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11月13日
アリスは後悔していた。
布団の中でうずくまり両の手の平で顔を覆って、深い深いため息を吐き出しながら後悔していた。その顔は死にかけのネズミより酷い。
(やってしまった、やってしまった)
号泣しながら謝り倒した結果、無事に仲直り出来たところまでは良かったが問題はそのあとだ。
泣きすぎて記憶は曖昧だが、聞き上手なレンに覚えていることを全て吐露した覚えがある。こう感覚的に。そうでなければ、こんな胸のつかえが取れたような爽やかな気持ちで朝など迎えてはいない。
どうしよう、どうしたらいい。絶対に頭のおかしな奴だと思われた。
仲直りした幼馴染から急に「実は一度処刑されて、でも過去に戻ってきたの」なんて意味の分からない話をされたら誰でも戸惑う。レンは終始優しく、それはもう聖母みたいな優しさで包み込むように対応してくれたが、心を病んだと疑われている可能性は高い。
少なくとも自分ならそう思うとアリスは唸る。
彼は出来た人間だから本人を前にそんなことおくびにも出さないだろうが、内心では精神病院に送った方が良いと思われていてもおかしくない。
困ったように笑って「ちょっと出かけようか」と言われたらダウトだと身構える。もしもの時は迷惑をかけないように首を吊ろう。そうしよう。
「アリス、ご飯出来たよ」
「………はーい」
布団から顔を出しミノムシのような格好で台所を見る。そこには上機嫌に朝食の支度をするエプロン姿のレンがいた。目が合って微笑まれる。おやぁ?
「まだ眠い?」
「最高の目覚めですわ」
「なら出ておいで、冷めるよ」
「.......はい」
対応に首をかしげる。
相手を遠ざけようとすれば、反応や表情に出ることをアリスは日常生活から嫌と言うほど学んでいた。が、その反応がない。レンの対応は不思議なほどいつも通りだった。
( 泣きすぎて小説の内容と記憶が混ざったと思ってくれたのかしら........ )
都合の良い話だがそうとしか思えない。
アリスはそっと布団から這い出ると、手早く髪を整えて恐る恐る向かいの椅子に座る。そっと視線を上げると柔らかくレンの目元が緩んだ。
「おはよう、アリス」
「お、はよう、レン」
声に固さも震えもない、目は不自然にアリスに注目することも逸らすこともしない。やはりいつも通りで詰めていた息を吐いた。
焼きたてのパンと目玉焼きにベーコン、小皿に盛り付けられたサラダと紅茶に手を合わせる。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
紅茶に口を付けると、爽やかな香りが鼻を抜けた。胃の中からポカポカと温かくなり、同時に涙腺が緩む。
穏やかな天気、温かな朝食が並ぶ食卓で向かいの席には最愛の人。
長い喧嘩期間と牢屋生活を送ってきたアリスにとって、この光景はあまりにも眩しく映った。
まるで監獄の中で妄想し続けた「もしレンと夫婦だったら~花の新婚編〜」を疑似体験しているかのようで大変胸が熱い。レンに会えないあまり発狂しそうになって妄想し続けた内容がまさか現実になるとは思わなかった。アリスは内心で合掌し天を仰ぐ。
(生きて.....よかった.....)
ちらりとレンを盗み見ると白魚のような手がナイフを握ったところだった。目玉焼きにスッと細い線が入り、一口サイズに切られた白身が薄い唇に吸い込まれていく。隙間から僅かに覗いた赤い舌にごきゅりとアリスの喉が鳴る。
(あっっっ.......、は、破廉恥)
レンと同じ空気を吸っているだけでも有難味で鼻血が出そうなアリスに、食事のシーンは刺激が強い。思わず鼻頭を抑える。
「アリス?」
「………涙で目が霞んで」
「まだ眠いのか?」
くすくすと笑うレンに意識が一瞬飛ぶ。
( かわいい....え、かっこいいのに可愛いも装備してるとかなんですの? 天使? )
アリスの理性がYesレンnoタッチと叫び、つい頭を撫でようと伸ばした手を止める。邪な気持ちで触ったら犯罪、邪念を持って触ったら犯罪と必死に爪で太腿を抓り、飛んだ意識と理性の枷を繋ぎ止める。少しの油断で全身の穴という穴から血が噴き出しそうである。もちろん興奮で。
「食べないのか?」
「……頂きます」
「はい、召し上がれ」
びぃくーる、びぃくーる。
唇の端を噛んで叫びたくなる感情を押しとどめることになんとか成功する。
震える左手でナイフを、手汗の残る右手でフォークを取る。眼前に広がるのはレンお手製料理である。レンの、レンが作った、レンがアリスのために作ってくれた朝食。お腹に納めるのが勿体ない。本来ならば樹脂で固めて永久保存ものだが、レンの望みは食べて貰うこと。食べないと言う選択肢は無かった。
目玉焼きに刃を入れ口に運ぶ。一口噛むごとに罪と背徳の味がして涙が零れる。
「美味しい?」
「うん…………すごく、美味しいです………」
「よかった」
お買い得パック卵もレンの手に掛かれば桐の箱に入った最高級卵になるのだとアリスは思った。
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後片付けはわたくしめにお任せをおおおおお!!と散々ごねたが、まあまあと丸め込まれ現在ソファーの端で小さく膝を抱えているアリスの前に食後の紅茶が置かれる。思考が停止した。
目線だけを上に向けると柔らかな赤い瞳に微笑まれて続いて脳が爆発する。反射的に抱えていたクッションに顔を埋める。顔が熱い。おそらく頭からは煙が出ていることだろう。
笑い声がして髪を梳かれたが、ショート寸前のアリスに反応できるだけの余裕などない。
「アリス」
「…………」
「アリス?」
「………なんですの」
「耳まで真っ赤だよ」
「―――――っ!??」
耳の上を親指でなぞられて背中をぞわりとなにかが這う。心臓が口から飛び出しそうな羞恥に耐え切れずレンの手を掴み己の顔から引き剥がすも、触ってしまったぁああ!?とパニックになりすぐに手から距離を取った。が、ソファーの背もたれに阻まれろくに動けない。
(近い近い近い!!!!)
クッションを盾にじりじりと気持ち後退するが、すぐ近くに見えた足先がその距離を詰めてくる。
吐息が聞こえる、鼻孔がなんか凄くいい匂いを感じている。まずいこのままでは五感が狂うと身の危険を感じ、アリスは必死に脳内から話題になりそうな情報を引っ張りだした。
「あの!あのあのあの」
「ん?」
「ひえうえ!?」
「なにか言いたいことがあるのか?」
「あ、ぅあ、顔が良いですね……じゃありませんわ……えっと昨日の、昨日のことで………わ、わたくし変なこと言っていたでしょう!?」
「変なこと?」
会話に集中し煩悩を鎮める作戦は愚策だった。
数多ある話題の中から一番まずいのを引き出してしまったことに気づいたが、もう遅い。
アリスは震える声で話を続ける。
「み、みみ未来から来ました!みたいな……」
「ああ、過去に戻ってきたってやつか」
「あ、あああのあの、ごめんなさい!変なこと言って……わ、忘れてくださる!?」
「アリス?」
「わたくしあのときはちょっと疲れて、喧嘩もして気が動転していましたの。だから小説の内容と話してることが混ざって、あることないこと話しただけで……け、決して精神的に病んだとかそういうのでは、あの」
「アリス」
「えっとえっと、ですから、その病院に入れようとか考えなくて大丈夫ですのよ!本当に、ええ、本当に大丈夫で」
「アリス」
「ひゃい!?」
肩を掴まれ顔を上げる。思ったよりもずっと近くにあったレンの顔にアリスは怯んだが、瞳を見て落ち着きを取り戻す。軽蔑や懐疑とは無縁のとても優しい色をしていたのだ。
「俺はね、アリスが嘘を付いているなんてこれっぽっちも思ってない」
「で、ですが」
「この世界には魔法もあるし、神の声を聞く巫女だっている。何が起きたって不思議じゃない。だからそんな不安そうな顔をするな」
「ほんとう……?」
「ああ。それに魔法の中には時間を遡れるものもあるから、未来から人が来てもなんら不思議じゃあない。ほんの少しだけ俺たちより技術が進んでいるだけだ」
「そう、なんですの」
ほっと胸を撫で下ろす。
アリスは魔法に明るくない。
レンの傍で誰よりも長く魔法による奇跡を目の当たりにしてきたが、学ばされていた知識の大半は国政や財務に歴史などまったくジャンルの異なるものだ。
王妃になるためにと幼少期から植え付けられてきた膨大なそれらを会得するのは至難の業であり、常日頃から勉学に追われてきたアリスにはいかに好奇心が刺激されようとも魔法に裂く時間が無かった。あったとしても魔力がないので使えないのだが、会話に落とされたわずかな違和感には気が付けただろう。
なぜ魔力の無い自分が過去に飛べたのか、と。
赤い瞳がじっとりとアリスを見ていた。
「………なあ、俺が見せたとは考えなかったのか?」
「え?」
「アリスの見たものが本当は夢だったとして、それを喧嘩した腹いせに俺が見せたとは考えなかった?」
影が差してレンの表情は読めない。
悲しんでる、怒ってる、それとも……。
分からないからアリスは正直に答えた。
「いいえ、考えました。わたくしにはあれが夢か現実か区別が付きませんもの」
「なら」
「もしあれがレンの見せた夢だったとしても、わたくしは同じようにここに来ましたわ。ここに来て迷惑だって言われても泣いて喚いて謝って、夢を見せてくれたことに感謝した」
「どうして」
「動機が何であれ、臆病者の背中を押してくれたことに変わりはなかったから。だからきっと、いいえ絶対に、夢を見せてくれたことにわたくしは感謝しました」
「アリス………」
それにね、とアリスは笑う。
「もう疑ってませんの」
「え?」
「だって、」
アリスの瞳がゆるりと光った。
砂糖菓子を煮詰めてさらにはちみつを加えたような表情を思い出して胸がぽかぽかと温かくなる。
あのとき、扉が開かれたそのときからアリスの小さな疑心は綺麗さっぱり消えていた。玄関先で泣いて喚いて騒ぐみっともない女に向けられた瞳に映っていたのは、二つの林檎飴。人形に向けるような無機質な視線ではない、蕩けるよう瞳を思い出してアリスはさらに笑顔を深くした。
「だって、なに?」
「…………内緒ですわ」
「なんだよそれ」
「話したら、見られなくなるかもしれませんもの」
胸に手を当てる。決して漏れてしまわないように、奥深くに閉じ込めるように。
レンはまた「なんだよそれ」と呟いて、でも嬉しそうな顔でアリスを抱きしめた。




