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ある若者との出合い

作中の時間が少し飛びます

 延宝五年十月某日。


「……今日はこれにて。次回、期してお待ちのほどを……」


 講釈師としての口上にも慣れたある日の夕刻、浅草寺近くの道端で私がその日の講釈を終えたときのことであった。


 見物人たちがぞろぞろと引き上げようとするのとは逆さまに私に近寄ってくる者がある。


 見ると、浪人笠をかぶった着流しの御仁であった。


 背が高い。


 私も五尺三寸で小さいほうではなかったが、笠を取っても六尺はあるのではと思える。

 二本差しであるから武家であるのに間違いはないが、袴も穿いておらず、まともな旗本や御家人の姿ではない。

 かといって、地味ではあるが上物の着物のようで、素浪人とも思えない。


 《良家の次男坊か三男坊だろうか……》


 私が江戸に来る少し前に流行った白柄組などの旗本奴の類かと心配したが、そうとも思われない。


 なぜなら、その御仁は少女を連れていたからである。


 その娘も変わっていた。

 年のころは十を過ぎたばかりの、着物は普通の小袖のようだが、振り分けというのか、髪を切るでもなく長いまま左右に垂らし、前髪は目刺、そのくせ後髪は崩れた銀杏髷のように結わえている。私がこれまで見てきた子供とは違っていた。


 私は、その御仁が見物料でも払ってくれるのだろうかぐらいにしか思わなかったが、意外な申し出があった。


「すばらしい講釈でござる。是非お話を伺いたい。お近づきの印に一献如何かな?」


「えっ?」


 驚いた。


 私は確かに武家の出だが、この稼業に身を窶してからは人とも思われていないのであるから。


「怪しい者ではござらぬ。姓名の儀は場所を変えてから改めて。さあ、ご同行仕ろう」


「はあ……」


 その強い申し出に断る理由もなく、相手が子連れの安心さも相まって、私は仕方なく従うことにした。広げていた講釈に使った小道具を片付け、二人の後に続く。


 大川端を遡り、私が連れてこられたのは一軒の船宿であった。

 ちょうど暮れ六ツの鐘の音が聞こえてくる。


 私が店に入るとき、よれよれの着物と袴に講釈師の常用する半纏を着ていたものだから、店の者はなんとなく不思議そうな顔をしたが、既に話は付いているらしく、何の不都合もなく部屋に案内された。


 料理と酒が運ばれ、店の者が出て行くと、そこではじめて例の御仁が、それまでかぶったままだった編笠を取る。


 これまた意外であった。

 身体が大きい割に童顔で、年のころは十六、七と見える。その若さにも驚いたが、髪形は総髪であった。私のような浪人者が月代を伸ばし放題にしているのとは違い、明らかに月代を剃ったことがないような長髪で、それを後ろでひっつめてあるだけである。


 この御仁はこの年で元服していないのだろうか。それとも本当に武家の者か。


 そう私が疑いを持ったとき、その御仁が口を開いた。


「改めてご挨拶申そう。拙者、結城源之将と申す。以後良しなに。春、杉森殿にご挨拶を」


「……春と申す……」


 結城源之将と名乗った総髪の若侍はきちんと膝を付いて挨拶したが、お春という娘のほうは畳の上に足を投げ出したまま無愛想に名乗った。


 子供のこと、それはかまわない。

 だが、私が驚いたのは別のことである。


「な、何故私の名をご存知か?」


「……一献差し上げよう」


 私の質問には答えようとはせず、結城殿は四合徳利を私のほうへ差し出した。


 私は憮然として杯を取る。相手の身分はわからないが、少なくとも今の私は武士として振舞うことはできないのだ。


 注がれた酒を一息に飲み干すと、義理は果たしたといわんばかりに私は杯を膳の上に置いた。


「結城殿と言われましたな。何故私の名をご存知か。お教えいただきたい」


「これは失礼。つい口が先走り申した。平にご容赦を。しかしながら、杉森殿の名は講釈師として有名でござる。実はそれを恃みにまかりこした次第でござる」


「いや、私は有名などでは……」


 なんとなくごまかされた気がしないでもないが、初対面の御仁に褒められたのであってはこれ以上詮索する気も起きなくなる。


 再び徳利を差し出され、私は勧められるままに二杯目を飲んだのであった。


「では、改めて。私は杉森吉次郎と申します。見ての通り講釈師で、武家とは名乗れぬ身ですが、よろしくお頼み申します」


「こちらこそよろしくお頼み申す。さあ、召し上がってくだされ」


 何とか自己紹介の段は終わったが、結城何某殿は本題に入るでもなく食事を勧めてくる。


 見ると同行の少女は私のことなど気にも留めていないかのように既に食べ始めていた。


 私も、この者たちに対してなお不信感はあったものの、仕方なく箸をつける。


 旬の魚の焼き物、酢の物、煮貝。ありふれたものだが、私の膳にだけ刺身が付いていた。

 これは私に対する待遇の良さか、或いは単なる嗜好の違いかと悩んだりもしたが、招待を受けた身の上、余計な詮索は憚られる。

 黙々と箸を進めるのみであった。


 情けないことだが、こんなありふれたモノですら私たち乞胸を生業とするものにとっては普段口にすることもない。

 久しぶりの贅沢な味に私は酔い痴れてしまった。


 あらかた食事が済むと結城何某殿がまたまた酒を勧めてくる。


 よく考えると私一人が飲まされている気がした。


「ご返杯を」


「これはかたじけない」


 ここでやっと若者も酒に口をつけた。


 私は少しホッとする。


 その私の心を読んだのか、結城殿が本題に入ろうとした。本題といっても、底が見えなかったが。


「実は、貴殿にこれを進呈いたそうと……」


「これは……」


 若者が差し出したのは風呂敷に包まれた三冊の書物であった。


 中を見てみると、どうやら三国志の一部だと思われる。『思われる』と断言できなかったのは、中はすべて本字、つまり漢文であったからだ。


 私が当惑の様子を隠せないでいると、結城殿が更に意外な提案をしてくる。


「これを講釈で使っていただきたい」


「えっ、これを……」


「さよう。如何かな」


「うーむ……」


 当然のように私は悩んだ。


 まず本の中身がわからない。その気になれば読めぬこともなかろうが、勝手が違う。

 それに、これを講釈のネタにして客が集まるかという問題もあるのだ。

 聴衆が喜ばねば講釈師にとって死活問題だ。


「何か不都合でも?」


「あ、いや。お頭の意見も聞いてみなくては……」


 この時点では私は断るつもりであった。

 個人的な興味はなくもなかったが、他人に講釈のネタを、それも海のものとも山のものとも知れぬ異国物を勧められるのは迷惑でしかないのだ。


「さようか。ならばそうするがよい。ああ、もし実入りのことで不安があるのであれば、些少だがこれを。今日の講釈を聞かせていただいた分にござる」


 と言って向こうが差し出したのは、懐紙に乗せられた金子。

 私は飛び上がるほどに驚いたのも当然である。


 三両あった。

 当時、江戸の庶民の収入といえば、人によって差はあるだろうが、一般的な棒手振り商売で一日二百文。

 三両は彼らが一日も休まずに二月ふたつき働いてやっと稼げる金額だ。


「い、いくらなんでも多すぎる。これは人を馬鹿にしていますぞ」


「もらっておけばいい。お互い役に立つのじゃから」


 私が微かに残っていた武家の矜持で断ろうとすると、これまで黙っていた娘がいきなり大人びた口調で話に入ってくる。ニコリともしないのも子供らしくなく、私は反応に困ってしまう。


「春。失礼な口を利くでない。失礼いたした。これは支度金と思っても構わぬ」


「し、支度金?」


「さよう。是非貴殿の新たな講釈が聞きたいと存ずる。本の内容を把握するのにも時間はかかるであろうから、その間タダとは言わんでござる」


「うーむ……」


 私は再び悩む。


 ここまでしてこの御仁にどんな得があるというのか。

 それとも単なる金持ちの道楽なのだろうか。

 もし道楽と言うのであれば私も気楽に引き受けることができる。


 が、初めて会ったにしては私にはこの若者がそんな人間だとはとても思えない。どこかの大店のご隠居というのならまだしも、何故子連れの浪人風情がと、どうしても得心がいかないのだ。


「たいせー、眠い……」


「そうか。では引き上げるとするか」


 私がなおも逡巡していると少女が眠気を訴え始め、結城何某殿は娘を連れて立ち上がった。


「あ、これは……」


 結論の出る前に事態が進行していくようで、私は目の前に無造作に置かれた金子を指差し、慌てて言った。


「お納めくだされ。後日改めてお訪ねいたす。では、これにて」


「あ、お待ちください……」


 二人が部屋を出るのを、私は書物の包みを抱え、慌てて追った。少し癪だったが金子を袂に仕舞い込んで。


 既に外は暗闇に包まれている。


 私たちは船宿を出ると大川沿いを川下に向かって歩き出した。


 途中私は正体不明の若者に二、三それとなく尋ねる。


 だが、その答えは概ねこういうことだった。『すべては講釈の出来次第』だと。

 つまりはこの三国志を語って聞かせ、それが満足できるモノであれば詳しい事情を教えるし、もしお眼鏡に適わなければ他の講釈師を当たるということなのだろう。


 なんとなく釈然としないまま浅草に戻ってくるとそこで二人と別れることになる。


 二人はそのまま、いや、ついに歩くこともできなくなった娘を若者が背負い、大川端を歩いていった。


 暗闇に消えていく姿は本当にこの世のモノか、私を身震いさせずには置かなかい。

 だが、懐の書物と小判がその思いを打ち消すのであった。



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