二人のお頭
歴史的用語です。他意はありません。
口入屋を出た私は、ずんずんと先を行く編み笠の御仁の後を追った。
私も江戸までの旅路で使っていた編み笠を被っている。こうすれば不恰好に伸びた月代も隠せるだろうという計算もあった。
先頭を行く講釈師殿は特に話しかけてくることはなかったが、こちらの質問には愛想良く答えてくれる。
曰く、これから向かうのは浅草。私は江戸は不案内だが聞いたことはある。私が一時根城にしていた日本橋辺りから北に一里ほどだという。
曰く、そこに乞胸、辻で何某かの芸を見せ施しを受ける、その者らを纏める頭がいる。鑑札はその方から授かるのだそうだ。
曰く、口入屋の番頭が言っていた、乞食の仲間入りだの、非人の仕事だの、という件に関しては概ねその通りなのだそうで、乞胸は、身分としては町人、扱いは非人と同じとのこと。詳しくは乞胸頭に聞け、と言う。私はその説明にいくらか安堵するものを感じた。
完全に非人に落とされるわけではなさそうで、そのことは、豪快で快活な琵琶の講釈師の姿からも見て取れる。
あれこれ説明を受けながら歩いているうちに半刻はたったようで暮れ六つの鐘が聞こえてきた。初夏のこととて辺りが薄暗くなり始めている。
鐘の音の後もしばらく歩を進めると、ようやく目的の場所に着いたようだ。
「さあ、ここだ」
案内されたのは、私が想像していた浅草の賑やかな町並みではなく、かなりみすぼらしい長屋が立ち並ぶ一角であった。そこに大き目の建物が一つある。講釈師曰く、乞胸小屋、だそうだ。
私を外で待たせて、講釈師殿が門を潜る。
が、待つまでも無く戻ってきた。
「お頭はお出かけだそうだ」
「で、では、私は日を改めて……」
未だ決心の付かぬ私は、稼ぎの当てのことは置いておいて、一先ず問題を先送りにしようと考えてしまった。
だが、講釈師殿は、二度も案内するのは面倒と言わんばかりに、今日中に何とかするようだ。
「なに、行き先ならわかる。遠くは無い」
そう言うと、私の返答も待たずに歩き始めるのであった。
仕方なく私も講釈師殿の後に従う。
何となく、周りの建物はますますみすぼらしいものが増えてきた気がする。
ふと講釈師殿が立ち止まる。
辺りはすっかり暗くなってしまっていたが、それでもはっきりとわかる、大きな屋敷の前であった。
周りの建物に比べ、場違いなほど立派な屋敷が出現したことに私が面食らっていると、講釈師殿はその大きな門を潜る。無論、私を外に待たせたままでだ。
どれほど待っただろうか。明らかに先ほどの乞胸小屋の時よりは長かった。だが、逃げ帰るか受け入れるかを決断する間も無かったことから、かなり早かったのがわかる。
「入りな。お頭たちが会ってくれるとよ」
編み笠を脱いで琵琶も置いてきたらしい髭面の講釈師殿が迎えに出てきた。
お頭、たち?
乞胸頭、名は仁太夫と聞いたが、仁太夫様が客としてこの屋敷を訪れているのだとしても、私まで屋敷の主人に会わなければならぬのだろうか。どうも状況が掴めない。一体このお屋敷の主は何者なのであろうか。
何もかも異質であったが、講釈師殿の後に続いて門を潜ると、その異質さに拍車がかかった。
京の都で大きなお屋敷は公家のも武家のも数多く見てきたが、ここは、大きさはともかく、まるで様子が違っている。私など比べ物にならぬほど薄汚れた者たちが門内に屯していたのである。そしてすべての者が髷を結っていない。ザンギリである。
(非人……)
私は、戦慄を覚えずにはいられなかった。
私たちが入り込んでも、非人たちは虚ろな眼差しを向けるだけで何をするわけでもなかった。
居心地の悪さを感じながら、ついに私は屋敷に上がる。
暗い廊下を進みながら、講釈師殿の説明を聞いた。曰く、ここは浅草溜、傷病の罪人を収容する幕府の牢、の近くで、そこの差配もこのお屋敷の主人が任されているらしい。
さらに詳しく聞こうとしたところ、目的の部屋に着いてしまったようだ。
「お頭! 入るぞ!」
講釈師殿は、それでも武士の端くれか? と私が呆気にとられるほど無作法に襖を開け放ち、相手の返事も待たずに屋敷の主人がいるであろう座敷に入っていった。それは、踏み込んだと表現できそうな勢いで。
私も、逡巡しながら、その後に続く。
その部屋は明るかった。
それに気付けたのは、私が京の公家屋敷で蝋燭の明るさを目にしたことがあるからだろう。案の定、この座敷には行灯ばかりでなく、燭台に一本の蝋燭が立てられている。相応の身分、あるいは財力がある証左だ。
十二畳ほどの座敷には二人の御仁がいたが、上座でそばに燭台を置いてあるのがおそらくこの屋敷の主だろう。だとすれば、もう一方が私たちが訪ねるべき乞胸頭の仁太夫様に違いない。二人の前には膳が置かれていて、夕餉、というよりは酒盛りの最中だったらしい。
私が訪ねたことで邪魔をしてしまったのではなかろうか。
私の心配をよそに、講釈師殿は無遠慮にお二方のそばにドカリと腰を下ろしたが、私が真似るわけにもいかないだろうと、座敷に入ったところで着座した。
「おう! そいつが新入りか!」
お二方のどちらが発言したのか、目を伏せていた私にはわからなかったが、驚くべき内容であった。思わず正面に目を向けてしまう。
さらに私を驚かせることがあった。
上座に座していたのは、身に纏っている着物こそまともなものの、頭髪は蓬髪、ザンギリの御仁だったのだ。そばに控える仁太夫様と思しき御仁の方が浪人髷ながらしっかりとした身分がありそうだ。ひょっとすると、私は見当違いをしているのかもしれない。
私が二重の意味驚いて言葉に詰まっている間に、話がどんどん進んでいく。
「俺が乞胸頭の仁太夫だ。話は聞いたぜ。今日ここでってワケにゃいかねえが、明日にでも鑑札は渡してやる。それで月に四十八文持ってきな。あとはお前さんの勝手にしな」
「おう! いつまで隅っこに座ってやがる! こっち来ねえ。俺が見届けたのも何かの縁だ。一杯やっていきな!」
矢継ぎ早に声をかけられたが、これではまるで私が仲間入りを果たしてしまったみたいではないか。講釈師殿はあの短い時間で一体どんな紹介をしたというのか。
状況に流されてしまうわけにはいかないと、私は強張ってしまった喉から何とか声を絞り出そうとした。
「お、おまちくだされ!」
「なんでえ? 何か言いてえことでもあるのか?」
幸い話は通じるようだ。
私は順に話を進めるため、まずはお頭たちの前、講釈師殿の隣まで移動した。
「お初にお目にかかりいたす。拙者、北陸の産にて、名を杉森吉次郎と申す。お見知りおきを」
上座のお二方に座礼して名乗りを上げる。
講釈師殿と出会ってから、どうにも歩調を乱されっぱなしであるので、この際武家の人間らしく振舞おうと決めた。
心が少し落ち着いたところでお二方のお顔をしっかりと拝見する余裕が生まれる。二人とも四十余りか。講釈師殿とおなじくらいであろう。
「おいおい。堅っ苦しい野郎だな」
やはり横槍が入る。
だが、きっちりと話を聞かねば流されるだけだと悟った私は、姿勢をさらに正し話を続ける。
「こちらの……」
と隣の御仁に目を向けて、結局名を聞いていないことを思い出す。
「……講釈師殿からお頭さまをご紹介いただけることになりましたが、詳しい説明は未だ聞いておりませぬ。お二方にお認めいただけたのは僥倖にございますが、小心者の悲しさ、海のものとも山のものとも知れぬ生業においそれと鞍替えできるほどの度胸は持ち合わせて……」
「わかった、わかった! ケツの穴が痒くならあ! 仁太夫、教えてやんな。ここは非人小屋だぞ。口上は辻でやれってんだ!」
「仕方あるまい。何も聞いてないっていうんだから。おい、軍八。いいかげんなこと言いやがって……」
「へへ……すまねえ」
非人らしきお頭は、見た目どおり改まった言葉遣いが苦手なようだ。私の態度に怒っているというよりは、うんざりしているというべきか。
仁太夫様は、流石に元武家のお方らしく、私の口上もしっかり理解してくれたようで、これなら詳しく説明もしてもらえることだろう。
ついでに講釈師殿の名前もわかった。
「杉森殿……だったか。吉さんでいいか。なあ、吉さんよ」
「如何様にでも」
呼称など大事の前の小事。とにかく説明を聞くことに努めた。
仁太夫様の説明は多岐に渡った。
まずは乞胸の縁起から始まり、改めてこの屋敷、非人小屋の主である『車善七』様を紹介され、乞胸との関わりを説明される。
説明は、酒を飲みながらであった。
いつの間にか私と軍八講釈師の前にも膳が置かれ、説明を聞き終わるまではと酒を固辞する私を尻目に、軍八どのは自分の役目はもう終わったとばかりに車様と酒を酌み交わしていた。
私といえば、膳を運んできたのが身奇麗な女非人だったことに目を奪われかけた程度で、何とか空腹に耐えつつ仁太夫様の話に耳を傾ける。
重要なことは三つばかり。
一つ、乞胸には江戸万歳 辻放下 操り 浄瑠璃 物真似 仕形能 物読み 講釈など十二の芸種があり、それに類する見世物も広く管理しているという。
私にできそうなのは物読みか講釈だろうが、物読みは書物に金がかかりそうだし、ただ本読むより独自に解釈を入れられる講釈師の方が私に合っているかも知れぬ。
一つ、それらの芸に従事する際、非人頭・車善七より一人一枚の鑑札を預かり、月に四十八文納めなければならない。
一つ、身分は町人、扱いは非人と同じとなる。また、車善七の管轄する浅草溜に火災などが起きた場合、非人ともども警護の役を仰せ付けられるそうである。
この点に関してが、私の武士としての矜持が決断を迷わせる所以である。
何故ここまで身分が貶められるのかといえば、生産に関わらないということが問題なのだそうだ。理解はできるが、納得まではできかねる。
似たような生業、ガマの油売りなどの香具師は所謂地回りが仕切っているそうだ。
とにかく、何某かの商品さえあれば上記の芸種には当たらぬということか。
しかし、元手のない私が気にかけることもなし。どちらにしろ私は江戸に商いに来たわけではないのだから。
私の心を惹きつけた俳諧などの文学はあくまで高尚な嗜みと考えるべきで、それらをひけらかして金銭を得ようとするのは下賤だということになるのだろう。あるいは、寺子屋や学問所なら別になるのだろうが、今の私にそんな甲斐性はない。
西行法師などの前例があったため思わず旅立った自分が恨めしい。
「……吉さん、悩んでるようだが、鑑札を返してしまえば身分も元通りだぜ?」
なんですと?
説明の間中しかめっ面で逡巡していた私に、仁太夫様が思いがけぬ言葉を投げかけてきた。そして私の反応を見て笑っていた。
私は余程間抜けな表情を晒していたのだろう。
だが、そこで私は考える。
一時的な身分の落差に甘んじさえすれば、何とか食うに困らないだけは稼げそうで、おまけに自分の求めていた新たな文芸を見つけられるかもしれないのだ。
私の心は決まった。
「その顔は、やる気になったようだな」
「はい! 何卒よろしくお願いいたす!」
私は、まず乞胸頭の仁太夫様に頭を下げ、ついで非人頭の車様に改めてご挨拶する。今度は堅苦しいのがお嫌いな車様も鷹揚に頷いてくれた。
「そうか! ようやく決めたか。これでご同輩じゃな」
髭の講釈師、軍八どのも楽しそうに声をかけてきた。
「……今度こそお名前を聞かせてもらえますか。講釈師殿。拙者、杉森吉次郎と申す新参の講釈師にござる」
「ん? はっはっはっ! 車のお頭が言われるように堅いのう、お主は。まあ、よかろう。ワシは中野軍八。日本橋が主な稼ぎ場所じゃ」
「中野殿、今後ともよろしくお願いいたします」
「うむ。だが、もう堅いのは無しじゃ! さあ、飲め!」
やっと名乗り合うことができた。
心の引っ掛かりがなくなったところで杯を取り上げる。
仁太夫様も車様も笑って酒を勧めてきた。
しかし、素浪人一匹が乞胸仲間になったからといって、どうしてお頭二人がこうまで歓待してくれるのかはわからない。
だが、わからないからといって問題はない。単に酒宴の余興と見ているだけやも知れぬから。
次々に回ってくる酒を、私は楽しき心持ちで飲み干していく。
何杯目かで、空きっ腹の私はひっくり返ってしまった。
こうして杉森吉次郎は講釈師としての道を歩み始める。