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足を引きずるように森を進んで、どれくらいの時間が経っただろうか。アリスはようやく小さな明かりを見つけた。淡く灯るオレンジ色の光。それはまるで灯台のようで、吸い寄せられるように明かりに近づく。
一歩、また一歩。
進むたびに視界が光に慣れていく。淡い光の輪郭が見え始め、アリスはようやくそれの正体に気が付いた。
光源の正体は窓から漏れる室内光だった。
光に照らされてうっすらと煉瓦造りの見慣れた家が姿を現す。並べられた鉢植え、猫の形のドアノブ、窓の縁に置かれた蛙の置物。
どれもこれも見慣れた存在に息を呑み、逸る気持ちを抑え切れずに駆け出そうとして転んだ。
(レンだ、レンの家だ!)
鉢植えにドアノブ、蛙の置物。
それらはアリスがレンに贈った物だった。彼の家には必要最低限の家具と実験用の道具しかなく殺風景だからと、来訪するたびに持ち込んでいたもの。嬉しそうに受け取ってくれた彼の顔を思い出して、喉がキュッと締め付けられるような感覚に襲われる。捨てないで取っておいてくれたのだと思うと胸が苦しくなった。
もしかしたら、ただ捨てるのが面倒で放置されているだけかもしれない。それでも、もしかしたらと考えずにはいられなかった。
( まだチャンスはありますわ )
壊れそうなほど心臓が速く脈打つ。
今度こそ真正面から拒絶されるかもしれない。怖いけど、でも。
身を起こし、弱気になる自分の胸を強く叩いて喝を入れる。大きく息を吸った。
( これでだめでも、後悔は残らない )
アリスはゆっくりと玄関へと近づき、震える拳で扉を叩いた。
トントン
返事はない。
もう一度。
トントン
「…………レン」
また返事はない。
シンッと辺りは静まり返ったままだ。
緊張と恐怖で呼吸が乱れる。肩が揺れ、逃げ出したくてたまらなくなった。牢屋にいた時よりも、処刑台に登った時なんかよりも怖い。
“お前なんかいらない”って言われるかもしれないと思うと歯が震えた。服の裾を握りしめて固く目を瞑る。
( 言わなきゃ、言わなきゃ、言わないで死ぬのはもう嫌よ )
思い切り口の端を噛んで目を開く。息を吸って、吐くのと一緒に言葉にした。
「………レン、あのね、わたくし」
謝りにきましたの、とは出てこなかった。
代わりに出たのは涙で、口ははくはくと動くだけで声が出ない。身体がその先を紡ぐことを拒絶する。
怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
言葉にするのがこんなにも怖い。拒絶されると思うと息ができないくらい苦しい。
( でも、それでも......! 言わなくちゃ、ここまできた意味がありませんわ!)
肌に爪が食い込むくらいに手を握った。痛みが恐怖を緩和し、ほんの少しだけ息苦しさから解放される。息を吸ってまた吐いて、次の息継ぎが終わるとすぐに言葉にした。
「れん、わたくじ……ずっと、あやまりたくて.......」
嗚咽も鼻水も涙も止まらなくて、酷い声が己の口から出てきた。でも今度は止めるわけにはいかないと、アリスは想いを吐き出す。
「け、けんか.....じて、でも、こうかぃしてて、ほんとうは.....」
現地調査を重ねに重ねて提案した最高の一品を「いや、お肉がいい」の一言で片づけられたときの悲しみは底知れないものだったが、そんなことよりもずっと大好きなレンに会えないことの方がもっと辛かった。寂しくて悲しくてどうしようもなくて、なんど枕を濡らしただろう。死ぬその最後の瞬間まで、アリスは意地を張らずに謝ればよかったと後悔し続けた。
「ずっと、ずっどぉ! ろうやにいたときも……わだくじ……ごめんねって……」
もしかしたら清々したと喜んでいるかもしれない。今だって、ようやく関係を切ることのできた女の登場に辟易しているかもしれない。それでも、また喧嘩したまま終わるなんてアリスには耐え切れなかった。
我慢、自分勝手、傲慢。
そんな言葉浮かんでは消えていく。
誰よりも分かっている、それでも。
「ごめん、ごめんなさぃ……みがってにあなたをきずつけて!レンはずっとわたくしのこと……おもって、ぐれていまじたのに………!」
答える声は無い。
いつになっても扉は開かない。
もしかしたら魔法かなにかで音を遮断していて、この声は届いていないのかもしれない。それでもいい、こんな独りよがりの謝罪なんて聴いたところで胸糞悪くなるだけだ。
( 許して貰えなくても、謝れればそれで十分ですわ。十分で....十分なはずなのに )
そう思うのに、我儘な心は満足しなかった。
どうせ聞こえていないのならと、秘めていた想いが顔を出す。ぐずぐすの豆腐みたいになった理性を押しやって、今がチャンスだとばかりに傲慢にも心のうちを喉から押し出した。
「........でした」
関係が変わってしまうことが怖くて言えなかった感情が吐露される。
もうアリス本人にも止める術はなかった。
「ずっと、あなたがすきでした」
擦れた声で好きだと呟いた。
痛くて張り裂けそうな胸を抑えて、ボロボロと心の奥にしまっていた本音が口を突く。痛い、痛い。傷だらけの足なんかよりもずっと胸の奥が痛む。
レン、レン、会いたい、顔が見たい、仲直りしたい。
溜まっていた想いがダムが決壊するように溢れてくる。
「ゆるしてくれなくていい、うざいっておもわれてるのもしってます……でも!でもぉ」
呼吸が苦しくなって、喉で異物が膨らんで酷く痛い。
お願い聞かないで、嘘よ聞いていて。
正反対の感情が胸の中で暴れ回る。聞かれたらきっともっと嫌われると思うのに、これ以上嫌われるわけがないと誰かがアリスに囁く。
どうせ最後だ、全て吐き出してしまえと。
「かおが、みたい………」
闇に溶けるほど、擦れた小さな声だった。
「これでさいごですから、もうあいたいなんていいませんわ………から.....だから、おねがい、かおをみせ―――――」
バンッ!
勢いよく扉が開いて、懐かしい香りに包まれた。
「――――――え、」
「最後なんて言うなよ……」
「……なん、で……?」
「会いたいって言ったのはアリスだろ」
「だって、うそ、こんな……」
(レンだ、レンが目の前にいる。わたくしを抱きしめて、なんでどうして嫌いなはずじゃあ)
「ごめん、俺もあの時からずっと謝りたかったんだ。それなのに意地になってこんなに時間が掛かった」
「.........ちが、違います!わたくしが悪かったの、全部、ぜんぶ……」
「違う!俺が……俺はアリスが不安定だって気付いてたのになにもできなかった。それどころか一人にして、取り返しのつかないところまで放置した。俺がもっと……」
「れん……」
「甘えていたのは俺の方だ。ずっと、会いたかった」
「..........ぅあ、」
泣いた。
それはもうみっともなく子どもみたいにわんわん泣いた。玄関先でレンに縋りついて服が絞れるくらいには泣いて泣いて、お互いに存在を確かめ合うように抱きしめあった。夢でも幻でもない。
手から伝わる体温にアリスはまた泣いた。
( 嫌われていなかった!嫌われてませんでしたわ!)
ああ、これでももう思い残すことは無い。
神など信じてはいなかったが、このときばかりは感謝した。ありがとう神様。これでもう、いつ死んでも後悔しない。
「おかえり」
「ただいまレン……」
「おかえり、おかえり俺のアリス」
――ようやく取り戻した
低く唸るような声は、泣きじゃくるアリスには届かなかった。
この次はレンのターンです!
なかなか出てこなかった理由も明かされます!