葛藤
歴史的用語です。
私は知らぬ間に湯屋の裏口から飛び出していた。
褌一丁に、手に鉈を握り締めたまま……
「なっ、なんだ!」
琵琶を抱えた編み笠の浪人は狼狽していた。
私はハッと我に返る。
「こ、これはご無礼つかまつった! しばし! しばし待たれよ!」
辺りを見渡したが、そこは裏路地で、幸いにも彼の浪人殿の他は誰もいなかった。
仮にここが山中や海辺なら、山賊海賊が襲い掛かったとしか見えぬであろう。
何しろザンバラ髪に、褌姿で鉈を構えていたのだから。
私は慌てて湯屋の裏庭に戻る。
生乾きの着物を急いで羽織り、髷は結っている時間も無いため手ぬぐいで頭を包むのみにした。
だが、何とか人前に出られる格好になったことだろう。
浪人殿が待っていてくれるといいのだが……
「おお……ありがたい」
どうやら願いは通じたようで、浪人殿は裏木戸のところで待っていてくれた。
「いきなりのお呼び止め、ご無礼つかまつった。拙者、かような有様ではあるが、武士の端くれにて……」
「待たれよ。折角のご口上だが、聞きたきことがあらば、もそっと簡潔にな。ワシも食い扶持を稼がねばならぬゆえ」
早速事情を説明し、浪人殿の生業が口入屋の番頭の言っていたものであるのか聞き出そうとしたところ、口上を遮られてしまう。
拙速に過ぎたのであろうか。
「これは申し訳ござらぬ。したが、枉げてお頼み申す。しばし時をくだされ。是非とも貴殿の生業についてお聞きしたい」
「うむ……枉げてとあらば無下にいたすも人としてあるまじきこと。よかろう」
「かたじけない! ならばこちらへ」
どうにか話を聞かせてもらえることになった私は、勝手に湯屋の裏庭に浪人殿を案内することに。
浪人殿もここの湯屋を知っているらしく、別段怪しむことなく案内に従ってくれた。笠を取った浪人殿の面相は、私よりもよほど山賊が似合いそうな髭面であったが、それだけに貫禄のある四十過ぎの御仁であった。
薪の山に二人で腰掛け、早速話を聞く。
「……貴殿は先ほど平曲を弾き語られておられたが、法師でもない方が何故? それが生業とすれば……」
「ワシは講釈師よ。先ほどのは、まあ、稼ぎ場に着くまでのホンの手慰みじゃ」
「こ、講釈師……やはり……」
「なんだ。聞きたいこととはそんなことか?」
「あ、いえ……」
私は言葉に詰まる。
実際に講釈師を生業とする者に出会ってしまったことで、自分でも、いったい何が聞きたかったのかわからなくなってしまった。
仕方なく、口入屋で薦められた一件を聞いてもらうことに。
「実は……講釈師などの見世物を生業にしてみたらどうだと薦められておりまして……ですが、それは非人の仕事であると……コジキの仲間入りする覚悟があるのかと……」
髭面の講釈師殿は黙って聞いていてくれた。
再び私が言葉に詰まると、私の意を汲んでくれたかのようにある提案をしてくれる。
「……そうか。お主も崖っぷちのようじゃの……よし! ならばお頭に会って話を聞くが良い。決めるのはそれからでも良かろう」
「えっ……それは……」
「なに、取って食われるわけでなし、心配致すな。では、ワシは稼ぎに戻るとしよう。ああ、口入屋とは、ここから一町先のところだな。そうだな……七つ下がりにそこで待っておれ。湯屋よりは人目も気になるまい」
後で決めても良いとは言われたようだが、お頭とは一体何者なのかもわからぬまま話が進み、私は混乱の中にあった。
だが、浪人殿改め、講釈師殿は言いたいことを言い終わると、さっさと湯屋の裏庭を出て行ってしまわれた。
「…………」
私はノロノロと立ち上がり、未だ割り終わっていない薪の山に眼を向ける。
講釈師殿との約束は七つ下がり。
今はまだ正午にもなっておらぬから考える時間はまだまだある。
私は無言で薪割りを再開するのだった。
昼下がり。
洗った着物どもも乾き、薪も割り終わった。
汗を掻いた身体を井戸の水で清め、髷を結いなおす。元結は例の『代筆』と書いてある半紙の切れ端を紙縒りにして使う。髪結いに行く金は無し、髪油も無いが、まあ、浪人には見えるであろう。
月代は今は如何ともしがたいが、身奇麗になったところで湯屋の主人に礼を言いにいく。
薪をすべて割り終わったと告げると、期待しても無かったが、番台の老人は笑って幾許かの心付けを払ってくれた。むしろ湯屋代よりも多いかも知れぬ。これも髭を剃り、髷を結い直したおかげであろう。やはり、見た目は大事なのだ。
これなら口入屋も代書などの帳場の仕事も紹介してくれるかもしれない。
などと調子の良いことを考えていると、老人が何かを差し出してくる。
「ああ、ご浪人さん。良かったらこれも持って行きねぇ。焚き付けにしちまおうと思ってたボロ草履ですまねえが、ご浪人さんの擦り切れ草鞋よりかマシじゃろ」
「かたじけない。ありがたく」
今の私は他人の好意に縋るしかないようであった。
武士の矜持だ何だと言わずに、素直に受け取る。
「それからな、その足袋質が良さそうじゃの。古着屋に持って行きゃいくらかにゃなるじゃろ。ここに落ち着くんなら、寒くなった時ゃあ、そん時考えなされ」
「ご忠告、痛み入る」
私はありがたく草履に履き替え、背負っていた行李に足袋を仕舞い直す。草鞋は、代わりに焚き付けに使ってもらうことにしよう。
もう一度老人に礼を述べ、私は湯屋を出た。
日はまだ高かったが、行く当ても無し、口入屋に戻ることにする。
朝方は結局仕事の当てを聞けなかったが、明日の仕事に有りつけるかもという期待もあった。
「御免。仕事はないか? 無くても、できれば夕刻までここで待たせてほしい」
「おや、ダンナ。サッパリしたようで……」
番頭が目聡く私を見つけ、声をかけてくる。
だが、仕事の話を改めて尋ねると、やはり旨い話は転がっていないようで、すぐ見つかるのは荷揚げ人足の仕事ぐらいだという。
私は覚悟を決め、朝方の続きを聞くことにする。
その前に、先ほどのご浪人改め講釈師殿の話をしてみた。
「実はな、番頭殿。先ほど講釈師を名乗る御仁に出会ってな。お頭に紹介すると言われたのだが、お主が紹介すると言っておった『然るところ』とは違うのだろうか? あ、いや、まだ行くと決めたわけではないのだが……」
「そうですかい。それで、そのお頭のお名前は?」
「聞いておらぬが……拙かったであろうか……」
また間抜け振りを晒してしまったようだ。
確かに、何某だったと先方の名前を出さなければ、いくら目利きの番頭とて同一人物かどうかわかるはずも無い。
項垂れてしまった私を見て、番頭は笑顔のままであった。
嘲りではなく、大した失敗ではないから心配するなといわんばかりの微笑みに見えるのは、偏にこの男の海千山千の経験の賜物であろう。
「まあ、仕官をエサに支度金を騙し取ろうなんてぇ話はよく聞きますが、ダンナの身なりじゃそれも大丈夫でがしょ。それより、夕刻とかってのは……?」
朝と変わらず歯に衣着せぬ物言いだが、全く以って同感であるので、気を取り直して答えることにする。
「そのことで番頭殿に頼みがある。かの御仁が夕刻にここに迎えに来てくれるそうな。すまぬが、それまでここで待たせてもらうわけにはいかぬだろうか」
「かまいませんとも。ご覧のとおり、ダンナみてえなムサっ苦しい連中が入れ替わり立ち替わりしてるんで」
嫌味とも取れる言葉で番頭は了承してくれた。
私も図太くその言葉に乗る。
「かたじけない」
帳場の隅に陣取り、七つ下がりを待つ。
「いらっしゃい!」
口入屋は夕暮れ近くになっても繁盛していた。
「番頭! もっとマシな仕事はないのか!」
「ウチにゃ六つを頭に十人のガキが腹減らしててよお……」
「頼む! 今月中に金を返さねえと簀巻きで大川に……」
することもなく座っているのは苦痛であるが、様々の人間模様が見て取れる。
まあ、中には不可思議なことを口走る輩もいるようだが。
番頭の客のあしらいぶりは見事なもので、つい見入ってしまったが、ようやく約定の刻限が近づいてきた。
私の心は、否が応でも緊張し出す。
話を聞こうとは決めたが、その先までは決心が付かない。なにしろ、身分に関わることである。
「お。おったな。では参ろうか」
不安が私の心の半ばまで占めようとした頃、ついに琵琶を抱えた深編み笠の浪人が現れた。
「お、お待ちくだされ!」
私の姿を認め、せっかちに同行を促す浪人に、いや、講釈師殿に何とか引止めの言葉を投げかけることができた。
番頭もこちらの様子に気付いたのか、帳場から出てくる。
「なんだ? 怖気づいたのか? 考える時間はたっぷり有ったろう? あまり遅くなるとお頭も会ってはくれぬかも知れんぞ」
「い、いえ。その前に貴殿の姓名をお聞きいたしたく……」
朝方湯屋で出会ったときは相手の勢いに押されたまま名乗りを上げることもできなかったが、番頭に気付かされるまでもなく、まともな周旋では有り得ないことだ。
だが……
「ふむ……それは後でよかろう。お主がこの話を蹴るというのであらば、所詮は縁無き衆生よ。名乗って何になる?」
流石は講釈師といったところか。禅問答の如くあしらわれてしまう。
「で、では、何故縁も縁も無い某に口利きなど……」
「それこそ袖振り合うも何とやらだ。さあ、行くか、行かぬか。どっちだ?」
一々尤もな受け答えに、私はそれ以上の問答を続けることができなくなった。
だが、近づいてきた番頭の顔を目にし、最後に確認すべきことを思い出す。
「ならば、せめてお頭と言われる方のお名前をお教え願えぬか?」
「おう。そうだな。お頭の名は『仁太夫』じゃ。これで良いか?」
後ろの問いかけはそばに控えていた番頭にしたものであろう。
私が番頭の方に目を向けると、番頭は黙って頷いてくれた。
「……わかりもうした。口利きの件、何卒よしなに……」
名も知らぬ講釈師は私の返事を聞くと、うむ、と一声答えるだけでそのまま口入屋を出て行く。
私も、番頭に礼の言葉を述べつつ、慌ててその後を追いかけるのであった。