5
「おかえりー」
扉を開けるなり、夏音に陽気な調子で迎えられた。
「やっぱ帰んないのか?」
「んー、そうだねぇ。今、仕事してないし」
夏音は颯真と付き合っているときはショップ店員をしていた。人当たりがよく、誰とでも直ぐ打ち解けられる夏音にその仕事はよく向いているようでいつも楽しそうだったのを覚えている。
「辞めたのか?」
それだけに夏音が今仕事をしていないというのは意外だった。
「ちょっとね」
夏音はそれだけを返してきて、話題終了とでも言うように続きを口にすることはなかった。
「……楽しそうだね」
「え?」
夏音が呟いた言葉に首を傾げる。
「いやぁ、颯真、楽しそうだなって思って」
向けられた言葉に複雑な気持ちになる。
──楽しそうに見えてしまうのか。
今の日々が楽しくないと言ったら嘘になる。新しい友人と呼べる存在が出来て、今までとは違うことをしている。この日常は確かに楽しい。しかし、第三者からそれを言われてしまうのはやはり複雑なのだ。
だったら、何の為にグループを抜けたのか。夏音と別れたのか。やはり、そういった問題が自分の中に浮上してしまう。
颯真はつい、黙り込んでしまった。
「そんなに楽しく暮らして、幸せになるのが嫌なの?」
そのことを夏音に溢したことはなかった。けれど、気付いていたのだろう。だから離れた自分に。
嫌なのではなくて、怖いのだ。揺らしてもらえる気がしないのだ。真子にでも、両親にでもない。幼い自分に、だ。
「お前にはわかんねぇよ」
颯真はそれだけを返した。
「私は、颯真に幸せになって欲しいと思う。亡くなってしまった妹さんの分まで。壊れてしまった家族を払拭する為にも」
そんなのは綺麗事だ。他人だからそんなふうに言えるのだ。夏音の科白は小折のものと似てはいたが、どこか違うように思えた。ひねくれた考えが颯真の胸を占める。
「お前に何がわかんだよっ」
颯真はつい怒鳴り声をあげ、勢いよく部屋を飛び出した。
「きゃっ」
あまりに勢いよく扉を開けたとき、何故かそこには比奈子が立っていた。今さっき別れたばかりだというのに、顔を見るだけで途端に心が落ち着き始めるのがわかった。
「え、と、ユキさんからお土産を……」
比奈子はそう言って菓子折の箱を持ち上げてみせた。きっと昨日、息子夫婦と出掛けたときに買ってきてくれたのだろう。
「……お取り込み中、でしたか?」
状況と不釣り合いな単語に颯真は小さく笑った。
「いや、大丈夫。でも俺、ちょっと出るわ」
比奈子の横をすり抜けるようにして部屋を出るが、夏音は特に引き留めてきたりはしなかった。しかし、それに代わるように比奈子が菓子折を抱き締めたまま、後をついてきた。
ぺたぺたと雪駄が鳴る音に合わせて、こつ、こつ、と小さな足音が響く。恐らく、何があったのか尋ねようか考えているのだろう。後ろに並ぶ微妙な距離がそれを教えてくる。
「……危ねぇから横にいろよ」
夜もふけた道。背後にいられてはいざというときに守ってやることが出来ない。大事だと思う存在をまた守れないのは嫌だった。
「はい」
比奈子は小さな声で答え、颯真の横に並んだ。小さな体だ。
──どこから聞いていたのだろうか。
多分、最後の大きな声は聞こえていただろう。あの辺りは夜になると本当に静かで、颯真の部屋の扉は防音というわけではない。もしかしたら、かなり聞こえていたかもしれない。
「……幸せに、なりたくないんですか?」
やはり、聞こえていたようだ。比奈子の問い掛けに颯真は曖昧に笑ってみせた。
「お前は、兄貴の分まで幸せになれよ」
突然肉親を失った苦しみは一緒だ。しかし普段、比奈子はそんな表情を一切見せない。ただ、兄の意思を継ぎたいと言うだけだ。
「お前の兄貴も、お前には幸せになって欲しいと思ってるよ」
逆の立場だったらきっとそう思う。殺されたのが真子でなく、自分だったら。残された妹には幸せになって欲しいと強く願う。
「真子さんも……そうじゃないんですか?」
「ん?」
「もし、兄でなく、私が殺されていたら、私は兄に幸せになって欲しいと思います。だから、真子さんもきっと……」
「違う。そうじゃない。真子がどう思うとかじゃねぇんだよ。確かに真子は小さいながらにそう思うかもしんねぇ。でも、それじゃあ、俺が俺を許せないんだ。真子の本当の気持ちなんてわかんねぇとか、そう言いたいんじゃねぇ。あの日、真子から目を離しちまった、あの頃の俺が、幸せになる俺を許せないんだ」
こんなに本心を口にしたのは初めてだった。
「に……逃げてるんですか?」
比奈子が声を震わせて言う。
「は?」
「そうやって、閉じ籠って、一人になろうとして、自分は不幸じゃなきゃいけないって」
「黙れよっ」
つい、大きな声が出た。それに比奈子が怯むのがわかったが、出た言葉を止めることは出来なかった。
「いいから黙れ。それ以上言ったら殺すぞ、こら」
こんなに低い声を出したのは久し振りだった。しかも女相手に向けるのは生まれて初めてだ。
「私は、確かに颯真さんの気持ちを完全に理解するのは無理です。私が失ったのは守ってくる兄ですから。颯真さんみたいに守る」
「黙れって言ってんだろっ?」
強い口調で脅す真似をすれば比奈子のことだから黙ると思ったのだ。しかしそれでも比奈子は口を閉ざすことはせずに、強い瞳で颯真を見上げてきた。
「私は……私も、颯真さんに幸せになって欲しいと思う。でも、それがいけないっていうなら、私が勝手に颯真さんを幸せにします」
「は?」
比奈子は綺麗な瞳から大粒の水滴を溢しながらそんなことを言った。柔らかそうな頬に、はらはらと涙が伝っていく。潤んだ瞳は滲んでいて、今にも溶ける出しそうだ。
「わた、私が、颯真さんを幸せにしたいんです……。颯真さんが、こんな私に、楽しさとか、喜びをくれるように……」
比奈子は言いながら手の甲で顔を抑え、号泣し始めた。うぅ、と大きくはない声を出し、しゃくりあげている。
──なんと返したものか。
これはもう、所謂告白というものだろう。しかし、颯真には変えず言葉がなかったし、それを受け入れることも出来なかった。
「……私、ずっと、実の両親に……虐待をされてました」
比奈子は泣きながら衝撃の事実を口にした。それは知り合ったときに軽くは聞いていたが、深く突っ込んだことはなかった。
「兄がいないときに……お腹が空いたと言えば、蹴られて、転んで泣けば、殴られて……。兄が、いないときは、ご飯も貰えなくて……。実の親に、疎まれて育ち、ました。お前なんて、いらない。お前なんて、生まなきゃよかった。……お前なんて、消えてしまえ……死んでしまえって。それで、私は、人が怖く思えるようになったんです」
可愛らしい笑顔を浮かべる比奈子からは想像もつかない過去だった。過去の出来事から対人恐怖症になったとは聞いていたが、まさかここまで壮絶なものだとは思いもしなかったのだ。虐待の話は、兄を殺した犯人を捕まえたいという想いのうえでしか聞いていなかったからだ。
それが対人恐怖症と直結するとは考えてもみなかった。だから比奈子は大きな声や、物音に怯えを見せていたのだ。
「兄が……そのことに気付いて、幼い私を連れて、家を出てくれたんです」
だとすると、比奈子の兄に対しての想いは人一倍強いだろうことがわかる。──そんな兄が、突然殺されて、この世からいなくなってしまったのだ。
それを思えば、衝撃で気を失っていたことも納得出来る。どんなに辛かっただろう。庇護してくれる兄を失い、しかも殺されてしまったのだ。比奈子の辛さを知ると同時に、彼女の対人恐怖症の理由も知った。
「私は……そんな私に、居場所をくれて、優しくしてくれる颯真さんが」
「どうしたんですか?」
比奈子の言葉を遮るように小折の声がした。
「小折さん」
颯真はそのことに心から安堵した。あれ以上、続きを聞いてはいけなかった。聞いてしまえば、言葉にして拒否をする以外に術はないのだから。
「あ、颯真君がスマホを忘れていたので、届けに来たんですが……」
小折は言いながらも涙で顔を濡らしている比奈子が気になって仕方無いようだった。比奈子はその顔を隠すように深く俯いた。
「すんません。俺がつい声あらげちゃって。スマホ、ありがとうございます。こんな時間なのにわざわざ、悪いっすね」
「いえ……事件のことでも少しお話したいことが出来まして……」
「まじすか?」
小折は颯真の言葉を信じてはいないようだったが、それ以上つつくような真似はしなかった。颯真は小折が空気を読んでくれたことに感謝しつつ、比奈子のことをどうするか考えた。無論、このまま一緒に話を聞いてもらっても構わないが、比奈子自身がそういった心境ではないだろう。
「あー、じゃあ、こいつ送ってから聞きます。一緒に来てもらっていいすか?」
自分でも狡いし、酷いと思う。小折が一緒な以上、比奈子は先程の話の続きをすることはないだろう。だからこそ、他で待ってもらってもいい小折に、一緒に、と言ったのだ。小折はそれにはい、と小さく返事をした。
颯真の住むビルからさして離れてはおらず、直ぐに比奈子を家まで送ることは出来た。別れ際に一応ユキからの土産を受け取り、おやすみ、とだけ告げた。
「詳しいことは今度話すんで、事件のこと、聞いていいすか?」
颯真は苦笑いに似たものを浮かべながら小折に言う。小折はそれに、勿論、と頷いて、場所を何処にするか、と尋ねてきた。
「あ、そっか。家じゃ駄目なんだよなー……。また、カラオケっすかね?」
だとすると駅前まで移動しなくてはならないので少し面倒だ。しかし、颯真の部屋にはまだ夏音がいるのでそんなことも言っていられない。
「そうですね。移動しましょうか」
それに小折は嫌な顔ひとつせずに頷いてくれた。
先程と同じ店、というのも些か気まずいものがあるので違うチェーン店を選んだ。先程の店よりも料金が高いせいか、二人で通された部屋は大分広かった。
代わりにドリンクバーなどはなく、それぞれ飲み物を注文した。
「で、どんな話っすか?」
「それなんですけどね、先程、他の捜査員が見付けたものらしく、連絡が来たんです。これ、見てもらっていいですか?」
小折は言いながら、最新機種のスマホを弄った。大きな液晶画面に何かが映し出される。
【Fascination】
薄い綺麗な緑色の背景に、これもまた綺麗な青色の文字でそう書かれている。どうやら、個人のホームページのようだ。
「ふぁ……す?」
「Fascination。魅惑、という、意味です」
小折がその単語を指差して教えてくれた。英語に疎いどうこうの前に、そんな単語を学校の授業で習うことはなさそうだ。
「これが、どうしたんすか?」
颯真は小折のスマホを見ながら訊いた。淡い色合いのわりに凝視していると目が痛くなる。
「この項目、見て下さい」
小折は言うと、画面を軽くスクロールし、とある分を選んだ。そしてそこをタップする。その指の爪は短めに切られていて深爪のようにも見えるが、元々そういった爪の形なのだろう。
「贖罪の山羊……?」
颯真はその頁のタイトルを読み上げた。
『贖罪の山羊
贖罪の山羊については現在は【スケープゴート】即ち【身代わり】とした意味合いで使われることが多いですね。しかし、ここでは【生け贄】としての使い方を伝授致します。
まず、殺人を犯してしまった貴方。それを赦して欲しいと願ってはいませんか? 赦しを与えて欲しいと願ってはいませんか?
そんな貴方にぴったりの儀式をお教えします。
まず、【生け贄】を一人、用意しましょう。
これは殺してしまった相手の親しい人間、若しくは山羊を連想出来る名前の人にしましょう。この二つを兼ね備えている方がいれば、言うことはありません。しかし、なかなか難しいと思います。ならば、どちらかだけでも結構です。探して下さい。
見付かりましたか? 見付かりましたら、その相手を殺してしまいましょう。殺害方法は如何様でも構いません。取り敢えず、殺してしまいましょう。
殺しましたか? 殺しましたね?
そうしましたら、次です。次は【生け贄】の腹を裂くのです。裂くと言っても豪快にではありません。十センチ四方で、腹の皮膚を剥ぎ取って下さい。そうしたらその皮膚を燃やします。そのあと、死体はお好きに処理して下さい。ですが、見付からない方が効果はありますよ。
これで完成です。貴方は殺人という罪から解放されました。
この他にも赦しを乞う方法は幾らでもあります。迷える子羊である貴方の訪問を心よりお待ちしております』
──おかしい。
全てを読み終えて第一に浮かんだ感想はそれだった。何かがおかしいどころではない。全てがおかしいのだ。
「……なんすか、これ」
小折のスマホを指す指が震えているのが自分でもわかる。伸ばした指は小刻みな振動を続けている。
「悪趣味なサイト、というだけでは片付けられないことははっきりとしています」
小折が珍しく嫌悪を露にしている。眉をしかめ、声もいつもより低い。それは怒りの感情に似ていて、小折が怒るのはこういうときなのだなと、見当違いのことを考えた。
「しかもこれって、起きている事件の殺害方法と同じですよね」
「そうなんすよね」
ということは、犯人はこのサイトを見たということだろうか。
「これ以外に似たようなものは?」
「特に見付からなかったです」
ならば、やはりこのサイトを見て殺人を犯したのだろう。
「……てことは、あの事件の犯人は、他にもう一人殺してるつまてことか?」
「そうなってしまいます」
殺人の罪を赦してもらう為に、新たな殺人を犯す。そんなことがあっていいものか。それこそ、赦されるべきことではない。
「だとすると、被害者の知り合いの中に最近殺された人がいるという……」
「被害者の名前」
「え? て、ああっ」
颯真の呟きに小折は大きな声を出した。しかしここはカラオケボックスの一室なので誰の迷惑にもならない。
「……山賀 羊子さん」
それこそが【山羊】を連想させる名前だ。あと、サイトによれば殺してしまった相手の親しい人間、ということ。ならば被害者の親しい友人の中に殺害された者を探し、その交遊関係から……。
颯真の脳内でぐるぐるとパズルのピースが動き始める。それらは彷徨うこともなく、予め自分達の居場所を理解して動いている。
ぱちりぱちりと、それぞれのピースは正確な場所に填まっていく。
「車の中の……」
「どうしました?」
「いや、ただの直感なんですが、今日見付かったって言ってたやつ。あれの犯人が……」
「【贖罪の山羊】の犯人」
颯真と小折は顔を見合せ、同時に頷いた。