贖罪の山羊1
──ごめんね。ごめん。本当にごめん。すまない。すみません。ごめん、ごめんごめんごめんごめんごめんごめん……。
真っ赤な鮮血が腹部から溢れ出し、とろりと床を彩る。もっと派手に血飛沫が跳ねるかと危惧していたので拍子抜けした。あ、そうか。もう死んでるからか。前に、漫画かドラマで言ってた。死んでから刺しても血は飛ばないって。
ぐさり、ぐさり、と包丁を突き刺す。綺麗に四角形になるように点を付けて、それから点と点を繋いでいく。ずぶずぶと包丁は沈むが思ったより深くは刺さらない。意外と肉は硬い。いや、硬いとはまた違う。弾力があるというか、抵抗を感じる。
傷口からじわじわと血が流れる。これ、死んでから結構経っていたら血も出ないのだろうか。わからない。
四角く包丁を入れ終わって、その部分をはずした。
これで、いいんだ。
小折は胃液が食道をせりあがってくるのを感じ、咄嗟に右手で口元を覆った。独特の酸っぱさが舌に広がり、喉が微かに焼けるような感覚を味わった。
「……すみません」
なんとかそれを飲み下し、隣に立つ岐志へと頭を下げた。
「いや、無理もない。さすがに俺でも気分が悪い」
岐志は普段は凛々しい眉を下げて言う。
「こんなの……初めて見ました」
気を抜くとまた胃液が上がってきそうで、小折は無意味と思いながらも喉の辺りに力を込めた。
「俺もだよ」
小折と岐志は並んでそれを見下ろした。捜査員が集まり出し、辺りは騒がしくなってきている。
そこに横たわるのは、死体。それも、腹部を四角く切り取られた死体だ。腹部といっても、内臓が見えるほどではなく、表面の肉を剥ぎ取られた状態だ。それは小折が警察に入ってから見てきた死体の中で最もグロテスクな状態のものだった。
「所謂、猟奇殺人ですかね」
よく刑事ドラマや推理小説で出てくる言葉を小折は口に出した。
「その線で捜査していくことにはなるだろうな」
岐志が溜め息とともにそう吐き出した。その溜め息の意味を小折は直ぐ様理解する。猟奇殺人ともなれば、動機が見えにくい。そもそも、そんなものは存在しない可能性だってある。通り魔や猟奇殺人というのは、犯人と被害者に接点がないのが通常だ。だとすると、容疑者を絞りづらくなる。
「しかし、取り敢えずは被害者の特定を急ぐしかないな」
出来ることから潰していく。それが捜査の基本だ。小折は岐志の言葉にそうですね、と頷いた。
被害者は全裸。身に付けているものは何もない。死体の周りを見渡す限り、被害者のものらしき鞄などもない。しかし、顔が潰されているわけではないので、被害者の特定に時間はかからないだろう。
被害者の年齢は三十代前半から四十代前半くらい。女。背格好は平均的。髪は黒のボブスタイル。どこにでもいるような印象を受ける。
「必ず、犯人を見付けましょう」
小折はそう言ってから、死体に向かって合掌した。
大分陽が短くなってきた。
颯真はなんの予定もない日をぼんやりと過ごしながらそんなことを思った。窓から射し込む光は薄い。時計を確認すればもう五時になろうとしていた。
「腹減った」
バイトもなく、色羽の来訪もない。日がな一日、寝たり起きたりするのを繰り返すのは悪くないが、襲ってくる空腹には困る。面倒だという理由で昼飯をカップ麺だけにしたせいか、胃はぐるぐるごろごろと、異様な音を立てて空腹を訴えてきている。
しかし、冷蔵庫は空のはず。それは今日に限ったことではなく、颯真の部屋の冷蔵庫は空の状態が当たり前だった。入っているのは比奈子や色羽が勝手に作る麦茶くらいなものだ。
──しょうがねぇ。
颯真は買い物に行くことを決め、身を沈めていたソファから立ち上がった。とはいえ、空腹ではあるが食べたい物は特に思い付かない。
取り敢えずコンビニに行って何かを見繕えばいいか、と颯真は財布とスマホ、そして部屋の鍵を掴んだ。
外の空気は何気に冷たく、作務衣だけだと些か寒い。何か羽織るものを持ってくればよかったと後悔しながらも、今更引き返すのは面倒だと、颯真は寒さを耐えることに決めた。
陽はかなり傾いていて、空は低い位置が橙色に、高い位置は薄い藍色に染まっていた。もう十月だ。月日の経過がどんどん早く感じるようになってきた。
こどもの頃は一日一日が長く、一年など途方もないほどに長かった。けれど今は一年がそれなりに早く経過してしまう。もっと歳を取れば、もっと早く感じるようになるのだろうか。
「はえぇなぁ」
颯真はぽつりと独り言を溢した。あっという間に冬が来て、そして新年が明けるのだろう。
「何が早いんですか?」
不意に背後から聞き慣れた声が届く。その人物の突然さにも慣れてきていて、颯真は驚くことをしなかった。
「おお、お前か」
颯真が振り返って言うと、背後にいた人物──比奈子は少しだけむっとした顔をした。
「私の名前はお前じゃありません」
そういった顔は最近見せるようになったものだ。十七歳という年相応の幼さが現れる表情だ。
「んなこと知ってるよ」
颯真はそう返し、比奈子の隣に並んだ。
「つか、こんな時間に何してんだ?」
「今日、ユキさんが息子さんとお嫁さんと食事なので、一人なんです。一緒に、て言われましたが、水入らずの邪魔をしたくないので」
幸太郎の事件が解決し、ユキは息子とその嫁と和解をしたらしい。どういった経緯でそうなったのかまでは知らないが、ユキはそれを颯真のお陰だと言ってくれた。
本当は比奈子も含めて一緒に暮らそうと言ってくれているらしいが、比奈子が他人──それも二人と一緒に暮らすというのは難しいことで、ユキはそれを断っているらしい。せめて、比奈子が二人に慣れるまで、と。そんなことから、ユキの息子やその嫁は頻繁にユキの家を訪れ、比奈子にも接しているらしい。
「そっか」
じゃあ、一緒に飯でも食うか、という言葉にが喉まで出掛けたが颯真はそれを飲み込んだ。必要以上に比奈子に接するのはやめよう、という気持ちが勝つ。
「そうなんです」
比奈子はそういった颯真の言葉を待っていたようで、短い颯真の返答にあからさまに悄気た顔を作った。そうされるとどうしても言葉を掛けたくなってしまうが、颯真はそれを堪えた。
「あっちの長居商店、弁当旨いんだ」
颯真は空気を誤魔化すように言った。一緒に店に行くというのが、颯真なりの精一杯の譲歩だ。比奈子はそれだけのことでも、嬉しそうに、はい、と返事をする。
夕方の長居商店には出来立ての惣菜やら弁当がずらりと並んでいた。旨いし量もあるわりに安価で、客足は途絶えない。近所のスナックなども店で出すつまみをここで買っていくらしい。
「美味しそうですね」
普段はユキが食事の用意をするだろうから、比奈子はここに来るのが初めてのようだった。颯真は週に二回ないし三回はここの世話になっていて、店主とも親しい。
「どれでも旨いぞ」
颯真は比奈子に説明しながら自分の弁当を選んでいく。しょうが焼き弁当も旨いが、唐揚げ弁当も捨て難い。さも人生で一番の悩みだとでもいうように、颯真は腕組みをした。
そのとき背中に突然、柔らかな衝撃を受けた。
「颯真っ。やっと見付けたっ」
どん、と柔らかいものが背中に押しあてられ、颯真の体は前後に揺れた。
「うおっ?」
颯真は妙な声をあげ、倒れる寸でのところで足に力を入れそれを防いだ。
「探したんだよ?」
背中に当たる温もりが漸く離れる。
「……夏音」
颯真は今度は腕にしがみついてくる相手の名を呼んだ。そこでは豊満な胸が目立つ格好をした美女がにっこりと笑っている。長い栗色の髪を首の横でひとつに纏めた、勝ち気な瞳が印象的な顔をしている。
「颯真さん、お知り合い、ですか?」
その様子に近くにいた比奈子が小さな声で訊いてきた。比奈子の表情は初めて見るほどに驚いたものだ。
「ん? 誰、この子。すっごく可愛い」
颯真が夏音と呼んだ女は、颯真の腕から離れことをせずに比奈子を見ている。大き過ぎる胸がずっと颯真の腕に押し付けられている。
「……真柴 比奈子、です」
比奈子は対人恐怖症からというより、突然のことに驚いたという状態のまま名乗っているようだ。
「美波 夏音。颯真の元カノです」
夏音はそう言うと、颯真の肩に頭を乗せてきた。はらりと首に当たる前髪がむず痒い。
「元、カノ?」
比奈子はまるでそれが初めて聞く単語だとでもいうように固まってしまった。
「ちょっと、颯ちゃん、浮気っ?」
すると何故かどこからか色羽が姿を現し、店内に響くかのような声をあげた。そして色羽は今日も完璧なまでの女装姿だ。秋物らしい薄手のカーディガンの胸元には猫の刺繍がほどこしてある。
「誰に対してだっ」
颯真はほぼ条件反射で色羽に突っ込みを入れた。
「……モテモテだねぇ」
颯真の腕にまとわりついたままの夏音がぼそりと呟いた。
「へえぇ。颯ちゃんの元カノなんだぁ」
商店の中でアホなやり取りを延々と続けるわけにも行かず、颯真達はランタンへと場所を移した。端から見たら女三人に男が一人。ここまで来る間、異様な取り合わせに数人に振り返られた。
「そうだよ。付き合ってたのは一年くらいだけどね」
「でも僕、会ったことないよ?」
夏音の返答に色羽が首を傾げる。
「外で会うことってほとんどなかったからじゃないかな。その頃、一緒に住んでたからデートとかしなかったしね」
夏音は言ってからミルクティを啜った。夏音は昔からミルクティが好きで、よく缶やペットボトルのミルクティを飲んでいた。
「え、一緒に住んでたの?」
色羽が初耳な話に驚きの声をあげる。
あの頃の颯真は特に定住先を持っていなかった。先輩の家に寝泊まりさせてもらったり、夏音のような独り暮らしの恋人の家に置いてもらったりしていたのだ。
「住んでたよ。颯真、結構マメに帰ってくるから意外だった」
それは付き合っているときにも言われた。そんなに意外だろうか、と颯真自身は不思議に思っていたことだ。
「颯真はね、いつかふと帰って来なくなるんじゃないかなぁ、て思ってたんだよね」
夏音は懐かしそうに目を細める。茶色がかった吊り気味の瞳はまるで猫のようだ。
「あー、確かに、颯ちゃんてそんな感じするよね」
「色羽君のことも聞いてたよ」
「え、嘘。どんなこと?」
「夏音」
色羽と夏音の話が盛り上がり始めたところで、颯真は夏音の名前を呼んだ。すると二人共ぱたりと会話をやめる。
「余計なこと言うなよ」
颯真が言うと夏音は、はぁい、と軽い感じで返事をしたが、その意味はきちんと理解しているようでそれ以上ぺらぺらと話すことはしなかった。しかし、色羽は夏音の話の続きが気になるようで、颯真を横目で見てくる。
「それにしても、比奈子ちゃん、だっけ? 可愛いね」
夏音は目の前に座る比奈子に声を掛けた。すると比奈子は、はい、と上擦った声で返事をした。
「比奈子ちゃんて、颯真のタイプだよねぇ」
夏音はけらけらと笑いながら言う。夏音のこういった明るさが好きだった。颯真はそんなことを思い出しながら、隣に座る夏音の横顔を見た。
「え……」
「こいつ、思い付いたこと何でも口にするだけだから気にすんな」
颯真は言ってからコーヒーを啜った。店内には他に客はおらず、颯真達だけが賑やかに会話をしている。
「そうですか……」
比奈子が落ち込む様子が視界に入ったが、敢えて気付いていない振りをした。別にここで肯定する必要もフォローをする必要もない。
「で、探してたって、何の用だよ」
確かに夏音はそう言った。ということは、颯真に用事があったということだ。別れたのは二年と少し前。颯真がグループを抜けるとほぼ同時だ。
「んー、何ってわけでもないんだけどね、どうしてるのかなって気になったの」
夏音はミルクティの入ったティーカップを持ち上げながら言う。綺麗にネイルが施された指先は相変わらずだ。
三個歳上で、明るく屈託のない夏音。気付けば隣にいて、気付けば好きになっていた。けれど、ずっと一緒にいることを選べなかった。
「どうもしてねぇよ。働いてそれなりに暮らしてる」
別れを切り出しのは颯真からだった。
仲間を抜けることを考え始めたとき、夏音との別れも考えた。嫌いになったり、飽きたりしたわけではない。とても好きだった。それまで付き合った誰よりも好きだった。だからこそ、別れなくては、と思ったのだ。
「そっかそっか。それならよかった。ずっと心配だったんだよね。急に別れるとか言い出して、グループも抜けちゃって。連絡先も変えちゃうもんだから」
夏音は何かに納得したように一人で頷いている。
別れた後、夏音が自分の心配をするだろうことは予想がついていた。だから、夏音を知る昔の仲間には自分の居場所や新しく連絡先を教えないように頼んでいたのだ。でないと、同じことになるから。
「何で別れちゃったの?」
色羽は知りたくて仕方がないという表情をして訊いてきた。それがいつもの好奇心から来るものでないというのは颯真にもわかった。だけど、この場で別れた理由を口にするのは憚られる。
「他にイイコでもいたんじゃない」
夏音がおどけた調子で言う。
別れたいと申し出たとき、夏音にもその理由を訊かれた。けれど、颯真はそれに答えることはなく、ただ、別れたいとだけ告げたのだ。きっと夏音は後になってその理由を察したのだろう。それでも、それを色羽や比奈子の前では言わないでくれるのだ。
それは、颯真が好きだった夏音のままだ。
「でも、どうしているとこわかったんだよ」
颯真は話を変えるように夏音に訊いた。
「ああ、三枝木さんに聞いたの。この間ね、偶然三枝木さんと会って、颯真と会った、て言ってて」
あの後、三枝木とは一度だけ呑みに行き、連絡先と今の住所を教えた。しかし、三枝木とはグループを抜ける前から会うことが減っていたので、夏音のことは伝わっていないのだ。
「なるほどな」
颯真はそれだけ言い、温くなったコーヒーを飲み干した。
「用がないなら帰るぞ」
新旧の知り合いが顔を合わせているというのはどこか落ち着かない。颯真は財布を手にしながら言った。
「あ、ねぇ、颯真。今日、颯真のとこに泊めてくれない?」
颯真が立ち上がろうとしたそのとき、夏音が明るい声で訊いてきたので、一瞬にしてその場の空気が止まった。厳密に言えば、停止したのは比奈子と颯真の周りの空気だけだが。
「……はぁ。別にいいけど」
颯真は直ぐに止まった空気を壊すように口を開いた。特に断る理由もない。
「やった。ありがと」
夏音は笑顔で言い、残っていたミルクティを飲み干した。