まるちゃんピストルをひろう
まるちゃんは歩いていつもの公園に向かっていた。いつものプラスチックのバケツとスコップを持って、野球帽を後ろ前にかぶっている。いつもまるちゃんは一人で公園に行き、一人で砂場で遊ぶ。
公園に近づくにつれて、いつもとは雰囲気が違うことが感じられてきた。入り口のところに人が集まっている。人の向こうには制服を着た警官がいて、よく見ると黄色いテープで通せんぼしてあって、なにやらものものしい。まるちゃんはしばらく遠巻きにうろうろしたあと、思い切って入り口に近よっていった。集まっている人たちは大人が多かったが、子供も大人の半分くらいいた。そのなかには公園で見かける顔もあった。話をしたことはないけれど。
大人も子供も、ずっと入り口のまえにとどまる人は少ないようだ。警官ごしにちょっと公園のなかを見透かすようにながめ、行ってしまう人が多かった。でも警官に話しかける人もいた。
「なにかあったんですか?」
「ただ今、公園内に立ち入ることはできません。ご協力をお願いします」
警官は軽く頭を下げるが、なかでなにをやっているかは教えてくれないのだった。
「入れないの?」
子供が訊いた。
「そうなんだ、ごめんね。またあしたになったら入れるから、あしたまた来てね」
警官が答えた。子供は突然走りだして数メートル離れると、ふり返って、
「きょう入りたいんだよ、バーカ、バーカ」
と叫んで再びダッシュして走り去った。警官は照れたように笑っていた。
公園にはもうひとつ入り口があり、まるちゃんはそちらにも行ってみたが、状況は同じだった。しばらく二つの入り口を行ったり来たりしてみたが、公園の封鎖は解除されない。そのうち、あきらめたのか帰っていった。
まるちゃんの家は一軒家だ。まるちゃんのお母さんはシングルマザーで、まるちゃんのお父さんと別れたときに慰謝料の一部としてその家を譲渡された。
廊下を通り、まず居間にむかう。まるちゃんの部屋は二階で、廊下の途中にある階段をのぼっていくのだが、ただいまのあいさつをしないとお母さんに叱られてしまうのだ。
廊下のつきあたりのドアを開けると居間だ。絨毯が敷いてあって、テーブルとソファ、テレビなどが置いてある。テーブルとソファは丈の低いものが選んであって、部屋のつくりは洋風だけど、床にごろりと横になれる和風の生活ができるようになっている。入って左側がそのままダイニングキッチンになっていて、こちらはフローリングで、丈の高い――というか普通の高さの――テーブルと椅子が置いてある。
お母さんは、その椅子のひとつに縛りつけられていた。
胸の上下に巻きつけられた縄で椅子の背に固定され、両手は後ろ手に縛られているようだった。タオルで口をふさがれて、お母さんの顔は汗と涙でひどいことになっていた。テーブルの向う側の椅子にくくられてこっちを向けられていたけれど、その両脇に一人づつ、男が椅子にかけてやはりこっちを向いていた。
「お待ちかね、お子さんのお帰りだ」
左側でお母さんの胸をセーターの上から触っていた男が言った。あいている方の手にナイフを持ってひらひらさせている。
もう一人の男が立ち上がり、近づいてきた。ナイフを持った男がラフな格好をしたチンピラ風なのに対して、こちらはスーツにネクタイだ。でも家の中なのにサングラスをかけていて、なんとなくやさぐれた雰囲気があって、ヤクザそのものといった感じだ。サングラスはチンピラの方もかけていて、こちらはイメージぴったりだった。
「なあ、ボク、ボクが公園で拾ったものは、おじさんたちのものなんだ。返してくれるよな」
このときまで立ちすくんでいたように見えたまるちゃんが、急に身をひるがえして逃げ出した。スーツはちょっとあっけにとられた風だったが、すぐに、
「おいおい、母ちゃんがどうなってもいいのか」
と大きな声で言った。まるちゃんは砂場セットをほったらかしにして、そのままドアに取りついた。
この家の玄関ドアには鍵が四つも付いていて、さらにチェーンまでかけてあったものだから、はずしているあいだに男にえりをつかまれてしまった。ここまできちんと戸締りをしなければお母さんに叱られてしまうのだ。
「このガキ、とんでもねえ奴だ。母ちゃんが心配じゃねえのか」
スーツはぶつぶつ言いながらまるちゃんを居間まで引きずっていく。
「おらっ、手間かけさせやがって」
まるちゃんは乱暴に絨毯の上に投げ出された。倒れたままキッチンの方に顔を向けると、お母さんの両足がそれぞれ椅子の脚にくくりつけられているのが見えた。スカートはナイフで裂かれて広げられ、パンツとストッキングだけの下半身がむき出しになっていた。チンピラは今は股の間にナイフを当ててもてあそんでいた。
スーツがまるちゃんの傍らにしゃがみ込んできた。
「よし、ボウズ、世話を焼かせるな。早いとこおじさんたちのものを返しな」
まるちゃんは寝転がったままいやいやをするように首を振った。目は恐怖で見開かれている。
「なあボク、世話を焼かせるなとさっきから言ってるだろう。ボクが昨日、公園からおじさんたちのものを持ち帰ったのはわかってるんだよ、見た奴がいるんでね。そいつを渡してくれたらおじさんたちはすぐにいなくなるよ。さあ早く渡しなさい」
まるちゃんはでも、目をつぶって首を振るばかり。スーツは怒って、テーブルをバン! と音をたてて叩いた。
「いいかげんにしろ! ほらほら、母ちゃんがどうなってもいいのか?」
スーツがお母さんの方を見ると、チンピラが立ち上がり、お母さんの背後に回った。お母さんがヒッと息をのむ。口に巻いてあるタオルはもう涎でべとべとだ。チンピラがニヤニヤと笑いながら言う。
「さてここになぜか万力があります」
キッチンのテーブルの、ちょうどお母さんの座っている前あたりに万力が固定されている。
「これはなんでこんなところにあるんだ?」
チンピラが言い、スーツがまるちゃんをうながすように見る。まるちゃんは目に涙を浮かべながら必死で首を振る。
「おいおい、このガキは口がきけねえのかよ」
スーツが言い、お母さんの方を見た。今度はお母さんが必死で首を横に振った。チンピラが背後からお母さんの喉にナイフを当てながら、
「いいか、今から猿轡をはずしてやるが、大きな声を出しやがったらずぶっといくぜ」
と言った。お母さんがうなずくと口を縛っていたタオルをはずし、さらに口の中から唾液まみれの布きれを取り出した。お母さんははあはあと大きく呼吸している。
「ようし答えろ、この万力は何のために、なんでこんなところに据えてある?」
「……に、日曜大工で……使うため……はあ、はあ……」
「ほう、日曜大工とはこれまた……。奥さん、あんたの趣味かい?」
お母さんはぜいぜいと息をするのみで答えない。
「どうなんだよ」
チンピラがもう一度訊いた。ナイフの先が首に触れて、お母さんがヒュッと息を吸い込んだ。
「違う……違います。正司さんのです」
「ショージさん? ショージさんて誰だよ」
「私の……お友達です」
「フン、お友達か、お友達ねえ。名字はなんていうんだよ」
「正司が名字です。正司、克彦さんです」
「カツヒコさんか。一緒に住んでるのか?」
お母さんは首を振る。「い、いいえ……」
「カツヒコさんは休みの日に来るだけなのか?」
「……」
チンピラはまたお母さんの首にナイフを当てる。
「ほとんど毎日来ます!」
お母さんが小さく叫ぶように言う。
「ほとんど?」
「まっ、毎日来ます」
「来ると泊まってくんだろ?」
お母さんはうなずく。
「カツヒコさんは勤め人か。朝はこっから仕事に行くんだろ?」
お母さんはうなずく。
「ということは、着替えなんかもここに置いてあるわけだ」
お母さんはうなずく。
「着替えは、あんたが洗濯してるわけだ」
お母さんはうなずく。
「当然、朝メシはここで食ってくんだよな?」
お母さんはうなずく。
「夕メシも、毎晩、つってもいいくらい、ここで食ってくんだよな?」
お母さんはうなずく。
「それを『一緒に住んでる』っつーんだよ、このアマ!」
今度はチンピラがナイフの尻でキッチンテーブルを叩いた。お母さんは首をすくめた。
「ごっ、ごめんなさい。でも彼、部屋を借りているんです」
「だから何だ。その部屋にはほとんど帰ってないんだろ?」
お母さんはまたうなずいた。
「フン、まあいいや。それでそのカツヒコさんは、いつ帰ってくるんだ?」
「大体いつも八時過ぎです。遅いときは十二時を過ぎることも……」
「八時過ぎか。まあカツヒコさんが帰ってきたら話が面倒になるな。まだまだ余裕はあるが、早いとこ済ませちまおう」
チンピラがスーツの方を見ると、スーツはまた猫撫で声を出した。
「なあボク、おじさんたちはボクが昨日公園で拾ったものは、おじさんたちのものだから返してくれ、と言ってるだけなんだ。つまりおじさんたちは決してボクを責めてるんじゃないんだよ。ボクがものを返してさえくれたら、おじさんたちもすぐに帰るよ。もちろん、おじさんたちのことやもののことは誰にも、たとえカツヒコさんにも喋らないって約束してもらわないと困るけどね」
スーツはいったんそこで言葉を切った。まるちゃんは相変わらず目を見開いてスーツを見ている。
「なあ、ボク、おじさんたちはボクを責めるどころか、むしろ感謝しているんだよ。感謝ってわかるか? ありがとう、ってことだ。ボクが持ってったものはな、おじさんたちの大事なものだけど、お巡りさんには内緒なんだ。今お巡りさんが大勢で公園を探しているけど、ボクが持ち出してくれたおかげで見つからずに済みそうだ。だからおじさんたちはボクにありがとうというんだよ。さあ、わかったら出しなさい」
まるちゃんは顔をこわばらせたままだ。
「さあ」
スーツはまだ寝転がったままだったまるちゃんを、両肩をつかんで起き上がらせた。
「さあ、おじさんも一緒に行くから、しまってあるところに案内しなさい」
スーツが手を放すと、まるちゃんはしかし、こてっと倒れて、またもとの寝転んだ体勢に戻ってしまった。
「このガキ! 怖い目見ねえとわからんようだな」
スーツがお母さんの方を見ると、チンピラがナイフでお母さんの胸をつついて遊んでいた。片手にはいつの間にかビールを持っている。お母さんの口には、また猿轡がかまされていた。
スーツはあっけにとられて言葉が出てこないようだったが、チンピラは悪びれた様子もなくニヤニヤと笑いながら立ち上がった。お母さんを後ろ手に縛りあげていた縄を切り、どこから取り出したのか新しい縄で左手首を椅子の脚にくくりつけた。チンピラは、外見はガサツであったが、実に器用だった。
「さっきの続きだ。ここに万力があります。カツヒコさんが日曜大工に使うためのものです」
スーツがまるちゃんを起き上がらせ、頭を両手ではさんで顔をお母さんの方に向けた。
「おらっ、ガキ、母ちゃんがどんな目にあうかよく見ろ」
チンピラはお母さんの右手をつかんで、かざすように持ち上げた。お母さんはトロンとした目つきで、されるがままになっている。
「そしてここにお母さんの右手があります。これを、こうやって、万力にはさんで固定します」
チンピラは言葉通り、お母さんの手の手首から腕にかけてを万力の板のあいだに置いて、絞り調整用のねじをくるくると回した。一方の板が動いて、もう一方の板に近づいていく。お母さんの目が見開かれ、猿轡の下から「うっ……うっ……」と声が漏れ始めた。
チンピラがさらにねじを締めていくと、お母さんが暴れだした。チンピラは、「おらっ、暴れるな」とニヤニヤしながら片足をお母さんの太腿にかけて押さえつけた。お母さんの口からは「ぎゅううう」と音が漏れている。涙と汗と涎で溶けた化粧で顔はぐちゃぐちゃだ。体は椅子ごとガタガタと震えている。
お母さんの口から漏れていた音がぴたっと止み、真っ赤だった顔色が一瞬で真っ青になったかと思うと、頭をがくりと前に倒した。
「気絶しちまった。けっこうきついみたいだなこりゃ」
スーツが手を放すと、まるちゃんはまたコテッと倒れてしまった。
「あきれたガキだな。母ちゃんが酷い目にあわされてるのに黙って見てるだけだったぜ」
「障害でもあるんじゃねえか」
言いながらチンピラは冷蔵庫を開けて新たに缶ビールを取り出し、プルタブをプシュッと開けた。ほとんど一気に飲み干すと、ふうーと長い息をつき、げっぷをひとつした。
「よし、よく働いた。ちょっとトイレ休憩だ」
ぶらぶらと居間を通り抜けようとして、まるちゃんを見下ろすと、思いついて言った。
「小僧、案内しろ」
「わざわざ案内させなくても、廊下沿いの扉のどれかだろう」
スーツが横から言う。
「うーん。俺はガキに案内してもらいたいの」
「チッ、またお前のきまぐれか」
スーツはチンピラに文句を言いながらも、まるちゃんの体を起こして立たせた。
「ほれっ、ガキ、このおじさんをトイレに案内しろ」
まるちゃんはちょっとキョロキョロと周りを見回したあと、居間から廊下に通じる扉を開けて出ていった。チンピラが後に続く。スーツは立ち上がって、お母さんの方に近づいていった。髪の毛をつかんで頭を持ち上げると、お母さんは白目をむいていた。口の端に泡を吹いている。
「あーあ、せっかくの美人が台無しだな」
そう言って手を放すとお母さんの頭はまた垂れた。スーツも冷蔵庫を開けると缶ビールを取り出し、チンピラが座っていた椅子に腰かけて飲み始めた。ひと息で半分ほど飲むと、ふぅーっと長い息を吐き出した。それからちびちびとひと口づつ飲みだした。
胸ポケットの中で携帯が鳴った。取り出し、相手先を確かめて、いぶかしげに眉をひそめて、電話に出る。
「もしもし、なんで電話なんか……。なに? ああ、よくわからんが、とにかく行くよ」
スーツは電話を切ると立ち上がって廊下に出た。途中のドアのひとつを眺め渡すと、「これか……」とつぶやきながら腰のあたりの高さにあったスライド錠を解除した。ドアを開けると、チンピラが出てきた。
「くそっ、あのガキ、閉じ込めやがった!」
「なんでトイレの外から鍵がかかるようになってるんだ?」
「知るか! ガキはどうした? クソッ、探すぞ」
チンピラは玄関を飛び出していった。スーツも続く。玄関を出たところは道幅五メートルばかりの生活道路だ。チンピラが右に駈け出したので、スーツは左に向かって走り出した。
住宅が建ち並んでいて、ところどころで路地が隣り合った家を隔てるように走っている。路地を交差するたびに立ち止まり、左右を見て子供の姿を探す。子供の姿を見かけた気がしてそこまで走っていき、きょろきょろと見回すが、子供は見当たらず、勘違いだったかと元の道まで引き返す、といったことが数回あった。
さんざん探し回ったあと――実際には十分とは経っていなかったが――子供の足ではここまで来れまいというところまで来たとき、携帯が鳴った。チンピラからだ。
「見つかったか?」
相手が話す前にあいさつもぬきに訊く。息が切れていた。
「だめだ。そっちはどうだ?」
スーツの質問の意味を考えれば訊くまでもないことであるが、そんなことまで気が回らないようであった。
「こちらもだめだ。どうする」
少しの沈黙ののち、チンピラの答えが返ってきた。
「とりあえず家に戻ろう。家探ししている暇はないだろうから、女を連れだすか……」
「それだと、誘拐になっちまわないか」
スーツは話しながら家に向かって歩き出した。
「うむ。さすがにまずいか」
チンピラがひるんだ気配が伝わってきた。
「だいたい、なぜガキから目を離した」
スーツが苛立ち、責めるようなことを言った。
「なんだと……。お前こそ、俺がトイレに入っているあいだ、ガキをちゃんと見ておくべきだったろうが」
「なに言ってやがる。俺は女の方を見てたんだ。ガキをトイレの中へ連れ込むなり、ドア開けっ放しでやるなりすりゃよかったろうが」
「たかが小便するくらいで、なんでそこまでしなけりゃならないんだよ。だいたいだなあ、女を見てるって、女は気絶してたろうが。のんきにビールでも飲んでたんだろう」
「なにぃ、ビールを飲んだのはお前が先だろう。それも二本も。だから肝心なときに小便なんぞ行きたくなるんだよ」
「生理現象は仕方ねえだろうが」
電話から聞こえてくる声よりも先に肉声が聞こえてきたことに気づいて顔をあげると、向うから歩いてくるチンピラと目が合った。チンピラもちょうど顔をあげたところだった。実際に顔を合わせるとなんとなくきまりが悪く、二人は黙ったまま携帯を切り、黙ったまま家に入っていった。
チンピラがトイレのドアをドンドンと叩いた。
「ドアも妙に頑丈なんだよな。中から叩いたんだが全く外には届かなかったみてえだ」
確かにドアは厚みがあるようで、叩いても音は吸収されてしまったかのように響かなかった。チンピラは、「フン、変な家だぜ」とつぶやきながら廊下を進んだ。居間への扉を開けて入っていく。スーツは黙ったままだった。
女の方を見ると、キッチンのテーブルから生えているかのような拳銃が目に入った。
「あ……」
銃の火口がオレンジに光り、パンという大きな、乾いた音がした。
チンピラがトイレのドアを開けたままチャックを下ろしたので、まるちゃんはそっと、音をたてないように閉じた。外側についているスライド錠も静かに滑らせた。それから玄関にいくと、四つの鍵を開け、チェーンをはずした。廊下を足音を忍ばせて戻り、階段の下の暗がりに身をひそめた。
しばらくするとスーツが居間から出てきた。トイレの前に行き、ぶつぶつ言いながら開錠する。ドアを開けるとチンピラが飛び出してきて、「ガキが閉じ込めやがった」と言いながら玄関に向かった。スーツも追いかけていき、二人とも外に出ていった。
まるちゃんは階段の陰から出てきて、居間に入った。扉をきっちりと閉めて、キッチンに急ぐ。冷蔵庫の前でしゃがみ込んで、冷蔵庫とキッチン棚の隙間に手を突っ込んだ。がさがさと紙包みを取り出して、包装を解いた。中には重そうな黒いものがあった。チンピラとスーツの探していたものだった。グリップが銃筒に対して直角になるように、三角形に切った板をグリップの前後に接着し、ガムテープでぐるぐる巻きにしてあった。それをテーブルに置くと、万力を緩めてお母さんの腕をはずした。お母さんの腕はどす黒く変色し、汗と血でぬるぬるしていた。万力をタオルでふくと、タオルはすぐ真っ黒になった。キッチンシンクでタオルを絞り、それを拳銃のグリップに巻きつけた。グリップの前後を万力にはさみ、ねじを回して銃をしっかりとテーブルに固定した。重いテーブルを、脚に肩をあてがって全体重をかけて回転させる。少し動かしては拳銃の後ろに立ち、照星をすかして見る、ということを四、五回繰り返した。銃口が居間のドアを狙うようになったところで、ポケットから紐を取り出した。片端を輪にしてあった。反対の端を銃の引鉄の前を通し、輪をくぐらせてグリップの周りで絞る。まるちゃんは居間の扉をちらりと見て、今度はお母さんの座っている椅子を引っ張った。銃身の後ろにお母さんの体が来るようにした。お母さんの左手のロープをナイフで切り、左手をテーブルの上の銃の横に置いた。再び居間の扉を見てから、シンク下の収納の扉を開け、タイダウンベルトを取り出した。テーブルの一辺からベルトの端を投げつけ、ベルトが銃身の上を渡るようにする。テーブルの下を通って端を拾ってきて、ラチェットに噛ませた。ラチェットをカチカチと締めていき、ベルトの輪が銃身をたわみなく抑えるようにした。
ちょうどそのとき、玄関の開く音がした。何やら話しながら廊下を歩いてくる。まるちゃんは急いで、しかし音をたてないように注意しながらさきほど引鉄に取り付けた紐の端を冷蔵庫の取っ手にくぐらせ、テーブルの下にもぐった。
居間の扉が開き、誰か入ってきた。扉の陰からチンピラの足が見えたところでまるちゃんは手に持った紐を引っ張った。冷蔵庫の扉が開いたが、しっかりとした手ごたえを感じるところまで引き続ける。パン! という大きいが乾いた音がしてテーブルが躍るように揺れた。振り返るとチンピラの体が尻餅をつくように崩れるのが見えた。シャツの腹のところに染みが広がり、顔はきょとんとした表情で固まっていた。
「うわあ……このアマ!」
スーツの声が聞こえ、銃声が二発、轟いた。お母さんの体がガクガクと揺れた。同時に、「ギュ、ギュ」という音が喉から漏れた。スーツの足が扉の陰から出てきたのを見て、まるちゃんはもう一度紐を引いた。パン! テーブルが跳ねる。もう一度。パン! テーブルが揺れる。振り返ると、スーツが、チンピラの開いた両足のあいだに尻餅をつくように座り込んでいた。二人とも同じような体勢で、重なって死んでいた。スーツの右肩が焦げ、左胸に赤黒い染みができていた。右手から少し離れたところに、テーブルに固定されているのと同じ型の拳銃が転がっていた。部屋の中は白く煙って、硝煙の臭いが漂っていた。
「チンピラ二人が奥さんを拷問にかけた、と。そして奥さんは隙を見て反撃し、一人は倒したがもう一人とは相討ちになってしまった、と、いったところかね」
警部が刑事に言う。刑事が訊く。
「奥さんはこいつらの隠した銃を持っていたんでしょう? こんな酷いことまでされて、なぜ素直に渡さなかったんでしょう?」
「そりゃ君、渡してしまえば口封じに殺されるとでも思ったんだろう。自分だけならまだしも、子供まで巻き込まれたら、ということを心配したんだろう。母親の愛情ってやつだよ。実際、自分は死んでしまったが子供は助かったからね。変なことを言うようだが、子供を守ることができて、ある意味で満足して死んでいったんじゃないかね」
「はあ、なるほど」
二人の周囲ではまだ鑑識や刑事が忙しく立ち働いている。
「ところで、子供はどうした。話は聞けそうか?」
「さきほど少年課の巡査が二階の子供部屋に連れていきました。着替えさせるんだと言って」
そこに当の巡査がやってきた。制服を着た女性警察官である。
「警部、ちょっとよろしいですか」
「ああ、坊やの様子はどうだ?」
巡査はちょっと微笑んで、「坊やって……あの子、女の子ですよ」と言った。
「ああ、そうなのか。男の子みたいな恰好だったもんでね」
巡査は笑いをひっこめ、真顔になると、「ちょっと二階までご足労いいですか?」
巡査と警部は二階に上がった。まるちゃんの部屋にまず巡査が入った。
「直接見ていただいた方がいいと思って」
まるちゃんは毛布を体に巻き、まだ野球帽をかぶっていた。巡査が毛布を取ろうとすると、まるちゃんはいやいやをしたが、巡査が微笑んで「大丈夫よ。このおじさんもお巡りさんだから恥ずかしくないのよ」と言うと、おとなしくされるままになった。
毛布が取り除かれると、警部ははっと息を飲んだ。まるちゃんの体には、背中にも前面にも、切り傷のかさぶた、青あざ、やけどの跡があったからだ。巡査が野球帽を取ると、子供の汗の甘酸っぱい匂いが立上ったが、その下の髪の毛にはところどころ強引に抜かれた跡があり、地肌がまだらに見えていた。
それらの傷は明らかに、昨日今日できたものではなかった。
「……虐待していても、子供はかわいい、ということなのかな」
しばらく黙っていた警部が、ぽつりとそう言った。
〈了〉