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比奈子がさいこでアルバイトのある日は必ず夕方、パンが届けられた。どうやら麦沢から帰りの際に渡されるらしく、それを颯真にもお裾分けしてくれるのだ。
確かに麦沢が比奈子に渡すパンの量はかなり多い。比奈子とユキの二人では食べきれないだろう。恐らく、比奈子が颯真に持っていくのを見越して、多目に渡しているのだろうと思う。
颯真はそんなパンにかぶりついた。これは昨日の夕方に比奈子が持ってきたものだ。白パンとあんパン。さすがに日持ちしない惣菜パンは入っていない。インスタントコーヒーを飲みながらパンをかじる。
ぼんやりと朝食を摂りながら、一昨日小折が部屋を去ってから特に事件についての連絡がないことに思い至った。きっと早々に犯人が逮捕出来たのだろう。
颯真がそんなことを考えながらもそもそとパンを食べていると、部屋の扉がノックされた。朝食を摂っているとはいえ、今は午前十時を過ぎたところ。来訪者がいてもおかしくない時間だ。そしてそのノックの仕方は小折のものだった。颯真は口の中に詰まったパンをコーヒーで流し込み、扉へと向かった。
「はよ、小折さん」
扉を開けると案の定スーツ姿の小折が立っていた。スーツ姿、ということは仕事の関係でここを訪れたということだ。昼間に小折がスーツ姿で訪ねてくるときは仕事の関係だと、最近はお決まりのようになっていた。
それが夜であるならば仕事帰りのときもあるので必ずしもとは言えないが。
「おはようございます。すみません、連絡はしたんですが……」
小折は律儀に頭を下げてそう言った。そういえば、今朝は起きてから一度もスマホを手にしていない。夕べ充電器に繋いだまま、離れたところに置いたままだ。颯真がそれを小折に伝えながら謝ると、小折はいえいえ、と首を横に振った。
「なんかあったんすか?」
颯真は小折に中へ入るよう促しながら訊いた。外の空気は驚くほどに寒く、小さなヒーターでも役に立っていることを思い知る。
「いつも通りと言いますか……また、手詰まりでして」
小折の悄気る姿は寂しそうな仔犬のようだ。例えて言うならば、幼い柴犬。しょんぼりと下げられた耳と尻尾を想像してしまう。
「難しいんすか?」
颯真は小折の分のインスタントコーヒーを準備しながら会話を進めていく。
「難しいというか、容疑者が多すぎまして」
小折はまだ悄気た様子で答えた。彼のように正義感の強い性格だと刑事という仕事は辛いことの連続だろう。無論、正義感が強いからこそ遣り甲斐もあるのかもしれないが、こうしていちいち己が不甲斐ないと悩むことの方が多そうだ。
「容疑者が多い?」
颯真は湯気の立ち上るコーヒーカップを小折の目の前に置いた。小折がそれにありがとうございます、礼を述べる。いつも礼儀正しいのも疲れそうだと思う。
「はい、そうなんです」
そんなこと、あるのだろうか。推理小説やミステリードラマじゃあるまいし、大勢いる容疑者の中から真犯人を探せなど、現実には有り得ないことだと思っていた。
「どういうことすか?」
颯真は首を傾げて訊いた。
「殺されてしまったのは都内の名門私立高校に通う少年なんですが、彼を取り巻く環境が複雑といいますか……」
「複雑」
颯真はその部分だけを繰り返した。部屋の中は暖房の音だけが響く。小折が部屋に入ってきたとき寒そうにしていたので暖房をつけたのだ。先程よりは幾分暖まってきてはいる。
「殺されたのは結城 大和君という子なんですが、まず大和君の家庭環境からして複雑でして。まず彼の本当の両親が離婚し、大和君は母親に引き取られました。その後、母親が再婚。しかし、幾らもしないうちに離婚。そのとき大和君は母親の再婚相手である結城氏に引き取られました。跡取りが欲しい、とのことで多額の金を母親に渡すことによって結城氏は大和君を手元に残しました。そして、その後、結城氏は別の女性と再婚をしています」
要は、その大和君とやらは全く血の繋がらない他人を両親として暮らしていたということだ。それを複雑と呼ばすして、なんと呼ぶのか。
「で、それは家庭環境の話で、今度は学校生活なのですが。大和君はクラス委員などもしていて人望厚い子だったそうです。成績も優秀、品行方正。先生方の評判もとても良かったです。けれど、一部の生徒からは疎まれる面もあったようで。完璧過ぎたのが何処か信用ならないように思えたそうです」
優秀過ぎて妬まれた、というわけではない。小折の言葉はそういうことだろう。作り込まれた完璧さに見えたということか。しかし、被害者の家庭環境を鑑みればそれも頷ける。
「後、女性教師の一人が彼に恋愛感情を抱いていたそうです」
小折は言いながら被害者である結城 大和の顔写真をテーブルの上に置いた。そこに写るのは儚げな美少年。女性教師の一人が想いを寄せてもおかしくはなさそうな風貌だ。
「それと、交遊関係なんですが、彼には恋人がいました。中学生のときから付き合っていたようで高校は別です。同い年の子ですね。友人と呼べる存在は非常に少なく、連絡を取り合うような仲なのは中学時代の同級生が二人、高校では一人だけです」
恐らく、今話に挙がった全員が容疑者なのだろう。その中に本当に真犯人がいるのだろうか。颯真は思案しながら大和の写真を眺めた。
「誰が一番怪しいんすか?」
颯真は小折が丁寧に書き出してくれている容疑者達の名前を見詰めながら尋ねた。そこには推理小説やミステリードラマなんかよりも多数の人物が挙がっている。
「それが……全員動機としては薄いんです」
殺すまでもない、ということか。
実の子ではない。疎ましい。好きだ。恋人だから。友人だから。確かにどれもこれも殺人の理由にはならないように思う。人の感情など本人にしかわからないのだから、どれも違うとは断言出来ないが、薄いことにはかわりない。
「どんなふうに殺されてたんすか?」
そういえば、それはまだ聞いていなかったと思い、質問をする。
「睡眠薬を多量に飲まされています」
「……自殺、じゃないんすか?」
睡眠薬を多量に飲ますなど、簡単に行えることではないだろう。というより、無理に近いように思える。
「捜査本部では自殺と他殺の両面から調べてまして、僕は他殺の方面の担当なんです」
小折の言葉に颯真は成る程、と頷いた。そうなると、まずは睡眠薬の入手ルートとどうやってそれを被害者に飲ませたかを判明させないことには捜査が進まない気がする。颯真はそれをそのまま口にした。
「そうなんです。けど、睡眠薬はインターネットを使えばどうとでも調達出来るかと。今はわからないように巧く入手することも可能ですし。ですから、問題はどうやって飲ませたか、なんですよね」
どうやって飲ませたか。それは不可能なことにしか思えなかった。本人に気付かせずに多量の睡眠薬を飲ませることなど出来るはずはない。
「まあ、捜査本部でも自殺の線が濃厚だと睨んでいるわけですが」
小折は颯真の表情を読み取ってそう言った。
「ならなんで他殺でも調べてんすか? 」
それなら自殺で形を付けてしまえば捜査は終了ではないのか。被害者を取り巻く環境を耳にする限り、自殺が不可解だとは思わない。
「遺書がないことと、彼が生前、自殺を仄めかすようなことを口にしたことはなかったからです」
だからといって自殺しないとは言い切れない。颯真が首を捻ると、小折は口許をもごもごと動かした。何かを言いたそうな素振りだ。
「ん? どしたんすか?」
颯真は目に掛かる前髪をそっと払いながら訊く。そろそろ床屋に行かなくてはいけないかもしれない。
「他殺の線でも捜査してる理由なんですが……」
小折は言いづらそうに、視線を動かした。
「うん、なんすか?」
「名田さん……ご存知ですよね?」
そう言われて浮かぶのは初老の男。尤もそれは最新の記憶で、颯真の脳に根付くのはまだ少しの若さを残した風貌だ。白髪など全くなかった頃の名田の姿。
「ああ、まあ」
その昔、何度も名田と会った。名田が何度も颯真に会いに来たのだ。名田だけは颯真の父親が犯人ではないと言ってくれた。名田だけが、必ず真子を殺した犯人を捕まえてくれると約束した。そのときの名田の真剣な表情を今もはっきりと覚えている。
──しかし、未だに真子を殺した犯人は捕まっていない。
颯真の中で名田は約束を果たしてはくれなかった男なのだ。
それは仕方がないことだというのは理解している。とはいえ、それは言葉でだけだ。心では理解出来ていない。
幼い颯真は名田が約束を果たしてくれると信じていた。必ず、真子を殺した犯人を逮捕してくれるのだと、彼をまるで英雄のように思っていた。だが、どれだけの月日が経とうとも犯人が逮捕されることはなかったのだ。
裏切られたと思うことがお門違いなのもわかっている。けれど、颯真の心にはそういった感情が芽生えたのも事実だった。
「あの人がどうかしたんすか?」
颯真は努めて暗くならないよう返す。これ以上、小折に弱い部分を見せるのは躊躇われた。小折が持つ独特の空気は彼になんでも吐き出してしまいたくなるものだった。現に今まで幾つか、誰にも打ち明けたことのない話をしてしまっている。
「名田さんが、これは殺人事件だと言っていまして」
あの男が。
颯真は名田の一見穏和だが、その実鋭い眼光を思い出した。
「……そうすか」
それだけを溢した。名田の何を知っているわけでもない。被害者遺族と刑事というだけの関係だ。名田がどんな刑事なのかも知らないし、どんな考え方をするのかもしれない。
知っていることは、約束を果たしてくれなかったことだけだ。
「あのおっさんの一声で、他殺の線で捜査するんすか?」
颯真は思い付いたことをそのまま口にした。名田が警察組織でその位置にいるかなど、当然知る由もない。単純な疑問だった。
「名田さんは所轄の刑事なので、通常ならば有り得ません。しかし、過去に幾つもの難事件を解決へと導いた手腕と、上の方に親しい人物がいるみたいです」
上の方、というのは所謂「お偉いさん」だろう。
「へぇ」
過去に幾つもの難事件を解決に導いたなば、何故真子を殺した犯人は見付けられなかったのか。純粋な疑問が浮かんでくる。そんなものは、犯人が優秀だったらしい名田より一枚も二枚も上手だっただけの話だ。だからこそ、犯人は逃げおおせているのだ。
「警察も大変っすね」
警察組織の仕組みに興味のない颯真にはそれくらいしか返す言葉がなかった。
「……本当に、他殺なんでしょうか」
小折が不安げに漏らす。確かに状況だけ見れば自殺の線が濃厚としか思えない。けれど、一人でも違うと言うのならば徹底的に捜査をする価値はあると思うのだ。
自殺であった場合、辿り着く答えはない。どんなに紐解こうとしても、その先には何もないのだ。しかし、犯人を見過ごすよりはずっといい。
紐解いた先に正解があるのに、それに気付かず、紐を解こうとすらしないよりはずっといい。
颯真はそれをそのまま小折に告げた。すると小折は何故が笑顔になり、颯真に向かって頭を下げた。
「え、え? なんすか?」
突然のことに颯真は戸惑いを隠せなかった。今ここで小折が頭を下げる理由が見当たらない。
「そう言ってもらえると、やらなきゃ、という気持ちになります。本当にありがとうございます。そうですよね、無駄なことなんてないですよね」
小折は一人でうんうんと頷き、何かに納得したようだった。
「……お役に立てて、よかった、です?」
颯真は首を捻りながら返した。自分では感謝をされる理由がさっぱりわからない。
「やっぱり颯真君のところに来てよかったです」
小折は頭を上げ、にこにこと笑っている。本当に人が好い。
「でもやはり、颯真君も自殺の可能性が高いと思いますか?」
先程までの笑顔を消し、小折が尋ねてきた。
「うーん、何とも言えないすけどね。ただ、睡眠薬を多量に、ていうのは他人が行うのは難しいんじゃないすか?」
どうしてもそこが引っ掛かる。例えば何かに溶かしたとしても、致死量を飲ませることなど到底不可能に思えるのだ。しかし、どれだけの量で死に至るのかはわからないのではっきりとはわからない。
「そうなんですよ。何度考えても、そこで詰まってしまいます」
小折は肩を落として言う。丁寧に切り揃えられながらも洒落た髪型が育ちの良さを思わせる。
「後は、動機っすよね」
容疑者が多数いるとはいえ明確な動機に繋がるものはない。だから、容疑者を絞ることすら難しいのだ。
「そうですね。一番疑わしいと睨んでいるのは、彼の義母です」
小折は結城 雅美と記したら名前を丸で囲んだ。義母というか、養母というか。何とも複雑な位置に存在する女性だ。
「彼女と結城氏の間には二歳なる息子がいます。本来なら、彼が結城氏の後継者ですね。しかし、結城氏は優秀な大和君に跡を継がせるつもりでいました」
「自分の息子に跡を継がせる為に被害者を殺した、と?」
まあ、なくはないかもしれない。いずれの遺産のことにしても、被害者の存在はどうしたって邪魔になる。
「その見解が一番強いですね」
仮にこれで動機がクリアになったとする。すると、次の問題だ。ここでまた、睡眠薬の件が出てくる。とはいえ、相手は同じ家に住む者。だとすると、何らかの方法があるのかもしれない。そういった見方なのだろう。
「最悪、状況証拠だけで引っ張って、殺害方法についてはそれから供述させる、という案も出ています」
それはさすがに強行突破過ぎやしないかと思わざるを得ない。だから、警察は冤罪を生むのだ。
「僕もそれはあまりにもだと思います」
颯真の歪んだ表情を見て、小折が述べる。誰だってそう思うだろう。しかし、思わない者というのも存在するのだ。
「取り敢えず、容疑者全員を細かに洗っていくしかないと思うので、頑張ります」
小折は小さく拳を握り、決意の証を見せた。例えば、彼のような人物だけで警察組織が構成されていたら。そこに冤罪は存在しないかもしれない。だれけど、検挙されない事件もまた、増えるのかもしれない。
正義心だけでは務まらないこともあるのだ。
颯真はすっかり冷めたインスタントコーヒーを啜りながら、名田の顔を思い出した。
色羽がふんふんと小さく頷きながら小折の話を聞いている。その横では比奈子も同じようにしていて、それはまるで姉妹のように見えた。
「成る程ねぇ」
事件の概要を聞き終えた色羽がそう声を出す。本日も完璧なまでの女装だ。
寒くなってきたのでハイネックの薄手のセーターに、ショートパンツ、そして厚手のタイツ。ソファには訪れたときに着ていたグレーのジャケットが投げられている。
基本的に色羽の仕草は若干女子らしい。しかしそれはあくまで若干、だ。彼は根本は男の為、そうして適当な部分が多々ある。
「で、お義母さんの取り調べはしてるの?」
色羽は綺麗な桜色の唇を動かす。それは艶々としていて、まるで油ものを食べた後のようにも見える。
「取り調べというか、聴取はしてます。お宅に伺っているのでくが、ショックから体調を崩しているようでなかなかお話が進みません」
被害者の経歴によると、義母と被害者は既に八年の時を家族として過ごしている。近所からの話によると、血が繋がっていないとは思えないほどに関係は良好だったようだ。
血の繋がらない息子を可愛がる母と、そんな彼女を実の母親のように慕う息子。遠慮や他人のような距離感は全くなかったという。
無論、それが外行きの仮面の可能性だってあるし、本当に良好な関係だった可能性もある。しかしそれは本人たちにしかわからないことだ。だが、結城氏も彼らの間柄は本当に仲が良かった、と口にしているらしい。
被害者である大和は雅美と結城氏の間に出来たこどものことも、本当の弟のように可愛がっていた。これは雅美、結城氏、大和の友人や恋人が口々に言っていたこと。
それらをならべてみると、雅美が大和を殺したというのはないように思えてしまう。実際、雅美は今、大和が殺されたショックから寝込んでいるのだ。
「本当のお母さんは?」
色羽が屋良 知子という名前を指差した。それが大和の本当の母親だ。
「さしてショックは受けていないようでした。もう十年ほど会っ
ておらず、彼女には彼女の生活があるようでして」
知子は結城氏と離縁し、大和を手離した後、二年で再婚をしている。そこにはもう七歳になる娘がいるとのことだった。知子は既に、かつて産んだ大和という息子のことは念頭にもない要するにだったらしい。
存在としては勿論認識はしているが、自分の息子だという実感はない。そんな感じだったらしい。
──そういう親だっているだろう。
そうなると、知子がわざわざ大和を殺す理由はない。
こうしてひとつずつ、容疑者を消していくのが捜査の現状のようだ。
「えぇと、他は誰だっけ?」
色羽が小折が用意してくれた紙を凝視しながら言う。
「結城氏も容疑者の一人ですが、彼は大和君が殺された日、東京にはいませんでしたので、外されています。尤も、誰かに依頼したのであればわかりませんが」
動機としては、引き取ったはいいが、実の息子が産まれた為、存在が邪魔になったというもの。しかし、結城氏は大きな会社を経営しているし、政界にも精通している。そんな人物がそんな程度のことで人殺しを行うとは思えないので、アリバイの有無に関わらず容疑者としては有力ではないらしい。
「他には、大和君の担任教師と恋人、それと友人達ですね」
しかし、彼らは被害者に多量の睡眠薬を飲ませる術があるとは考えにくい。けれどそこに囚われてしまっていては真実を見逃すことになるだろう。
「話、聞きたいっすね」
颯真はそう溢した。自分は安楽椅子探偵ではない──いや、探偵でもなんでもないのだが──ので、ここに並べられた情報だけで犯人探しなど出来るはずもない。
そこまで考えて、颯真は自分の思考に笑いそうになる。
確かにユキの孫を殺した犯人を見付けると決めたとき、自分の考えを纏めた。小折が持ち込んだ事件には真摯に取り組む。はっきりとそう思った。そして、それが当たり前のことになっている。
それがなんだかおかしかった。
一時は忌み嫌った警察の真似事をしているのだ。
そうなったのは、今ここにいる三人のお陰なのだろうと思うと、自然と頬が緩むのを感じた。
「颯ちゃん、何にやにやしてるの? 気持ち悪いんだけど」
「おま……っ。気持ち悪いってなんだよ、殺すぞ」
「はーい、それやめようねー」
色羽が適当な返しを、しかも颯真の顔も見ずにしてきた。
「お話するくらいなら大丈夫だと思いますよ。ご家族はさすがに難しいかもしれませんが、学校関係者であればどうにかします」
警察内部に強い人間がいるというのは有難い。颯真は小折に感謝しながら出掛ける準備をした。