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「気味が悪いな」
小折は不意に掛けられた低い声に肩を震わせた。綺麗過ぎる死体を凝視していた為、周囲の気配に気付かなかったのだ。
「名田さん……」
白髪混じりの髪をしたその姿を見るのは久し振りだった。以前、吸血事件のときに会ったのが最後だろう。あれは夏の出来事で今はもう冬に差し掛かっている。
名田は年齢の割にしっかりとした体躯を屈め、死体を覗き込んだ。名田は警視庁の人間ではなく、所轄の人間だ。会う機会はなかなか少ない。
「あの小坊主とは会っているのか?」
名田が死体から目線を外さずに訊いてきたので、それが自分への問いだと気付くのに少々時間を費やした。
「え、あ、はい。プライベートで親しくさせて頂いています」
まさか、さすがの小折でも事件への助力を頂いています、とは言わなかった。だというのに、名田の横顔には含みが取って見えた。僅かに口許が動く。
「ふむ、そうか。あの小坊主は正義感が強い」
名田は小折の返しとは関係のない言葉を口にした。
──知っているのだろうか。
もしかしたら、岐志から伝わっているのかもしれない。岐志には時折、颯真からの意見だと伝えることがあったし、名田は岐志の嘗ての先輩だ。だとしたら伝わっていても不思議はない。
「……そうですね」
しかし、確実に知っているかという判断は出来ないので言葉を濁す。そういえば、以前のとき名田と颯真は睨み合っていた。睨み合うというよりは、颯真が一方的に睨み付けているようにも見えたが。
あのことから察するに、名田は颯真の妹が殺された事件の捜査に携わっていたのだろう。そして未だその犯人は捕まっていない。
「しかし、危うい。奴は、一線ぎりぎりのところに立っている」
小折は名田の言葉が理解出来なかった。何が言いたいのだろうか。名田はまだ死体を覗き込んでいる。その横顔からは何も計れない。
それはどういう、と口を開き掛けたところで岐志が現れた。
「被害者の身許が判明した……て、名田さん」
報告を持って現れた岐志が名田の存在に気付き、その名を口にする。
「おお、岐志君。久し振りだね。近くを通り掛かったら何やら騒がしいので寄らせてもらったよ」
名田は漸く顔を上げ、にたりとした笑みを浮かべる。口振りからすると、名田はこの事件の担当ではないようだ。ならば、どうやってここまで辿り着いたのだろう。
名田が警視庁に属しているならばそれも可能だろう。現場を囲む警察官に一言告げ、警察手帳を掲示すれば容易に入れてもらえる。しかし、名田は所轄の者。だとすると、近くにいるだろう警視庁の者に止められるはずだ。
「何か気になる点でもありましたか?」
だというのに、岐志は小折のような疑問を抱いた素振りはない。これは後程質問してもいいものだろうか、と小折は一人で悩んだ。
「綺麗過ぎる死体というのも気味が悪いと思ってね」
名田は再び死体に──身許が判明したので遺体だが──に視線を戻した。
確かに、目の前で臥した体は綺麗なものだった。外傷は特に見当たらず、衣服の乱れもない。髪も地面に散らばることはなく、丁寧に整えられていた。
夕暮れ間近の公園の隅、ということがやけにそれの気味悪さを助長する。それはまるで、屋内に置かれる人形のように整えられているのだから。
年齢は十代だろう。名門私立の制服に身を包んだ少年はご丁寧に胸元で手を組まされている。衣服は綺麗なまま。表情も眠っているかのように穏やかだ。
「服毒自殺の線も窺えるようで、直ぐに解剖に回します」
多量の睡眠薬などを飲んでの自殺。そう思うことが自然な姿。今の段階では事件性があるかどうかも判断出来ない。
「ま、これは殺人だろうね」
しかし名田はそれが正解であるかのように言い放つ。
「どうしてですか?」
小折はそれに質問せずにはいられなかった。この段階で殺人事件と決め付けるのは早計ではないだろうか。いやしかし、殺人の可能性があるものを自殺と決め付けるよりはいいのだろうか。
「じゃあ、君はこれが殺人ではないと思うか?」
名田は美しく整えられた遺体を指差す。先程岐志から彼の身許を教えてもらった。
十六歳、高校二年生。名門私立の生徒。美少年と呼ぶに相応しい儚げな容姿。
これくらいの年頃のこどもが生を儚んで死を選ぶ、という事例は少なくはない。しかし、だからといって自殺だと断定は出来ない。遺書でも残っていれば別だが、今のところは発見されていない。だとすれば、無論殺人の可能性はある。
「殺人でないと断言は出来ませんが……」
小折は尻すぼみな口調で答える。しかし、殺人だと断言も出来ない。
「彼はね、殺されたんだよ」
名田は言い、白い手袋を嵌めた手で遺体に触れた。取り敢えず現場検証は終了しているので問題はないだろう。
「これを見なさい」
名田に手招きをされ、小折はそれに近付いた。
「見えるか? ここに、幾つか擦過傷がある」
名田が指差す先は遺体の手首だった。そこには幾つかの掠り傷があった。木の小枝で引っ掻いたようなものだ。そして辺りは木の繁みで覆われている。
「犯人が、彼をここに運んだ証拠だろうね」
しかし、自身でここに辿り着く際に追った傷とも考えられる。どちらにしろこの程度での判断は難しく、捜査本部は当面自殺と事件の両面で動くことになるだろう。
「まあ、私が携わることではないけどね」
名田はそれだけ言うと屈めていた背を真っ直ぐに伸ばした。矍鑠としている──という言葉を遣うには些か若い気もするが─その姿に小折は何故か不穏なものを感じた。
小折が去った室内は少しだけもの寂しく感じられた。小折は普段から率先して話すタイプではないが、その存在は決して薄くはない。なので小折が減るだけで、途端に人数が減った気がしてしまうのだ。
「ご馳走様でした」
色羽が比奈子に対してぺこりと頭を下げた。本日も完璧なまでの女装というか、日に日に完成度が増している気がしてならない。小学生の頃は女物の服を着ていただけだというのに、今やどこからどう見ても女でしかない。
「いいえ、どういたしまして。喜んでもらえてよかったです」
比奈子がにっこりと微笑む。こういった顔を見せるようになったのは極最近だ。
「俺もご馳走さん」
颯真も色羽に倣うようにして頭を下げた。そういえば初給料だから、と誰かにご馳走してもらうなど初めてのことだ。それはなんだか、とても心が温まることだった。相手が比奈子だから余計にだろう。
「大したものではないですが」
比奈子はそう言って再度微笑みを見せた。
「小折さん、また忙しくなるのかねぇ?」
色羽がティーセットを片付けながらぼやく。先程の連絡が事件であるなら、勿論忙しくなるだろう。颯真は小折に同情しながらも、ふとある考えが浮かび、自然に口を開いた。
「……俺もまともに働くかな」
颯真の何気無い呟きに、色羽と比奈子が揃って視線を向けてきた。しかも、驚いた表情で。
「おい……お前ら。なんだその顔は」
颯真は目を丸くして見てくる二人に顔をしかめる。鋭い目で睨むも、二人はまるで表情を変えない。
「何、颯ちゃん、熱でもあるの?」
「どうかしましたか?」
挙げ句、おかしな発言呼ばわりだ。
「うるせぇっ、殺すぞっ」
颯真はそれに怒鳴り散らし、二人を部屋から追い出した。二人はそれに楽しそうに笑いながら姿を消す。
別に何というわけではない。独りになることを決めたときは、取り敢えず生活出来るだけの金を稼ぐ、としか考えていなかった。先々のことまで考える余裕がなかったのだ。幸い、家賃は一万円と格安で、以前バイトしていたときの貯蓄も僅かにだがあった。そこで選んだのが、時給がそこそこで時間の短いバイク便のアルバイトだった。
しかし実際、月の収入は少ない。勿論貯金などは出来ていない。ならば、そろそろ地盤を固めてもいいのではないかと不意に思ったのだ。
正社員と呼べる仕事をして、ここを出て、きちんとアパートを借りる。そして貯金もする。それが本当の自立だろう。
ここを借りている時点で、誰にも頼らずに生きていく、という希望は叶っていないのだ。しかし、今は必ずしもその希望を叶えたいというわけではない。だからこそ、きちんとしようと思ったのだ。
とはいえ、颯真の学歴は中卒だし、そもそもその中学校すらまともに通っていない。そんな自分に一体どんな仕事があるというのだろうか。そう考えるとどこか尻込みしてしまう。
小折は既に歴とした社会人だし、色羽も大学を卒業したらどこかに就職するのだろう。比奈子もいつか、自分にあった仕事を見付けるように思う。
独りになりたいと願っていたのに、いつしか置いていかれる自分を想像するようになっている。
颯真はその理由を思い浮かべ、口許を綻ばせた。
今はまだ、いい。もう少しだけゆっくりしよう。そして、それから真剣に向き合おう。
今はまだ、このぬるま湯に似た空気に浸っていたい。それは二年前にグループにいたときの、惰性に似たものとは確実に違っていた。
穏やかな夕暮れ。颯真は大きな欠伸をひとつし、ソファに身を沈めた。この間色羽の両親が古くなったから、とくれた厚手の毛布で体をくるみ、もう一度欠伸をする。
まだ寝るには早い時間だが、とてつもない眠気が襲ってくる。皆があまりに寒いというので途中から暖房を付けて部屋を暖めたのと温かい紅茶を飲んだせいだろう。
明日はアルバイトはない。ならば深夜に目覚めてしまったとしても何ら問題はない。
颯真はリモコンで暖房を切り、体をくるんだ毛布に頭まで埋め込んだ。ぽかぽかてした頬が余計に眠気を誘う。颯真はまた大きな欠伸をして、静かに目を閉じた。
──夢を見た。
神々しい姿をした人物が立っていた。その者は到底言葉では表せない程に美しく整った顔をしている。それはこの世の全ての賛美の言葉を集めたとしても足りぬ程だ。体躯も素晴らしく均整が取れ、しなやかであり、空想上の動物を思わせる。
その姿はまるで「神」だった。
ひれ伏したくなるような出で立ち。縋り付きたくなるような所作。凝視出来ぬほどの華美さ。
しかし、神が立つのは骸の山だった。夥しい数の骸を台座とし、神は悠然と地を見詰めている。
翡翠の瞳に神とは思えぬ妖しさを湛え、足場となる骸を見下ろしていた。いや、その者の瞳には骸など映ってなどいない。そこにあるのは虚無だ。
紗の着物は清々しい程の真白をしているが、その本来の色が判るのは極一部分だけ。滑らかな光沢を放つ生地の大半が深紅に染まっていた。長い裾は骸の山に広がり、その血を吸い取っているかのように朱色をしている。
袖口と合わせの部分は、もっと鮮やかな赤だった。
血濡れた神がそこにはいたのだ。
神は骸の頭のひとつを手にし、艶やかな唇へとそれを運ぶ。そして優美に口を開け、真っ赤な舌を覗かせた。透けるような肌の白さと舌の赤さがあまりに不釣り合いであり、それでいて見る者を蠱惑するかのような強烈さがある。
神は骸を喰らった。
厳かな風貌には似つかわしくない鋭い牙で骸の額にかぶりつく。ぷつり、と赤が滴る。
それは、神などではなかった。長い長い爪で骸の目玉を抉り取り、それを飴玉のように舐める。そして、耽美な笑みを麗しい顔へと浮かべる。上質な絹のような金色の髪の隙間から、神にはないものが覗く。二本の鋭いものだ。──角。その者の額には黒色の角が生えている。
それは、鬼だった────。
その鬼は鳥の羽根のような手で小招いた。こちらへおいで、と血で彩られた唇がゆったりと動く。
さあ、おいで。こちらへ。
鬼は神の姿をして笑った。
気味の悪い夢に、颯真は起きるなり眉間に皺を寄せた。
──一体、今の夢はなんだったんだ。
人を喰らう鬼。そして、その鬼は神の姿をしていた。
颯真は起き上がりながら昨日のことを反芻してみた。夢というのは前日の影響を受けることが多いように思うからだ。
前日に考えていたこと、見たもの、読んだもの。それらが形を変えたり変えなかったりで夢に反映されることがある。しかし、昨日をどう思い出してみてもその夢に繋がるものはない。
昨日といえば、皆でお茶をしたくらいなものだ。
考えているうちに、夢はぼんやりとしてきた。既に鬼の顔すら思い出せないほどだ。
颯真は気にしないことに決め、毛布で体を包んだままヒーターのスイッチを入れた。少しでも辺りを暖めないことには何も出来ない。
深夜に目覚めるかもと思っていたが、どうやら朝までねむっていたらしいことはカーテンの隙間から漏れる陽射しで明らかだった。この時節はもう陽が昇るのが遅い。なので七時は過ぎているだろう。
今日も一日が始まるのだ。