1
「―――じょ―――ま」
懐かしい声に沈んでいた意識がふわりと浮かび上がる。この声は親しくしていたメイドの声だ。朝に弱いアリスのために毎朝少しだけ早い時間に起こしに来て、温かい紅茶を出してくれた頃のメイドの声。
「お――――さい、―――――さま」
彼女の名前はリンダ。屋敷の中ではあまり立場の良くないアリスのことを、最初はなにかと気にかけてくれたお世話係だ。
「起きてください、お嬢様!」
「――――!」
肩を揺すられ意識が一気に覚醒する。
そこには見慣れた天井を背景に、赤い髪に黒い瞳をしたリンダがこちらを覗きこんでいた。思わず息が止まる。
なぜ、なぜ彼女がここに居る。
「どう、して……?」
「まだ寝ぼけていらっしゃるのですか?」
「だってあなたは……」
両親がわたくしを勘当すると言った途端に掌を返し冷たく接するようになったじゃない、とはさすがに口に出せなかった。口をパクパクと動かすも話さないアリスの様子をリンダはまだ寝ぼけていると判断したらしい。綺麗な動作で紅茶を手渡す。
「今日はお嬢様の好きな銘柄ですよ」
「……モーニングティー?」
「はい、これを飲んで目を覚ましてくださいませ」
「………」
「本当はお着替えも手伝ってさしあげたいのですが………」
「お母様たちに止められているのでしょう? 無理をしないでちょうだい」
「はい……」
震える声でどうにか返答するとリンダは会釈をしてすぐに退出した。扉が閉まるなり、アリスはすぐにコップの中身をポットに戻す。小刻みに震える手でどうにかカップを台に置き、口元を抑えて蹲る。
(え、怖っ。なんでいまさら媚びを売るの)
気味が悪かった。まるで本当に微笑んでいるように見える笑顔も、心配ですと眉を八の字に垂らす表情も、声も仕草もなにもかも。
紅茶と偽り溝の水を飲まされそうになったこと、
髪を結うと言い肩からバッサリと髪を切られたこと、
アリスが使う便箋とペンを使って20も年上の未婚男性に恋文を出され、下校途中にその男性に襲われて危うく強姦されかけたこと。
いつのことだか思い出さずともあんなこともこんなこともつい2週間前ほどの話で、いまさら媚びを売り直す意味が分からない。
仕返しのため超リアルな蜘蛛の置物を100体ほど彼女の自室のあらゆる場所に仕掛けたが、驚いて頭を強打し記憶でも飛ばしたのだろうか。いや、そうに違いない。そうでなければ投獄を期に止めた嫌がらせを再開するわけがない。
「投獄、そうよ投獄………え?」
アリスは自分の言葉にふと数分前の出来事を思い出す。
(そうよ、どうして家にいるの?)
生徒の大量虐殺という謂れのない罪を着せられ、自分は先ほど処刑されたはずだ。
姿見で首を確認するが切れたような後はない。暴行されてついた痣も傷も無く、服はいつも着用していた寝間着だし、髪も長いままだった。それどころか折られたはずの腕は動くし、立って歩くことだってできた。痣や切り傷は薬でどうにか出来ても、斬られた足の健はそう簡単に治せるものではない。
どういうことだ、死んだのではなかったのか。
それともすべてたちの悪い夢だったとでもいうのか。それなら説明は付くが、アリスは納得できなかった。肌に残るあの刃の感触も痛みも夢にしては生々しすぎる。
「そうだカレンダー、あれを見れば……」
アリスの部屋にはレンから貰った自動的に日付を刻んでくれるカレンダーが置いてある。作った本人しか日付を弄ることができないあの魔法具なら、正確に時を刻んでいるはずである。アリスは机の上に置かれたシンプルなデザインの時計を拝んでから手に取ると、その土台に刻まれた日付を確認した。表示されていた日付は11月12日、あの日より2ヶ月も前だ。
「レンと喧嘩した次の日.......」
本名をレイナンド・アブ・ド・ルウェリンという。
烏羽根色の髪に赤い瞳を持つ世界有数の魔法使い。彼はアリスの幼馴染であり、兄であり、弟であり、世界一の推しであり、予定していた旅行で夕飯のメインを肉と魚どちらにするかで揉めに揉め最終的に喧嘩別れした相手でもあった。
両手で顔を覆う。
己の首を絞めそうなほどの後悔がアリスを襲った。
そんな下らないことで、と思うなかれ。友人関係というのは、こう言ったささいなことを切っ掛けに壊れるものである。
(そうか次の日、次の日かぁ.....あああああああ)
カレンダーを何度見ても日付は変わらない。
目的地の名産品である魚をアリスはどうしても食べて貰いたかった。しかしレンは「この季節は特に鹿肉が美味い」と珍しく引いてくれず、お互いがお互いの主張を通そうとした結果喧嘩に発展し「もういいですわ!」とレンの家を飛び出したあの悪夢のような日の翌日である。
(なんで!どうしてもっと融通を効かせなかったの、あのときのわたくしは!)
あれはアリスが悪い、どう見てもアリスしか悪い奴がいない、世界中の人間がアリスは悪と叫んでいる。
いくらその時期流行するインフルエンザに旅行先の薬膳魚料理が効くとはいえ、喧嘩するまで意地を張らなくたってよかった。ある程度主張したところで折れて、店から薬草だけ拝借してお茶にでもなんでも仕込めば良かったのだ。レンはまだまだ成長期、肉が食べたいに決まっているじゃないか。なぜそれがあの時の自分は分からなかったのか。後悔と羞恥と罪悪感で胸が苦しい。今すぐ山にひと狩り行って猪を手土産に謝罪しに行きたい。
(あ、まって、もしかしてあまりに聴きわけが悪いから、怒って魔法で悪夢を見せたとかじゃないわよね!?優しいレンに限ってそんなこと万が一にも億が一にもあり得ませんけど、もし無意識にとかなら………)
目の前が真っ暗になる。
世界有数の魔法使いである彼の実力ならアリスに悪夢を見せることなどお茶の子さいさいだろうが、世界最高の天使(並みに尊い)でもあるレンはこんな陰湿な嫌がらせなど考えもしないだろう。たとえ喧嘩したとしても懺悔すれば許し、号泣するアリスの頭を撫でて泣きつかれて眠るまで面倒を見てくれるのがレンという人だ。
だから故意にすることは絶対にないが、実は内心アリスをよく思っていなくて無意識に魔法を使ってしまったのだとしたら―――
「お嬢様―?」
「――――えっ、あ」
ノックの音で我に返る。
外にリンダを待たせていたことを思い出し、寝間着に手をかけようとしてすでに朝の身支度を終えていることに気が付いた。姿見に映るのは服も化粧も完璧に済ませた己の姿、習慣と言うのは恐ろしいなとアリスは思った。
「いま行くわ」
ともかく、ともかくだ、まずはレンに謝りに行こう。自分を嫌っていようがなかろうが怒鳴ってしまったのは事実だ。まずは謝って、今後の付き合い方はレン自身に決めてもらうしかない。
深く深く息を吐き、アリスは笑顔の仮面を貼り付ける。
もし絶交と言われたら、学園中の生徒を道連れに呪い殺し最後に自分も首を吊ろう。
アリスは持っていた荒縄を懐に忍ばせた。