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焦熱  作者: 天水しあ
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それは白く、しなやかな指先だった。


「え?」


 漏れた声に、声が重なった。


 目を横に流すと、すぐそこに白い横顔があった。


 右手は彼の額に、左手は彼の襟元にまさに触れようとしているところだった。

 こちらに向いたのは、瓜実顔の美しい女――体温が伝わってきそうなほど間近にあるふっくらとした唇に、図らずも胸が高鳴る。

 何を考えているんだ! 朱有は無作法な自分を、慌てて叱責する。


 そうか。濡れた衣を脱がせてくれようとしたんだ……自らに言い聞かせるように、朱有は思う。


 「ありがとう。助けてくれて」


 掠れた声でそう言うと、「え?」とまたも困惑の声。

 見開かれた杏型の目と、僅かに開いた口元。村の女にはない、艶のある美しさがあった。

 彼女はにわかに目を細め、


「よかった。雨に打たれてきたようだったから心配したけど、大丈夫みたいね」

 そう言うと、ほっそりとした指をすぐに収め、身を引いて、朱有の傍らに座した。つられるように朱有も起き上がる。


 雨は上がったらしく、壁板や扉から漏れ入る陽光で中は明るい。朱有はゆっくりと、辺りを見回した。

 外観はいかにも廃屋という様子だったが、中は床抜けや壁割れなどもなければ、蜘蛛の巣や埃なども見られず、奇麗だった、

 部屋の片隅が僅かに湿ってはいるものの、ほとんどが乾いており、奥には古びた衾らしきものさえある。そういえば、山に修行僧が結んでいた庵があると聞いたけれど、ここのことだろうか? 

 だけどとっくの昔に僧は姿を消したはず――だのに、ここは最近まで誰か住んでいたかのようだ。まさかこの娘は、彼の身内なのか? 


「僕はふもとの村から来た、朱有と言う。君は? 今まで会ったことはないと思うのだけれど、他の村から来たの?」

 起き抜けで動かない口元が、朱有の戸惑いをごまかしてくれた。


 すると――まるで春のような優しい笑みが、たちまちに陰りを見せた。

 僅かに口元を噛み、やがて彼女は語り始めた。


 彼女は葉佳といい、ふた山向こうにある村の生まれだという。

 母は若くして亡くなり、その後やってきた後妻からは疎まれ、身の置き所のない日々だった。

 そんな折、村を通りかかった商人と恋に落ち、二人で村を出た。だがその男は、実は女衒だった。彼女の孤独を見抜き、心の隙間に付け入ることで、その心を奪ったのだ。

「この山に入ったとき、私は重い病にかかって動けなくなってしまったの。すると男は、この廃屋に私を投げ捨てていった。それはもう、何のためらいもなく。――本当に、馬鹿ね。そんな酷い男だとも知らずに」

 彼女はそこまで言うと、うっすらと笑う。潤んだ目を隠すように面を伏せる彼女を、朱有は痛ましく思った。どれだけ悲しかったのだろうと思うと胸が詰まる。

 それでもどうにか口にした慰めの言葉は、「なんて気の毒な……」


 それ以上は声にならなかった。あとは嗚咽に呑み込まれたからだ。


 せめて声だけは抑えようと口元を覆った右手に、そっと白い手が添えられた。手の主を見ると、葉佳がこちらに目を向けていた。純粋に自分を気遣う目だ。朱有はどうにか声を絞り出し、


「君の気持ち、分かる。僕も母を亡くして、継母が来て……、おんなじだ」

「そう、だったの……」

「それだけじゃない。僕は殺されそうになった」

「まあ、なんてひどい」

 涙と洟水で濡れた手を、葉佳はさらに力を込めて握る。朱有は頷き、

「この虚しさと悲しさは言葉では言い尽くせない。ただ独りのこの身に優しく声をかける者がいたら、それが悪党だろうと鬼だろうと、僕だってきっと信じてしまう。だから――君は悪くない」

 言い終わる前に、そっと細い身体が寄り添ってきた。


「きっと似たもの同士なのね、私たち」

「そうか。――そうだね」


 頷くと、新たな雫が頬を伝い落ちた。

 寄りかかる柔らかな身体を感じる。触れ合うところがじんわりと温かい。それは冷えた心も解かしていくようだった。


「じゃあ――ずうっと一緒にいてくれる?」


 それは子どもが何かをねだるような、たどたどしくも甘い声。朱有は頷き、


「僕でいいなら、いくらでも」


 葉佳に笑いかけ、朱有は重ねられた手を強く握り返した。



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