鏡
生きやすくなりたい、それは、大抵の人の切実な願いだろう。僕も彼もそれに漏れず、生きやすくなりたいという願いに執着していた。
それを変えようとしない僕らはジャンクフードを喰らう。彼、Kとしよう。Kはアパートの住人で、大学生だ。
昼間からベランダに出てお酒を飲んでいるから、おそらく学校へは通っていない。ベランダでの乾杯が僕らの始まりだった。
その頃学校に通わなくなっていた僕はある時、初めて昼間にお酒を飲んだ。なんとなく街を眺めて感傷に浸りたかったのだと思う。ベランダに出て、ちびちび缶ビールをすすっていた。
昼間の世界はやけに活発で、斜向いの家の二階の窓から、子供が遊んでいるのが見えた。ボールを使っているのだろう、下を向きながら何かを追いかけている。
ここらへんは車の通りも多くて、車の音を意識するとうるさく感じられる。いつもは耳に入らないのだが、うるさく感じたかった。
人の営みをベランダから見ていると、自分の不必要さを社会に突きつけられているようだった。あるいは、そうかもしれないが。
そんなことをして酔いが回ってきた頃、Kが現れた。ダボダボのTシャツを着ていて、片手に缶ビールを持つ姿はあまりにその時の僕にそっくりで、Kもそう思ったのか、ベランダに寂れた笑い声が響いた。
乾杯をして、部屋で酒を飲み交わした。それからは、どっちからともなく酒とつまみを持って部屋で昼間から飲み、他愛もない話をしていた。
だが今日は違った。
Kが今日は話があるからと、酒を持ってこずに駅前のハンバーガーショップで買い込んできた。これほど真剣なKの声色を聞くのは初めてだった。
静かな部屋だった。
缶コーヒーと缶ビールの空き缶。吸い殻の溢れそうな灰皿。中途半端に読んだ本。カップラーメンのゴミ。点々と存在するそれらは、実に健全な生活とは離れているもので、不健全な僕らには正しい部屋だ。
Kは買い込んだハンバーガーを紙袋から取り出して、丁寧に包装を解いて、ハンバーガーを噛りながら他の袋をあさり始めた。ポテトとハンバーガーと紙袋の、チープな匂い。かさかさとビニール袋が喧しく擦れる。
Kは原稿用紙を自慢げに取り出してテーブルの上においた。僕はKがハンバーガーを飲み込むのを確認してから聞いた。
「そんな物買ってどうするんだ?まさかハンバーガーの感想を書くわけじゃないだろ?」
「馬鹿、ちげぇよ。まぁ見てろって。」
そう言ってKは部屋の隅にあったスタンドの中からカラカラと鉛筆を取り出して原稿用紙に向き合った。
その時僕は足元にある原稿用紙の入っていたビニール袋に目を向けていた。薄っすらと中身が透けて見えていて、なにが入っているかはすぐに分かった。蛇のような形相で茶色くとぐろを巻くそれは、縄だった。
「もうわかるだろ?遺書だよ遺書。俺はもう厭なんだ。」
その言葉に僕はさして驚かなかった。なぜならこの前からKはこの世なんてと愚痴を言っていたのだ。そして死にたい。とも。
僕らはこれまで、生きづらいとだけ言って慰めあっていた。生きづらいという言葉にはあくまで自分の内に原因を求めるもので、けっして厭世的な考えではなかった。
Kはついに諦めたのだった。全ての理由をこの世に押し付けてこの世を去ろうとしていた。生きる勇気が沸かなかったのだ。
だからこそ僕にはKに疑問があった。
「厭なんだろう、なんで遺書を書くんだい?厭世主義ならこの世に残すものもないだろうに。」
「違げぇよ、厭だから残すんだよ。俺はな、勝ちたいんだよ。最後までこの社会と手を取り合わずに死んで行くからな、一方的に勝つんだよ、俺は、遺書によって。」
僕はその言葉が支離滅裂なことに気づいていたが、なぜだかその言葉にある凄みに気圧され、閉口していた。僕の様子をみてKは続ける。
「俺は勝ち逃げするんだよ。エッセイとか、そういうのでも良い。遺書が手っ取り早かっただけだ。ともかく俺は俺をこの世に存在させて死ぬんだ。俺は逃げるんだよ、この世に俺を居させるまま去るんだ。こんな厭世に俺の意志に関係なく存在し続ける俺がいるんだ。それは俺が世の中に勝ったってことになるんだ。分かるか?」
「メチャクチャなことを言うね、分からないよ、でも分かるよ。怖いんだろうね。僕も君も。」
僕がそう言うとKは黙りこくってしまい、そのまま原稿用紙に手を付けた。部屋には沈黙が流れる。ポテトを食べながら原稿用紙に鉛筆で書きなぐる。原稿用紙が濁らせる鉛筆とテーブルの衝突音。周期的にかさりと音をたてるポテト。
しばらくKの手元をじっと見ていた。
テーブルには原稿用紙が溜まっていき、やがてテーブルの外に放りだされるようになっていた。
やっと区切りがついたのか、手を組み、天井に伸ばして背を伸ばした。Kは憑き物が落ちたような様子で、立ち上がりベランダへと出ていった。
僕もともにベランダにでた。
すでに日は落ちており、街には点々と明かりがついている。夜のつれる冷ややかな風が髪や服を波立たせる。
斜向いの家の窓はカーテンに遮られた光が漏れ出ていた。
ただ、街の夜を眺めながらKは言った。
「俺はなぁ、生まれるべきじゃなかったんだよ。それを聞いて、そんなことを言わないで、なんて言葉はそういうやつには届かないし、届いてたらこんだけ卑屈にならないんだ。」
Kは僕の反応を待たずに続ける。
「遺書を書いてる時な、一層死にたくなっていったんだ。自分の醜さを見せられてるみたいでさぁ。一人、こんだけ広い世界の中で一人、鉛筆を持って遺書を綴る男がいるんだ。一瞬だけ、書いてる時世界の中心は俺だと勘違いした、俺は世界にしがみついて踊ってんだ。そんな男が一人、一本の鉛筆で自分を残すんだ。だけどよぉ、結局こんな感情誰かに淘汰された感情なんだよ、こんだけ人間いれば俺みたいな奴なんてわんさかいるわけで、いままでどんだけの鉛筆が手からこぼれ落ちていったのか。そんな事を考えると余計怖くなって死にたくなるんだ。」
Kの目はどこにも向いていなかった。見ているようで見えていない、そんな目をしていた。
「さて、俺は消えるよ。全部この世のせいだ。人の営みが俺を殺すんだ。決して俺が悪いんじゃない。社会が俺を見るんだよ。気持ち悪いくらいに。誰でもない誰かが俺を監視してるんだ。そんななかで生きていたくないよ。俺は。俺は、怖いよ…。なんで平然としてられるんだよ!お前らは!騙して騙されて。気味がわりぃよ…」
「じゃあな。」
そう言って僕は部屋に戻り、縄に輪っかを作り、天井から吊るされる形にした。
古本を積み上げ、慎重に上り、縄を首にかける。首に合うように縄を調節する。
古本を蹴り飛ばした。古本がものの散らかった部屋に追加される。縄は僕の首をめり込ませ、蹴り飛ばした衝撃で首から、頚椎の、折れる、音が。
僕の、壮大な、独り言。