門左衛門昔語り2
初めての投稿なので、試しに分割してみました。
4月4日行間修正
あくまで歴史的用語です。他意はありません。
私は再び講釈を始める。
「寛永元年いうたら、明の年号だと天啓のころですな。そん時分はまだ明国も何とかやっとったそうです。
日本の平戸で生まれた鄭成功はンは七歳で父親・鄭芝龍の国、明に帰りなさった。
その後、あのお人が二十歳のとき、寛永二十年、明の崇禎十七年、李自成という男が反乱を起こして都に攻め入ったンです。
時の皇帝大慌てするも、家臣を呼べど誰一人として馳せ参ずるもの無し。
哀れ崇禎帝、息子たちを逃がした後、御台所とご側室、それに姫君たちは賊の手に落ちるよりはと、己の手にかけてしまうしか道は無し。
そしてお城の北にある景山に赴くと首を括り、お隠れになられた。
その前に長平姫を斬るに際しては、『ああ、そなたはどうして皇帝の娘に生まれてしまったのか!』と泣いたという。
しかし、泣きながら斬ったためか、振るった刀が急所を外れてしまい、長平姫は左腕を負傷したのみで一命を取り留める……」
私は明国最後の皇帝のくだりまで一気に話を進めた。
おかしなもので、上方者の私でも、講釈になるとだんだんと口調が変わってしまう。本を書くときもそうなのだ。
それがわかっているのか、二人は話の方に夢中のようであった。
「その李自成とやらは韃靼でっか?」
政太夫が思い出したように聞いてくる。
私は苦笑せざるをえない。
実際明国を倒した清国は女真族という民族が建てた国であるが、韃靼という呼び名は非漢民族の総称のように使われていて、私の書いた『国性爺合戦』でも敵役として登場させていた。ために政太夫の質問には正確さを求めずに話を続けることにする。
「いや、明のお人ですな。一揆の元締めみたいなもので」
「百姓でっか? ムチャしますな」
「それが、『順』という国を創って皇帝を名乗ったンです」
「ひえ~。あちらはやることが大きゅうおますな。太閤さん以上やで」
「そうですな。ですが、そうはうまいコトいくはずありまへん。都は火付けや盗賊で溢れ、荒れに荒れたそうです」
「戦というモンはどこでも同じでンな」
「そうですな。結局李自成の天下は四十日ほどやったそうです」
「太閤さんやなくて、明智光秀の三日天下みたいなモンでしたか」
座長が政太夫の例えを上手く訂正する。
「……今度こそ韃靼でっしゃろ?」
政太夫は少しばかり不満そうであった。なかなか自分の講釈した内容につながらないものであるから。
私が苦笑して肯定すると、目を輝かせる。
本当に可愛い子だ。
「そうです。明の武将で呉三桂というお人がおりまして、これが中国の東北に出来てた清国に降ってたンですな。それが、こともあろうに清軍を引き連れて占領されてた都に攻め入ったンです」
「とんでもないことしますな。売国奴やがな。なンでそんなコトを?」
「いろいろ云われはあるようです。兵だけ借りて自分が皇帝になりたかったンとか、李自成に愛妾を盗られた腹癒せとか」
「寝取られたんでっか? そら、ヤケクソにもなりまんな」
「私も同感ですな。結局清軍は都に居座って、呉三桂は藩王、大名に取立てられたそうです。その名も平西王と呼ばれます」
「はあ~。呉三桂、ええヤツかと思ってましたンに。え? これで合戦は終わりでっか? ワトウナイはどうしたンです?」
「芝居とは違うやろが。慌てンで聞きなはれ」
「へぇ……」
政太夫は座長にピシャリと言われてしまったものの、このころの庶民とはそんなもので、実際に目にしたことのない歴史など、戯曲と混同して憚らないものであった。
「政太夫はン、安心しぃ。ここからが和籐内のご本尊、鄭成功はンの活躍ですよって」
「待ってました!」
「明の皇帝がお隠れになり、都に清軍がおっても中国は広いンです。
各地で皇族が新帝として起ち上がりました。
南京、紹興、肇慶。そン中で福州の隆武帝が鄭成功はンの父、鄭芝龍によって擁立されております。
隆武帝にお目見えした若き鄭成功はンは、眉目秀麗、いかにも頼もしげな姿にお言葉を賜れなさった。
『朕に皇女がいれば娶わせるところであるのに残念でならない。代わりに国姓の〈朱〉を賜ろう』と。これが国姓爺と呼ばれることになる所以です。
しかし鄭成功はン、決して朱姓を使おうとしなかったそうです。ホンマよく出来たお人でした」
「なるほど……で? 合戦は?」
「そうやったな。隆武帝はすぐに北伐をしたンです。北の都にいる清軍を攻めようとしました」
「お、太閤はンの大返しやな。それで?」
「大失敗に終わりました」
「なんや、意気地のない……」
「まあまあ、そない言うモンやないで。終わった戦さなんやから」
あからさまにガッカリする若い政太夫を座長が諌めてくれた。
「そうですな。人様の国のことですし。私らがああだこうだと言うのは間違っとりますな。だからこそ私は浄瑠璃ではホンマのことは書かなかったンです」
「へぇ。すみません……」
「よろしいがな。ほな続けまひょ」
「へえ。お願いします」
「続きといっても後は振るわない。各地の皇族は次々と清軍に倒され、残る一人が広西の永暦帝のみ。
鄭成功はンは父親と袂を分かって永暦帝を正統と奉じ清国に抵抗します。幸い鄭家は中国南部の福建から台湾の海に勢力を持ってましたから、そこを根城にしてました。
それから数年、明でいうと永暦十二年、清では順治十五年、日本だと明暦四年にいよいよ鄭成功はンが北伐を始めます。目指すは浄瑠璃と同じ南京です。
しかし、途中まではよかったンですが、最後に大敗してますな」
私の書いた『国性爺合戦』とはまったくの逆の結末に、政太夫はおろか、すでに明という国はないと知っている座長までもガッカリとしていたようであった。
悲劇としてありのままを書いていれば二人の反応も違ったかもしれないが。
しかし、それでは本末転倒。今宵の祝いの宴もなかったかもしれない。
やはり歴史は歴史、浄瑠璃は浄瑠璃である。
「その後、体勢を立て直すため一旦退いた鄭成功はンは台湾をオランダ人から完全に奪い取り、清国に対する抵抗を続けたンですが、運命というんですかな、永暦帝が呉三桂に捕まり、永暦十六年、寛文二年に刑死すると同じ年には鄭成功はンも亡くなったそうです」
明と清の、没落と勃興を酒席で語るなど無粋だったかもしれない。
だが、我が国でも古来こうした物語は庶民の格好の娯楽であることとを思えばむべなるかなというところだ。
「さあ、話は仕舞いですよって、そろそろ……」
「そんな殺生やで。先生、もっと聞かしてほしいンですねん」
これは驚いた。本来語って聞かせるのが本職のはずの太夫が、逆さまに人の話を聞きたがる。
いや、確かに、先ほど私が話したのは講釈としてはあまりに大雑把に過ぎていた。
本来『太平記』などの軍記物は戦さの描写が細かく、登場人物の一人一人が活躍している場面が延々と続き、そこが聞き手を引き付けるのだ。
したがって政太夫の言うところの『もっと聞きたい』というのはその点を更に詳細に、派手に、面白おかしく講釈しろ、ということなのだろう。
それはわかる。だが、私はもう一つの感想が浮かび上がった。
《血は争えんのンか……》
口には出せないことであった。
「先生、私も聞きとうございます。今日はせっかくの太夫の祝いですさかい、お願いしますわ」
「まあ、お二人がそない言わはるンなら私は構わしまへンけど」
「おおきに!」
「芸のコヤシともいいますさかいな」
「そないな! 先生の話をコヤシて、なんぼなんでもバチが当たりますわ!」
中断はしたが座は盛り上がる。
座長が茶屋の主人を呼び、酒の追加と、茶屋遊びにしては無粋な今晩の趣向について申し開きをする。
丁銀を何枚か握らせると茶屋の主人も笑って引き取った。丁銀は江戸で使われる小判一枚とほぼ同価格であるからボロイ儲けだったことだろう。
新たに酒が準備されたことで席も改める。今度は座長も一段下がり、私は二人と向き合うことになった。茶屋の一室が高座へと早変わりする。
さて、と私がどこから明と清の合戦を軍記物仕立てにしようかと考えていると、若い政太夫が若者らしい疑問をぶつけてきた。
「先生。先生がお武家の出で、太平記なんやの軍記物に詳しいのは、ようわかりますけど、お隣の、よそのお国のことまで詳しいのは何ででっか?」
いきなりの質問は本来叱責の対象となってもおかしくなかったのだろうが、的を得ていたと見えて座長もただ頷いている。
確かに、当節は中国からの書物が次々と和訳され、元禄のころには『通俗三国志』なる書物が出版されている。最近、宝永のころには歌舞伎にもなった。
だが、それ以前は漢文そのままで、よほど大身の武家か学者先生しか読まない、いや、読めないものであった。
私は武家の出といっても吹けば飛ぶような下級身分であったし、そもそも明と清の合戦物語など書物にもなっていない。おそらくは今の清国でさえもだ。
そのことは如何に若い政太夫でもわかっていたのだろう。
「……あるお人から聞きましたンです」
「へぇーっ。先生に講釈しなはるなんて、どないなお人でっか?」
私はハタと言葉に詰まってしまった。
政太夫のもっともな質問は、純粋な好奇心に満ち溢れた眼差しとともに私の胸に突き刺さる。
《どうする……教えるべきか……》
しばらく無言のまま逡巡する私を二人は不思議そうに見ていた。
「……そやな、五代はンも柳沢はンも亡くなったことですし、言うてもかまわへんかもしれまへんな……」
私は心を決める。今日、政太夫が一人前と認められ、人払いした茶屋の一室に気心の知れた人間が三人だけ。
これが運命なのかと私はふと思った気がした。
「ご、五代はンて、い、犬公方のことでっか? ほンなら、柳沢はンはお側御用の……」
ちょうど政太夫が生まれたころのことだ。いくら雲の上の存在で、遠く江戸の地の話だろうと名前くらいは知っていて当然だろう。
その雲の上のお人の名前が、いくら武家の出身で、少しばかり有名になっていても、一介の物書きの口から、さも知り合いのように出てくるとは、両人驚きを隠せないようであった。
「ここだけの話です。私はもう還暦で、どうなっても構いませんが、お二人はこれからのお人です。決して口外なさらぬよう」
「へ、へえ……」
本来祝いのための陽気であるはずの座が緊張を孕んだものに変わる。
私は少し声を落として話を始めた。
予定していた明と清の合戦話は後にして、先ずは私の身の上話を。
「実は私、若いころ江戸に居りましたンです。そのお人に出会ったンは、そうですな、延宝五年。四十年近く前のことでしたか、ちょうど政太夫はンと同じ年のころやったと思います……」
私は淡々と身の上を語って聞かせた。
父が職を辞したことで京に移ってきたことから始まり、俳諧などの創作に目覚めたこと、西行法師に触発され旅に出たことなど。
「江戸ではどんな話を書いたんでっか?」
私の知られざる作品について興味を持ったのか、政太夫ばかりでなく座長まで身を乗り出すように聞いてくる。
座長も浄瑠璃の戯作を手掛けてみたいと言って、半ば私の弟子みたいなものだから仕方がない。
だが、私は二人の期待を裏切らねばならなかった。
「言いにくいンですが……そのころは辻講釈なんぞをしとりましてな……」
「えっ……」
私の答えに二人は絶句していた。
無理もない。
当節では人形浄瑠璃は歌舞伎と並んで芸術性の高い世界になっていて、庶民からは熱狂的な支持を受けている。義太夫は十分誇りを持てる仕事なのだ。
その人気芸能の作者がこともあろうに乞食と変わらぬ真似をしていたことに衝撃を受けたに違いない。
だが、それも先達が苦心して築き上げた評価であることをこの若い二人は失念している。
そして、庶民の評価ではなく、お上の、幕府の見解からすれば私たち人形浄瑠璃の関係者は、二人が見下している辻講釈、ひいては乞食と同じ身分であるのだ。
驚く二人のため、私は今更のように自分たちの身分を再確認させようとする。
「そんなに驚くことはありませんがな。元を辿れば浄瑠璃も辻で行ってたもンでっせ。講釈とは親類みたいなもンですよって」
「な、なるほど……」
二人は何とか納得してくれたようだ。
ここから改めて自分の話に移る。
「元々路銀にも事欠いていた上、お江戸には頼る知り合いも居りませんでした。活計のために、仕方なく見よう見まねで代筆を始めたンですが、いくらにもならず、どうしようかと思案に暮れていたときに出会ったのが乞胸頭の仁太夫というお人でした」
「そンお人が例の話を?」
「いや、それは後の話です。辻講釈を始めてから出会いましてな」
乞胸とは勧進の一種、要するに乞食のことだ。辻や門前で芸を見せては人々から施しを受ける。今でこそ大道芸は庶民の娯楽として定着し、人気芸人も輩出してはいるが、本来蔑まれる存在であり、また幕府にとっては非人と変わらない。
政太夫も座長もなんとなくは知っていたようだが、私は大体の説明を加えた。
慶安のころ、藩の改易が相次ぎ、街には浪人が溢れる。その浪人たちが食わんがため始めたのが草芝居や見世物であった。
ところが、それらの稼業はもともと非人たちの生業であり、幕府に非人頭から商売の邪魔になると訴えがあったのだ。
結果、すべての大道芸は非人頭・車善七の支配下に置かれ、乞胸稼業をするものは身分は町人、扱いは非人とされることになる。当時の大道芸人の浪人を束ねていた長嶋磯右衛門が乞胸頭となり、非人頭から鑑札をもらって一人四十八文を月々納めることとなった。
その後乞胸頭は代々仁太夫を名乗る。
そして、すべての非人、芸人は長吏頭・矢野弾左衛門の支配する世界であったのだ。
「武家とはいえ、家を飛び出した次男坊というのは悲惨なモンでしてな、浪人と全く変わりません。ひょんなことで同じような元浪人はンから紹介を受けて仁太夫はンに会いましてな、今までの身分は問わないからと講釈師を勧められたンです。幸いいくらか軍記物は読ンでましたさかい、稼げると言われては断れませンでした。ゼニがのうては武士の矜持も役に立たんというとこです……」
今も身分的には変わってはいないが、当時のことを思い出すと内心忸怩たるものがある。
だが、結果的に良かったのではないかと振り返る度にそう思う。
何しろ運命の出会いがあったのであるから。
「当時も人気があったのは、軍記物でしたな。『太平記』『義経記』『将門記』……やはりお江戸のことで、太閤記はあまりウケまへんでしたがな」
「そら江戸モンにわかってたまりますかいな」
「フフフ。まあ、そない言わんと。……それからしばらくして、問題のお人に出会ったンです……」
ついに核心に触れることとなった。私はなにやら心が震えてたまらない。