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「うわあぁ……」
小折は思わず出してしまった声に、慌てて口を塞いだ。とはいえ、出てしまったものがそれで消せるはずもなく、ちらり、と先輩刑事である岐志に横目で見られた。
「すみません……」
小折は口から手を外し、ぺこりと頭を下げた。しかし、岐志は小折の声に反射的に反応を示しただけで、避難めいた視線ではなかったらしく、直ぐに小折から視線を外した。
近くでは鑑識が忙しなく動き、カメラのシャッター音も響いている。それと、複数の警察官に、呼び出された監察医。監察医は初老の男性だが、髪は黒々としていて、実年齢より若く見えているだろう。
小折の眼前に広がる光景。それは、見るもおぞましいものでしかなかった。枯れた枝のように干涸らびた手足。そして、体。着ている服は本来は体に合ったサイズだったろうに、今では間違ったものを着せられたようになっている。服装と、ぱさぱさになったロングヘアーから、辛うじて女性ということだけは判別出来た。
──まるで、木乃伊。
小折は横たわる─というよりは、転がされた死体に対してそういった感想を抱いた。寧ろ、それしか抱けなかったのだ。以前、テレビで見た、エジプトの木乃伊。しかしそれは、もっと褐色をしていて、骨の形がありありとわかるようなものであり、厳密に言えば、目の前のものとは酷似はしていない。しかし、涸れ果てたそれは、木乃伊と称する以外に言葉がないのも確かだ。
「身体中の血液を抜かれているようです」
小折と同じ新米刑事の椡 比呂が手帳を片手に近付いてきた。椡は警視庁の所属ではなく、この死体が発見された地域の所轄に籍を置いている。涼しげな一重の瞳は切れ長で、表情に乏しい。一見無表情に思えるが、よくよく観察してみれば、微妙に眉が動いたり、僅かに頬の筋肉が動いたりするのだが、初対面でそれを見抜くのは不可能だろう。年齢は小折より、少し上だったと記憶している。
「身体中のっ?」
小折は椡の話を聞くなり、身震いをした。理由は、ない。ただ、その話を聞くなり、全身に鳥肌がたったのだ。ぞわり、と得体の知れないものが爪先から頭へとせりあがってくる。
「はい。一滴残らずです」
椡は淡々として見える様子で答える。しかし、白い頬は微かにぴくりと動いた。嫌悪感の現れだろう。小折と椡は警察官時代、一時だけだが同じ派出所にいたことがある。そのことから、小折は椡の僅かな表情の変化を見て取ることが出来るのだが、他の人から言わせれば、例え何年共にしようが、わかるものではないということだった。
「な、何の為になんですかね?」
小折は自身の両腕を抱えながら疑問を口にする。
「そんなもの、犯人にしかわからないだろう」
それに対し、岐志が返す。
──場所は、廃屋。何年も人の住んでない家は、この辺りに溢れている。直ぐ近くに住宅街が造られ、そこにはマンションも数多く建造された。ここらの住人は挙ってそちらへと移住をしていったらしい。なので、この地域には空き家が建ち並ぶ状態なのだ。
発見者はホームレスで、この辺りの空き家を日毎に替えて寝床にしていたということだ。本来ならば、建造物不法侵入の罪に問われるところなのだが、変死体の発見でそれどころではなくなっている。
「解剖してみないと詳しいことはわからないそうですが、外傷がこれといってないことから、全身の血液を抜かれたことが直接の死因と見られるそうです」
──全身の血液を抜かれたことによる死。
今まで、聞いたこともない事件だ。所謂、怪事件。マスコミが不謹慎にも喜びそうな事件だと、小折は眉をしかめた。
古びてささくれだった畳の上に寝かされた変死体。身許を証明するものは何もなく、まず、死体の身許を判明させることが最重要事項になりそうだ。干涸らびているせいで、年齢も見ただけではわからない。ショートパンツを穿いていることから、ある程度若いだろうことは予想されるが、今は四十代でもショートパンツを穿く女性もいるので、定かではない。
──長くなりそうだ。
涸れた体では、顔立ちすらわからなくなっている。CGによって復元を施す必要があるだろう。捜査に繰り出す情報が揃うまで、出来ることといえば、この近辺で不審人物を見掛けなかったかという聴き込み程度。とはいえ、空き家も多い周囲。犯人もそれをわかっていて、ここに死体を放置した可能性は極めて高い。となると、土地勘のある人間が犯人である可能性は高いが、それと同時に目撃情報を得るのも難しそうだ。
途方もない捜査に、小折は内心溜め息を吐いた。殺人を犯した者を野放しにする状態。それが小折にとっては、何よりも許し難いことだった。
小折が刑事という仕事を選んだのは、父親が警察庁に身を置くから、という以上に、彼なりの正義感からだった。小折は、他人を傷付ける、という行為が昔から許せなかった。それは、暴力、言葉問わずに、だ。何か、過去の因果からというわけではない。強いて挙げるならば、小折は幼い頃、いじめられっ子だったら、だろうか。とはいえ、何もそれだけで刑事という仕事を選びはしない。これは、小折の生まれ持った性質なのだろう。
一見、のんびりとした青年に思われがちだし、実際、彼の性格を一言で表すならば、「温厚」や「穏やか」といったものしかない。けれど、その内には、強い正義感をしっかりと抱いているのだ。
「取り敢えず、聴き込みをするか」
岐志の言葉に、小折は強く頷いた。この変死体が、とある事件の幕開けになるなど、露程も知らずに────。
「神羅 有亜よ」
妖艶な美女は、たっぷりと艶を含んだ声でそう名乗った。
有亜はにっこりと笑うというより、口の端を微かに持ち上げ、ほんの少しだけ眼を細める笑い方をする。これぞまさに「微笑」といった表情だ。颯真は有亜の笑い方を見て、そう感じた。
何故、有亜が颯真に名乗っているかというと、きっかけは色羽だった。色羽と比奈子は運ばれてきたパンケーキに舌鼓を打ち、颯真は良い香りのするコーヒーを静かに啜っていた。颯真としては、パンケーキを美味しそうに食べる二人を温かい目で見ていたつもりなのだが、それを色羽が何やら勘違いをしたのだ。
──綺麗なおねえさんがいるから、静かにしてる。
パンケーキを添えられたクリームまで綺麗に食べた後、色羽が突然そんなことを言い出したのだ。颯真がいくら違う、と否定をしても、それを色羽が信じることはなかった。色羽の言い分としては、パンケーキを食べる二人を見守る理由が颯真にはない、というものだった。颯真としては理由はあるのだが、それを口にすることは憚られた。勝手な感情だし、それを二人には押し付けたくなかったのだ。
──まるで、真子がそこにいるみたいだ。
自分より年下の少女と、年下の少女に見える色羽。その二人が美味しそうに甘いものを食べる姿は、成長した真子を彷彿とさせるには十分だったのだ。けれど、それを二人に押し付けるわけにはいかないのだ。特に、色羽には。
なので、颯真は理由に関しては口をつぐみ、色羽はそれを肯定と取った。そして何故か、色羽は離れた席に座る美女に声を掛けたのだ。一緒にお茶しませんか、と。普通に考えてみればナンパ同然なのだが、色羽は勿論女装をしたまま。相手もナンパだとは思わなかったらしく、笑顔で頷いていた。
そして今──。何故か互いに自己紹介をし合っている状態だ。比奈子は対人恐怖症をフルに発揮し、有亜の隣で小さくなっている。それでも、同性というだけましなのか、怯えるというほどではない。
「有亜さんて、幾つなんですか?」
色羽がさらりと女性に対しての禁句を口にした。有亜は、どう見ても妙齢の女性。この年代の女性は、己の年齢を尋ねられることを何よりも嫌がる人が多い。だというのに、有亜は色羽の質問に気分を害した様子はなく、寧ろご機嫌だというようにでも微笑んだ。こうきたときの女性の返しは、大体「幾つに見える?」だ。己の容姿に自信を持ち、尚且つ若く見えることを自負している者が使う返し。その場合は、実際に思う年齢より二つ三つは若く告げなくてはならない。颯真は面倒臭いやり取りに内心溜め息を吐いた。これらは、嘗ての先輩達の彼女であるはでな女達から学んだことだ。
「三十五歳よ」
しかし、有亜は面倒な返しはせずにさらりと自分の年齢を答えた
三十前後位だろうと当たりをつけていたが、それより少し上だったらしい。とはいえ、格段な驚きはない。服装、口調、仕草、化粧。それらを統合してみれば、それくらいの年齢なのはわかる。強いて挙げるならば、その年齢にしてはやけに肌艶が良いくらいだ。有亜自身、若いですね、等の言葉を望んでいる様子は見えず、優雅にコーヒーを啜る。
「エステとか通ってるんですか?」
これまた色羽が失礼に近い質問をする。ただ、これは裏を返せば「お綺麗ですね」ということなので、さして問題はないだろう。
「いいえ。仕事が忙しくて、そんな余裕ないのよ」
有亜は僅かに眉を下げた。そんな表情も色っぽいのは、年齢のせいもあるのだろう。
「お仕事、何されてるんですか?」
矢継ぎ早に色羽は質問を重ねる。きっと、色羽なりに颯真に有亜の情報を与えようとしているのだろうが、当の颯真からしてみれば要らぬお節介だ。
「内科医よ。この先の大学病院に勤めてるわ」
「あそこかー。へー、女医さんなんですねー」
女医さん、という言葉を聞いて、颯真は有亜が白衣を纏う姿を想像してみたが、どうにもしっくりこない。
──それなら寧ろ、比奈子のナース姿のが……。
颯真はそこまで考えてから、思考を停止した。
──これじゃまるで変態だ。
己を戒めながら、温くなったコーヒーを口に含む。
「え、じゃあ、具合悪くなったら、有亜さん指名していいですかー?」
隣に座るのは、少々の格好をした親父だ、と颯真は胸の内で毒突いた。そこで、颯真はふと気が付いた。色羽は、颯真の為に、と有亜をこの席に招いたわけではないということに。自分が、有亜と話してみたかったのだ。
色羽が男だとわかっていても、たまにふと錯覚を起こしてしまうことはある。それは、色羽の女装があまりに完璧だから。そして、比奈子という、本物の少女が並ぶことで更に錯覚を招いてしまうのだ。
──俺よりも、色羽の方が美人が好きだった。
颯真は今更なことを思い出し、誰にも見えないように溜め息を吐いた。
「ふふ。残念ながら指名制ではないのよ。ただ、午前中来てもらえれば、私になる確率は高いわ」
有亜は小振りの真っ赤な唇を動かす。その唇は、荒れひとつない。それは肌にも言えることだ。顔は化粧をしているので確かなことは言えないが、開襟された胸元の肌は恐ろしく滑らかだ。色の白さは、少し病弱ささえ窺わせる。ただ、仕事柄、外に出ることが少ないだろうから、日焼けをしていないだけなのだろう。
手首も滑らかで白い。そこに、うっすらと浮き出る血管だけが生命を感じさせる。
「じゃあ、行くときは午前中にしますね」
色羽はにっこりと笑う。まるで、クラブの客とホステスの会話みたいだ、と颯真はげんなりした。そして、斜め向かいに座る比奈子と視線が交わる。何か、と目だけで問うと、ぱっと視線を逸らされた。
──もしかしたら、色羽と同類だと思われてんのか?
だとしたら、心外だ。そりゃあ、美人がいいか、美人じゃない方がいいかと問われれば、一瞬悩んでから「美人」とは答えると思う。けれど、有亜のように派手な女は好みじゃない。自分の美しさを理解し、自覚し、それを最大限に見せることは素晴らしいとは思う。けれど、好みかと問われれば、否、だ。
颯真は本日何度目かわからない溜め息を、内心で吐き出した。
四人で──主に色羽と有亜だけが──他愛のない会話をしてから、有亜が花屋に行くというので、謎のお茶会はお開きとなった。有亜は自分の診察室にいつも花を飾っているらしい。来る患者さんが少しでも穏やかな気持ちになれるように、とのことだと微笑みながら言っていた。
確かなに、明るい気持ちや、穏やかな気持ちで病院に行く者はいないだろう。医師としての配慮というやつだ。有亜は見た目は派手だが、女性らしい想いを大切にするタイプなのだろう。
「あー、美味しかった」
店を出るなり、色羽が高い声で言う。
──楽しかった、の間違いだろう。
颯真は心中で突っ込んだが、口には出さなかった。
「比奈ちゃん、また来ようね」
「はい。美味しかったです」
比奈子が笑顔で頷くのを見て、まあ、いいか、と思えた。兄の事件から日が経つにつれ、比奈子は笑顔が増えた。少しずつ、少しずつ自分の中で折り合いをつけているのだろう。勿論、比奈子の兄は非業の死を遂げたわけだし、殺された理由も納得出来るものではない。そもそも、この世に納得のいく殺人などあるはずもないのだが。
それでも、どんなに嘆いても、どんなに憎んでも、亡くなった人は帰ってはこないのだ。残された人間に出来ることは、歩みを進めることだけ。それは、颯真もわかっている。けれど、理解しているのと実行することはまた別物なのもわかっていた。
眩しい程の太陽が目に痛い。夏の陽射しが気持ちいい。こんな些細なことを、眞子にも味わわせてやりたかったと思うのも本心なのだ。そして、それは大切な人を失った誰もが思うことなのだろう。
「颯ちゃーん。お昼はお好み焼き食べたいよー」
いつの間にか、比奈子達との距離は開いていて、少し離れたところから色羽が叫ぶように言った。
「今、食ったばっかりじゃねぇか。それに、俺は今日午後からバイトだ」
颯真は色羽に文句を返しながら近付く。それに、比奈子と色羽が笑う。何気ない一日が始まろうとしていた────。