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吉次郎繁盛1

2話投稿します。

歴史的用語を含みます。

 十一月になった。

 私の郷里も京の都も寒さの厳しいところであったが、関東も負けずと寒い。無地のサラシを首巻にしていつもの半纏を着込み、私は浅草近くの辻に立っている。


 今日は私にとって大事な日である。


 先日、いきなり三両という大金とともに見知らぬ浪人風の御仁から預かった三冊の書物。漢文のままの三国志であった。

 いや、苦心惨憺して読んでみると正史ではなく演義物のようである。ようやく講釈用に話が出来上がり、今日はそのお披露目の日であった。


 江戸の町人にこの話が果たして受け入れられるのか。

 異国物という話の選択だけが問題ではない。講釈師として、初めての戯作者として私は不安で一杯であった。


 昨日で今までの日本の軍記物は一段落する。その折、次は新作を発表すると集まっていた客たちには伝えてあった。おかげで今日はいつもよりも人が多い気がする。

 当然結城何某殿も子連れで来ていた。やはりただの素浪人ではなさそうで、堂々と綿入れを羽織っている。娘も相当大き目のカイマキを着ていた。


「お集まりの皆さん、本日これより語るは遠く(からの国、魏呉蜀、三国での国取り合戦。世にいう三国志であります……」


 口上を述べたところで観衆から『おー』という声が上がった。


 ちょうどこのころの寛文・延宝年間、上方かどこかで『通俗傾城三国志』という浄瑠璃が発表されたのを私も知っている。

 ここに集まっているのはそういう見世物が好きな人たちばかりなのだから知識もそこそこあるのだろう。

 反応は良いとほくそえむ。

 私は心を決めて講釈を始めた。


 結城殿から預かったのは三国志演義の一部、後半部分の第九十回から第百八回まで。諸葛孔明出師の表から五丈原での陣没、そしてかの有名な『死せる諸葛、生ける仲達を走らす』を挟み、司馬氏が魏の実権を握るくだりである。


 確かに合戦と悲劇が交じり合い、人の興味を引く部分だとは思う。結城殿の選択は見事だと感心した。


 だが、世に名文と評価されている『諸葛孔明の出師の表を読みて涙堕さざれば、その人、必ず不忠』というのは、果たして江戸の庶民にもうまく伝わるか不安である。

 そして何よりいきなり第九十回から語り始めるのも抵抗があった。

 よほど教養がある人でもないと物語の内容が伝わらない。もちろん中には合戦の面白さしか求めない観客もいるが、私はできれば話の面白さもわかってほしい。


「さて、長兄劉備、次兄関羽、末弟張飛が義兄弟の契りを結んだのは花の盛りの桃の園にございます……」


 私は物語を最初から説き起こすことにしていた。無論結城殿から預かった本には序盤の回はなかった。昔父から聞いた話や京の公家屋敷で得た知識を自分なりに、初めて聞く町人にもわかるように組み立てて。実際、桃園だからといって花が咲いていたかは私にはわからない。


 しばらくは客の反応を見ながら、自分の知っている限りの三国志をわかりやすく伝えようと努めるつもりだ。


 私にとっても初めての講釈・三国志の初日は割合うまくいったと思われる。手に入った聴講料がそれを物語っていた。百文はある。


「杉森殿。見事でござる」


「結城殿……」


 私が約定どおり三国志の講釈を始めたことに満足したのか、今日は観客が引けてから結城殿が話しかけてきた。

 例の浪人笠、着流しの風体で。後ろにはすまし顔の女の子もくっついている。


「初回から語るのであれば全巻持参したのだが……」


「いえ、触りだけですので、無くとも何とかなります」


「さようか。では、これからも期待いたすぞ」


「はい。私も楽しくなってきました」


「しっかり励むのだぞ」


「こら、春! 失礼いたした。では後日」


「はい。またお待ちしております」


 大人に生意気な口を利くな、と叱られた少女は不満げな表情で立ち去ろうとする。

 結城殿は慌てて追いかけていった。


「どういった関係だろう……」


 私は夕暮れが近い辻で二人の後姿を見送った。




 それからしばらく経った十二月下旬のこと、延宝五年も暮れようとしている。


 その日私は乞胸頭に呼ばれて再び非人屋敷を訪れていた。


「吉さん。評判だってな」


「はあ、お二方のおかげです……」


 非人頭・車善七は鷹揚に長火鉢のそばに私の席を用意してくれている。


 今日は小雪が舞い、外はかなり寒かった。

 ところが、この寒さの中、私の講釈を聞きに来てくれる人がかなりいたのである。それもこれも、あの日結城何某殿から三国志の本を託されてからのことだ。

 あれから一月余り、観衆は日に日に増え、上がりも結構なものとなった。これを聞きつけた乞胸頭の仁太夫が私を呼び出したというわけである。


 同業の講釈師から苦情でも出たのだろうかと、一応上がりの一部を納めるつもりで持参してきてはいるが、非人頭と乞胸頭の機嫌はよさそうであった。


「今日は何か……」


「なに、評判の先生と一杯やろうと思っただけよ」


「そんな、車様。先生だなどと……」


「吉さん、いいじゃねえか。もうすぐ正月なんだ。めでてえこった」


「仁太夫殿まで……私はてっきり苦情が来たのかと」


「苦情?」


「はい。私のところばかりに客が集まるなどと……」


 二人は顔を見合わせて笑い出した。


「あの、何か……」


「おめえもよくよく人がいいな。その分だと上がりも持ってきてるんだろ」


「はい。持参いたしました」


 私が銭の入った布袋を差し出すと二人は再び笑い出した。


 この稼業に入ってまだ日の浅い私にはどういうことかよくわからない。


「もし鑑札も無しにそれだけ荒稼ぎしてたら一大事だがな。客の多寡まで苦情は受け付けてねえよ」


「おめえは月々四十八文払ってんだ。稼ぎは好きにしな。それだけあれば足洗って国にも帰えれるだろ」


「しかし、これは私一人の才覚では……」


「さすが武家の出は違うってトコか。堅いねえ」


「なら、おめえに本を持ってきたサンピンと山分けでもすりゃいいじゃねえか」


「それが、そう持ちかけましたが受け取ってもらえませんでした」


「なんだ? もう持ちかけたのかい」


「はあ……」


「それで俺たちに納めようってか。本当に欲のねえこった」


「申し訳ありません」


「謝るこたあねえが……そうだな、それでおめえの気が済むんならもらってやる」


「そうですか。ありがとうございます」


「よせよ。話が逆じゃねえか」


 確かに妙な話だ。自分でも不思議なくらいこの金子には執着できなかった。

 そもそも、私が江戸に来たのは新たな芸術を求めてのことである。私のいた上方では江戸より文化が進んでいるのだが、確信は無かったものの、新たな出会いを求めて文化振興発展中のこの地にやってきたのである。金銭は二の次だった。

 無論、野垂れ死にするわけにはいかぬので、こうして乞胸に身を窶しているわけではあるのだが……


 それはさて置き、またもや非人たちが呼ばれ、非人頭から金を受け取ると、私は大いに感謝された。宴の準備がなされる。


「――吉さん、金のことはいいとしてな」


「はい?」


 酒を酌み交わしながらだが、乞胸頭の仁太夫が話しかけてくる。


「他の講釈師もピンからキリまである。どうでえ、吉さんの書いた本を売れてねえ連中に譲っちゃくれねえか?」


「私の、ですか?」


「おうよ。先の、三国志とやら、語り終わったんだろ?」


「はい。先日……」


「ならよ、かまわねえだろ?」


「はい。元本はお返ししましたから、私が書いた走り書きしかありませんが、それでよければ……」


「おう、かまわねえだろ。やつらも一端の講釈師なんだ。後はてめえでなんとかするさ」


「わかりました。明日持参します」


「気が早えな。いつでもかまわねえよ」


「はい」


 どんどん酒の壷が回ってくる。宴の陽気な雰囲気に包まれながら、私はあることを思い出していた。



 預かった三国志での予定の講釈が終わった日のことである。結城殿がやってきて再び船宿に招待を受けた。当日ではなく翌日の夕方ということであったので、私は預かっていた書物とこれまでの稼ぎを持参するほうがよいと考える。


 約束の日、江戸の街は冷え込んでいた。私の講釈も休みにしてちょうど良かったと思いながら船宿に向かう。


 船宿では、私は相変わらずぼろぼろの格好であったが、今回は愛想よく通してもらえた。

 既に結城殿はお待ちのようである。無論お春という少女も。


「杉森殿。ご足労でござった」


「いえ、そちらさまこそ」


「火に当たられよ。ささ、一献参ろう」


「これはかたじけない」


 挨拶もそこそこに酒を酌み交わすことになる。招待を受けた身、いきなり金の話は無粋と、私も大いに飲み、食べた。


「改めて申しますが、結城殿。此度はまことにありがとうございます。感謝いたします」


 食事の終わったところで、私は威儀を正し、私より年若き人物に頭を下げる。形ばかりではない。心からの行動だった。


「何を申される。こちらから請い願ったこと。礼を申すのは拙者でござる」


「いえ、今回の一件で何かつかめた気がします。よい機会を与えてくださり、まことに感謝しております。つきましては、貴重な書物をお返ししようと持参いたしました」


 風呂敷に包んだ本を差し出す。そして銭の入った布袋も。


「差し上げたつもりであったが、貴殿がそう言われるのであれば引き取ろう。だが、これは?」


「細かい銭で申し訳ありませんが、此度の講釈で得た金子です。これもすべて結城殿の提言があったからこそ。お納めください」


「……わかり申した。受け取り申そう」


 結城殿が私の差し出した金子を受け取ってくれた。ホッと一息つく。だが、このあと思いもよらない展開になった。


「では、今度はこちらを」


「え?」


 そう言って結城殿は私が返却したものとは違う風呂敷包みを目の前に置く。開いてみると、またもや書物であった。今度は十冊ほどある。


「これは……水滸伝……ですか」


「如何にも。ご存知か?」


「いえ、寡聞にして……申し訳ございません」


「かまわんでござる。次はこれを講釈で使っていただきたい」


 私が知らぬだろうと予想していたようで、今回は第一回から揃っている。

 やはり漢字ばかりであったので、私にはすぐにはわからなかったが、その場で簡単な説明をしてもらえた。


 なんでも、百八人の豪傑が梁山泊に集結する話で、そこまでが七十回。その段は朝廷に背を向ける話だから適宜に紹介すればよいとのこと。後半部分が朝廷の命で契丹の王朝・遼や奸臣と戦う場面だそうだから、ここを重点的に語ればよいと指導を受ける。


 的確な説明に感心しかけたところに、結城殿が私を困惑させる真似をする。


「では、これは支度金として使ってくだされ」


 そう言って差し出したのは先ほど私が納めたばかりの金子ではないか。


「あ、いや、困ります……」


「今回は未知の文献。時間もかかろう。遠慮は無用に願いまする」


「しかし……」


「金が要らぬとは珍妙な男じゃ。それに、一度差し出したものを引っ込めろというのか。こちらは受け取ったではないか」


 私が躊躇っていると、お春が口を出してくる。相変わらず子供とは思えない口の利き方だ。


「こら、春! 無礼だぞ!」


「ふん」


 お春は結城殿に叱責されて鼻を鳴らす。


 しかし、口の利き方はともかく、お春の言っていることは的を得ていた。確かに結城殿は私の差し出した金子を受け取った。結城殿が私に渡そうとしているのは、形こそ先ほどの布袋ではあるが、名目は支度金。

 前回三両という支度金を既に受け取っている私には今回だけ断る理由が無い。


「……わかりました。ありがたく受け取らせていただきます。いや、春殿には敵いませんな」


「ふん、それ見たことか」


「春! 申し訳ござらぬ、杉森殿」


「いえいえ。こちらこそいらぬ気を回してしまって」


 春までには講釈用に話を作ると約定し、その日の会合は終わった。


「杉森殿、書物の内容に関してわからぬことがあったら何でも聞くといい。拙者も春もよく存じておる」


 帰り際、結城殿からこんな申し出があった。だが、私は未だにこの二人の素性を知らぬ。


「聞くといっても、お住まいは?」


「そうであったな……では、ここの船宿の者に言付けるとよい。すぐに馳せ参じよう」


「はあ……わかりました……」


「では、期待しておりますぞ」


「しっかりな」


「春! では……」


「お気をつけて……」


 浅草の大川端で二人を見送った私は寒風にブルッと震えた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


「なるほど。三国志が当たったんで、また次の本が来たんでっか」


「そういうことでしょうな」


 道頓堀の茶屋で、昔の私が講釈でも人気があったと聞いて、政太夫も座長も楽しそうである。


「で、先生。スイコデンいうんは何なんで?」


「知りまへんか? 漢籍でなら結構出回ってますが……」


「そりゃムチャですわ」


 漢字だらけの本など、この若い芸人には縁の無い話だったようだ。確かに、あれから数十年たった今も和訳はされていないようである。


「まあ、ご公儀に逆らう豪傑たちの物語いうところですかな」


「半端モンでんな」


「いやいや。そンころの中国は宋朝末期でな、ロクでもない皇帝はンや悪代官が溢れとったんです。そやさかい、そン人たちはお上に背ぇ向けるしかできなかったんでしょうな」


「由比正雪の乱みたいなもんでっしゃろか?」


「座長はいいこと言わはりますな」


 しかし、と私は訂正する。


「でもな、そン人らはお上を倒そうなどとはしませんでしたで。ただ追っ手から逃げるために戦いましたンや。結局朝廷の招聘に応じて帰順してな、外国と戦ったり活躍しましたンです。最後はお役人にコキ使われて全滅しましたけどな」


「エゲツないでんな」


「そやな。しかし、読み物ですから」


「で? そン話は儲かりましたか?」


「無粋でんな。まあ……ぼちぼちでしたな」


「さすがは先生や!」


「ふふ。ほな、続けますで」


「へえ」


 鬼籍に近い老人でも、こうして若者を楽しませることができる。私自身も楽しくなってきた。



 

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