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6(息苦しい場所)

 ある日の女子トイレでのことだった。

「でもさ、あの子暗いよね」

 それは女子グループ四人の会話だった。鏡をのぞきこんだり、服の具合を直したりしながら、みんな話を続ける。

「誰のこと?」

「ほら、いっつも後ろの席に座ってる」

「あー、ユズノさんね」

「なになに、誰の話?」

 他の子が興味をひかれたように参加した。

「ユズノさん。いつも一人で、昼休みになると必ずいなくなる」

「ああ、あれか。どこに行くんだろうね」

「知らない。図書室とかじゃないの?」

「うわ、インテリ」

「他に行くとこないもんね」

「てかさ、私あの子のすぐ前なんだよね。で、すぐ前だからさ、感じるんだよね。寂しそーにしてるのが」

「うっそ、あれは好きでやってるんでしょ? 私はあなたたちとは違うんですって」

「愛想笑いっていうのかな、こう、いつもヒクツな笑顔浮かべてさ。たまに用事で話しかけたりなんかすると、すごい期待する目で見てくるんだよね」

「分かるな、それ」

「冗談じゃないわよ、まったく。何待ってんだか知らないけど、それくらい自分で何とかしろっての。先生に助け求めてる小学生じゃないんだからさ」

「それは言えてるわ」

「そうそう、あの子見てると、時々なんかすごい呪われそうな気になるんだよね」

「何それ?」

「どんよりしてるのが感染るっていうの? ほら、何かウイルスみたいに」

「どんな新型だよ」

 みんなが笑った。

「でもさ、実際あれってかわいそうだよね。きっとこれからも友達できないんでしょ?」

「たぶん来世までね」

「てかさ、あの子のせいで時々すごく空気が重いんだよね。こう、宇宙空間にいるみたいな? うんざりする」

「宇宙は真空だろ」

「あーでも分かるなあ、分かる。本当、クラスの雰囲気盛り下げてるよね。なんかやろうっていってもあの子に気を使わなきゃならないし、無視するのもこっちが悪いみたいでさ」

「まじそうだよね。このクラス、あの子がいなかったらもっといいんだけどね。なまじっかそこにいるっていうのが逆に厄介なんだよね」

「お前ひどいな、それ言いすぎじゃね? あの子だって人間なんだしさあ、たぶん」

「あ、もう休み時間終わるよ。クラス戻んないと」

「次なんだっけ?」

「現国、中原中也の詩」

「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」

 みんな笑い声だけ残すみたいにしてトイレから出て行った。しばらくすると、物音一つしない、湿った空気があたりに戻ってくる。

 わたしは奥の個室に閉じこもったまま、じっとうずくまっていた。


 ベンチのところでういちゃんは眠っていた。

 座ったまま、静かに目を閉じて。七月の、まだ強くなりきらない陽射しが天使の祝福みたいにその足元を照らしていた。時々、気持ちのいい風が吹いていく。

 生まれたての赤ん坊みたいな無防備さで、ういちゃんは目をつむっている。いつもみたいな長袖で、例の桜色の髪が風に揺れた。それはまるで、優しい神様がちょっとだけ眠っているみたいに見える。

 それはとてもきれいで――

 わたしは、どうしようもない気持ちになった。

「ん――」

 ういちゃんは朝顔の蕾がゆっくり開くみたいに目を開けて、わたしのことを見た。

「ああ、ユズノ。ごめん、わたし眠ってたみたい。」

「……うん」

「いつからそこに?」

「ついさっきだよ」

「起してくれればよかったのに」

 わたしは何だか、心がちくちくした。ういちゃんの顔を見ているのが耐えられなかった。今にも心がぐにゃりと曲がってしまいそうな気がした。曲がってしまったら、それはもう元には戻せない。

「今日はいい天気ね」

「……うん」

「ユズノも眠ってみれば? いっそ午後の時間はさぼっちゃってね」

 不意に、どうしようもなくクライ衝動が沸きおこるのを感じた。暗くて冷たくて、自分でもぞっとするような感情。けど気づいたときには、口を開いていた。

「さっき、トイレでうちのクラスの女子が話してるのを聞いたんだ」

 ういちゃんは注意深く、黙ったまま小首を傾げた。

「わたしのこと、かわいそうだって。いっつも一人で、昼休みに図書室にでも行ってるんだろうって。時々、空気が重いって。いなくなったら助かるんだけどって」

「――――」

「呪われてるって。ウイルスだって。小学生だって。ヒクツだって。一応だけど人間なんだって」

 わたしは泣くことができなかった。

 泣いたら、どんなにか楽になれるのだろうけど。

「ういちゃんはいいよね」

「そういうのは気にすることないよ、ユズノ」

「強いから、ういちゃんはいいよね」

 わたしはもう自分を止められずに、嘔吐するようにまくしたてた。

「ういちゃんは平気だもんね。言いたいことははっきり言うし、美人だし、頭いいし、わたしみたいにちびじゃない。誰かから傷つけられることなんてない。傷つけられたって、そんなの気にする必要もない。だって、強いもんね。強いから、平気でいられる。わたしみたいに一人ぼっちでうじうじしたり、びくびくしたりすることなんてない。厄介者だとか、いなくなればいいのになんて言われることもない。言われたって、きっと平気なんでしょ? ういちゃんは自分の身を守れるもん。守れるだけのものを持ってるもん。ういちゃんは普通の人と違う。だから平気。でもわたしは普通なのに、普通ってところにもいられない。じゃあいったい、わたしはどこにいたらいいの? ……わたしもういちゃんみたいだったらよかったのに。わたしは自分がみんなにとってどんなに邪魔な人間かなんて、想像したくもないよ!」

 わたしは呼吸が荒くなって、肩で息をするくらいだった。わたしの言葉に、ういちゃんは決して言い返してきたりはしなかった。

「――ごめん、今日は帰ったほうがよさそうだね」

 ただ、静かにそう言っただけだった。空の青さが、真空の暗闇と混ざってしまったような声で。

 わたしは後悔することさえできなかった。


 それからしばらく、わたしは森のベンチには行かなかった。時期外れの長雨で底冷えのする日が続いて、季節が逆戻りするみたいだった。ようやく雨があがって、風邪をひいているみたいだった夏も息を吹き返してきた。でも、わたしはやっぱりベンチのところには行かなかった。教室は知らない星の上みたいに居心地が悪くて、夏休みに入るまでのあいだ、わたしは下を向いてノートばかり見ていた。


 その一ヶ月ほどのあいだに、わたしは二度髪を切り、熱を出して一度寝込んだ。そして夏休みに入った日に、ういちゃんが死んだ。

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