これに似た、他のマルチまがい会社が、私のサプリをビジネスのいいツールとして使っているのだろう。いずれかは、このウェルコムド会社みたいに消滅するところも増えるぞ」
研究室の電話の方が鳴り、祐三郎はその対応に追われた。その会話中、父親のかなり切羽詰まった怒鳴り声が部屋の中に響き渡り、俺たちは非常事態が起きたのだと悟った。
電話を切った後、くるりとこちらを向いた祐三郎の顔は、青ざめていた。
力なくリモコンを取り、モニターをつけると、ニュースが流れ始める。
<先程、深夜一時四十五分を持ちまして、ある株式会社が、詐欺容疑の疑いで書類送検されました>
淡々と告げるニュースキャスターの画面が切り替わり、今度は会社とその名が表示された。
<こちらの会社は、所謂マルチまがい商法で顧客を集め、「自分たちにも利益が出るチャンスがある」と謳い、活動してきました。しかし実際にこちらの会社で会員だった女性から、総額五百万相当を会社に振り込ませていたことが発覚したことから、同様の被害を受けていた他の会員たちも声を上げ、警察は、こちらの会社への家宅捜索に踏み切りました>
これが社長命令で行われていたそうで、この社長は、事情徴収を受けているらしい。ついでにこのニュースでは、この会社が扱うメインの商品が、父親のサプリだったこともついでに報道された。
「この会社は、」父親は絞り出すように言った。
「信用のある会社と言って、別の研究員が契約を結んだ会社やねん。私も彼を信用してたから、特に疑わなかったのだが、まさかこんなことになるとは」
俺はもう我慢ならなくなってきて、祐三郎のところへ歩み寄ろうとしたが、唯に行く手を阻まれた。
「その研究員、ここに呼べますか?」唯は、俺の進路を遮ったまま父親に聞いた。
「ああ、すぐ呼べる。ちょっと待ってな」
裕三郎はスマホを取り出し、それを耳にあてがい、部屋の中をうろうろした。
「駄目だよ。何となく言いたいことはわかるけど、それは研究員と喋ってからにしてよ」
唯は相変わらず俺の行く手を阻んだまま、こう俺に言った。そうこうしているうちに、呼び出された例の研究員が室内に入ってきた。
「よう来てくれた。こちらは東条といって、私の中で、一番信頼が置けるヤツや。何事にも熱心で、素直にアドバイスも聞けるし、何よりほんまにいいやつで、それで、―」
「騙されそう」
俺は父の言葉を遮った。彼には、この言葉を受けるとは一切想像していなかったと見えて、あんぐり口を開けている。
「確かに真面目そうなのはわかるけど、他人に振り回されそう。もし東条さんがウチのとこに来て、自分で契約できました、とか、一緒にこの仕事しよって言われても、今のままじゃあんまり気乗りせえへんかなあ。申し訳ないけど」
後の言葉は、唯が続けた。祐三郎は何とも言えない表情になったまま、感情をむき出しにしてしまった。
「何やお前ら。私の味方ちゃうかったんか。私の人選ミスやって言いたいんか!」
「その通りです」この時ほど、俺は唯にぞっとした時は他になかった。
「散々私の近くにいておいて、結局言いたかったのは、私に対しての非難か!それを言いたかったんやな!とうとうお前らも本性表しやがって」
「いや、本性表したのはあんたの方でしょ」
唯は教授の方へと近づいていった。
「何やお前。まだ私に言い足りないことでもあるのか。サプリか。金か。何がお望みだ、答えろ。非難するだけなら、とっとと受け取るもんを受け取って、去ね!私はお前らに時間を割くべきではなかった、だからこうなった!変な会社と契約させられたのも、どうせお前らの差し金だろう、そうやろ!」
「言いたいことは言い終わった?」
唯は、ある程度の距離を保って、俺の父親の前に立ち止まった。
「まだあるぞ!お前らがここに来てから、トラブルばっかや。今までこんなことなかったのにな。お前らが現れたせいで、―」
「そうやって他人のせいにしてきて、自分は悪くない、ってスタンス、見苦しすぎ」
唯はもう遠慮する、というものを家に置き忘れたのではないか、と思うほどズバズバ父親に言った。普段の唯からは、想像もつかない光景を、今俺は目の当たりにしている。
「戸田教授。自分がそんな未熟やから、自分の利益しか考えないヤツが集まってきたり、人を見抜く力が弱かったりすんねん」
時々混ざる彼女の関西弁が、迫力を増して俺には聞こえた。
「もうはっきり言っとく。あんたのその思考が生んだ結果がこれ。研究とかビジネスとかより前に」
「思考?何で思考の話が今関係あるんや」
「だから、あんたの思考がまだ未熟。誰かを引っ張っていく立場としては、まだまだ勉強と自分自身の変化と成長が必要、ってこと!ややこしい人に限って、毎年六百万渡したり、もっとややこしい奴を引き寄せたり、その時点で駄目やねん」
当たり前やけど、これはウチにも言えることやけどね、と唯は付け足した。
「でもあんたが引き起こした結果を見てみ?今のあんたの判断と思考で物事を進めると、こうなるってことだよ。そこの改善と工夫、誰といるべきかを学び直さないとね」
「何を偉そうに言うてくれてんねん」
尚も言い返してくる俺の父親に、唯ははあ、とため息をついた。
「今のあんたには何言ってもあかんっぽいね。でも本気で変える努力をしないと、また今回みたいな事を繰り返すよ」
唯が言い終わるか終わらないかのうちに、研究室の扉が開かれ、スーツ姿の連中がぞろぞろと「中に入ってきた。祐三郎はただただ慌てふためいていたが、やがてその連中の一人が、彼の前に一歩踏み出し、祐三郎に告げる。
「戸田祐三郎教授。こちらの施設に対する処分が下りました。あなたが発明したサプリについては、我々も理解はしているつもりです」
スーツ男が言うには、この施設が行政処分を受けたこと、これまでに入れ替わった者同士が元の体に戻るまでには時間を要するのは承知のため、全国民が元の生活に戻るまでは、施設は運営される。しかし、今後は国の管理下に行かれるので、戸田教授の権利は剥奪され、全国民への対処が完了され次第、彼の研究施設は封鎖されるとのことだった。
「尚、戸田教授には、事情聴取としまして、我々とご同行願います」
「私の十五年と、夢をつめた内容やったのに…」
「思考と判断が未熟なまんま進んだ結果だよ。今は、現実を受け入れるしかないよ。一から学び直しが、あんたには必要だから」
先ほどもそうだが、こんなことをさらっと言ってのける唯に、俺は格好良さですら覚え始めていた。
「いや、やり直すには遅すぎるし、学び直すにも年齢が行き過ぎた。お前にはまた、何か言われるだろうが、それは今の私にはできへんことや。将馬、とにかく私みたいになるんちゃうぞ」
そう言い残して、父親はスーツ姿の連中と部屋を去ろうとする。その彼の背中は、酷く小さく見えた。その後姿を見送っていると、急に彼がくるっとこちらを向いた。
「最後に言いそびれた。私は、お前たちの反面教師になれたから、それで満足や。じゃあな」
「…何最後に強がってくれてんねん」
俺は、これまで閉ざしていた口をようやく開いた。この一連の出来事の最中、俺は記憶の中の父親を探っていた。そういえば、彼は何度も母に反対を食らおうが、近所からの縁切りを受けようが、“自分には夢がある”と言ってきかなかったのを俺は思い出した。あれこれ考えを巡らせながら父親の背中を眺めていたはずであったが、次第にその背中が滲んできた。誰かが視界の隅で動いた気がしたが、もう視界がクリアに見えない程に滲んでいた為に解らなかった。それが唯だと気づいた頃には、俺はもう彼女の両腕の中に包まれていた。
「ちょ、唯、何してんねん」
「ーよく、頑張ったね」
唯の手が俺の頭に回ってぎゅっとされた時にはもう堪らなくなり、俺は唯の腕の中で涙した。
しばらくそうしていると、再び扉が開き、声の主から察するに、斎藤かすみの母が乗り込んできた様子であった。俺はというと、恥ずかしながら涙に両頬を濡らしまくっていた為に、顔を上げることができなかった。
「おい戸田!どこにいる戸田、出てきやがれ!私を騙しやがって。こうなったのも全てお前のせいだからな!何が不正受給だ、お前が渡すと言ってきた癖に返せってなんだ」
「この施設は国家管理になったのと、会社利益を個人に渡したことになるから、返して当然。しかのその利益が、不正容疑のものなら、返して当然だよ、残念ながら」
唯は、俺が声を上げることができないことを汲み取ってか、代わりに答えた。
「小娘が。いい加減なことを言うんじゃない。まず国家管理などどいう話は出ていない時点で嘘だ。あと、あの利益は私のものだ。早く戸田を出せ。それに私の前でイチャつくな気持ち悪い」
「あっそ。じゃ奥さんの後ろについてきた警察官には、どう説明するの」
この小娘が、と言いかけた斎藤かすみの母親の両腕には、手錠がかけられてしまった。
「斎藤真理子。詐欺容疑の疑いで逮捕します」
「は?私がいつ詐欺をしたっていうんだ!」
「後のことは、署にて詳細をお伺いいたします」
じたばたする斎藤真理子は、警官二人によって連行されてしまった。彼女にも、色々と事情がありそうだったが、俺はそんな事をにする余裕は残されていなかった。
「将馬、結果はあれだったけど、全部終わったよ」
心なしか、唯のその台詞が悲しそうな響きを持って、俺に聞こえた。
「―落ち着いた?」
帰り際、唯は俺に気遣って声をかけ、「うん、まあ」と俺は気の無い返事をした。
「それで、元の体にはいつ戻りそうなの?」
「早くて三、四か月って言ってたから、それぐらいか、もっとかかると思う」
「そっか、とりあえずは元に戻るってことやんね」
この時俺は、唯が、いつになく優しい表情になっている事に気づかされた。
「これでやっと元の体の、ちゃんとした将馬に会えるってことか」
「何て?」
珍しく小声すぎて全く聞こえなかったため、唯に聞き返すと、「何でもない」と隠されてしまった。
車に乗り込む寸前、俺は思い出したように唯に尋ねる。
「今更やけど、何で唯は、こんな車に乗れたり、あんな思考のことやったり、いい生活ができるようになってるん。前にちらっと俺に言うてた結果の話あるやん、あれ」
「ああ、ウチが前に話した、過去頑張ったことが、今に結果がでてるって話?」
唯は車のエンジンをかけながら言った。「そういや、そんな話もしたな」
「おとんは今回あんなんなったけど、唯はそうじゃなさそうやから」
「ウチも人のことは言われへんで、ちゃんとできてるかって言われたら、まだまだだから」
でも、と彼女は言葉を紡いだ。
「この人なら信じていいかも、って思える人に出会って、そこからかな、ウチも自分の人生を帰っるようになったのは」
会ってみる?と唯は悪戯ぽく笑い、俺は思わず即座に「うん」と言ってしまった。
「じゃ、またこれは後日ってことで。あと、元の体に戻ったら、―まあ、これは元に戻ってから言うわ」
またしても後半ははぐらかされてしまった。
数か月たって、俺は無事に元の体に戻ることができ、かすみんも大いに喜んでいた。彼女は引き続き大阪で生活することを選択し、俺は東京で生活することを選択した。後日、唯の言っていた人物と会うことになった。その人物と出会いを果たしたことで、そのしばらくの後には、俺は自分で会社を興すことに成功し、皆との関係も良好なまま、自分の人生を変えることに成功した。もちろんこれは数年後のことではあるが、―。
「じゃ、行ってくるわ」
俺は玄関先で、中に居る唯に声をかけた。新しく始めるイベントや会社の打ち合わせなどが本日の予定である。
中で唯は、彼女自身のするべきことをしていたが、その作業を中断して玄関先まで姿を現した。
「行ってら。頑張ってね」
「しかし唯と出会ってなかったら、どんな人生になってたか、って今思うとぞっとするわ」
「突然何?」そんな事を言いつつ、彼女のその言葉には棘はなかった。
「もうほんまに色んな事がありすぎて。でもほんまに感謝してる。ありがとな」
「どういたしまして」唯はまんざらでも無さ気であった。
「こちらこそだよ。将馬と結婚するまでの関係になるとは思ってなかったけど、それで本間によかった。ウチ当初、斎藤さんと将馬がくっつくって思ってたから」
唯は笑ってそう答えた。
「今日は深夜超えるじゃんね?帰ってくるの」
「そうやなあ、超えるなあ」
「じゃあさ、明日一日空けといて、明日になったらわかる」
相変わらず唯は楽しげであった。お互いに挨拶を済ました後、俺はこれから先、未来への自分に起こる事への期待を胸に家を後にするのであった。
この作品を読んでいただいてありがとうございました!
いや、実は仕事の待機時間が長すぎて、この時間がもったいないと感じて、突然小説を書こう!と思って書き始めました(笑)
実はyoutube,tiktokもやっているのですが、ちょっと新しいことを始めようと思ったのがきっかけです。ストーリーが長くて、途中でやめようかと思ったりもしましたが、せっかく書き始めたんだから、と最後まで書くことができました。
この小説で言いたかったのは、自分で何かしたい、始めたい、と感じているそこのあなたに向けて、なのです。熱意をもって行動するのは、むしろ素晴らしいことです。
でも、誰と一緒に居るか、どの環境に自分が触れるかによって人生が転落してしまったり、やりたいことが思うようにできなかったり。そんな事になってしまいます。
自分が変われば、周りも自然と自分についてきてくれるようになる。やりたいゴールを決めて、そこから誰といるべきか、どこで学べばいいのか。その知識と環境を知り、きちんと土台を作ったうえで、行動する。
例えば、動画をこれから始めて、登録者数を1000人まで伸ばしたい!と口では言っておきながら、ただコタツに入って、漫画見て、テレビを見て、気が付けば夕方。。。喋るのがあまり得意でないから、という理由をつけて、今日はやめよう、明日にしようとずるずる予定がずれていく。そうこうしているうちに、動画を作ろう!と決めた日から一か月、二か月が経っている。。
すごくわかりますが、せっかく目標を立てたのに、これでは、その目標を達成するのはいつになることやら。。あなたが実は、本気モードになっていないのと、本気になれるようなキッカケが、まだなかったのです。
そのキッカケが見つかり、本気でその目標を目指すなら、登録者が1000人、5000人を超えるような方々とも交流できるチャンスが必ずありますし、作った動画がたまたまバズるようなミラクルも起こるわけです。必ずその目標を立てた自分にもなれる上に、もっと素晴らしい方との出会いもあるのです。いつかこうなる日が必ずやってくる、と信じて、続けることが大事なのです。
今、動画でたとえ話を出しましたが、これは動画に限らず、あなたのやりたいと決めたことすべてに当てはまる事なのです。
こんなことを書いてしまいましたが、僕自身もあなたと同じく勉強中の身です。さらにもっと結果が出るように行動していきますので、お互いに頑張りましょう!
改めて、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました!




