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大声をあげるでもなく、ただただ、静かに小さな嗚咽を漏らす少女。颯真はその姿を見て、どうしたものか思い悩んだ。小さな顔を覆って小さな手で覆い、細い肩を震わせ、泣いている。色羽が隣に腰を下ろし、その背を摩ってはいるが泣き止む様子はない。

──兄が殺された。

少女は意識を失う前、確かにそう言った。聞き間違いかとも思ったが、少女の様子を見るに、どうやらそれは聞き間違いではなかったようだ。

「取り敢えず、飯を食え。話はそれから聞く」

颯真はそう言い、少女を立ち上がらせた。

「颯ちゃん、無理させちゃ駄目だよ」

それを色羽が止める。されるがままに立ち上がった少女は、ふらり、と身体のバランスを崩し、それでも何とか持ち堪えたようで、颯真に寄り掛かることはなかった。

──これなら大丈夫だ。

また意識を失うようなら別だが、きちんと自分の足で立てている。

「飯食わなきゃ、何も出来ないだろ。取り敢えず、食え」

颯真はまだ泣いている少女の腕を引き、椅子に座らせた。小さなテーブルと、小さな椅子が二脚。そのテーブルの上にはホットプレートが置かれていて、その上では颯真特製のお好み焼きが湯気を立てている。

「マヨネーズ、平気か?」

颯真が訊くと、少女は漸く涙を止めて、こくん、と頷いた。長い髪が前に揺れる。頬には幾筋もの涙の跡があるし、長い睫毛も瞳も濡れている。それでも、しっかりとはしているようだ。

──きっと、わかってんだろうな。

颯真はそれを確信した。

「ほら、食えよ」

ホットプレートの上のお好み焼きを四等分にし、マヨネーズを掛け、皿に乗せる。そして箸と共に渡した。少女は一言も言葉を発することをせずに、柔らかいお好み焼きを小さな一口分に箸で切り、口へと運んだ。その手と唇は震えていて、口の中にお好み焼きを入れるまで少しばかり時間がかかった。それでも、何とかそれを口に入れ、ゆっくりと噛み、飲み込んだ。細い喉がごくりと上下する。

「……美味しい」

少女は小さな声で呟いた。

「でしょ? 颯ちゃんのお好み焼きは絶品なんだよ」

それに、色羽が嬉しそうに駆け寄ると、少女は箸を丁寧に置き、再び涙を溢した。ぽろぽろと、テーブルとお好み焼きの上に涙が落ちていく。

「俺さ、お好み焼きが大好物なんだよ。気分が落ち込んだときとか、悲しいときとかも作る。準備して、焼けていく様子を静かに眺めて、熱々を口に入れる。そうするとさ、少しだけ気分が軽くなんだ」

これを教えてくれた人が、同じことを言っていた。そして、颯真自身、熱々のお好み焼きを口にしたとき、そう思った。流れていた涙が自然に止まり、美味い、と小さくだが笑みを浮かべられた。それから、お好み焼きが颯真の大好物になったのだ。

「ね、少しずつでいいから、何があったのか話してくれない?」

色羽がそっと、少女の肩に触れた。少女は涙を溢していて、特に反応はない。

「俺は、朝比奈 颯真。で、こいつが水城 色羽。お前の名前は?」

颯真はホットプレートの電源を切りながら尋ねた。ホットプレートの上にはまだ丸いままのお好み焼きも乗っている。お好み焼きが焼ける音が途切れ、部屋の中には少女の啜り泣きだけが響く。なかなか口を開けずにいる少女を、颯真と色羽は根気よく待った。

先程の言葉を鵜呑みにするならば、自分からそうそう口を開くことは難しいだろう。ならば、こちらから開かせてあげればいい。それは、颯真がか

の昔、してもらったことだった。

「……真柴 比奈子」

少女はか細い声で、ぽつり、と名乗った。

「比奈子ちゃん? 漢字は?」

それに色羽が優しい声で尋ねる。

「比較の比に……奈良の奈」

「颯ちゃんと一緒だ。颯ちゃんの朝比奈もね、同じ字を書くんだよ」

少しでも場を和らげようとか、色羽が明るい声を出す。比奈子と名乗った少女のか細い声と、色羽の甲高い声はあまりに対照的過ぎて、場に流れる空気が異様なものに感じられる。

「で、何があった?」

颯真が訊くと、比奈子は一瞬肩を震わせ、ぎゅ、と目を閉じた。嫌なことを、感情を抑えつつも思い出そうとして、必死なのだろう。比奈子の言葉を、颯真と色羽はゆっくりと待った。

「……夕べ、兄は、早く帰ってくる、て言ったんです。担当してる事件が片付いて、それで、後は報告書を出すだけだから、夕方には帰れるって」

担当している事件。比奈子は必死になるばかりに、兄の職業を口にし忘れている。

──事件てことは、刑事か、弁護士か、検察、か?

颯真はそこらに当たりを付けながら、口を挟むことはしなかった。

「なのに……帰ってこなかったんです。私、夕飯を用意して、ずっと起きて待ってました。新しい事件でも起きたのかな、て思ったんですが、そういうとき兄はいつも、短くても必ずメールをくれるんです。……でも、それもなくて。でも、もしかしたら、そんな連絡も出来ないくらい、忙しいのかなって。それで、深夜……二時くらいまでは待ってみました。帰ってはこなくても、連絡はあるかもしれない、て」

颯真は比奈子の話を聞きながら、少しばかり疑問に思った。比奈子の話から察するに、彼女の兄は、帰る、と宣言したからといって確実に帰ってくるわけではない。仕事の都合上、急に帰れなくなることもある。その際は短くとも連絡がある。だからといって、待ち続けるのは少々不自然だ。

比奈子が小学生だというわけでもない。急に帰れなくなることが想定されるならば、待たずとも就寝するなり勝手に出来るだろう。

けれど、比奈子は深夜二時まで──きっと飲まず食わずで──待ち続けたのだろう。寝不足と空腹、それにショック。比奈子が倒れたのは必然だったのだろう。

「あまりに連絡もなくて、胸騒ぎがしました。それから、何度か兄のケータイにメールを送ってもみました」

さすがに仕事中の可能性も考慮して、電話は控えたのだろうか。

「……それでも、何の返事もなくて」

「何で、朝、あそこにいたんだ?」

今朝の比奈子の様子は、帰ってこない兄を探して、というふうには見えなかった。既に、最悪の事態を知り、ぼんやりと彷徨さまよっていた、というのが正しそうだ。

「朝……兄の同僚の方から、連絡が来たんです。眠れずにケータイを握っていたら、電話があって……」

比奈子はそこで口をつぐんだ。次の言葉を口にするのがおぞましいのだろう。口にすることで、それを現実として受け入れなくてはいけなくなることが。

その気持ちは、颯真には痛いほどに理解出来た。

──真っ赤な水溜まり。

颯真の脳裏に、突如映像が浮かぶ。颯真はそれをかぶりを振って取り払った。

「それで……兄が、殺された、と……」

比奈子はそこまで言うと、ゆっくりと目を閉じた。どうやら、もう泣くほどに混乱はしていないようだ。

「はい、一個確認していい?」

色羽がそっと比奈子の手を握りながら言う。その手は、膝の上で拳を作っていて、小刻みに震えていた。

「……はい」

比奈子は色羽の問いに、小さく頷く。体の細さも相まって、比奈子は今にも消え入りそうなほど儚げに映る。横に並ぶ色羽も小柄な方だというのに、その色羽が精神的にも逞しく思えるほどだ。けれど、実際の色羽にも脆いところがあるというのは、颯真自身よく知っていた。

「お兄さんのお仕事は何?」

色羽はまるで、小学生にでも尋ねるように、ゆったりとした口調で訊いた。しかしそれは颯真も確認したいことだったので、有難い。

「……刑事、です。元々は警察官だったんですが、この春から、刑事になりました」

──それで、事件。

「も一ついーい?」

色羽が再び、ゆったりとした口調で尋ねる。それに、比奈子がこくん、と頷く。

「比奈子ちゃんは、どうしたいの?」

色羽の声が、ワントーン落ちた。

比奈子は色羽の質問に、俊巡するように、瞬きをした。

「おい、色羽、何訊いてんだよ」

颯真はそこで漸く口を挟んだ。どうしたい。そんなことを訊いて何になるというんだ。

「私は……私は、犯人を見付けたい」

比奈子は思いの外、しっかりとした口調でそう言った。

「よく出来ました」

それを、色羽が誉める。

「おい、馬鹿か。そんなのは、警察の仕事だろ。素人が何出来るっていうんだよ。警察に任せれば──」

「颯ちゃん、警察に任せて、どうにかなった?」

色羽の言葉に、颯真の心臓はどきり、と酷い音を立てた。衝撃に、まるで

心臓を直接叩かれたような痛みだ。

「任せて、どうにかなったの? 警察に任せて、真子まこちゃんをころ──」

「──黙れ」

颯真はどん、とテーブルに拳を打ち付けた。鈍い音が狭い室内に響き、突然のことに比奈子は狼狽える様子を見せた。けれど、色羽だけは至って冷静だという顔をしている。

「警察に任せたって、どうにもならないことは、颯ちゃんが一番知ってるよね? 寧ろ、警察に壊されたものがあるのだって──」

「黙れって言ってんだろっ。殺すぞ、こら」

颯真は色羽のワンピースの胸ぐらを掴んだ。最初の一言は声をあらげたものの、次の言葉は酷く低く、静かな声で告げた。それはいつも、颯真が口癖として使っているイントネーションとはかけ離れていた。

「……殺すとか、気安く口にするものじゃないって、いつも言ってるよね」

色羽は胸ぐらを掴まれ、凄まれてもそれを全く意に介した様子もなく、淡々とそう返した。そして、まだ口論が続くと思われた矢先、どさ、という音で、それは途切れた。

何の音かと思うと、それは比奈子が椅子から落ちたものだった。比奈子は気を失ったわけではなく、椅子から落ち、その場に踞るようにしていた。一生懸命、何故か椅子の下に潜ろうとする光景は、何処か空寒い──というより、不気味だった。

「……ごめんなさい、ごめんなさい」

比奈子は譫言うわごとのように呟きながら、入れもしない椅子の下に潜ろうと──恐らく隠れようと──している。がたがた、と体を震わせ、頭を抱えながら、椅子の下に隠れる。謝りながら。それが示唆することは──。

「ごめん、比奈ちゃん、ごめんね。もう大丈夫だから。大きな声を出してごめんね」

色羽が手慣れた様子で比奈子の体を抱き締め、その背を擦ってやる。それでも比奈子は震えたまま、ごめんなさい、と繰り返していた。


────「悪かった」

颯真はぽつりと、溢した。比奈子の規則正しい寝息だけが響く部屋で、それは異質なものに思えるほど、か弱い声だった。

「ううん。こっちこそ、ごめんね」

色羽は心配そうな表情で比奈子の寝顔を見詰めながら返してきた。

「ちょっと、八つ当たりかも。比奈ちゃん、真子ちゃんが、被った。ごめんね、颯ちゃん」

色羽の真摯な声に、颯真は首を横に降った。

「俺もだ。悪かったな。……そんでさ、もう、自分を責めんの、やめろよ」

「……それは、お互い様でしょ?」

「俺は、もうわかってるよ。どんなに、泣いても、叫んでも、悔やんでも、嘆いても、真子が帰ってこないってことを、もう理解してる」

「表面ではね。でも──やめよう。また、繰り返すだけだ」

色羽は先程までと少し違った語尾でそう、話を切った。

「颯ちゃんも気付いてると思うんだけどさ、比奈ちゃんは、もう理解してるよね。今、ここでどんなに悲しんだって、お兄さんが戻ってはこないこと」

「だろうな」

颯真はそれに同意した。

何度も倒れることはせず、食事を口にして──犯人を見付けたい、とその口で言った。もしかしたら、心の何処かでは覚悟していたのだろうか。警察官、刑事という仕事。勿論、殉職をする可能性はある。だから、こうして、受け入れられたのか。

それとも、たんに現実主義者──リアリスト──なだけか。

「何かしてあげたい、て思っちゃったんだ。真子ちゃんに何もしてあげられなかったから、せめて、比奈ちゃんに何かしてあげたいって 」

比奈子と知り合ってから、まだ幾時間も経たない。けれど、「真子と被る」それだけできっと、色羽にとっては十分な理由になり得るのだろう。

「でもさ、何が出来る? 俺達は警察でも何でもない。出来ることなんて、たかが知れてる」

颯真は率直な意見を口にした。一般人。それが如何に無力か。そんなのは余程無鉄砲な人間でなければ、どんな過去の経験がなかろうと知っていることだ。

「颯ちゃんの人脈を駆使しても駄目かな」

色羽がなんてことのないかのように言う。色羽は無鉄砲な人間ではない。それは颯真がよく知っていることだ。

「人脈つってもな……」

颯真はううん、と唸り声をあげた。確かに、知り合いと呼べる人間は多い。けれど、それを人脈と呼べるかどうかはまた別の話だ。しかも、これからやろうとしていることが人探しとかならまだしも、殺人事件の犯人を見付けようというもの。そう簡単にはいかないはずだ。

色羽は黙って颯真の言葉を待っている。颯真はそれに根負けするような形で、わかったよ、と呟いた。その瞬間、色羽の表情が輝く。

「必ず、ていうのは無理だぞ。やれることだけを、やるんだ。それでいいな?」

颯真は子どもに言い聞かせるように、ゆっくりと言ってみたが、色羽はわかっているのかいないのか、うんうん、と笑顔で頷くだけだ。颯真はそれに溜め息を吐き出した。

「本当にわかってんのか、お前は」

「わかってるよ。颯ちゃん、大好き」

色羽は言うなり、颯真の首に抱き付いてきた。色羽は小柄な見掛けと違い、力強いので勢いに押される形になる。ウィッグの硬い毛先が頬に当たってむず痒い。

──まあ、でも。

颯真はしがみつくようにしてくる色羽を振り払いながら、考えた。

このまま、こんな比奈子の姿を見て、「後は警察に任せよう」と放置してしまうのも寝覚めが悪いのも確かだ。かといって、何が出来るというわけでもないのも事実。

──納得出来るまで、付き合ってやればいいか。

何かしてやりたい。それは色羽と同じ想いでもある。それでも、自分達に犯人が見付けられるとも思わない。

──ま、右往左往してるうちに、警察が犯人を逮捕するだろう。

日本の警察だってなかなか優秀だ。それに期待しながら、出来ることをするしかないのだろう。颯真はそう考えながら、比奈子の何処か苦しそうな寝顔を見詰めた。

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