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図工室は三階の一番奥にあり、その近くには使用されている教室はなかった。階段を挟んだ向こう側にはクラスを示す表示があるが、図工室の近くにはない。恐らく準備室やら、空き教室なのだろう。その為、辺りは静かだった。
「大丈夫か?」
颯真は俯いたままでいる比奈子の顔を覗き込むようにして訊いた。余程緊張したらしく、比奈子は顔を上げようとしない。颯真はそれに心配になり、更に比奈子の顔を覗き込んだ。すると、比奈子の顔は真っ赤に染まっていた。
「おい、大丈夫か? そんなに緊張してたんだな」
颯真はそんな比奈子の様子を可哀想に思い、軽く頭を撫でてやった。すると、比奈子の体がびくんと小さく揺れた。
「おお、悪ぃ。迂闊に触っちまったわ」
今の比奈子の心境を考えればしていいことではなかった。なので颯真は素直にそれを謝った。
「お前の機転の良さには助かったけどさ、あんま無理はすんなよ?」
あの場で板山の協力を得られることになったのは比奈子のお陰だ。けれど、こんな姿を見せられると心配になってしまう。
「わ、私、役に立ちましたでしょうかっ?」
比奈子が急に顔を上げるので、颯真はそれに驚いた。
「え? ああ、お前のお陰で、あのセンセイの協力を得られたしな」
颯真が答えると、比奈子は嬉しそうに笑った。その顔は、あまりに可愛くて、つい手が持ち上がりそうになったが、なんとか堪えた。
「……具合は、大丈夫なのか?」
上がりかけた腕を比奈子に気付かれないように下げながら小さく訊く。
「具合、ですか?」
比奈子はきょとんとした顔で首を傾げてきた。
「さっき、顔、真っ赤になってたから、緊張し過ぎたのかと思ってさ」
「え、あ、それは……その。確かに、緊張はしましたが……顔が赤くなったのは……」
比奈子が急にごにょごにょと言い淀み始めたので、今度は颯真が首を傾げた。
「ん?」
「それは、颯真さんが……その、名前を……」
比奈子は先程よりも顔を──耳まで真っ赤にしているので、颯真はその顔を覗き込んだ。颯真も背が高い方ではないが、比奈子は更に小さい。推定150と少しくらいだろう。
「ん、何だ?」
ぱちり、と比奈子の大きな瞳と視線が真っ直ぐに合う。
「な、なんでもないですっ。大丈夫ですから、そんなに近付かないで下さいっ」
比奈子は大きな声で言い、勢いよく颯真から離れた。
「おい、馬鹿っ。大きな声出すなよ」
ここでそんな大きな声を出したら、図工室の中にいる板山に聞こえてしまう。比奈子は颯真に対して丁寧語を使っているので、聞こえてしまえば、先程のが嘘だとばれてしまう。
「あ……すみません」
比奈子は自分の口元を両手で覆いながら頭を下げてきた。
「あー……まあ、俺も近付き過ぎたし、悪かったわ。これからはもっと気を付ける」
颯真が謝ると、比奈子は途端に慌てたように首を横に振り、何かを言いかけたが、そのとき、図工室の扉が開いた。
「颯ちゃん? 比奈ちゃん、大丈夫?」
開いた扉の隙間から、色羽がひょこりと顔を覗かせている。
「おお、もう大丈夫そうだ」
颯真が答えると、色羽は安堵した表情を見せた。
「じゃ、話聞こう」
色羽が図工室の中に視線を向けてから言うので、颯真と比奈子はそれに同時に頷いた。
板山は色羽の隣であり、颯真の向かいの椅子に腰を下ろした。猫っ毛なのだろう髪は、窓から射し込む陽の光で淡い茶色に見える。
颯真はその僅かな間、図工室を見渡した。図工室の措くの壁には市長賞なるものを取ったらしい生徒の名前が連なっている。過去何年分なのかは不明だが、相当な数の生徒名があった。そのなかに、幸太郎の名前もある。確か、ユキが幸太郎は絵が得意なこどもだったと言っていた。
「取り敢えず、何を話したらいいのか」
板山が穏やかな口調で訊いてくるので、颯真は視線を板山へと動かし、そうですね、と言ってから、改めて口を開いた。
「事件当日のことについて、何かあれば」
「はは。まるで刑事さんみたいだね」
颯真の質問に、板山は笑うも、それは嫌な印象を与えるものではなかった。それでも、その笑いは今の場には不釣り合いに思える。
「事件当日かぁ。そのとき刑事さんにも同じことを訊かれたんだけど、一回、向井君を見掛けた以外、特にないんだよね」
板山は言ってから、ううん、と唸り声をあげた。
「一回見掛けたんですか?」
「うん、そう。向井君、忘れ物を取りに行くって学校に戻ったんでしょ? 多分、その姿を見たんだ」
幸太郎が拐われたのは、学校に戻る途中か、それとも忘れ物を取りに行った帰りか、そこがわからなかったが、これで答えは出た。幸太郎は、忘れ物を取りに行った帰りに拐われたのだ。
「何を取りに来たか、わかりますか?」
「そこまではちょっと……。見掛けたのは、向井君の教室の辺りだったから、プリントとか、宿題とか……そっか、体操着とか、幾らでも可能性はあるんだね」
板山はそう言って息を吐き出した。ついでに言えば、リコーダーとか習字道具とか、様々な可能性がある。
「当時の幸太郎君の担任のセンセイって、まだいたりします?」
もしまだいるならば、その教師に訊けばわかるかもしれない。
「残念ながら。向井君があんなことになってしまって直ぐに、教師も辞めてしまったんだよね」
担当している生徒が殺されたとなれば、心労も相当のものだったのだろう。だとするとそれは自然なことのように思えた。
「そうですか……」
颯真はそこで既に行き詰まってしまった。
目撃情報など集めても仕方無いことはわかっている。そんなことは当時、警察が嫌というほどしているだろう。それでも犯人は見付からなかったのだ。
不審者や見慣れない車などはなかったのだろう。そうなると、犯人はそこにいても何ら不思議はないと人物ということ。でなければ、道端で抱えられるサイズではないこどもを拐うのは難しいだろう。
「幸太郎君が、自分でついていったのか……?」
そう思ってはみても、過去の事件。自分程度が思い付くことは、全て警察が調べあげていることだ。思い付いてはその可能性を消す。その繰り返しだ。
そもそも今までの事件の解決だって、理論立てて推理したことなど一度もない。いつも、その場で散らばっていたパズルのピースが急に動き出し、犯人というパズルを完成させるのだ。
「当時、警察もそう見ていたみたいだよ」
案の定の言葉を板山から掛けられた。
「でも、結局犯人は見付からなかった。そのとき、学校にいる教師達全員が事情聴取を受けたんだよね」
板山は苦笑いを浮かべて言った。そうだろう。状況から察するに、犯人は幸太郎の顔見知りである可能性が高いと踏んだ警察は、当時学校にいた大人全員を取り調べしていても何ら不思議はない。
「……犯人がこども、てことはないよね?」
色羽がぽつりと呟く。恐らく、前回の事件を思い出しているのだろう。確かに、その可能性がないこともないだろう。それであれば、大人しか容疑者の対象にしなかった場合、犯人が見付からないのも頷ける。
けれど、颯真の直感が違うと言っていた。根拠などない。ただ、それはないとだけ思ったのだ。
「それも、警察は考えたみたいだよ」
板山が言葉を挟む。そうだろう。自分達のような素人が思い付く程度のこと、捜査のプロである彼らが思い付かないわけはないのだ。先程から考えることが次いで行き止まりになってしまう。
どうも、しっくり来ない。
「そっか……」
色羽がしょんぼりと肩を落とす。
開始初日で八方塞がりだ。簡単にいくとは思っていなかったが、予想以上に難航しそうな気配しかない。でも、ユキの前で必ず犯人を見付けると豪語した手前、こんなところで諦めるわけにはいかない。そして、理由はそれだけではない。
──自分の為にも、だ。
颯真は誰にも見えない位置で拳を握った。
「あの、紙とペン、貸してもらえないすかね」
颯真がお願いすると、板山は笑顔でいいよ、と言い、準備室へと向かっていった。
「まだまだ、だ。やるぞ」
颯真が比奈子と色羽の顔を交互に見ると、二人は同時に頷いた。
板山が少ししてから、お待たせ、と、コピー用紙とボールペンを持ってきてくれた。まだ何もわかってはいないのだ、と颯真は自身を励ました。
「えーと、まず、さっきからばあちゃんから聞いた話を纏めると……」
「ばあちゃん?」
颯真は板山の問い掛けにしまった、と思ったが、時既に遅し。板山が誰、というような視線を颯真に送ってくる。
「ここに来る前、幸太郎君のお祖母さんに会ったんです。幸太郎君の話を知って、お線香をあげたくて」
すかさず色羽がフォローを入れてくれたので、颯真はそれに心の中で感謝をした。もし、自分一人だったならとっくに襤褸が出ていただろう。
「あ、そうなんだ」
板山は簡単にそれを信じたようだった。先程の比奈子の嘘といい、板山はどうも相手を簡単に信用し過ぎるように思える。相手──つまり、颯真達に危惧を抱かないのか、それとも単純なだけか。
「ごめんね、中断させて。続けて」
板山が手を差し伸べるような素振りをして言った。颯真はそれに、はい、と小さく頷いてからボールペンを握り直した。
「まず、下校時間に間に合うように、ばあちゃんは学校に向かった。それが大体、四時過ぎ。で、通学路の途中で幸太郎と出会した。それが推定で、四時半頃。そのあと、幸太郎は忘れ物をしたと言って学校に戻る。五時のチャイムが鳴っても幸太郎が戻らないので、ばあちゃんは不安になり、自らも学校へと向かった。けど、そこに幸太郎の姿はなく、センセイ達に聞いても行方はわからなかった。その間、不審車などを見た気はしないが、焦っていたから見落としていただけかもしれない、と」
颯真はここに来る前にユキから聞いた話を紙に書いて並べていった。
「で、板山センセが幸太郎を一度目撃。それ、何時位かわかります?」
颯真は文字を書く手を止めて板山の顔を見た。
「うーん、正確にはわからないけど、多分、もう五時近かったと思うよ? 向井君を見てから、準備室に戻って片付けをしていたら五時のチャイムが聞こえてきたのを覚えてる」
板山は腕を組ながら言った。板山の最初の印象はこれといった特徴のない顔立ちだと思ったが、よくよく見れみれば整っている。確かに、これといった特徴はない。しかし、全てのサイズとバランスがいいのだ。
「十年も前のこと、よく覚えてますね?」
板山の返答に色羽が訊いた。
「あはは。十年前、何度と聞かれたから頭の中に入っているんだよね」
声は笑っているが、顔は笑っていなかった。
「もしかして……」
「そうだよ。僕は、当時第一容疑者だったんだ」
板山がなんてことのないように言う。それでもその顔は全く笑っていなかった。
「理由を尋ねてもいいすか?」
颯真は少し迷ってから、口を開いた。警察の捜査が確かなことも、そしてそれと反対に不確かなことも知っている。彼らが冤罪を生み出すことも。
「最後に彼を見たのが、僕だったから、だよ」
板山は言ってから、小さく笑ってみせた。ちょっとだけ首を傾げるその仕草は、どこか裏寒く見える。
「それだけ?」
怒りの声をあげたのは色羽だった。
「そう、それだけ。僕が、彼の教室の近くで、彼を最後に見掛けた。そのあと、誰も彼を見ていない。だから、僕が一番疑われたんだ」
警察の見方はわかる。彼は図画工作の教諭。だとすれば、幸太郎を準備室なり、図工室なりに監禁し、殺すことも可能だ。彼以外に立ち寄らない場所が校内には存在するのだ。だからこそ、疑われたのだろう。
颯真はその考えを口にした。
「だったら、他の、音楽とか理科の先生だってそれは可能だよね?」
色羽が怒りを露にしたまま言う。恐らく、板山のことを気に入ったのだろう。
「音楽室は合唱部がいた。理科室は実験部がいた。この学校には美術部なるものがないんだよね。ま、部員が見込めないから作らないんだけどさ」
唯一、放課後に己の教室を自由に使える彼が疑われたのだろう。
「そんなの、酷い」
色羽は颯真の父親のことを思い出しているのだろう。真子を殺した犯人だと疑われた父親。きっとそこから少しずつ、颯真の家族の歯車は狂っていったのだ。
──いや、狂ったきっかけは真子の死だ。
「ま、仕方無いよね。それで婚約破棄はされたけどさ」
板山がふう、と息を吐く。この人は怒りを感じていないのだろうか。颯真は僅かに眉を歪めただけの板山を見て、そう思った。もしかしたら、当時は怒りを感じたが、十年も経過した今ではそれも薄らいでいるのかもしれない。
「婚約破棄までっ?」
色羽が一層声を荒立てる。
「そりゃ、そうでしょう。殺人──しかも男児を殺すような奴とは誰だって結婚したくないよ。性癖まで疑われたしね」
はは、と笑う板山は滑稽な素振りをしているように見えた。
「だって、無実なんでしょ?」
「勿論。向井君を殺してなんて、ないよ?」
何かが颯真の中で引っ掛かった。しかし、それが何かまではわからない。いつもそうだ。何か引っ掛かったとしても、それの正体を掴むことが出来ないのだ。
「当時の担任のセンセイの居場所とかって、わかったりします?」
出来れば、担任からも話を聞きたかった。犯人はきっと、校内の人間だったのだろう。仮に学校外で拐われたのだとしたら、校舎を後にする幸太郎を誰かが目撃していてもおかしくないからだ。なので仮説としては、幸太郎は校舎内で犯人に声を掛けられたはず。そのときに拐われたかどうかまではわからない。しかし、ここまでは間違っていないだろう。
「古田先生ね。わかるよ?」
板山はにっこりと笑った。
「教えてもらってもいいすか?」
犯人が教師などだった場合、もしかしたら前兆があったかもしれないと颯真は考えたのだ。執拗に幸太郎に声を掛けたり、贔屓をしたり、そのまた反対に辛く当たっていたりなどだ。
警察が当時導き出した犯人像を知りたいところだが、それは難しいだろう。小折に頼めば協力はしてもらえるかもしれないが、過去の事件の情報をくれとは、彼の立場を考えたならさすがに頼めない。
「勿論いいよ」
板山はあっさりと言ったが、普通ならば本人の許可を得るべきではないかと思わずにいられなかった。だが、折角の機会に水を差す必要もないと、颯真はその考えを心に閉まった。
「あ、一個、いいすかね」
板山から渡された紙には、古田 由香子という名前と共に住所が書かれていた。電話番号は、ない。
「ん? 何?」
板山はボールペンを静かに置きながら微笑む。
「あんた、幸太郎のことは事件以外では特に覚えていない、て言ってたよな」
颯真が急に丁寧語をやめたことに比奈子と色羽が驚いているのが視界の端に入り込む。
「うん、言ったね」
「なんで、そんな嘘を?」
「嘘? どうして?」
板山は本当に少しだけ眉根を寄せた。それだけでまるで別人のように見える。
「あの、貼ってあるやつだよ」
颯真はそう言ってから、図工室の奥に貼られた紙を指差した。全員の視線がそこへと向かう。
「市長賞のやつ?」
板山は近眼なのか目を細めた。
「あそこに、幸太郎の名前がある。見る限り、市長賞は年に一回、一人のみ。だとしたら、そんな栄誉ある賞を獲った生徒について何もないってのはおかしいだろ」
颯真は図工室に貼られた紙の中から幸太郎の名前を見付けていた。一年一人しか獲れない賞ならば、記憶に残るだろう。
「ああ、あれね。そっか、そうだね。うん、そうだ」
板山は独り言のように頷いている。それがどういった意味で吐かれているのかはわからない。
「あんた、ああいうのは覚えないタイプなのか?」
そうだとしても、賞を獲った生徒がその後に殺されたとなれば、嫌でもそれは記憶に残るはずだ。なのに、板山はそのことは一言も口にしなかった。
「ううん、そんなことはないよ。皆、個性があっていい絵を描くしね。そっかそっか。君は意外に観察力があるんだね」
板山の口調は平淡で、感情が読み取りづらい。
「ま、古田先生に話、聞いてきなよ。そろそろ授業が終わるから、他の先生達に不審な目で見られないうちに帰りなね」
まるで、追い出されるようにして図工室から出された。確かに板山の言う通り、他の教師などに出会したら厄介だ。また小芝居をしなくてはいけなくなる。
「……行くか」
どこか釈然としないまま、颯真は図工室から遠ざかった。